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籠目屋商店怪異録 冬ノ巻  作者: 宇佐美夕日


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8/22

朔風葉払 一

朔風葉払きたかぜこのはをはらう

風が吹いていた。


乾いた北風だった。


葉を払い落とされた木々は、枝の形をそのまま空へ差し出している。


何かを隠していたものが、ひとつ剥がれたあとのように見えた。


昼過ぎのことだった。


六郎は町外れの古本屋にいた。


いつもの場所だ。


特に理由があるわけでもない。


新しいものを探しているというより、


何かに引っかかるものがないか、眺めているだけに近い。


棚の本を一冊抜く。


少し読んで、戻す。


また別の本を抜く。


同じことを繰り返す。


店の奥で、老人が帳面をめくっている。


時折、こちらを見る。


何も言わない。


六郎も、特に気にしない。


風が、戸の隙間から入ってくる。


紙の端が、かすかに揺れる。


「……寒いな」


小さく言う。


答える者はいない。


そのとき、戸が開いた。


風が、少し強く入る。


六郎は顔を上げる。


入ってきたのは、百合だった。


いつもと同じような格好だった。


季節に合わせているのか、いないのか、よく分からない。


百合は店の中を一度見て、それから六郎を見る。


「いると思った」


六郎は少し笑う。


「そういう顔してます?」


「していないわ」


「じゃあ、なんで」


「いると思っただけ」


六郎は肩をすくめる。


「便利ですね、それ」


百合は答えない。


少し間。


それから、言った。


「今夜、少し付き合ってもらえるかしら」


六郎は本を閉じる。


「またですか」


「ええ」


「何時くらい」


「日が落ちてから」


「遠いですか」


「そうでもないわ」


六郎は少し考える。


棚の方を見る。


それから百合を見る。


「危ないやつですか」


百合は少しだけ首を傾ける。


「どういう意味で?」


「前みたいなの」


「同じではないわ」


六郎は笑う。


「同じじゃない方が怖いな」


百合は否定しない。


六郎は本を棚に戻す。


「まあ、いいですよ」


「どうせ暇ですし」


「助かるわ」


それだけ言う。


百合はそれ以上何も言わない。


六郎も、聞かない。


それで話は済んでいた。


店の奥で、老人が小さく舌打ちをした。


六郎は振り返る。


「なんですか」


老人は顔をしかめたまま言う。


「……やめておけ」


少し間。


「急にどうしたんですか」


六郎はそう言って、軽く肩をすくめる。


老人は答えない。


帳面を閉じる。


「ろくなことにならん」


少し間。


六郎はそれ以上聞かない。





車は市街地を抜けて、外れの方へ出た。


風が強い。


乾いた風だった。


信号で止まる。


六郎が言う。


「今日、風強いですね」


「そうね」


「こういう日って、なんか嫌ですね」


「どうして」


「理由はないですけど」


少し間。


「落ち着かない感じがする」


百合は前を見たまま言う。


「そういうものよ」


六郎は少し笑う。


車はさらに進む。


建物がまばらになる。


やがて、古い集合住宅の前で止まった。


四階建ての建物だった。


外壁は色が抜けている。


雨の筋がそのまま固まっている。


窓はいくつもある。


だが、いくつかは内側から板が打ちつけられていた。


ガラスの割れたままのものもある。


洗濯物はない。


人の手が触れた気配が、どこにも見えない。


風だけが通っている。


「ここですか」


「ええ」


エンジンを切る。


外へ出る。


風が抜ける。


音はあるのに、どこか遠い。


六郎は建物を見上げる。


しばらく黙ってから言う。


「……住んでます?」


百合は少しだけ考える。


「どうかしらね」


六郎は笑う。


「それ、一番困るやつですね」


百合は答えない。


階段を上がる。


足をかけると、わずかに軋む。


音が軽い。


中身がないような響きだった。


手すりは冷たい。


塗装が剥げて、ところどころ錆びている。


踊り場には何もない。


張り紙の跡だけが残っている。


紙はもうない。


四角い痕だけが、そこにある。


風が下から上へ抜けていく。


三階で止まる。


廊下に出る。


風が通る。


逃げ場のない通り方だった。


片側に並ぶ扉は、どれも閉まっている。


だが、いくつかはわずかに開いている。


中は見えない。


暗いまま、止まっている。


郵便受けは空だった。


名前はどこにもない。


剥がした跡だけが残っている。


六郎はそれを指でなぞる。


白い粉が、少しだけ指につく。


「……全部、ないですね」


百合はうなずく。


「ええ」


風がまた通る。


今度は奥から手前へ。


何かを削りながら来るような風だった。


六郎は小さく息を吐く。


「ここ、来たことあります?」


「いいえ」


「じゃあ」


少し間。


「なんで分かるんですか」


百合は少しだけ首を傾ける。


「分かるものは、分かるでしょう」


六郎は笑う。


「便利ですね、それ」


百合は答えない。


そのとき、


奥の部屋の前に、人が立っていた。


いつからいたのかは分からない。


若い女だった。


「……宇喜田さんですか」


「ええ」


女は少しだけ安堵したように息を吐く。


「よかった……」


百合が言う。


「名前は?」


女はすぐには答えない。


少しだけ考えるようにしてから、


「……空木、です」


少し間。


「空木ひより」


六郎は軽く頭を下げる。


「どうも」


ひよりは六郎を見る。


一瞬、誰だという顔をする。


百合が言う。


「藤原六郎」


「手伝ってもらっているの」


「……そうですか」


それ以上は聞かない。


部屋に通される。


中は整っていた。


生活の気配はある。


だが、どこか薄い。


六郎は部屋を見回す。


「……綺麗ですね」


「そうですか」


ひよりは少し戸惑う。


「普通だと思いますけど」


「普通ですね」


六郎は笑う。


「でも、なんか」


言葉を探す。


「存在が薄い感じがする」


ひよりは黙る。


百合は座る。


「話を聞かせて」


ひよりはうなずく。


「……人が、いなくなるんです」


六郎は少し眉を上げる。


「いなくなる?」


「はい」


「引っ越しとかじゃなくて?」


「そうじゃなくて」


ひよりは言葉を選ぶ。


「……思い出せなくなるんです」


少し間。


六郎は言う。


「誰を?」


「同じ階に住んでた人です」


「知り合いですか」


「いえ、そこまでじゃないんですけど」


「顔は知ってるくらいで」


「でも」


ひよりは少し首を振る。


「それが、思い出せない」


風が通る。


カーテンが少し揺れる。


六郎は窓の方を見る。


「忘れただけじゃないですか」


ひよりはうなずく。


「最初はそう思ってました」


「忙しいと、ありますし」


「ええ」


「でも」


少し間。


「部屋はあるんです」


六郎は振り返る。


「部屋?」


「はい」


「同じ場所に」


「でも」


「誰が住んでたか分からない」


六郎は少し考える。


「表札は?」


「……ないんです」


「最初から?」


「それも分からないんです」


百合が言う。


「管理人は」


ひよりは少し顔を上げる。


「聞きました」


「なんて」


「……覚えてないって」


六郎は苦笑する。


「それはちょっと」


「変ですよね」


「変ですね」


ひよりは少し安心したように息を吐く。


「やっぱり、そうですよね」


六郎はうなずく。


「普通じゃないです」


百合は黙っている。


少し間。


六郎が言う。


「いつからですか」


ひよりは少し考える。


「……はっきりしないです」


「気づいたら」


「いなかった」


「そんな感じです」


風がまた通る。


廊下の方から。


六郎はそちらを見る。


「この建物」


「風、通りますね」


「ええ」


ひよりはうなずく。


「よく通るんです」


「昔から?」


「……どうだったか」


少し間。


「それも、分からないです」


百合が、そこで初めて口を開く。


「他には」


ひよりは少し迷う。


「……亡くなった人がいます」


六郎が顔を上げる。


「この階で?」


「はい」


「半年前くらいに」


「自殺だって」


少し沈黙。


六郎が言う。


「その人のことは覚えてます?」


ひよりはすぐに答えなかった。


それから、


「……いえ」


と、小さく言う。


「誰だったか」


「思い出せないんです」


六郎は言葉を止める。


何か言いかけて、やめる。


百合はひよりを見ている。


少しして、静かに言った。


「……減っているわね」


六郎はそちらを見る。


「何がです」


百合は答えない。


風が通る。


廊下の奥で、何かが鳴った気がした。


六郎は耳を澄ます。


何も聞こえない。


ただ、さっきより少しだけ、


建物が軽くなった気がした。

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