幕間 一
出会ってしばらくした日の出来事。
山茶始開よりは前日。
奇妙な女の話をする。
そう言ってしまえば、それで済む。
ただ、それだけで片付けていいものかどうかは、少し迷う。
宇喜田百合という。
年は二十代の半ばほどだろうか。
見た目は、どこにでもいる女に見える。
特別目立つわけでもない。
だが、目に留まらないわけでもない。
そういう曖昧な位置にいる。
百合は、あまり多くを語らない。
聞かれれば答える。
答えるが、それ以上は言わない。
必要な分だけ。
それで済ませる。
――便利なようで、不便な話し方だ。
もっとも、本人はそれで困っていないらしい。
百合の言葉は、少し遅れて効く。
その場では、分かったようで分からない。
だが、あとになって残る。
理由が分からないまま、残る。
だから、関わった者は少し困る。
理解したつもりでいると、少しずれる。
分かったつもりでいると、どこか足りない。
それだけが、残る。
百合は、それを気にしない。
ただ、そこにいる。
そういう女である。
――もっとも。
この話においては、それで十分なのだろう。
⸻
その日、六郎は町外れの古本屋にいた。
学生の頃から通っている店だった。
月に一度か、二度。
棚を見て、一冊だけ買って帰る。
それを、ずっと続けている。
店主とは、ほとんど話したことがない。
会話らしい会話は、したことがないと言っていい。
それでも、互いに顔は知っている。
――そういう距離の店だった。
⸻
古本屋は、昼でも薄暗かった。
六郎は棚の前に立つ。
指先で本の背をなぞる。
少しだけ引き出して、題名を見る。
戻す。
それを何度か繰り返す。
「お前さん」
本棚の向こうから声がした。
六郎は顔を上げる。
少しだけ、間があった。
呼ばれたのが自分だと気づくのに、時間がかかった。
「……俺ですか」
「お前さんじゃ」
六郎は小さくうなずく。
「はい」
老人は帳面を閉じる。
「ひとつ、頼まれてくれんか」
六郎は少し笑う。
「急ですね」
「急じゃ」
「いや、そういう意味じゃなくて」
老人は手を振る。
「届け物じゃ」
六郎は少し首を傾ける。
「俺がですか」
「お前さんじゃ」
「なんでまた」
老人は少し考える。
「暇そうじゃったから」
六郎は笑う。
「失礼だなあ」
「違うか」
「違わないですけど」
六郎は棚の方を一度見る。
「本、まだ見てる途中なんですけど」
「あとでも見れる」
「まあ、そうですけど」
老人はそれ以上言わない。
六郎は小さく息を吐く。
「……まあ、いいか」
「どこに」
少し間。
「籠目屋」
六郎は首を傾ける。
「かごめや?」
「そうじゃ」
「聞いたことないですね」
「そうかもしれん」
老人は小さくうなずく。
「知らん方が普通じゃ」
「じゃあ、なんで俺に」
「来たからじゃ」
六郎は笑う。
「またそれだ」
老人は気にしない。
小さな包みを差し出す。
「宇喜田のところへ」
六郎は少しだけ間を置く。
「……百合さん、ですか」
「そうじゃ」
六郎はうなずく。
名前に覚えはある。
忘れようがない。
それでも、その名を口にすると、少しだけ引っかかる。
理由は分からない。
六郎は包みを受け取る。
軽い。
「中身、なんですか」
「知らん」
六郎は少し笑う。
「知らないんだ」
「預かっただけじゃ」
「危ないものじゃないですよね」
「どうじゃろうな」
六郎は一瞬だけ黙る。
「……いや、そこは大丈夫って言ってくださいよ」
老人は答えない。
少しだけ口元が動いた気がした。
「場所は?」
老人は簡単に道を告げる。
それほど複雑な場所ではなかった。
六郎はうなずく。
「ああ、あの辺か」
「そうじゃ」
それ以上は言わない。
店の中は、また静かになる。
六郎は棚を一度だけ見渡す。
さっきまで見ていた本が、そこにある。
並びも、変わっていない。
何も変わっていないように見えた。
六郎は包みを持って、店を出た。
⸻
通りをいくつか曲がる。
言われた通りの道だった。
目印もあったし、迷うような場所ではない。
それでも、それらしい店は見当たらない。
住宅地に入る。
さらに奥へ。
ない。
六郎は立ち止まる。
周囲を見渡す。
同じような家が並んでいる。
人の気配はある。
だが、店はない。
「……ないな」
頭の中で道を辿り直す。
間違っているところはない。
「まあ、そんなもんか」
引き返そうとする。
そのとき。
視界の端に、何かが引っかかった。
振り返る。
竹で編まれた飾りが、軒先に吊られている。
細い竹を組んだ、見慣れない形だった。
風もないのに、わずかに揺れている。
見覚えがある。
どこで見たのかは思い出せない。
六郎は足を止める。
その奥に、店があった。
さっきまで、なかった場所に。
家と家の間に、少し引っ込むようにして。
「……かごめ屋」
表札を見る。
「籠目屋、か」
声に出すが馴染まない。
戸に手をかける。
少しだけ迷う。
理由はない。
ただ、手が止まる。
「まあ、いいか」
引く。
音はしない。
「いらっしゃい」
奥から声がする。
六郎は入口で足を止める。
土間になっていた。
靴を脱ぐ。
そのまま中へ上がる。
店の中は静かだった。
古い本が並んでいる。
背の色も、紙の色も、少しずつ違う。
その間に、瓶もある。
ガラスのもの、陶器のもの。
中身は見えない。
六郎は少しだけ眉を上げる。
「……本屋、ですよね」
「ええ」
奥に座っていた女が答える。
帳面を閉じる。
顔を上げる。
一度、目が合う。
それだけで、十分だった。
「ですよね」
六郎はもう一度言う。
百合は小さくうなずく。
「だいぶ雑多ですね」
「古いものが多いから」
それ以上は続かない。
六郎は思い出したように、包みを持ち直す。
「ああ、これ」
百合に差し出す。
「預かってきました」
百合はそれを見る。
すぐには受け取らない。
少しだけ間を置いてから、手を伸ばす。
「ありがとう」
それだけ言って、受け取る。
中身は確かめない。
そのまま脇へ置く。
六郎はそれを見てから、視線を外す。
「奥、なんですか」
「座るところ」
「客用ですか」
「そういうこともある」
六郎は笑う。
「またそれだ」
「……座っていいです?」
「ええ」
六郎は奥へ入る。
腰を下ろす。
木が小さく鳴る。
「……落ち着きますね」
「そう」
「理由は分からないですけど」
「そういうものよ」
六郎は少し笑う。
「便利だなあ、それ」
百合は答えない。
六郎は棚の瓶を見る。
本と同じ高さに並んでいる。
違和感はある。
だが、嫌な感じはしない。
「……本屋ですよね」
「ええ」
「ですよね」
「酒、ありますよね」
「あるわ」
六郎は少し首を傾ける。
「売るだけですか」
「飲めるわよ」
少し考える。
断る理由はない。
「じゃあ」
「一杯だけ」
「そう」
百合は盃を出す。
静かに注ぐ。
六郎は受け取る。
少し見てから、口に運ぶ。
「……普通ですね」
「そう」
六郎は少し笑う。
「なんか、こう」
「特別かと思った」
「特別にしたい?」
「いや」
「普通でいいです」
百合は何も言わない。
⸻
少しして、六郎が言う。
「ここ、なんなんですか」
「本屋よ」
「それだけじゃないですよね」
「来る人がいるから、あるだけ」
六郎は少し笑う。
「またそれだ」
「前の俺みたいに困ってる人が来るんですか」
「来るわよ」
「解決するんですか」
「することもある」
「しないこともある」
六郎は盃を指で回す。
「……じゃあ、無駄じゃないですか」
百合は六郎を見る。
「そう思う?」
「思いますよ」
六郎は肩をすくめる。
「でも」
「来る側は、来るんでしょうね」
百合はうなずく。
「ええ」
六郎は小さく笑う。
「分かる気がするなあ、それ」
少し沈黙。
六郎はふと視線を上げる。
「……百合さん」
「なに」
「仕事って、してるんですか」
百合は首を傾ける。
「しているわ」
六郎は少し笑う。
「何してるんですか」
「見ての通りよ」
「本屋?」
「そういうこともある」
六郎は息を吐く。
「またそれだ」
百合は六郎を見る。
「あなたは?」
「俺ですか」
「ええ」
六郎は少しだけ考える。
「実家が喫茶店やってて」
「そこで働いてます」
百合はうなずく。
「そう」
それ以上は続かない。
百合は盃に酒を注ぐ。
静かに。
それを置く。
「私の仕事を、手伝ってみない?」
六郎は少しだけ目を細める。
驚いたような顔はしない。
「急ですね」
「そうかしら」
「いや、まあ」
六郎は肩をすくめる。
「何するんですか」
「来る人の話を聞く」
「それだけ?」
「それだけのこともある」
六郎は少し黙る。
盃を見る。
「……バイトみたいな感じですか」
百合は答えない。
少しだけ視線を外す。
六郎は小さく笑う。
「まあ、考えときます」
百合はうなずく。
「ええ」
それ以上は言わない。
⸻
六郎は立ち上がる。
「……また来ます」
「ええ」
外へ出る。
靴を履く。
戸を閉める。
音はしない。
振り返る。
店は、そこにある。
最初からあったみたいに。
六郎はそのまま歩き出す。
通りに出る。
通りに出る。
少しだけ考える。
それから、やめる。
「……まあ、いいか」
また行けばいい。
それだけだった。




