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籠目屋商店怪異録 冬ノ巻  作者: 宇佐美夕日


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6/22

山茶始開 四

山茶始開つばきはじめてひらく

朝のうちに、石は回収された。


山茶花の木の根元から掘り起こしたそれは、昨夜と同じ重さのはずなのに、手に持つと妙に軽く感じられた。水を含んでいたはずのものが、乾いてしまったあとのような、頼りない軽さだった。


六郎は掌の上で石を転がす。


白い表面に、赤茶けた筋が一本、細く走っている。どこにでもある川石のようでいて、見ていると、どこにも属していないもののようにも思えた。


「……これで、終わりですか」


百合はすぐには答えなかった。


石ではなく、玄関の方を見ている。


「どうかしらね」


少し間を置いてから言う。


「終わるものもあれば、そうでないものもあるわ」


六郎は石を見下ろした。


「じゃあ、これは」


「持ってきたものよ」


百合は言った。


「もともと、ここにあったものではない」


それだけだった。


和田の家の中は、昨夜とは違っていた。


玄関に並んでいた山茶花は、朝の光の中でただの花に見える。数も、七つに揃っていることに意味は感じられない。誰もそれに触れなかったし、触れる必要もなかった。


廊下も静かだった。


ただ、音がない。


それだけだった。


和田は何度も礼を言った。


「本当に……ありがとうございました」


百合は軽くうなずく。


「ええ」


短く、それだけ。


六郎は、そのやり取りを横で聞きながら、わずかに視線を動かす。


言葉が足りない、というより

言われていない部分の方が多い気がした。


和田は、少し迷ってから口を開いた。


「……あの、もう」


そこまで言って、やめる。


百合が視線を向ける。


和田は首を振った。


「いえ。助かりました」


百合はそれを否定しない。


「こちらは、もう大丈夫よ」


その言い方に、わずかな区切りがあった。


和田は気づかない。


六郎は、気づいた。


外へ出る。


朝の空気は軽かった。


六郎は一度だけ振り返る。


家は、ただの家に見える。


「……終わったんですかね」


百合は前を向いたまま言う。


「一つは」


それだけだった。


六郎は、少しだけ笑う。


「便利な言い方ですね」


百合は答えない。


その代わり、ほんの少しだけ口元をゆるめた。



人の少ない時間帯で、通りにはまだ店も開いていない。遠くで車の音がするくらいで、風の通りだけがはっきりと感じられる。


六郎は歩きながら、何度かポケットの中の石に触れた。


触れるたびに、そこにあることが確かめられる。


ただ、それ以上のことは分からない。


「……持っていると、妙に気になりますね」


百合は前を向いたまま言う。


「そういうものよ」


「重いわけでもないのに」


「手の中にあるものほど、意識に残るものなの」


六郎は小さく息を吐いた。


百合は答えない。


少ししてから、静かに言った。


「置いてくるものだから」


それ以上は続けない。


川に近づくと、水の匂いが混じってくる。


堤に上がると、視界が開けた。


広い川面が、朝の光を受けて鈍く光っている。流れは穏やかで、音もほとんどしない。昨日の夜のことが、どこか遠い場所の出来事のように思えた。


百合は立ち止まり、川の方を見た。


「ここでいいわ」


六郎は石を取り出す。


掌の上で、もう一度だけ見た。


特別なものには見えない。


ただ、これがあったことで起きていたことを思い出すと、どこか現実のものではないようにも感じられる。


「……どこでもいいんですか」


百合は少しだけ首を振る。


「いいえ」


視線は川から動かさない。


「戻る場所に、近いところがいい」


六郎は石を見た。


「戻る、ですか」


「ええ」


百合は短く答える。


「ここにあったものではないけれど、ここから離れていたものではないから」


言葉は穏やかだったが、意味ははっきりしない。


六郎はそれ以上聞かない。


「そのまま、置いて」


百合が言う。


「投げないで」


六郎はうなずき、堤を少し下りた。


水際まで行き、石を静かに置く。


水に触れるか触れないかのところへ。


指を離す。


石はそのまま、そこに残った。


何も起きなかった。


音も、変化もない。


風が吹いて、水面がわずかに揺れるだけだった。


六郎はしばらくその場に立っていたが、やがて振り返った。


百合は同じ場所に立っている。


「……何も起きませんね」


「ええ」


「これで、いいんですか」


百合は少しだけ目を細めた。


「何か起きた方が、安心する?」


六郎は苦笑した。


「そういうわけじゃないですけど」


百合はうなずく。


「何も起きないときは、それでいいの」


それから、わずかに間を置く。


「起きていたものが、そこに戻っただけだから」


六郎は石のあった場所をもう一度見る。


もう、ただの川際にしか見えなかった。


「……これで」


六郎が言いかけると、百合は首を振った。


「戻りましょう」


それ以上は言わない。


六郎は少しだけ川の方を見たまま、立ち尽くす。


「残るものもある、でしたね」


百合は振り返らない。


「ええ」


それだけだった。


二人は来た道を引き返した。



昼過ぎに、電話を入れた。


受話器の向こうで、和田の声がする。


「もしもし」


少しだけ、昨日よりも軽い声だった。


百合が話す。


「宇喜田です」


「ああ……!」


すぐに分かったらしい。


「玄関も、普通で……音もしていません」


百合はそれを遮らずに聞いた。


「そう」


それから、少しだけ間を置く。


「そちらは、もう大丈夫よ」


和田は、はっきりと息を吐いた。


受話器越しでも分かるほどの、深い息だった。


「……そうですか」


その一言に、力が抜けている。


「本当に、助かりました」


百合は答える。


「ええ」


それだけだった。


和田は何度も礼を言った。


そのたびに、声の調子が少しずつ戻っていく。


最後には、昨日の緊張が嘘のように消えていた。


百合は最後まで同じ調子で応じ、静かに通話を終えた。


店へ戻ると、昼の光が畳に落ちていた。


障子の向こうは、いつもの明るさだった。


百合は帳面を開き、何かを書きつける。


六郎はその様子を眺めながら、ふと口を開いた。


「……終わったんですか」


百合は手を止めない。


「一つは」


それだけ言う。


六郎は少し考えてから、続けた。


「じゃあ、もう一つは」


百合は筆を置いた。


帳面を閉じる。


それから、ゆっくりと顔を上げた。


「残っているわ」


声は静かだった。


「別のものだから」


六郎は、短く息を吐いた。


「……便利な話ですね」


百合は、わずかに口元をゆるめた。


「そうでもないわ」


それから、視線を障子の方へ向ける。


「同じところに、同じものが来るとは限らないの」


「じゃあ……あの家は」


「静かにはなるでしょうね」


百合は言う。


「でも、静かなままでいるとは限らない」


六郎は、それ以上聞かなかった。



夜になった。


和田は一人で家にいた。


玄関は静かだった。


山茶花は落ちていない。


並べる必要もない。


戸口に立って、しばらく外を見た。


風が少しだけ吹いている。


それだけだった。


家の中へ戻る。


灯りを一つつける。


畳の上に影が落ちる。


昨夜とは違う。


そう思う。


思って、息を吐く。


座敷へ入り、腰を下ろす。


しばらく、そのまま何もせずにいた。


何も起きない。


それが、当たり前のことのように感じられた。


きし。


和田は、顔を上げた。


廊下の奥は、暗いままだった。


何も動かない。


何も見えない。


しばらくして、和田は視線を落とす。


そのまま、何もせずに座っている。


それ以上、確かめなかった。

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