山茶始開 四
山茶始開
朝のうちに、石は回収された。
山茶花の木の根元から掘り起こしたそれは、昨夜と同じ重さのはずなのに、手に持つと妙に軽く感じられた。水を含んでいたはずのものが、乾いてしまったあとのような、頼りない軽さだった。
六郎は掌の上で石を転がす。
白い表面に、赤茶けた筋が一本、細く走っている。どこにでもある川石のようでいて、見ていると、どこにも属していないもののようにも思えた。
「……これで、終わりですか」
百合はすぐには答えなかった。
石ではなく、玄関の方を見ている。
「どうかしらね」
少し間を置いてから言う。
「終わるものもあれば、そうでないものもあるわ」
六郎は石を見下ろした。
「じゃあ、これは」
「持ってきたものよ」
百合は言った。
「もともと、ここにあったものではない」
それだけだった。
和田の家の中は、昨夜とは違っていた。
玄関に並んでいた山茶花は、朝の光の中でただの花に見える。数も、七つに揃っていることに意味は感じられない。誰もそれに触れなかったし、触れる必要もなかった。
廊下も静かだった。
ただ、音がない。
それだけだった。
和田は何度も礼を言った。
「本当に……ありがとうございました」
百合は軽くうなずく。
「ええ」
短く、それだけ。
六郎は、そのやり取りを横で聞きながら、わずかに視線を動かす。
言葉が足りない、というより
言われていない部分の方が多い気がした。
和田は、少し迷ってから口を開いた。
「……あの、もう」
そこまで言って、やめる。
百合が視線を向ける。
和田は首を振った。
「いえ。助かりました」
百合はそれを否定しない。
「こちらは、もう大丈夫よ」
その言い方に、わずかな区切りがあった。
和田は気づかない。
六郎は、気づいた。
外へ出る。
朝の空気は軽かった。
六郎は一度だけ振り返る。
家は、ただの家に見える。
「……終わったんですかね」
百合は前を向いたまま言う。
「一つは」
それだけだった。
六郎は、少しだけ笑う。
「便利な言い方ですね」
百合は答えない。
その代わり、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
⸻
人の少ない時間帯で、通りにはまだ店も開いていない。遠くで車の音がするくらいで、風の通りだけがはっきりと感じられる。
六郎は歩きながら、何度かポケットの中の石に触れた。
触れるたびに、そこにあることが確かめられる。
ただ、それ以上のことは分からない。
「……持っていると、妙に気になりますね」
百合は前を向いたまま言う。
「そういうものよ」
「重いわけでもないのに」
「手の中にあるものほど、意識に残るものなの」
六郎は小さく息を吐いた。
百合は答えない。
少ししてから、静かに言った。
「置いてくるものだから」
それ以上は続けない。
川に近づくと、水の匂いが混じってくる。
堤に上がると、視界が開けた。
広い川面が、朝の光を受けて鈍く光っている。流れは穏やかで、音もほとんどしない。昨日の夜のことが、どこか遠い場所の出来事のように思えた。
百合は立ち止まり、川の方を見た。
「ここでいいわ」
六郎は石を取り出す。
掌の上で、もう一度だけ見た。
特別なものには見えない。
ただ、これがあったことで起きていたことを思い出すと、どこか現実のものではないようにも感じられる。
「……どこでもいいんですか」
百合は少しだけ首を振る。
「いいえ」
視線は川から動かさない。
「戻る場所に、近いところがいい」
六郎は石を見た。
「戻る、ですか」
「ええ」
百合は短く答える。
「ここにあったものではないけれど、ここから離れていたものではないから」
言葉は穏やかだったが、意味ははっきりしない。
六郎はそれ以上聞かない。
「そのまま、置いて」
百合が言う。
「投げないで」
六郎はうなずき、堤を少し下りた。
水際まで行き、石を静かに置く。
水に触れるか触れないかのところへ。
指を離す。
石はそのまま、そこに残った。
何も起きなかった。
音も、変化もない。
風が吹いて、水面がわずかに揺れるだけだった。
六郎はしばらくその場に立っていたが、やがて振り返った。
百合は同じ場所に立っている。
「……何も起きませんね」
「ええ」
「これで、いいんですか」
百合は少しだけ目を細めた。
「何か起きた方が、安心する?」
六郎は苦笑した。
「そういうわけじゃないですけど」
百合はうなずく。
「何も起きないときは、それでいいの」
それから、わずかに間を置く。
「起きていたものが、そこに戻っただけだから」
六郎は石のあった場所をもう一度見る。
もう、ただの川際にしか見えなかった。
「……これで」
六郎が言いかけると、百合は首を振った。
「戻りましょう」
それ以上は言わない。
六郎は少しだけ川の方を見たまま、立ち尽くす。
「残るものもある、でしたね」
百合は振り返らない。
「ええ」
それだけだった。
二人は来た道を引き返した。
⸻
昼過ぎに、電話を入れた。
受話器の向こうで、和田の声がする。
「もしもし」
少しだけ、昨日よりも軽い声だった。
百合が話す。
「宇喜田です」
「ああ……!」
すぐに分かったらしい。
「玄関も、普通で……音もしていません」
百合はそれを遮らずに聞いた。
「そう」
それから、少しだけ間を置く。
「そちらは、もう大丈夫よ」
和田は、はっきりと息を吐いた。
受話器越しでも分かるほどの、深い息だった。
「……そうですか」
その一言に、力が抜けている。
「本当に、助かりました」
百合は答える。
「ええ」
それだけだった。
和田は何度も礼を言った。
そのたびに、声の調子が少しずつ戻っていく。
最後には、昨日の緊張が嘘のように消えていた。
百合は最後まで同じ調子で応じ、静かに通話を終えた。
店へ戻ると、昼の光が畳に落ちていた。
障子の向こうは、いつもの明るさだった。
百合は帳面を開き、何かを書きつける。
六郎はその様子を眺めながら、ふと口を開いた。
「……終わったんですか」
百合は手を止めない。
「一つは」
それだけ言う。
六郎は少し考えてから、続けた。
「じゃあ、もう一つは」
百合は筆を置いた。
帳面を閉じる。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
「残っているわ」
声は静かだった。
「別のものだから」
六郎は、短く息を吐いた。
「……便利な話ですね」
百合は、わずかに口元をゆるめた。
「そうでもないわ」
それから、視線を障子の方へ向ける。
「同じところに、同じものが来るとは限らないの」
「じゃあ……あの家は」
「静かにはなるでしょうね」
百合は言う。
「でも、静かなままでいるとは限らない」
六郎は、それ以上聞かなかった。
⸻
夜になった。
和田は一人で家にいた。
玄関は静かだった。
山茶花は落ちていない。
並べる必要もない。
戸口に立って、しばらく外を見た。
風が少しだけ吹いている。
それだけだった。
家の中へ戻る。
灯りを一つつける。
畳の上に影が落ちる。
昨夜とは違う。
そう思う。
思って、息を吐く。
座敷へ入り、腰を下ろす。
しばらく、そのまま何もせずにいた。
何も起きない。
それが、当たり前のことのように感じられた。
きし。
和田は、顔を上げた。
廊下の奥は、暗いままだった。
何も動かない。
何も見えない。
しばらくして、和田は視線を落とす。
そのまま、何もせずに座っている。
それ以上、確かめなかった。




