山茶始開 三
山茶始開
座敷へ戻ってから、しばらく誰も口を利かなかった。
障子の向こうは静かだった。
静かすぎる、と六郎は思った。
さっきまで確かに聞こえていた音が、ぴたりと止んでいる。だが、それは去った静けさではなかった。そこにいるものが、少し離れた場所でじっとしているような、そんな静けさだった。
和田が膝の上に置いた手を見つめたまま、低く言った。
「……今夜は、どうしたら」
百合はすぐには答えなかった。
帳面を閉じ、指先をその表紙に置いたまま、障子の方を見ている。
「今夜は、ここを出ない方がいいわ」
和田は、息を呑むように小さく肩を揺らした。
「出ると、どうなります」
「分からないわ」
百合はそう言った。
「けれど、七つ揃った夜に廊下を出るのは、よくない気がする」
よくない気がする、という言い方だった。
断言ではない。だが、むしろその曖昧さの方が、六郎には嫌だった。百合が分かっていないものは、本当に分からないのだ。
和田は唇を舐めた。
「では……泊まっていかれますか」
「ええ」
百合はためらわない。
「その方がいいわ」
六郎は思わず百合を見る。
百合は視線を向けないまま、小さな黒いバッグを手元に引き寄せた。
中を確かめる仕草に迷いがない。
今夜は長くなることを、最初から考えていたのだと六郎はそこで知った。
「……着替え、持ってきてたんですか」
六郎が言うと、百合はようやくこちらを見た。
「そうね」
その言い方があまりに当然で、六郎は返す言葉を失った。
和田は立ち上がりかけて、また座り直した。
「私は……妻のものを、少し片づけてしまっていて。女物は、あまり」
「十分よ」
百合は穏やかに言った。
「お借りしなくても構わないわ」
それから六郎へ目を向ける。
「あなたは和田さんのものを借りなさい」
「ええ……まあ、それは」
「下着は替えなくていいわ」
先に言われてしまい、六郎は妙な顔になった。
「そこまで分かってるなら、もう少し言いようがあるでしょう」
百合は少しだけ口元をゆるめた。
「無駄に音を立てたくないの。着替えも最低限にしましょう」
その一言で、冗談めいた空気は消えた。
和田が客間を使うようにと言い、押入れから寝具を出そうとしたが、百合はそれも止めた。
「今は動かさない方がいいわ。必要なものだけでいい」
「必要なものだけ」と言われると、この家の中では何も必要ではないような気さえした。
和田は隣の部屋から、浴衣と肌着代わりの薄い襦袢を持ってきた。六郎は座敷の隅でそれを受け取り、手触りの違いに小さく身じろぎした。洗ってある匂い。けれど、他人の家の布の匂いでもあった。袖を通したとき、自分の身体だけがこの空間から少し浮いているような心地がした。
下着はそのまま。そこだけが妙に現実的で、かえって落ち着かない。
百合は衝立の向こうで手早く着替えを済ませたらしく、ほどなくして戻ってきた。黒に近い藍の寝間着姿だったが、背筋は昼と同じようにまっすぐだった。寝るための姿なのに、少しも寝る人間に見えない。
そのまま三人は、座敷に円をつくるように座り直した。
灯りは一つだけ。
障子は閉めたまま。
廊下の方は見えない。
見えないのに、そこに何かがいると分かる。
分かること自体が、あまり良くない気がした。
百合が、低い声で言った。
「いくつか、決めておきましょう」
和田が顔を上げる。
「決める……?」
「今夜のことよ」
百合は指を一本立てた。
「まず、廊下に出ない」
二本目。
「音がしても、追わない」
三本目。
「数えない」
和田の喉がごくりと鳴った。
百合はさらに続けた。
「それから、気配がしても、すぐには見ない。向こうがこちらに気づいていないうちは、それでいい」
六郎は眉を寄せた。
「気づいていない、って」
「こちらが気づいていることに、向こうが気づくと厄介なの」
「どうして」
百合は一瞬だけ黙った。
「家の中を歩いているだけなら、まだ“探している”だけだから」
その言葉で、座敷の空気が一段冷えた気がした。
和田が小声で言う。
「探している……何を」
百合は首を振った。
「そこまでは分からないわ。けれど、見つけさせない方がいい」
六郎は、背中の汗が冷えるのを感じた。
つまり今この家の中には、歩いているものがいる。
見えないが、いる。
しかも、自分たちを探しているのかもしれない。
百合は帳面を開いた。
「今のうちに見ましょう。和田さん、ほかにも奥様の手元に残っているものはある?」
和田は、少し考えるように目を伏せた。
「家計の帳面と、薬の包み紙くらいで……。あとは、手紙の類はほとんど」
そこまで言って、ふと何かに気づいたように顔を上げた。
「仏壇の引き出しに、日記のようなものが一冊あったかもしれません」
六郎が即座に言う。
「取ってきてください、とは言えないですね」
和田は苦く笑うこともできず、ただうなずいた。
百合が言う。
「どちらに」
「奥の居間です。仏壇の下の、小さい引き出しに」
「……近いのね」
その言い方で分かった。
今、そこへは行きたくないのだ。
六郎もまったく同じ気持ちだった。だが、このまま座っていても何も進まない。自分でそう思うのに、身体は立ち上がりたがらない。
そのときだった。
廊下の向こうで、何かが鳴った。
きし。
床板が、重みを受けたような音だった。
三人とも、ぴたりと動きを止める。
もう一度。
きし。
それは、ゆっくりとした音だった。迷いながら歩いているようでもあり、確かめながら近づいてくるようでもあった。
六郎は、思わず障子の方へ顔を向けかける。
百合の指先が、何も言わずに軽く動いた。
止まれ、という合図だった。
六郎は視線を戻す。
呼吸が浅くなる。
音は、廊下の途中で止まった。
何歩ぶんの距離か分からない。けれど近い。襖一枚隔てた向こうに立っていてもおかしくない近さだった。
何も聞こえない。
何も動かない。
それでも、そこにある気配だけが濃くなる。
六郎は、自分がいま瞬きをしなかったことに気づいた。目が乾く。
和田の肩が、ごくわずかに震えている。
どれほどそうしていたか分からない。
やがて、その気配はまたゆっくりと動いた。
きし。
きし。
離れていく。
誰も、息を吐くことさえすぐにはできなかった。
百合が、ようやく小さく言う。
「……今のうちに行きましょう」
「今のうちって」
六郎が囁くと、百合は帳面を閉じた。
「遠いところにいるうちに、必要なものだけ持って戻るの」
和田が立ち上がる。今度は少しふらついた。
「私が……」
「先に立って」
百合が言う。
「けれど急がないで。急ぐ音の方が目立つわ」
三人は立ち上がった。
灯りは持たない。座敷の明かりを背にして廊下へ出ると、闇がいっそう濃く感じられた。廊下の先、奥の居間へ向かうまでに、いくつか襖が並んでいる。そのどれもが閉まっていて、中の暗さがひとつひとつ息を潜めているみたいだった。
和田の家なのに、和田の足取りが一番頼りない。
仏壇のある居間へ着くと、畳と線香の匂いがふわりとした。
ここだけは、まだ人の暮らしの名残があった。
和田が仏壇の前にかがみ、小さな引き出しを開ける。
木がこすれる音が、やけに大きく感じた。
中から出てきたのは、布張りの古い大学ノートだった。花模様のついた、どこにでもありそうなものだが、こういう場所から出てくると別のものに見える。
和田がそれを掴んだ、そのときだった。
廊下の方で、きし、と鳴った。
三人とも凍る。
近い。
今度は近すぎた。
さっきより、ずっと近い。
和田がノートを取り落としそうになり、百合が素早く受け取った。
「戻るわ」
小さく、しかしはっきりとした声だった。
きし。
また一歩。
居間の入口までは数歩しかない。その数歩が、ひどく遠い。六郎は自分の身体が大きくなったような気がした。少しでも動けば、すぐに見つかるのではないかという妙な感覚がある。
百合が先に出る。六郎が続き、和田が最後になる。
廊下の向こうの暗がりには、何も見えない。
見えないのに、そこに“向き”がある気がした。
こちらを向いている。
その感じだけが、はっきりあった。
六郎は、見ないようにしながら見てしまう人間の目つきで、廊下の奥をかすめた。
何もない。
それでも、何もない場所の濃さが違った。
そのとき。
――ぱさ
音がした。
すぐ横の部屋の中からだった。
六郎の心臓が強く打つ。
そちらを見そうになった瞬間、百合が袖口を掴んだ。
冷たい手だった。
振り向かず、そのまま歩く。
座敷へ戻る。
障子を閉める。
閉まった瞬間、廊下の気配がすっと薄くなった。
六郎は、今度こそ耐えきれずに深く息を吐いた。膝が少し笑っている。
百合は何も言わず、持ち帰ったノートを座卓の上に置いた。
和田が額を押さえる。
「今……いましたよね」
「ええ」
百合は簡単に答えた。
「でも、まだこちらを見つけていない」
六郎が言う。
「見つかったら、どうなるんです」
百合はノートの表紙を撫でるように指でなぞった。
「それは、まだ分からない」
その「まだ」が嫌だった。
分かっていないことばかりなのに、分からないものは確かに近づいてくる。
百合はノートを開いた。
最初の数ページは、ほんとうにただの家計の記録だった。味噌、醤油、炭、米、和田の煙草。季節の小さな買い物。ところどころに、病院へ行った日や、雨の日の洗濯のことが短く書かれている。
和田の妻の字は、細くてきちんとしていた。
途中までは。
ある日を境に、字が少しだけ変わる。
乱れたわけではない。
けれど、余白が増え、同じ言葉が繰り返されるようになる。
「……ここからね」
百合が小さく言った。
六郎が覗き込む。
六月十七日。
《庭で花が落ちる音がした。風がないのに、何度もした。朝見たら玄関に四つあった》
六月十八日。
《今日も音がした。外だと思ったが、戸のすぐ向こうで聞こえた。朝は七つ。並べたら少し静かになった》
六郎は息を止めた。
和田が、掠れた声を出す。
「並べた……」
百合は読み進める。
六月二十日。
《一つだけ裏返っていた。戻してやった》
六月二十二日。
《数えない方がいいのだと思う。数えると気配が近い》
六月二十三日。
《でも、揃っていないのはよくない気がする》
そこから先は、同じような言葉が少しずつ増えていた。
《今朝も七つ》
《門の方を向けた》
《今日は玄関でなく廊下》
《和田さんは気づいていない》
《気づかない方がいい》
六郎は目を細めた。
「これ……守ってたんですか」
百合は即答しなかった。
ページをめくる指が、ほんのわずかに止まる。
次の頁には、これまでよりも強い筆圧で書かれていた。
《揃えておかないと、家の中へ入ってくる気がする》
その一行だけだった。
和田が、ゆっくりと首を振る。
「……妻は、そんなこと、一度も」
「言わなかったのでしょうね」
百合が言う。
「言葉にすると、誰かが気づくと思ったのかもしれない」
六郎は眉を寄せる。
「でも、実際どうなんです。花を揃えていたから何も起きなかったのか、それとも」
百合がノートから目を上げた。
「分からないわ」
その目は静かだった。
「守っていたのかもしれないし、ただ偶然そうなっていただけかもしれない」
和田が顔を上げる。
「偶然……?」
「ええ」
百合の声はやわらかい。だが、内容は少しもやわらかくなかった。
「和田さん、あなたは何をしていました」
「何を、と言われても……」
「夜、音が聞こえたとき」
和田は、しばらく考えるように黙った。
「私は……見に行くのが嫌で、布団をかぶっていました」
六郎は思わず百合を見る。
百合はうなずいた。
「数えたことは」
「ありません。数えるのも、見るのも、なるべく」
「戸を開けた?」
「……開けませんでした。妻が嫌がったので」
百合は、そこで初めてごく小さく息をついた。
「そう」
「それが」
和田の声が細くなる。
「よかったんですか」
「よかった、とはまだ言えないわ」
百合は言った。
「ただ、踏まなかっただけかもしれない」
和田の顔から血の気が引く。
六郎にも、その意味はよく分かった。
正しいことをして助かっていたのではない。
たまたま、やってはいけないことをしていなかっただけなのだ。
それは、対処法があるよりもずっと怖かった。
百合はさらにページをめくった。
後半になると、字はいっそう短く、切れ切れになっている。
《今日は六つしかなかった》
《一つ足りない》
《探しに出てはいけない》
《向こうが待っている》
《音が廊下を行ったり来たりしている》
《こちらが聞いているのを分かったらだめ》
六郎の背中に、すっと冷たいものが走った。
「書いてあるじゃないですか」
「ええ」
百合は最後の方の頁を見ている。
「奥様も気づいていたのね」
その先の頁に、折り込まれた紙が挟まっていた。
和田が目を見開く。
「そんなもの、見たことが」
百合がそっと取り出す。
便箋を半分に折った、小さな紙だった。表には何も書かれていない。開くと、中にたった三行。
《七つ揃った夜は戸を開けない》
《呼ばれても返事をしない》
《気づかれたと思ったら朝まで数えない》
六郎は、思わず息を止めた。
和田が、唇を震わせる。
「呼ばれても……?」
その瞬間だった。
廊下の方で、かすかな物音がした。
きし。
続いて、もう一つ。
きし。
ゆっくりと。
まっすぐ。
こちらへ近づいてくる。
三人とも、一斉に口を閉ざした。
気配が濃くなる。
障子一枚の向こうまで来ている。そう思った途端、空気の重さが変わった。座敷の中の灯りまで少し暗くなったように見える。
六郎は、心臓の音が大きすぎる気がした。
そして――
「……あなた」
障子の向こうから、声がした。
女の声だった。
やわらかく、かすれていて、どこか遠い。
けれど聞き覚えがあるような声でもあった。
和田の身体が、目に見えて強張る。
六郎は、隣の和田の横顔を見る。
和田の目が、見開かれていた。
百合が、すぐに人差し指を立てる。
一言も返すな、という合図だった。
障子の向こうの声は、もう一度言った。
「……あなた」
今度は少し近い。
六郎の喉がひりつく。
それは家の外から呼ぶ声ではなかった。すぐ廊下に立って、障子に向かって言っている声だった。
和田が、わずかに口を開く。
返事をしそうになる。
百合が振り向きざまにその手首を掴んだ。
声は、また沈黙した。
次に何が来るのか分からない、その間がいちばんきつかった。
やがて、障子のすぐ向こうで、何かが落ちる音がした。
――ぽとり
六郎は肩を震わせる。
花だ、と思う。
見なくても分かった。
そのあと、声はしなかった。
代わりに、廊下の床が、ゆっくりと鳴り始める。
きし。
きし。
行ったり来たりする音。
座敷の前を、何度も、何度も通る。
探している。
本当にそう思った。
自分たちが気づいていると、向こうは知っているのかもしれない。だが、まだ場所までは定めきれていない。だから、近くを巡っている。
六郎は、障子に目を向けないようにしながら、低く囁いた。
「……いまの、奥さんの声だったんですか」
和田は返事をしない。
できないのだろう。目に涙が滲んでいる。
百合が代わりに、ほとんど聞こえない声で言う。
「そう聞こえるようにしているだけかもしれない」
それで十分だった。
外のものではない。
家の中に入りたがっているものだ。
だから、返事をさせる。
戸を開けさせる。
気づいていることを、確かなものにさせる。
廊下を行く気配は、しばらくしてようやく遠のいた。
それでも誰もすぐには口を利けなかった。
百合が便箋を畳み直し、ノートの間に挟む。
「今ので一つ分かったわ」
「何がです」
六郎が訊く。
「奥様は、何となく揃えていたんじゃない」
百合は静かに言った。
「少なくとも、途中からは、“そうしないといけない”と思っていた」
和田が掠れた声で言う。
「では……妻は、正しかったんでしょうか」
百合は少し考えるように目を伏せた。
「半分は」
「半分」
「七つを揃えること自体が良かったのかは分からない。でも、戸を開けないこと、返事をしないこと、数えないことは、おそらく間違っていない」
六郎は唇を噛んだ。
「じゃあ、どうすればいいんです」
百合はノートの最初の方へと戻る。六月十七日の前。そこには日付だけで、ほとんど記述のない頁が数枚あった。だが、ひとつだけ、端に走り書きが見える。
《川で拾った石を、持ち帰らないこと》
六郎は眉をひそめた。
「……川?」
和田が、はっとしたように顔を上げる。
「妻が、川へ行ったことがあります」
「いつ」
「六月の頭です。実家の法事で犬山の方へ行って、その帰りに、木曽川の堤へ寄ったと。花がきれいだったからと……」
「何か持ち帰った?」
和田は、しばらく記憶を探るように目を動かした。
「……石です」
座敷の空気が、すっと変わった。
「丸い、白っぽい石を一つ。玄関に置いていたことがありました。きれいだからと」
百合の視線が鋭くなる。
「今は」
「分かりません。たぶん……下駄箱の上か、庭のどこかに」
六郎は思わず言った。
「それじゃないですか」
「かもしれないわね」
百合は簡単にはうなずかない。
「でも、今すぐ探しに出るのはよくない」
当然だった。
石一つで済む話なら楽だ。だが、この家の中には今、返事を待つものが歩いている。
百合は帳面を閉じた。
「朝を待ちましょう」
「朝になったら、石を探すんですか」
「ええ。玄関と庭、それから仏壇の周りも。奥様が何を持ち帰って、どこへ置いたのかを確かめる」
和田が、ようやく少しだけ息を吐く。
「それで、終わるでしょうか」
百合は和田を見た。
「終わらせるための手がかりにはなるはずよ」
はず、だった。
それでも、何もないよりはましだった。
灯りを落とすかどうか迷った末に、百合はそのままにした。真っ暗にすると、かえって気配の位置が分からなくなるという。寝るわけではない。三人とも、横にもならなかった。座ったまま、夜が過ぎるのを待つしかない。
時々、廊下が鳴った。
きし。
きし。
遠いこともあれば、近いこともあった。
一度だけ、座敷の角の柱を、爪でそっとなぞるような音がした。六郎はそのとき、自分が口の中を噛んでいたことに気づいた。
真夜中をどれほど過ぎた頃か。
百合がふいに言った。
「和田さん。奥様は、亡くなる前、何かおかしなことを」
和田は暗い顔のまま、少し考えた。
「……朝が早くなりました。夜明け前に起きて、玄関にいることが増えた」
「花を揃えるために」
「そうかもしれません」
「それ以外は」
和田は、しばらく黙ったあと、低く言った。
「何かを聞いていました」
六郎が顔を上げる。
「聞いていた?」
「夜になると、じっとして。耳を澄ますみたいに。私は、眠れないだけだと思っていたんですが」
百合はうなずいた。
「気づいていたのね」
そのとき、また廊下が鳴った。
だが今度は、一度だけだった。
きし。
それきり、しんと静まる。
静かすぎて、逆におかしい。
六郎は障子を見る。
百合は動かない。
和田も動かない。
誰も動かないまま、時間だけが過ぎる。
――こつ
小さな音がした。
障子の桟を、外から軽く叩いたみたいな音だった。
六郎の首筋が総毛立つ。
もう一度。
――こつ
百合が、目だけで六郎を制した。
返事をしない。
見ない。
そのまま。
三度目は来なかった。
代わりに、廊下の奥で風のようなものが抜ける気配がして、それっきり何も聞こえなくなった。
本当に朝が来るのかと、六郎は途中で何度も思った。
だが、やがて障子の向こうの色が、ごくわずかに変わった。
黒ではなく、濃い灰色になる。
鳥の声はまだしない。
家の外の世界が戻ってきていない、ぎりぎりの時間だった。
百合が、初めて背中の力をゆるめた。
「……いまなら」
それだけ言って、立ち上がる。
和田も慌てて続いた。
障子を開ける。
冷えた朝の気が、廊下へ流れ込んでくる。
昨夜の気配は、薄くなっていた。消えたとは言えないが、少なくとも座敷の前に立ってはいない。
玄関へ行くと、土間に山茶花が七つ、きちんと並んでいた。
誰も触っていないはずなのに。
昨夜よりもきれいに。
門の方を向いて。
和田が、かすかに呻くような息を漏らす。
「妻と、同じです」
百合は花を見下ろしたまま言った。
「ええ」
それから、顔を上げる。
「石を探しましょう」
玄関の下駄箱の上には、埃をかぶった置物と、小さな鍵皿しかなかった。居間、仏壇の周り、庭先。どこにもそれらしいものはない。
最後に和田が、ふと庭の隅を指した。
山茶花の木の根元だった。
昨夜は暗くて見えなかった場所に、小さな白いものが半分土に埋もれている。
丸い川石だった。
掌にのるほどの大きさ。白く、滑らかで、片面に赤茶けた筋が入っている。まるで水の中で長くこすられてきたような、妙に古い肌をしていた。
六郎がしゃがみ込む。
「これですか」
「たぶん」
和田が答える。
「見覚えがあります」
百合は石をすぐには拾わなかった。
しばらく見つめ、それから言う。
「昨夜、花が落ちていたのは玄関だけではなかったのかもしれないわ」
六郎が顔を上げる。
「どういうことです」
百合は山茶花の木を見る。
「ここへ帰ろうとしていたのかもしれない」
「石が?」
「いいえ」
百合の視線は静かだった。
「石に、ついてきたものが」
六郎は返す言葉を失う。
朝の光が、ようやく庭へ降り始めていた。けれど、それで何かが軽くなるわけではない。むしろ見えてしまったことで、夜の出来事に形がついただけだった。
百合が、石の前にしゃがみ込む。
「どうするかは、まだ決められない」
その声は低い。
「けれど、理由は見えてきたわ」
和田が、乾いた唇で言う。
「……戻すんですか」
百合はすぐには答えず、石を見つめていた。
「そうするべきでしょうね」
そして、静かに続ける。
「拾った場所へ」
六郎は木曽川の名を思い出した。
落ちる花の音。
七つ揃う玄関。
返事を待つ声。
そのすべてが、まだ終わっていない。
百合は山茶花の木を見上げた。
枝先には、まだいくつもの赤が残っている。
朝の光の中で、玄関の花はどれもひどく鮮やかに見えた。




