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籠目屋商店怪異録 冬ノ巻  作者: 宇佐美夕日


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5/22

山茶始開 三

山茶始開つばきはじめてひらく

座敷へ戻ってから、しばらく誰も口を利かなかった。


障子の向こうは静かだった。


静かすぎる、と六郎は思った。


さっきまで確かに聞こえていた音が、ぴたりと止んでいる。だが、それは去った静けさではなかった。そこにいるものが、少し離れた場所でじっとしているような、そんな静けさだった。


和田が膝の上に置いた手を見つめたまま、低く言った。


「……今夜は、どうしたら」


百合はすぐには答えなかった。


帳面を閉じ、指先をその表紙に置いたまま、障子の方を見ている。


「今夜は、ここを出ない方がいいわ」


和田は、息を呑むように小さく肩を揺らした。


「出ると、どうなります」


「分からないわ」


百合はそう言った。


「けれど、七つ揃った夜に廊下を出るのは、よくない気がする」


よくない気がする、という言い方だった。


断言ではない。だが、むしろその曖昧さの方が、六郎には嫌だった。百合が分かっていないものは、本当に分からないのだ。


和田は唇を舐めた。


「では……泊まっていかれますか」


「ええ」


百合はためらわない。


「その方がいいわ」


六郎は思わず百合を見る。


百合は視線を向けないまま、小さな黒いバッグを手元に引き寄せた。

中を確かめる仕草に迷いがない。

今夜は長くなることを、最初から考えていたのだと六郎はそこで知った。


「……着替え、持ってきてたんですか」


六郎が言うと、百合はようやくこちらを見た。


「そうね」


その言い方があまりに当然で、六郎は返す言葉を失った。


和田は立ち上がりかけて、また座り直した。


「私は……妻のものを、少し片づけてしまっていて。女物は、あまり」


「十分よ」


百合は穏やかに言った。


「お借りしなくても構わないわ」


それから六郎へ目を向ける。


「あなたは和田さんのものを借りなさい」


「ええ……まあ、それは」


「下着は替えなくていいわ」


先に言われてしまい、六郎は妙な顔になった。


「そこまで分かってるなら、もう少し言いようがあるでしょう」


百合は少しだけ口元をゆるめた。


「無駄に音を立てたくないの。着替えも最低限にしましょう」


その一言で、冗談めいた空気は消えた。


和田が客間を使うようにと言い、押入れから寝具を出そうとしたが、百合はそれも止めた。


「今は動かさない方がいいわ。必要なものだけでいい」


「必要なものだけ」と言われると、この家の中では何も必要ではないような気さえした。


和田は隣の部屋から、浴衣と肌着代わりの薄い襦袢を持ってきた。六郎は座敷の隅でそれを受け取り、手触りの違いに小さく身じろぎした。洗ってある匂い。けれど、他人の家の布の匂いでもあった。袖を通したとき、自分の身体だけがこの空間から少し浮いているような心地がした。


下着はそのまま。そこだけが妙に現実的で、かえって落ち着かない。


百合は衝立の向こうで手早く着替えを済ませたらしく、ほどなくして戻ってきた。黒に近い藍の寝間着姿だったが、背筋は昼と同じようにまっすぐだった。寝るための姿なのに、少しも寝る人間に見えない。


そのまま三人は、座敷に円をつくるように座り直した。


灯りは一つだけ。


障子は閉めたまま。


廊下の方は見えない。


見えないのに、そこに何かがいると分かる。


分かること自体が、あまり良くない気がした。


百合が、低い声で言った。


「いくつか、決めておきましょう」


和田が顔を上げる。


「決める……?」


「今夜のことよ」


百合は指を一本立てた。


「まず、廊下に出ない」


二本目。


「音がしても、追わない」


三本目。


「数えない」


和田の喉がごくりと鳴った。


百合はさらに続けた。


「それから、気配がしても、すぐには見ない。向こうがこちらに気づいていないうちは、それでいい」


六郎は眉を寄せた。


「気づいていない、って」


「こちらが気づいていることに、向こうが気づくと厄介なの」


「どうして」


百合は一瞬だけ黙った。


「家の中を歩いているだけなら、まだ“探している”だけだから」


その言葉で、座敷の空気が一段冷えた気がした。


和田が小声で言う。


「探している……何を」


百合は首を振った。


「そこまでは分からないわ。けれど、見つけさせない方がいい」


六郎は、背中の汗が冷えるのを感じた。


つまり今この家の中には、歩いているものがいる。


見えないが、いる。


しかも、自分たちを探しているのかもしれない。


百合は帳面を開いた。


「今のうちに見ましょう。和田さん、ほかにも奥様の手元に残っているものはある?」


和田は、少し考えるように目を伏せた。


「家計の帳面と、薬の包み紙くらいで……。あとは、手紙の類はほとんど」


そこまで言って、ふと何かに気づいたように顔を上げた。


「仏壇の引き出しに、日記のようなものが一冊あったかもしれません」


六郎が即座に言う。


「取ってきてください、とは言えないですね」


和田は苦く笑うこともできず、ただうなずいた。


百合が言う。


「どちらに」


「奥の居間です。仏壇の下の、小さい引き出しに」


「……近いのね」


その言い方で分かった。


今、そこへは行きたくないのだ。


六郎もまったく同じ気持ちだった。だが、このまま座っていても何も進まない。自分でそう思うのに、身体は立ち上がりたがらない。


そのときだった。


廊下の向こうで、何かが鳴った。


きし。


床板が、重みを受けたような音だった。


三人とも、ぴたりと動きを止める。


もう一度。


きし。


それは、ゆっくりとした音だった。迷いながら歩いているようでもあり、確かめながら近づいてくるようでもあった。


六郎は、思わず障子の方へ顔を向けかける。


百合の指先が、何も言わずに軽く動いた。


止まれ、という合図だった。


六郎は視線を戻す。


呼吸が浅くなる。


音は、廊下の途中で止まった。


何歩ぶんの距離か分からない。けれど近い。襖一枚隔てた向こうに立っていてもおかしくない近さだった。


何も聞こえない。


何も動かない。


それでも、そこにある気配だけが濃くなる。


六郎は、自分がいま瞬きをしなかったことに気づいた。目が乾く。


和田の肩が、ごくわずかに震えている。


どれほどそうしていたか分からない。


やがて、その気配はまたゆっくりと動いた。


きし。


きし。


離れていく。


誰も、息を吐くことさえすぐにはできなかった。


百合が、ようやく小さく言う。


「……今のうちに行きましょう」


「今のうちって」


六郎が囁くと、百合は帳面を閉じた。


「遠いところにいるうちに、必要なものだけ持って戻るの」


和田が立ち上がる。今度は少しふらついた。


「私が……」


「先に立って」


百合が言う。


「けれど急がないで。急ぐ音の方が目立つわ」


三人は立ち上がった。


灯りは持たない。座敷の明かりを背にして廊下へ出ると、闇がいっそう濃く感じられた。廊下の先、奥の居間へ向かうまでに、いくつか襖が並んでいる。そのどれもが閉まっていて、中の暗さがひとつひとつ息を潜めているみたいだった。


和田の家なのに、和田の足取りが一番頼りない。


仏壇のある居間へ着くと、畳と線香の匂いがふわりとした。


ここだけは、まだ人の暮らしの名残があった。


和田が仏壇の前にかがみ、小さな引き出しを開ける。


木がこすれる音が、やけに大きく感じた。


中から出てきたのは、布張りの古い大学ノートだった。花模様のついた、どこにでもありそうなものだが、こういう場所から出てくると別のものに見える。


和田がそれを掴んだ、そのときだった。


廊下の方で、きし、と鳴った。


三人とも凍る。


近い。


今度は近すぎた。


さっきより、ずっと近い。


和田がノートを取り落としそうになり、百合が素早く受け取った。


「戻るわ」


小さく、しかしはっきりとした声だった。


きし。


また一歩。


居間の入口までは数歩しかない。その数歩が、ひどく遠い。六郎は自分の身体が大きくなったような気がした。少しでも動けば、すぐに見つかるのではないかという妙な感覚がある。


百合が先に出る。六郎が続き、和田が最後になる。


廊下の向こうの暗がりには、何も見えない。


見えないのに、そこに“向き”がある気がした。


こちらを向いている。


その感じだけが、はっきりあった。


六郎は、見ないようにしながら見てしまう人間の目つきで、廊下の奥をかすめた。


何もない。


それでも、何もない場所の濃さが違った。


そのとき。


――ぱさ


音がした。


すぐ横の部屋の中からだった。


六郎の心臓が強く打つ。


そちらを見そうになった瞬間、百合が袖口を掴んだ。


冷たい手だった。


振り向かず、そのまま歩く。


座敷へ戻る。


障子を閉める。


閉まった瞬間、廊下の気配がすっと薄くなった。


六郎は、今度こそ耐えきれずに深く息を吐いた。膝が少し笑っている。


百合は何も言わず、持ち帰ったノートを座卓の上に置いた。


和田が額を押さえる。


「今……いましたよね」


「ええ」


百合は簡単に答えた。


「でも、まだこちらを見つけていない」


六郎が言う。


「見つかったら、どうなるんです」


百合はノートの表紙を撫でるように指でなぞった。


「それは、まだ分からない」


その「まだ」が嫌だった。


分かっていないことばかりなのに、分からないものは確かに近づいてくる。


百合はノートを開いた。


最初の数ページは、ほんとうにただの家計の記録だった。味噌、醤油、炭、米、和田の煙草。季節の小さな買い物。ところどころに、病院へ行った日や、雨の日の洗濯のことが短く書かれている。


和田の妻の字は、細くてきちんとしていた。


途中までは。


ある日を境に、字が少しだけ変わる。


乱れたわけではない。


けれど、余白が増え、同じ言葉が繰り返されるようになる。


「……ここからね」


百合が小さく言った。


六郎が覗き込む。


六月十七日。


《庭で花が落ちる音がした。風がないのに、何度もした。朝見たら玄関に四つあった》


六月十八日。


《今日も音がした。外だと思ったが、戸のすぐ向こうで聞こえた。朝は七つ。並べたら少し静かになった》


六郎は息を止めた。


和田が、掠れた声を出す。


「並べた……」


百合は読み進める。


六月二十日。


《一つだけ裏返っていた。戻してやった》


六月二十二日。


《数えない方がいいのだと思う。数えると気配が近い》


六月二十三日。


《でも、揃っていないのはよくない気がする》


そこから先は、同じような言葉が少しずつ増えていた。


《今朝も七つ》

《門の方を向けた》

《今日は玄関でなく廊下》

《和田さんは気づいていない》

《気づかない方がいい》


六郎は目を細めた。


「これ……守ってたんですか」


百合は即答しなかった。


ページをめくる指が、ほんのわずかに止まる。


次の頁には、これまでよりも強い筆圧で書かれていた。


《揃えておかないと、家の中へ入ってくる気がする》


その一行だけだった。


和田が、ゆっくりと首を振る。


「……妻は、そんなこと、一度も」


「言わなかったのでしょうね」


百合が言う。


「言葉にすると、誰かが気づくと思ったのかもしれない」


六郎は眉を寄せる。


「でも、実際どうなんです。花を揃えていたから何も起きなかったのか、それとも」


百合がノートから目を上げた。


「分からないわ」


その目は静かだった。


「守っていたのかもしれないし、ただ偶然そうなっていただけかもしれない」


和田が顔を上げる。


「偶然……?」


「ええ」


百合の声はやわらかい。だが、内容は少しもやわらかくなかった。


「和田さん、あなたは何をしていました」


「何を、と言われても……」


「夜、音が聞こえたとき」


和田は、しばらく考えるように黙った。


「私は……見に行くのが嫌で、布団をかぶっていました」


六郎は思わず百合を見る。


百合はうなずいた。


「数えたことは」


「ありません。数えるのも、見るのも、なるべく」


「戸を開けた?」


「……開けませんでした。妻が嫌がったので」


百合は、そこで初めてごく小さく息をついた。


「そう」


「それが」


和田の声が細くなる。


「よかったんですか」


「よかった、とはまだ言えないわ」


百合は言った。


「ただ、踏まなかっただけかもしれない」


和田の顔から血の気が引く。


六郎にも、その意味はよく分かった。


正しいことをして助かっていたのではない。


たまたま、やってはいけないことをしていなかっただけなのだ。


それは、対処法があるよりもずっと怖かった。


百合はさらにページをめくった。


後半になると、字はいっそう短く、切れ切れになっている。


《今日は六つしかなかった》

《一つ足りない》

《探しに出てはいけない》

《向こうが待っている》

《音が廊下を行ったり来たりしている》

《こちらが聞いているのを分かったらだめ》


六郎の背中に、すっと冷たいものが走った。


「書いてあるじゃないですか」


「ええ」


百合は最後の方の頁を見ている。


「奥様も気づいていたのね」


その先の頁に、折り込まれた紙が挟まっていた。


和田が目を見開く。


「そんなもの、見たことが」


百合がそっと取り出す。


便箋を半分に折った、小さな紙だった。表には何も書かれていない。開くと、中にたった三行。


《七つ揃った夜は戸を開けない》

《呼ばれても返事をしない》

《気づかれたと思ったら朝まで数えない》


六郎は、思わず息を止めた。


和田が、唇を震わせる。


「呼ばれても……?」


その瞬間だった。


廊下の方で、かすかな物音がした。


きし。


続いて、もう一つ。


きし。


ゆっくりと。


まっすぐ。


こちらへ近づいてくる。


三人とも、一斉に口を閉ざした。


気配が濃くなる。


障子一枚の向こうまで来ている。そう思った途端、空気の重さが変わった。座敷の中の灯りまで少し暗くなったように見える。


六郎は、心臓の音が大きすぎる気がした。


そして――


「……あなた」


障子の向こうから、声がした。


女の声だった。


やわらかく、かすれていて、どこか遠い。


けれど聞き覚えがあるような声でもあった。


和田の身体が、目に見えて強張る。


六郎は、隣の和田の横顔を見る。


和田の目が、見開かれていた。


百合が、すぐに人差し指を立てる。


一言も返すな、という合図だった。


障子の向こうの声は、もう一度言った。


「……あなた」


今度は少し近い。


六郎の喉がひりつく。


それは家の外から呼ぶ声ではなかった。すぐ廊下に立って、障子に向かって言っている声だった。


和田が、わずかに口を開く。


返事をしそうになる。


百合が振り向きざまにその手首を掴んだ。


声は、また沈黙した。


次に何が来るのか分からない、その間がいちばんきつかった。


やがて、障子のすぐ向こうで、何かが落ちる音がした。


――ぽとり


六郎は肩を震わせる。


花だ、と思う。


見なくても分かった。


そのあと、声はしなかった。


代わりに、廊下の床が、ゆっくりと鳴り始める。


きし。


きし。


行ったり来たりする音。


座敷の前を、何度も、何度も通る。


探している。


本当にそう思った。


自分たちが気づいていると、向こうは知っているのかもしれない。だが、まだ場所までは定めきれていない。だから、近くを巡っている。


六郎は、障子に目を向けないようにしながら、低く囁いた。


「……いまの、奥さんの声だったんですか」


和田は返事をしない。


できないのだろう。目に涙が滲んでいる。


百合が代わりに、ほとんど聞こえない声で言う。


「そう聞こえるようにしているだけかもしれない」


それで十分だった。


外のものではない。


家の中に入りたがっているものだ。


だから、返事をさせる。


戸を開けさせる。


気づいていることを、確かなものにさせる。


廊下を行く気配は、しばらくしてようやく遠のいた。


それでも誰もすぐには口を利けなかった。


百合が便箋を畳み直し、ノートの間に挟む。


「今ので一つ分かったわ」


「何がです」


六郎が訊く。


「奥様は、何となく揃えていたんじゃない」


百合は静かに言った。


「少なくとも、途中からは、“そうしないといけない”と思っていた」


和田が掠れた声で言う。


「では……妻は、正しかったんでしょうか」


百合は少し考えるように目を伏せた。


「半分は」


「半分」


「七つを揃えること自体が良かったのかは分からない。でも、戸を開けないこと、返事をしないこと、数えないことは、おそらく間違っていない」


六郎は唇を噛んだ。


「じゃあ、どうすればいいんです」


百合はノートの最初の方へと戻る。六月十七日の前。そこには日付だけで、ほとんど記述のない頁が数枚あった。だが、ひとつだけ、端に走り書きが見える。


《川で拾った石を、持ち帰らないこと》


六郎は眉をひそめた。


「……川?」


和田が、はっとしたように顔を上げる。


「妻が、川へ行ったことがあります」


「いつ」


「六月の頭です。実家の法事で犬山の方へ行って、その帰りに、木曽川の堤へ寄ったと。花がきれいだったからと……」


「何か持ち帰った?」


和田は、しばらく記憶を探るように目を動かした。


「……石です」


座敷の空気が、すっと変わった。


「丸い、白っぽい石を一つ。玄関に置いていたことがありました。きれいだからと」


百合の視線が鋭くなる。


「今は」


「分かりません。たぶん……下駄箱の上か、庭のどこかに」


六郎は思わず言った。


「それじゃないですか」


「かもしれないわね」


百合は簡単にはうなずかない。


「でも、今すぐ探しに出るのはよくない」


当然だった。


石一つで済む話なら楽だ。だが、この家の中には今、返事を待つものが歩いている。


百合は帳面を閉じた。


「朝を待ちましょう」


「朝になったら、石を探すんですか」


「ええ。玄関と庭、それから仏壇の周りも。奥様が何を持ち帰って、どこへ置いたのかを確かめる」


和田が、ようやく少しだけ息を吐く。


「それで、終わるでしょうか」


百合は和田を見た。


「終わらせるための手がかりにはなるはずよ」


はず、だった。


それでも、何もないよりはましだった。


灯りを落とすかどうか迷った末に、百合はそのままにした。真っ暗にすると、かえって気配の位置が分からなくなるという。寝るわけではない。三人とも、横にもならなかった。座ったまま、夜が過ぎるのを待つしかない。


時々、廊下が鳴った。


きし。


きし。


遠いこともあれば、近いこともあった。


一度だけ、座敷の角の柱を、爪でそっとなぞるような音がした。六郎はそのとき、自分が口の中を噛んでいたことに気づいた。


真夜中をどれほど過ぎた頃か。


百合がふいに言った。


「和田さん。奥様は、亡くなる前、何かおかしなことを」


和田は暗い顔のまま、少し考えた。


「……朝が早くなりました。夜明け前に起きて、玄関にいることが増えた」


「花を揃えるために」


「そうかもしれません」


「それ以外は」


和田は、しばらく黙ったあと、低く言った。


「何かを聞いていました」


六郎が顔を上げる。


「聞いていた?」


「夜になると、じっとして。耳を澄ますみたいに。私は、眠れないだけだと思っていたんですが」


百合はうなずいた。


「気づいていたのね」


そのとき、また廊下が鳴った。


だが今度は、一度だけだった。


きし。


それきり、しんと静まる。


静かすぎて、逆におかしい。


六郎は障子を見る。


百合は動かない。


和田も動かない。


誰も動かないまま、時間だけが過ぎる。


――こつ


小さな音がした。


障子の桟を、外から軽く叩いたみたいな音だった。


六郎の首筋が総毛立つ。


もう一度。


――こつ


百合が、目だけで六郎を制した。


返事をしない。


見ない。


そのまま。


三度目は来なかった。


代わりに、廊下の奥で風のようなものが抜ける気配がして、それっきり何も聞こえなくなった。


本当に朝が来るのかと、六郎は途中で何度も思った。


だが、やがて障子の向こうの色が、ごくわずかに変わった。


黒ではなく、濃い灰色になる。


鳥の声はまだしない。


家の外の世界が戻ってきていない、ぎりぎりの時間だった。


百合が、初めて背中の力をゆるめた。


「……いまなら」


それだけ言って、立ち上がる。


和田も慌てて続いた。


障子を開ける。


冷えた朝の気が、廊下へ流れ込んでくる。


昨夜の気配は、薄くなっていた。消えたとは言えないが、少なくとも座敷の前に立ってはいない。


玄関へ行くと、土間に山茶花が七つ、きちんと並んでいた。


誰も触っていないはずなのに。


昨夜よりもきれいに。


門の方を向いて。


和田が、かすかに呻くような息を漏らす。


「妻と、同じです」


百合は花を見下ろしたまま言った。


「ええ」


それから、顔を上げる。


「石を探しましょう」


玄関の下駄箱の上には、埃をかぶった置物と、小さな鍵皿しかなかった。居間、仏壇の周り、庭先。どこにもそれらしいものはない。


最後に和田が、ふと庭の隅を指した。


山茶花の木の根元だった。


昨夜は暗くて見えなかった場所に、小さな白いものが半分土に埋もれている。


丸い川石だった。


掌にのるほどの大きさ。白く、滑らかで、片面に赤茶けた筋が入っている。まるで水の中で長くこすられてきたような、妙に古い肌をしていた。


六郎がしゃがみ込む。


「これですか」


「たぶん」


和田が答える。


「見覚えがあります」


百合は石をすぐには拾わなかった。


しばらく見つめ、それから言う。


「昨夜、花が落ちていたのは玄関だけではなかったのかもしれないわ」


六郎が顔を上げる。


「どういうことです」


百合は山茶花の木を見る。


「ここへ帰ろうとしていたのかもしれない」


「石が?」


「いいえ」


百合の視線は静かだった。


「石に、ついてきたものが」


六郎は返す言葉を失う。


朝の光が、ようやく庭へ降り始めていた。けれど、それで何かが軽くなるわけではない。むしろ見えてしまったことで、夜の出来事に形がついただけだった。


百合が、石の前にしゃがみ込む。


「どうするかは、まだ決められない」


その声は低い。


「けれど、理由は見えてきたわ」


和田が、乾いた唇で言う。


「……戻すんですか」


百合はすぐには答えず、石を見つめていた。


「そうするべきでしょうね」


そして、静かに続ける。


「拾った場所へ」


六郎は木曽川の名を思い出した。


落ちる花の音。


七つ揃う玄関。


返事を待つ声。


そのすべてが、まだ終わっていない。


百合は山茶花の木を見上げた。


枝先には、まだいくつもの赤が残っている。


朝の光の中で、玄関の花はどれもひどく鮮やかに見えた。

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