山茶始開 二
山茶始開
誰も、動かなかった。
音は、はっきりと聞こえた。
外ではない。
納戸の奥でもない。
家の中の、どこか近い場所からだった。
六郎は、ゆっくりと息を吐いた。
「……今の」
言いかけて、やめる。
言葉にした瞬間、それが確かなものになる気がした。
百合は、帳面を抱えたまま動かない。
視線だけが、廊下の方へ向いている。
和田は、少し遅れて顔を上げた。
「……聞こえましたか」
声が、乾いている。
百合はうなずかない。
ただ静かに言う。
「ここでは、よく聞こえるのね」
和田は答えなかった。
だが、その沈黙が肯定になっていた。
六郎は、足元に視線を落とす。
何もない。
さっきと同じ床。
何かが、増えている気がする。
それが何かは分からない。
ただ、さっきよりも「ここにいたくない」と思う感覚だけがはっきりしている。
――ぱさ
今度は、少し軽い音だった。
三人とも、同時に顔を上げる。
音は、廊下の先。
玄関の方から聞こえた。
六郎は無意識に一歩踏み出す。
「……見てきます」
和田がすぐに言う。
「いえ、私が」
だが、動かない。
足が出ない。
百合が静かに言った。
「一緒に行きましょう」
その言い方は、提案というよりも確認に近かった。
和田が、ようやくうなずく。
⸻
納戸を出る。
廊下は、さっきよりも暗く感じた。
同じ灯りのはずなのに、光が奥まで届いていない。
床板の上を歩くたび、わずかに音が鳴る。
きし。
きし。
その音が、やけに近い。
三人の足音とは別に、もう一つ音が混じっているような気がする。
六郎は歩きながら、ふと気づく。
さっきまで聞こえていた外の音が、完全に消えている。
車の音も、風の音も、何もない。
まるで、この家だけが別の場所に切り離されたみたいだった。
「……百合さん」
小さく呼ぶ。
「なに」
「さっきの音」
「ええ」
「庭じゃないですよね」
百合は少しだけ間を置いた。
「ええ」
「家の中ね」
それだけで、背中が冷たくなる。
玄関が見えた。
硝子越しの薄い光。
その前に、影が落ちている。
和田が足を止めた。
六郎も止まる。
百合だけが、一歩だけ前に出る。
視線が、床へ落ちる。
「……ありますね」
その声は、静かだった。
六郎は、恐る恐る近づく。
見る。
玄関の土間に、赤いものがあった。
一つ。
二つ。
いや、三つ。
落ちている。
花だった。
山茶花
まだ新しい。
しぼんでもいない。
ついさっき落ちたような色をしている。
六郎は息を止める。
「……来たときは、なかったですよね」
和田が、小さく答える。
「ええ」
声が、震えている。
百合がしゃがみ込む。
指先で、花に触れる。
冷たくもなく、温かくもない。
ただ、そこにある。
「七つではないのね」
ぽつりと呟く。
六郎が数える。
「……四つ」
その瞬間だった。
――ぽとり
音がした。
三人とも、同時に顔を上げる。
天井。
何もない。
だが、確かに上から聞こえた。
六郎は反射的に後ろへ下がる。
視線が、天井から床へ落ちる。
そこに。
ひとつ。
今、落ちたばかりの花があった。
さっきまでなかった場所に。
何の前触れもなく。
和田の喉が、かすかに鳴る。
「……今」
「今、落ちましたよね」
誰も答えない。
答える必要がなかった。
百合は立ち上がる。
玄関の外を見る。
門の向こう。
暗い庭。
山茶花の木は、動いていない。
風もない。
枝も揺れていない。
「……外ではないわ」
静かに言う。
「ここで、落ちている」
六郎は、その言葉の意味を理解しようとして、やめた。
理解してしまうと、戻れなくなる気がした。
和田が、小さく言った。
「最初は」
声がかすれる。
「庭からだと思ったんです」
「でも」
「気づいたら、玄関で」
「それから」
言葉が途切れる。
百合が、続きを待つ。
和田は、ようやく言った。
「家の中で、聞こえるようになった」
沈黙。
六郎は、床の花から目を離せない。
数が、合わない気がした。
さっき数えたのは四つ。
今は、五つ。
いつ増えたのか、分からない。
「……百合さん」
小さく呼ぶ。
「なに」
「これ」
言葉が続かない。
百合は、花を見たまま言う。
「数えない方がいいわ」
「どうして」
「揃えようとするから」
その言い方が、妙に静かだった。
六郎は、それ以上数えるのをやめた。
和田が、壁に手をつく。
少しだけ、体重を預けるように。
「……朝になると」
「七つ、揃っているんです」
百合は何も言わない。
ただ、玄関の外を見ている。
暗い庭。
何も動いていない。
「奥様は」
百合が、ゆっくりと言う。
「揃えていたのね」
和田は目を閉じる。
「ええ」
「毎朝」
「欠かさず」
百合は小さくうなずいた。
「そう」
それから、ほんの少しだけ間を置いて言う。
「だから、ここでも揃うのね」
六郎は、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。
だが、理解したくなかった。
そのとき。
――ぱさ
また、音がした。
今度は、すぐ後ろ。
三人とも振り返る。
廊下の奥。
暗がりの中。
何も見えない。
だが、確かにそこに何かがいる。
そう感じる。
六郎の喉が乾く。
視線を逸らせない。
そのとき。
――ぽとり
音が、さらに近くで鳴った。
すぐ足元だった。
六郎は、ゆっくりと下を見る。
そこに、また一つ、花が落ちていた。
今、確かに、何もないところから。
誰も触れていないのに。
落ちてきた。
百合が、静かに言う。
「……戻りましょう」
和田はすぐには動けなかった。
だが、やがて小さくうなずく。
玄関から離れる。
背中に、視線のようなものを感じる。
振り返らない。
振り返ってはいけない気がした。
廊下を戻る。
音が、ついてくる。
――ぱさ
――ぽとり
これで7つ。
六郎は、足を速めた。
座敷に戻る。
障子を閉める。
その瞬間、音が止んだ。
⸻
三人とも、しばらく動かなかった。
和田が、ゆっくりと座る。
手が、わずかに震えている。
「……これが」
小さく言う。
「ここ数日のことです」
百合は、帳面を膝の上に置いた。
視線は落とさない。
「ええ」
静かに答える。
「続いているのね」
和田はうなずく。
六郎は、ようやく息を吐いた。
胸の奥に、何かが残っている。
音だ。
さっきの「ぽとり」が、消えない。
頭の中で、繰り返されている。
百合が、ふと六郎を見た。
「まだ聞こえる?」
六郎は、少し迷ってから答えた。
「……はい」
「まだ」
百合は、小さくうなずいた。
「そう」
その言い方は、何も終わっていないことを示していた。




