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籠目屋商店怪異録 冬ノ巻  作者: 宇佐美夕日


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10/22

朔風葉払 三

風が、逆流する。


奥へ向かっていた流れが、途中で折り返し、廊下を巻き戻す。


音が変わる。


擦れるのではない。


削る。


何かを、少しずつ削ぎ落としていく音だ。


六郎は一歩、足を引く。


「……来てますね」


百合は動かない。


扉に手をかけたまま、その奥を見ている。


開いてはいない。


だが、向こう側がこちらへ寄ってきている。


壁の向こうにあるはずの空間が、薄く伸びて、こちら側へ滲み出してくる。


境が、曖昧になる。


ひよりが小さく言う。


「……寒い」


風ではない。


温度が、底から抜けていくように落ちている。


六郎は腕をさすりながら言う。


「閉じるって、どうやるんです」


百合は短く答える。


「流れを断つ」


「どうやって」


「通りは、単独では保てないの」


百合は扉に触れたまま、指先に力を込める。


木の感触はある。


だが、その向こうに、もう一枚、別の薄い層がある。


そこへ触れている。


「通りは、片方だけじゃ続かないの」


「通すものと、通されるもの」


「それが揃って、はじめて残る」


六郎は小さく息を吐く。


「……じゃあ、どっちかを止めればいい」


「ええ」


「どっちを」


百合は言う。


「どちらでもいいわ」


その言い方が、わずかに重い。


選べるというより、選ばされる響きだった。


ひよりが、ふらりと揺れる。


六郎が肩を支える。


「大丈夫ですか」


ひよりはゆっくりと頷く。


だが、目の焦点が合っていない。


視線が、扉の一点に吸い付いている。


「……軽いです」


「軽い?」


「中が……減ってるみたいな」


その言葉のあと、風が一瞬、強く鳴る。


廊下の奥で、何かが擦れる。


今いる場所ではない。


少し離れた場所で、同じ音が鳴っている。


六郎が顔を上げる。


「……今の、別のところから来ましたね」


百合は頷く。


「ええ」


「ここだけじゃない」


風が、わずかに分かれる。


一本だった流れに、細い枝が混じる。


目には見えないが、確かに“数”が増えている。


廊下の途中、閉じているはずの扉の向こうから、別の風が合流してくる。


六郎は眉を寄せる。


「……通り、一本じゃない?」


百合は言う。


「最初からではないわ」


「じゃあ」


「増えたのよ」


静かに。


断定するように。


六郎は壁を見る。


並ぶ扉。


さっき通ってきた部屋。


どれも閉まっている。


だが、そのどれもが、少しだけ“軽い”。


中身が抜けているような気配がする。


「……他の部屋からも、来てる」


ひよりが、小さく言う。


「……上からも」


二人が見る。


ひよりは、天井を見ている。


視線が、固定されている。


「……音、します」


六郎も耳を澄ます。


確かに、かすかな音がする。


上の階。


足音のような、


引きずるような、


途中で消える音。


誰かが歩いているようで、


途中で、歩くのをやめたような音。


百合が言う。


「積み重なっているのね」


六郎が言う。


「何がです」


百合は答える。


「通りが」


少し間。


「ここだけで起きていることではないわ」


六郎は苦笑する。


「ですよね」


視線を廊下へ戻す。


さっき来た方向。


その奥が、わずかに歪んで見える。


距離が、一定でない。


「他の部屋で、同じことが起きてる」


百合は頷く。


「ええ」


「そして、消えた」


六郎が言う。


「……いなくなった人」


ひよりの肩が、小さく揺れる。


百合は続ける。


「残ったのは、通りだけ」


六郎は息を吐く。


「じゃあ、自殺っていうのは」


少し間。


「違うってことですか」


百合は言う。


「少なくとも、すべてではないわ」


風が鳴る。


今度は、横から。


廊下の途中、閉じているはずの扉の向こうから、細い風が漏れ出す。


その扉の前だけ、空気が少し歪んでいる。


六郎がそれを見る。


「……あれも」


百合は一歩、そちらへ視線を向ける。


だが、動かない。


「今は、触れない方がいいわ」


「増えますか」


「ええ」


短く。


六郎は扉へ近づこうとして、足を止める。


床の感触が、さっきよりも薄い。


踏んでいる実感が、遅れてくる。


「……連鎖してるんですね」


百合は言う。


「ええ」


「一つ開くと、他も開く」


ひよりが、小さく言う。


「……閉めないと」


百合は頷く。


「そうね」


それから、扉へ意識を戻す。


最初の扉。


ひよりの部屋。


風が、そこへ集まる。


だが、さっきよりも、濁っている。


混じっている。


一本だったものに、別の“何か”が絡んでいる。


六郎が言う。


「……純粋じゃなくなってますね」


百合は言う。


「ええ」


「他のものが混じっている」


六郎は息を吐く。


「最悪のパターンですね」


ひよりが、かすかに言う。


「……私じゃない、何か」


百合は静かに言う。


「区別はつかなくなるわ」


その言葉のあと、


廊下の奥で、


小さく、音が鳴る。


足音のようなものが、


一歩だけ、近づく。


その音は、一歩だけだった。


近づかない。


だが、遠ざかりもしない。


そこに、居続けている。


風が細く鳴る。


さっきよりも、はっきりと。


複数の流れが、同じ場所を通ろうとしている。


ぶつかり合っている。


混じり合っている。


六郎が言う。


「……増えてますね」


百合は頷く。


「ええ」


「ここだけじゃない」


六郎は視線を廊下の奥へ向ける。


さっき通ってきたはずの距離が、曖昧になっている。


長くなっているようにも、短くなっているようにも見える。


「……空間も、引っ張られてますね」


百合は答える。


「通りは、場所だけではないもの」


少し間。


「位置も、時間も、削られる」


六郎は小さく笑う。


「……残らないんですね」


百合は答えない。


それが答えだった。


ひよりが、壁に寄りかかる。


「……上、います」


小さく言う。


「さっきより、近いです」


二人は天井を見る。


何もない。


だが、


“何もない”という感じではない。


何かが、そこにあって、


ただ形がないだけのように見える。


六郎が言う。


「見えないのに距離が分かるって、厄介ですね」


百合は言う。


「見えないからこそ、通るのよ」


風が、一瞬だけ止まる。


その代わりに、


重さが降りてくる。


上から。


空気が、沈む。


ひよりの肩が、びくりと震える。


「……下りてきてる」


六郎が言う。


「来ますね」


百合は静かに頷く。


「ええ」


それから、


扉へ意識を戻す。


ひよりの部屋。


出口。


ここから、抜けている。


だが、


同時に、ここへ集まっている。


六郎が言う。


「……これ、閉じたら」


少し間。


「全部ここに来ますよね」


百合は言う。


「ええ」


「じゃあ」


「どのみち、通る」


短く。


六郎は息を吐く。


「……他に、道はないですね」


百合は、わずかにだけ笑う。


「最初から、ないわ」


ひよりが、ゆっくりと顔を上げる。


「……私」


声が、少し遠い。


「……まだ、残ってますか」


百合は言う。


「ええ」


「でも、長くはない」


その言葉に、ためらいはない。


六郎は言う。


「じゃあ、急ぎましょう」


百合は頷く。


「ええ」


それから、ひよりを見る。


「あなたが、鍵よ」


ひよりは、目を瞬かせる。


「……鍵」


「ええ」


「通されているのが、あなたの名前だから」


ひよりは、ゆっくりと息を吸う。


「……ひより」


小さく言う。


その音が、廊下に落ちる。


風が、揺らぐ。


だが、


すぐに戻る。


今度は、少しだけ濁る。


六郎が言う。


「……混ざってますね」


百合は言う。


「ええ」


「他のものが、先に抜けている」


ひよりの顔が、わずかに歪む。


「……私じゃない」


百合は静かに言う。


「もう、分からなくなるわ」


六郎は顔をしかめる。


「……救いがないですね」


百合は答えない。


扉に手をかける。


今度は、迷いがない。


押す。


抵抗がある。


だが、押す。


風が、一気に強くなる。


廊下の奥で、


音が鳴る。


一歩。


また一歩。


今度は、止まらない。


六郎が言う。


「……来てますよ」


百合は言う。


「ええ」


静かに。


「全部、ここへ」


天井が、わずかに歪む。


見えない何かが、降りてくる。


壁の向こうからも、押し寄せる。


廊下の奥からも、


背後からも、


同じものが、同じ速度で集まってくる。


六郎が歯を食いしばる。


「……囲まれてますね」


百合は言う。


「ええ」


「だから、閉じる」


ひよりが、小さく言う。


「……怖い」


その声は、はっきりしている。


まだ、残っている。


百合は言う。


「いいわ」


「怖いままでいい」


それから、


一言だけ足す。


「消えないでいなさい」


ひよりの足が、わずかに踏ん張る。


六郎が支える。


「いけますか」


ひよりは、頷く。


「……はい」


その瞬間、


風が、止まる。


完全に。


音が、消える。


空気が、張る。


次の瞬間、


一気に来る。


風ではない。


“流れ”そのものが、押し込まれる。


扉が、内側から膨らむ。


形が浮かぶ。


一つではない。


重なっている。


いくつも。


六郎が言う。


「……これ、全部」


百合は言う。


「ええ」


「通ってきたものよ」


ひよりの呼吸が浅くなる。


「……私も」


百合は答えない。


ただ、


扉に、力を込める。


「閉じるわ」


六郎が言う。


「今しかないですね」


百合は頷く。


「ええ」


ひよりが、


一歩、前に出る。


扉に、手を伸ばす。


触れる。


その瞬間、


風が、逆巻く。


すべての流れが、


一点に集まる。


六郎が言う。


「……来ます」


百合は言う。


「ええ」


静かに。


「最後に」


ひよりが、


口を開く。


何かを言おうとして、


止まる。


それでも、


言う。


「……ひ」


そこで、


音が、切れる。


風が、


飲み込む。


横から。


後ろから。


六郎が言う。


「……持ちませんよ、これ」


百合は静かに言う。


「ええ」


「だから、ここで終わらせる」


扉が、


きしむ。


開いてはいない。


だが、


境が崩れる。


向こう側が、溢れる。


形が、


押し出される。


ひよりが、目を見開く。


「……来る」


六郎は歯を食いしばる。


「来ますね」


百合は言う。


「ええ」


静かに。


「全部、ここへ」


風が、


一気に吹き込む。


廊下が、鳴る。


一瞬、音が抜ける。


それから、


世界が、薄くなる。

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