朔風葉払 三
風が、逆流する。
奥へ向かっていた流れが、途中で折り返し、廊下を巻き戻す。
音が変わる。
擦れるのではない。
削る。
何かを、少しずつ削ぎ落としていく音だ。
六郎は一歩、足を引く。
「……来てますね」
百合は動かない。
扉に手をかけたまま、その奥を見ている。
開いてはいない。
だが、向こう側がこちらへ寄ってきている。
壁の向こうにあるはずの空間が、薄く伸びて、こちら側へ滲み出してくる。
境が、曖昧になる。
ひよりが小さく言う。
「……寒い」
風ではない。
温度が、底から抜けていくように落ちている。
六郎は腕をさすりながら言う。
「閉じるって、どうやるんです」
百合は短く答える。
「流れを断つ」
「どうやって」
「通りは、単独では保てないの」
百合は扉に触れたまま、指先に力を込める。
木の感触はある。
だが、その向こうに、もう一枚、別の薄い層がある。
そこへ触れている。
「通りは、片方だけじゃ続かないの」
「通すものと、通されるもの」
「それが揃って、はじめて残る」
六郎は小さく息を吐く。
「……じゃあ、どっちかを止めればいい」
「ええ」
「どっちを」
百合は言う。
「どちらでもいいわ」
その言い方が、わずかに重い。
選べるというより、選ばされる響きだった。
ひよりが、ふらりと揺れる。
六郎が肩を支える。
「大丈夫ですか」
ひよりはゆっくりと頷く。
だが、目の焦点が合っていない。
視線が、扉の一点に吸い付いている。
「……軽いです」
「軽い?」
「中が……減ってるみたいな」
その言葉のあと、風が一瞬、強く鳴る。
廊下の奥で、何かが擦れる。
今いる場所ではない。
少し離れた場所で、同じ音が鳴っている。
六郎が顔を上げる。
「……今の、別のところから来ましたね」
百合は頷く。
「ええ」
「ここだけじゃない」
風が、わずかに分かれる。
一本だった流れに、細い枝が混じる。
目には見えないが、確かに“数”が増えている。
廊下の途中、閉じているはずの扉の向こうから、別の風が合流してくる。
六郎は眉を寄せる。
「……通り、一本じゃない?」
百合は言う。
「最初からではないわ」
「じゃあ」
「増えたのよ」
静かに。
断定するように。
六郎は壁を見る。
並ぶ扉。
さっき通ってきた部屋。
どれも閉まっている。
だが、そのどれもが、少しだけ“軽い”。
中身が抜けているような気配がする。
「……他の部屋からも、来てる」
ひよりが、小さく言う。
「……上からも」
二人が見る。
ひよりは、天井を見ている。
視線が、固定されている。
「……音、します」
六郎も耳を澄ます。
確かに、かすかな音がする。
上の階。
足音のような、
引きずるような、
途中で消える音。
誰かが歩いているようで、
途中で、歩くのをやめたような音。
百合が言う。
「積み重なっているのね」
六郎が言う。
「何がです」
百合は答える。
「通りが」
少し間。
「ここだけで起きていることではないわ」
六郎は苦笑する。
「ですよね」
視線を廊下へ戻す。
さっき来た方向。
その奥が、わずかに歪んで見える。
距離が、一定でない。
「他の部屋で、同じことが起きてる」
百合は頷く。
「ええ」
「そして、消えた」
六郎が言う。
「……いなくなった人」
ひよりの肩が、小さく揺れる。
百合は続ける。
「残ったのは、通りだけ」
六郎は息を吐く。
「じゃあ、自殺っていうのは」
少し間。
「違うってことですか」
百合は言う。
「少なくとも、すべてではないわ」
風が鳴る。
今度は、横から。
廊下の途中、閉じているはずの扉の向こうから、細い風が漏れ出す。
その扉の前だけ、空気が少し歪んでいる。
六郎がそれを見る。
「……あれも」
百合は一歩、そちらへ視線を向ける。
だが、動かない。
「今は、触れない方がいいわ」
「増えますか」
「ええ」
短く。
六郎は扉へ近づこうとして、足を止める。
床の感触が、さっきよりも薄い。
踏んでいる実感が、遅れてくる。
「……連鎖してるんですね」
百合は言う。
「ええ」
「一つ開くと、他も開く」
ひよりが、小さく言う。
「……閉めないと」
百合は頷く。
「そうね」
それから、扉へ意識を戻す。
最初の扉。
ひよりの部屋。
風が、そこへ集まる。
だが、さっきよりも、濁っている。
混じっている。
一本だったものに、別の“何か”が絡んでいる。
六郎が言う。
「……純粋じゃなくなってますね」
百合は言う。
「ええ」
「他のものが混じっている」
六郎は息を吐く。
「最悪のパターンですね」
ひよりが、かすかに言う。
「……私じゃない、何か」
百合は静かに言う。
「区別はつかなくなるわ」
その言葉のあと、
廊下の奥で、
小さく、音が鳴る。
足音のようなものが、
一歩だけ、近づく。
その音は、一歩だけだった。
近づかない。
だが、遠ざかりもしない。
そこに、居続けている。
風が細く鳴る。
さっきよりも、はっきりと。
複数の流れが、同じ場所を通ろうとしている。
ぶつかり合っている。
混じり合っている。
六郎が言う。
「……増えてますね」
百合は頷く。
「ええ」
「ここだけじゃない」
六郎は視線を廊下の奥へ向ける。
さっき通ってきたはずの距離が、曖昧になっている。
長くなっているようにも、短くなっているようにも見える。
「……空間も、引っ張られてますね」
百合は答える。
「通りは、場所だけではないもの」
少し間。
「位置も、時間も、削られる」
六郎は小さく笑う。
「……残らないんですね」
百合は答えない。
それが答えだった。
ひよりが、壁に寄りかかる。
「……上、います」
小さく言う。
「さっきより、近いです」
二人は天井を見る。
何もない。
だが、
“何もない”という感じではない。
何かが、そこにあって、
ただ形がないだけのように見える。
六郎が言う。
「見えないのに距離が分かるって、厄介ですね」
百合は言う。
「見えないからこそ、通るのよ」
風が、一瞬だけ止まる。
その代わりに、
重さが降りてくる。
上から。
空気が、沈む。
ひよりの肩が、びくりと震える。
「……下りてきてる」
六郎が言う。
「来ますね」
百合は静かに頷く。
「ええ」
それから、
扉へ意識を戻す。
ひよりの部屋。
出口。
ここから、抜けている。
だが、
同時に、ここへ集まっている。
六郎が言う。
「……これ、閉じたら」
少し間。
「全部ここに来ますよね」
百合は言う。
「ええ」
「じゃあ」
「どのみち、通る」
短く。
六郎は息を吐く。
「……他に、道はないですね」
百合は、わずかにだけ笑う。
「最初から、ないわ」
ひよりが、ゆっくりと顔を上げる。
「……私」
声が、少し遠い。
「……まだ、残ってますか」
百合は言う。
「ええ」
「でも、長くはない」
その言葉に、ためらいはない。
六郎は言う。
「じゃあ、急ぎましょう」
百合は頷く。
「ええ」
それから、ひよりを見る。
「あなたが、鍵よ」
ひよりは、目を瞬かせる。
「……鍵」
「ええ」
「通されているのが、あなたの名前だから」
ひよりは、ゆっくりと息を吸う。
「……ひより」
小さく言う。
その音が、廊下に落ちる。
風が、揺らぐ。
だが、
すぐに戻る。
今度は、少しだけ濁る。
六郎が言う。
「……混ざってますね」
百合は言う。
「ええ」
「他のものが、先に抜けている」
ひよりの顔が、わずかに歪む。
「……私じゃない」
百合は静かに言う。
「もう、分からなくなるわ」
六郎は顔をしかめる。
「……救いがないですね」
百合は答えない。
扉に手をかける。
今度は、迷いがない。
押す。
抵抗がある。
だが、押す。
風が、一気に強くなる。
廊下の奥で、
音が鳴る。
一歩。
また一歩。
今度は、止まらない。
六郎が言う。
「……来てますよ」
百合は言う。
「ええ」
静かに。
「全部、ここへ」
天井が、わずかに歪む。
見えない何かが、降りてくる。
壁の向こうからも、押し寄せる。
廊下の奥からも、
背後からも、
同じものが、同じ速度で集まってくる。
六郎が歯を食いしばる。
「……囲まれてますね」
百合は言う。
「ええ」
「だから、閉じる」
ひよりが、小さく言う。
「……怖い」
その声は、はっきりしている。
まだ、残っている。
百合は言う。
「いいわ」
「怖いままでいい」
それから、
一言だけ足す。
「消えないでいなさい」
ひよりの足が、わずかに踏ん張る。
六郎が支える。
「いけますか」
ひよりは、頷く。
「……はい」
その瞬間、
風が、止まる。
完全に。
音が、消える。
空気が、張る。
次の瞬間、
一気に来る。
風ではない。
“流れ”そのものが、押し込まれる。
扉が、内側から膨らむ。
形が浮かぶ。
一つではない。
重なっている。
いくつも。
六郎が言う。
「……これ、全部」
百合は言う。
「ええ」
「通ってきたものよ」
ひよりの呼吸が浅くなる。
「……私も」
百合は答えない。
ただ、
扉に、力を込める。
「閉じるわ」
六郎が言う。
「今しかないですね」
百合は頷く。
「ええ」
ひよりが、
一歩、前に出る。
扉に、手を伸ばす。
触れる。
その瞬間、
風が、逆巻く。
すべての流れが、
一点に集まる。
六郎が言う。
「……来ます」
百合は言う。
「ええ」
静かに。
「最後に」
ひよりが、
口を開く。
何かを言おうとして、
止まる。
それでも、
言う。
「……ひ」
そこで、
音が、切れる。
風が、
飲み込む。
横から。
後ろから。
六郎が言う。
「……持ちませんよ、これ」
百合は静かに言う。
「ええ」
「だから、ここで終わらせる」
扉が、
きしむ。
開いてはいない。
だが、
境が崩れる。
向こう側が、溢れる。
形が、
押し出される。
ひよりが、目を見開く。
「……来る」
六郎は歯を食いしばる。
「来ますね」
百合は言う。
「ええ」
静かに。
「全部、ここへ」
風が、
一気に吹き込む。
廊下が、鳴る。
一瞬、音が抜ける。
それから、
世界が、薄くなる。




