朔風葉払 四
朔風葉払
扉が、ふくらんでいた。
内側から。
ゆっくりと。
押している、というふうではない。
向こう側にあるものが、こちらの形へ馴染みそこねたまま、境へ滲み出してきている。
木の表面が、呼吸する皮膚のようにたわむ。
その奥で、何かが重なっている。
人の顔にも見える。
手にも見える。
いや、見えたと思うたびに崩れる。
六郎は、息を詰めた。
「……来ていますね」
百合は答えた。
「ええ」
その声は、ひどく静かだった。
静かであるのに、曖昧ではない。
「全部、ここへ」
廊下に満ちていた風は、もう吹いてはいなかった。
巻いている。
流れきれないものが、狭いところへ押し込められて、身動きできずにうねっている。
そういう風だった。
その中心に、空木ひよりの手がある。
扉に触れているのではない。
指先が、もう扉のこちら側にない。
木の表面を越えた、もっと薄く、もっと頼りない膜のようなところへ、半ば沈んでいる。
目は開いている。
だが、何も見ていない目だった。
いや。
見てはいるのだろう。
ただ、それがこちらではないだけだ。
「空木さん」
六郎が呼ぶ。
返事はない。
唇が、かすかに動く。
何かを言おうとしている。
声になる手前で、言葉がほどけている。
百合が言った。
「今は、呼び戻せないわ」
「けれど」
「聞こえてはいるのでしょうね」
百合は扉から目を離さない。
「ただ、どれが自分の声なのか、もうはっきりしないのでしょう」
扉の向こうで、音がした。
擦れる音ではない。
削る音でもない。
もっと鈍い。
重たいものが、狭いところへ無理に押し込まれていくような音だ。
肉でもない。
木でもない。
空間そのものが、いやがっている音だった。
六郎は言う。
「……閉じるんですよね」
「ええ」
「なら、空木さんは」
そこから先は言えなかった。
百合は、六郎の言葉の続きを待たずに言った。
「一緒に閉じることになるわ」
六郎は百合を見た。
「そんな」
百合は、かすかに首を横へ振る。
「違うのよ」
その言い方には、慰めがなかった。
だが、冷たさとも違った。
「連れていくのではないの」
少し間を置く。
「もう、切り分けられないのよ」
扉が、また内側から押し出された。
そのたびに、空木の肩が震える。
六郎は、思わず半歩だけ前へ出る。
「切り分けられないって」
「空木ひよりという形は、まだ残っている」
百合は言う。
「けれど、それだけではないの」
廊下の奥から、風が戻ってくる。
戻るというより、巻き返してくる。
六郎の頬に触れたそれには、冷たさがなかった。
ただ、そこだけ感覚が薄くなる。
頬の皮が、自分のものではないようだ。
百合が続ける。
「建物というものはね、人がいなくなっても、しばらくは人のための形を残すものなのよ」
六郎は、暗い廊下の奥を見た。
奥行きが、定まらない。
長く見えたかと思うと、次の瞬間には短くなる。
「廊下がある。階段がある。扉がある。部屋がある」
百合の声は変わらない。
「人が通るための形だけが、空いたまま残る」
「そこへ、人ではないものが通るようになった」
六郎は喉を鳴らした。
「それで、空木さんが」
「使われたのよ」
百合はためらわない。
「鍵として」
その言葉のあとで、空木の指先が、さらにわずかに沈んだ。
扉の向こうが、ざわめく。
六郎には、それが声の集まりのように聞こえた。
けれど、言葉ではない。
言葉になる前のものばかりが、寄り集まっている。
「鍵なら」
六郎は言った。
自分でも、無理なことを言っていると分かっていた。
それでも、口に出さずにはいられない。
「鍵なら、閉じれば戻せるんじゃないですか」
「鍵ならね」
百合が、低く言う。
「最初は、そうだったのでしょう」
「けれど、同じ鍵を何度も使えば、触れたものが残る」
その声は、講釈めいてはいなかった。
見たままを告げているだけの声だった。
「向こう側を通すたびに、少しずつ、こびりつくのよ」
ひよりの唇が動いた。
「……ひ」
六郎が顔を上げる。
「空木さん」
「近づかないで」
百合が言う。
「今、触れれば、あなたも引かれる」
六郎は足を止める。
空木が、もう一度口を開いた。
「……ひ、よ」
たしかに、そう聞こえた。
空木ひよりの声だった。
だが、その次の音は違った。
「……か」
ひよりの声ではある。
だが、ひよりのものではない。
喉の奥に、別のものがいる。
ひとつではない。
いくつもだ。
「……今のは」
「混じっているのよ」
百合が言った。
「名前が」
六郎は思わず聞き返す。
「名前が、混じるんですか」
「名前だけではないわ」
百合は扉を見る。
「記憶も、輪郭も、帰る先も」
扉の膨らみが、ゆっくりと引く。
だが、すぐにまた押し出される。
息をしているのだ。
向こう側の何かが、この場所を肺のように使っている。
「空木ひよりだけを戻すには、空木ひよりだけを掴まなければならない」
百合が言う。
「けれど、今そこにあるものは、もう一人分ではないのよ」
六郎は唇を噛んだ。
「じゃあ、どうするんです」
百合は、そのとき初めて六郎を見た。
静かな目だった。
静かであることが、かえって残酷に見える。
「閉じる」
「空木さんごと」
「いいえ」
百合は首を振る。
「空木ひよりだったものを、通りから外すの」
六郎には、その違いがすぐには分からなかった。
だが、救う話ではないことだけは分かった。
戻すのでもない。
助けるのでもない。
これ以上、使わせないための始末だ。
ひよりの手が、さらに扉の奥へ引かれていく。
肘のあたりまで、輪郭が薄い。
透けているのではない。
見失われつつあるのだ。
目を離せば、そこに何もなかったことになってしまいそうだった。
百合が、扉へ手を伸ばす。
ひよりの手とは反対側へ。
指先が木に触れた、その瞬間。
廊下の空気が変わった。
見られている。
いや、見られるより先に、測られている。
通れるかどうか。
こちら側へ、馴染むかどうか。
そういうふうに測られている。
「六郎」
「はい」
「何が見えても、呼ばれても、返事をしては駄目よ」
「……はい」
「名前を呼ばれても」
六郎は、遅れて頷いた。
その直後。
廊下の奥で、六郎、と声がした。
聞き慣れた声だった。
家の者の声に似ていた。
懐かしい声だった。
胸の奥が、反射みたいに動く。
もう一度、六郎、と聞こえる。
今度はもっと近い。
六郎は歯を食いしばる。
百合の指先が、木の中へ沈んでいく。
「始めるわ」
ひよりが、口を開いた。
自分の名前を言おうとしている。
それが最後の綱になるのだと、六郎にも分かった。
「……ひ」
か細い声だった。
風に触れれば消えそうな音だ。
けれど、たしかに空木ひよりの声だった。
六郎は息を止める。
ひよりの目が、わずかに戻る。
ほんのひとときだけ、こちらを見る。
助けを求める目ではなかった。
もう、自分に何が起きているのかを知ってしまった目だった。
「……よ」
次の音が出る。
百合の指が、扉の内側で何かを探るように動く。
見えない糸を、一本ずつ手繰るみたいに。
風は止まっている。
それでも廊下の空気は震えていた。
静けさの底に、耳の奥だけが鳴るような圧がある。
「……り」
そこまで言えた。
その瞬間、扉の向こうがざわめいた。
低く。
深く。
無数のものが、同時に身じろぎした気配だった。
六郎は拳を握る。
言えた。
そう思った。
だが、ひよりの口はまだ閉じない。
「……か」
違う音が出た。
ひよりの目が大きく開く。
自分でも分かったのだろう。
今、自分の中から、自分ではないものが出たのだと。
「……違う」
声が震える。
「違う、私じゃ」
けれど、その声にも、別の響きが混じっている。
年寄りのような声。
子どものような声。
男の声。
女の声。
どれも、はっきりしない。
ただ、すべてがひよりの喉を通っている。
六郎が一歩出る。
「空木さん」
「だめよ」
百合が言う。
鋭くはない。
だが、逆らえない。
「今、呼べば、その名も混じるわ」
ひよりはもう一度、自分の名前を言おうとする。
「……うつ」
そこまで出た。
だが、その先が続かない。
代わりに、扉の向こうから風が噴いた。
廊下の埃が浮く。
壁際に張りついた古い紙切れが震える。
灯っていない蛍光灯が、一度だけ白くまたたく。
「名前は、器よ」
百合が言う。
誰に向けた言葉なのか、六郎には分からない。
ひよりへなのか。
向こう側へなのか。
あるいは、ここにある理そのものへなのか。
「器が残っていれば、戻れる」
百合の指が止まる。
「けれど、器が割れたものは、戻る場所を持たない」
ひよりの手首が薄くなる。
背景へ馴染んでいく。
そこにあるのに、見つづけていなければ失われる。
ひよりが六郎を見た。
今度は、はっきりと。
「……わたし」
声が出る。
「いました、よね」
六郎の胸が詰まる。
答えてはいけない。
返事をしたものから、通れるようになる。
百合はそう言った。
だが、これは呼びかけではなかった。
最後の確認だった。
自分がいたことを、誰かの中にひとつでも残したいという、それだけの言葉だった。
六郎は唇を噛む。
血の味がする。
何も言えない。
百合も言わない。
ひよりは、かすかに笑ったように見えた。
「……よかった」
その声は、ほとんど風だった。
その直後。
扉が、大きくふくらんだ。
ひよりの身体が引かれる。
境の中へ。
六郎は反射で動く。
その瞬間、六郎、とまた声がした。
百合の声で。
だが、百合は口を開いていない。
六郎は、その場で止まる。
百合が、本当の声で言う。
「返事をしないで」
六郎は、喉の奥に引っかかっていた息を吐いた。
ひよりが最後に、無理にでも言い切ろうとする。
「……ひよ」
そこまで出た。
次の瞬間、いくつもの声が重なった。
「……り」
ひより。
かおり。
みどり。
しおり。
知らない名の断片までが、次々に割り込んでくる。
名前が、名前でなくなっていく。
六郎は、その恐ろしさを初めて知った。
死ぬことでもない。
消えることでもない。
自分の名が、自分だけのものでなくなることだ。
ひよりが、小さく言う。
「いや」
子どものような声だった。
百合の表情が、ほんのわずかだけ揺れた。
それでも、もう手は止めない。
右手を扉の中へ沈めたまま、左手の指を胸の前で静かに組み替える。
印というほどのものではない。
ただ、指の位置が変わっただけだ。
それだけで、廊下の空気が変わる。
風が、百合を避けて割れた。
「空木ひより」
百合が、はっきりとその名を呼ぶ。
ひよりの目が百合を見る。
「あなたを戻すことはできない」
六郎は顔を上げる。
百合は続ける。
「けれど、これ以上、使わせない」
扉の向こうが鳴った。
怒るようでもあり、笑うようでもあり、拒むようでもある。
どれでもあり、どれでもない。
ひよりの唇が震える。
「……はい」
返事だったのか。
ただ、息がそう聞こえただけなのか。
六郎には分からない。
百合が、扉の内側で何かを掴む。
目には見えない。
だが、六郎には分かった。
掴んだのはひよりではない。
ひよりを通り道にしていた流れのほうだ。
百合が、静かに息を吐く。
「閉じなさい」
命令ではなかった。
願いでもなかった。
ただ、そこにある理を、そのまま言葉にした声だった。
次の瞬間。
音が消えた。
風も。
扉の軋みも。
ひよりの呼吸も。
廊下に満ちていた圧も。
すべてが、同時に消えた。
百合の指が、わずかに動く。
何かを断ったのだと、六郎には分かった。
音は聞こえない。
けれど、切れた感触だけが胸の奥に残る。
ひよりの手が、扉から抜ける。
そう見えた。
だが、そこに手はない。
腕もない。
身体もない。
服の裾も。
髪の影も。
息もない。
ただ、古い木の扉が一枚あるだけだった。
六郎は、しばらくそこを見ていた。
「……空木さん」
口に出した瞬間、その名が遠くなる。
自分はいま、誰の名を呼んだのか。
それさえ、曖昧になる。
百合が手を離す。
「終わったわ」
廊下は静かだった。
静かすぎた。
耳鳴りすらない。
ほんとうに何もない。
何もなかった場所のように。
六郎が廊下の奥を見る。
扉の数が少ない。
さっきより短い。
もっと続いていたはずだと思う。
だが、その思いには根がない。
最初から、こうだったような気もする。
「……こんな構造でしたっけ」
百合は少しだけ間を置いた。
「そう見えるなら、そうなのでしょうね」
「答えになってませんよ」
「答えられるものではないわ」
百合は扉から離れる。
「建物のほうが、帳尻を合わせているの」
「帳尻」
「ええ」
百合は歩き出す。
「通りが閉じたから、通りに使われていたものも、なかったことにされる」
六郎はもう一度、扉を見る。
そこは、ただの壁だった。
いや。
最初から壁だった気もする。
扉があったという記憶のほうが、頼りない。
階段を降りる。
一段ごとに足音が響く。
普通の音だった。
何も削られない。
何も巻き戻らない。
ただ、古い建物の階段を降りる音だけがある。
それが、かえって気味悪かった。
外へ出ると、夜が明けかけていた。
空は白い。
風はない。
振り返ると、集合住宅はただの廃墟に見えた。
窓のいくつかは板で塞がれ、外壁はくすみ、入口の柵は錆びて傾いている。
人が住んでいるようには見えない。
いや、昨夜だってそうだったのではないか。
六郎はそこで、自分の記憶がどこから曖昧になったのか分からなくなる。
「百合さん」
「何かしら」
「俺たち、何をしに来たんでしたっけ」
百合は静かに六郎を見る。
「通りを閉じに来たのよ」
「それは……覚えてます」
六郎は額に手を当てる。
「でも、そのきっかけが」
百合は答えなかった。
六郎の胸には、小さな空洞だけが残っていた。
大きな喪失ではない。
日常へ戻れば、そのうち見失ってしまえそうな程度の空白だ。
だが、そこに何かが抜けた形だけは残っている。
⸻
後日。
六郎は、ひとりでその場所を訪れた。
昼の光の下で見ると、建物はさらに古びて見えた。
入口には立入禁止の札があり、錆びた鎖が形だけ掛けられている。
窓はほとんど塞がれていた。
人が住んでいた気配はない。
少なくとも、最近まで人が出入りしていた建物には見えなかった。
近くを通る老人に、六郎は声をかけた。
「あの建物って、前は人が住んでましたか」
老人は一度それを見て、すぐに言った。
「ああ、あれか。ずっと空き家だよ」
「ずっと、ですか」
「わしが越してきた頃には、もうあんなだった」
少しも不思議そうではない。
それが、この土地の当たり前であるように。
六郎は礼を言う。
老人は去る。
建物だけが残る。
何かを思い出せそうだった。
だが、思い出そうとすると、頭の奥が白くなる。
名前。
顔。
声。
何ひとつ出てこない。
ただ、扉の前に誰かが立っていたような気がする。
細い手が、そこへ触れていたような気がする。
その程度だ。
夕方、百合と並んで歩きながら、六郎は言った。
「あそこ、最初から廃墟だったそうです」
百合は頷く。
「そう」
「近所の人も、そう言ってました」
「でしょうね」
六郎は少しだけ苛立つ。
「百合さんは、覚えてるんですか」
百合は前を向いたまま言う。
「何を」
六郎は言葉に詰まる。
何を、と問われると答えられない。
誰のことなのか。
何があったのか。
自分でも、もう分からない。
「……誰か、いましたよね」
百合は少し歩みを緩めた。
「そう思うのね」
「思うというか」
六郎は胸に手を当てる。
「ここに、引っかかってるんです」
百合は、その手元を見た。
「なら、それは残ったのでしょう」
「何がです」
「記憶ではなく、跡として」
六郎は黙る。
分かるようで、分からない。
だが、自分に残っているものが、それ以上ではないことだけは分かる。
「あれは、何だったんです」
六郎が聞く。
百合は、少しだけ考えてから言った。
「あれは、通りよ」
「通り」
「ええ。人が通るためのものではないもの」
少し間を置く。
「たまたま、人が使われただけ」
六郎は、あの建物を思い出そうとする。
だが浮かぶのは、板で塞がれた窓と、崩れた入口と、錆びた鎖だけだ。
そこに人がいたとは、もう思えない。
「じゃあ、その人は」
言ってから、六郎は止まる。
その人。
誰のことだ。
自分はいま、誰について尋ねようとしたのか。
百合は答えない。
答えないことが、答えだった。
風が吹いた。
弱い風だった。
木の葉が一枚、道の端を転がる。
それだけの風。
何も削らない。
何も運ばない。
それでも六郎は、ふと耳を澄ました。
どこかで、音がした気がした。
扉を内側から叩くような、ごく小さな音。
あるいは、長い廊下を風が通る音。
だが、次の瞬間にはもう消えていた。
「行きましょう」
百合が言う。
六郎は頷く。
二人は歩き出す。
背後に、あの集合住宅がある。
あるはずだった。
だが、六郎は振り返らなかった。
振り返れば、何かを思い出すかもしれない。
あるいは、何も思い出せないことを、はっきり知ってしまうかもしれない。
通りは閉じた。
風は、もう通っていない。
だが。
通ったものが、消えたとは限らない。




