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籠目屋商店怪異録 冬ノ巻  作者: 宇佐美夕日


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21/22

麋角解 四

麋角解さわしかつのおつる

離れの中に、釘の音がしていた。


かん。


かん。


かん。


それは、外から聞こえる音ではなかった。


山の方からでもない。


床下でもない。


柱でもない。


加賀見悠二の身体の中から聞こえていた。


悠二は布団の上で、仰向けになっている。


胸元が上下している。


息はある。


けれど、生きているというより、何かに息をさせられているように見えた。


口から髪が出ていた。


昨日よりも長い。


濡れた黒い髪が、唇の端から垂れ、顎を伝い、布団の上へ落ちている。


引けば抜けるのか。


切れば終わるのか。


六郎は、そう思いかけて、すぐにやめた。


あれは、髪ではない。


髪の形をしているだけだ。


そう感じた。


悠二の腕には、いくつもの水膨れがあった。


いくつかは破れている。


破れたところには、穴が残っていた。


小さな穴だった。


釘穴に見えた。


だが、その奥は肉ではなかった。


黒い。


夜の水面のように黒い。


山の洞のように黒い。


穴の向こうに、別の場所があるようだった。


惣一郎は、離れの入口に膝をついていた。


弟の方へ行こうとして、行けない。


百合に止められている。


「触らないで」


百合は言った。


「今、触れば、兄さんにも移るわ」


惣一郎は、何も言わない。


ただ、悠二を見ていた。


その目に、恐怖はあった。


悲しみもあった。


だが、一番深いところにあるのは、それとは違うものだった。


責任。


六郎には、そう見えた。


兄であること。


長男であること。


この家に生まれたこと。


幼い頃から弟を守るものだと、自分で決めたこと。


その全部が、惣一郎の肩に乗っているようだった。


悠二が、目を開けた。


「兄さん」


声は小さかった。


髪が喉に絡んでいるのか、言葉が割れている。


「来るな」


惣一郎は動かなかった。


動けなかったのかもしれない。


百合は、悠二を見ていた。


小夜は部屋の隅に立って、笛袋を握っている。


六郎は、何をしてよいか分からないまま、そこにいた。


かん。


また音がした。


悠二の胸元の穴からだった。


「打つな」


悠二が言った。


「もう、打つな」


志津は死んだ。


昨夜、角は落ちた。


名倉志津は、鬼ではなくなった。


それでも、釘は残っている。


打たれた願いは、まだ木の中にある。


いや。


もう木の中ではない。


悠二の中にある。


六郎は、それを見ていた。


見ているしかなかった。


「宇喜田さん」


惣一郎が言った。


声は静かだった。


静かすぎた。


「はい」


百合が返事をする。


「弟は、助かりますか」


百合は、すぐには答えなかった。


離れの中を、風が通った。


障子は閉まっている。


窓も閉まっている。


それでも、風が通ったように思えた。


「今のままなら、助からないわ」


惣一郎は頷いた。


最初から、その答えを知っていたように。


「では」


そこで一度、言葉を切った。


喉の奥で、何かを飲み込むような間があった。


「呪いを、私に移せますか」


六郎は、惣一郎を見た。


「何を」


思わず声が出た。


惣一郎は、六郎を見なかった。


百合だけを見ている。


「できますか」


百合は、惣一郎を見返した。


静かな目だった。


「できます」


「では」


「戻せないかもしれない」


百合が言った。


「はい」


「死ぬかもしれないわ」


「はい」


「弟さんは、助かったと思うでしょうね」


「それで構いません」


六郎は、一歩前に出た。


「構わなくないでしょう」


惣一郎が、ようやく六郎を見た。


穏やかな目だった。


怒りはない。


六郎の言葉を、迷惑だと思っている様子もない。


ただ、決めてしまった人の目だった。


「藤原さん」


「はい」


「私は、兄です」


それだけだった。


それだけで、何もかも終わらせようとしているように聞こえた。


六郎は、言葉を探した。


見つからなかった。


兄です。


その言葉は、優しい。


同時に、ひどい。


自分を縛るには、十分すぎる言葉だった。


百合が言った。


「それも、ひとつの角ね」


惣一郎は、少しだけ目を伏せた。


「そうかもしれません」


「落ちるといいわね」


「弟が助かるなら」


「あなたの話よ」


惣一郎は黙った。


百合は、それ以上言わなかった。


悠二が笑った。


弱い笑いだった。


「兄さん」


「悠二」


「何言ってんだよ」


髪が口の中で動く。


悠二はむせた。


「やめろよ」


惣一郎は、弟を見た。


「お前は、黙っていなさい」


その声は、今までの惣一郎の声とは違った。


兄の声だった。


幼い弟を叱るような声。


その声を聞いて、悠二は黙った。


百合は、座敷へ移るように言った。


離れでは駄目だという。


理由は言わなかった。


座敷には、鹿角がある。


床の間に、白く乾いた角が置かれている。


加賀見家の古いもの。


鹿のものだと言われているもの。


誰が獲ったのかも分からないもの。


山から来て、家に置かれたもの。


その前に、百合は座った。


小夜は、座敷の端に座る。


六郎は、何か手伝えることがないかと思ったが、百合は何も言わなかった。


惣一郎は床の中央に座る。


悠二は、布団ごと運ばれてきた。


嫌がった。


呻いた。


けれど、最後は抵抗しなかった。


いや。


抵抗する力がなかったのかもしれない。


百合は、小さな包みを出した。


中に、白いものがあった。


昨夜、志津の家の壁に吊るされていたものだ。


蝋燭にも見えた。


木片にも見えた。


骨にも見えた。


百合は、それを床に置いた。


次に、悠二の口から垂れている髪を、ほんの少しだけ切った。


悠二が呻く。


切った髪は、すぐに黒く乾いた。


百合は、それも床に置いた。


惣一郎の指先を、細い針で刺す。


赤い血が出た。


ほんの一滴。


百合は、その血を白いものの横に落とした。


小夜が笛を出す。


「吹くの?」


六郎が小さく訊いた。


小夜は、六郎を見ない。


「吹くよ」


「祓うんじゃないんですよね」


「祓えたら楽なんだけどね」


小夜は、少しだけ笑った。


笑ったが、目は笑っていなかった。


「流れを変えるだけ」


「流れ」


「川みたいなものだよ」


六郎は、木曽川のことを思い出した。


笛。


水。


戻るもの。


帰る仕組み。


自分が百合と出会った時のこと。


あの時も、何かが流れていた。


今も、流れている。


ただ、その流れは水ではない。


呪いだ。


百合が、惣一郎に言った。


「痛みます」


「はい」


「弟さんのものが、あなたへ入る」


「はい」


「あなたのものではないものを、あなたのものとして持つことになる」


「はい」


「それは、美しいことではないわ」


惣一郎は、わずかに目を上げた。


百合は続けた。


「兄だから、という言葉で飾ってはいけない」


座敷が静かになった。


惣一郎は、しばらく黙っていた。


それから言った。


「分かっています」


「いいえ」


百合は首を振った。


「分かっていないわ」


惣一郎は何も言えなかった。


百合は、静かに言った。


「それでも、するのでしょう」


「はい」


「では、いたしましょう」


小夜の笛が鳴った。


今度の音は、昨夜と違った。


志津に向けた音は、遠いものを呼ぶ音だった。


これは違う。


流れているものの向きを、指で押すような音だった。


細く。


冷たく。


けれど、確かに強い。


百合が、鹿角に手を触れた。


かつん。


鹿角が鳴った。


誰も動かしていない。


百合の手が触れただけで、角が鳴った。


悠二が叫んだ。


胸の穴から、釘の音がした。


かん。


かん。


かん。


それが途中で途切れる。


悠二の身体が弓なりになった。


口から出ていた髪が、少しずつ短くなっていく。


いや。


戻っている。


喉の奥へ。


悠二は苦しそうに咳をした。


しかし、髪は消えていく。


腕の水膨れがしぼむ。


破れた穴から、黒いものが引いていく。


悠二の顔に、血の気が戻った。


ほんの少し。


本当に、ほんの少しだけ。


「息が」


悠二が言った。


「息ができる」


その声は、幼かった。


助かった子どもの声だった。


「兄さん」


悠二は惣一郎を見た。


「俺」


言いかけた時、惣一郎の身体が揺れた。


最初は、小さく。


次に、大きく。


惣一郎は咳き込んだ。


口元を押さえる。


指の間から、黒い髪が出た。


六郎は息を呑んだ。


惣一郎の白い指に、濡れた髪が絡んでいる。


腕に、水膨れが浮かんだ。


ひとつ。


ふたつ。


みっつ。


見る間に増える。


惣一郎は、声を出さなかった。


声を出さずに、畳へ片手をついた。


「兄さん」


悠二が言った。


さっきとは違う声だった。


「兄さん?」


惣一郎は、弟を見ようとした。


しかし、目が合う前に、胸を押さえた。


着物の下で、何かが膨らむ。


水膨れだった。


悠二は、ようやく理解した。


自分の身体から消えたものが、兄の身体へ移ったのだと。


「何だよ」


悠二が言った。


「何してんだよ」


惣一郎は、答えない。


答えられない。


口から、髪が出ている。


それでも、弟を見て、微かに笑った。


笑おうとした。


「何笑ってんだよ」


悠二は、布団から起き上がった。


さっきまで動けなかった身体が、動く。


痛みが消えたからだ。


呪いが移ったからだ。


悠二は、兄の方へ這った。


「やめろよ」


惣一郎の肩を掴もうとして、百合に止められた。


「触らないで」


「なんでだよ」


「戻るわ」


「戻せよ」


悠二が言った。


その声は怒鳴り声だった。


けれど、怒りではない。


恐怖だった。


「戻せよ、今すぐ」


「今戻せば、あなたは死ぬわ」


百合が言った。


悠二は口を開けた。


言葉が出ない。


死ぬ。


その言葉が、部屋の中に落ちた。


悠二は、兄を見た。


惣一郎は膝をついている。


背を丸めている。


口元から髪が垂れている。


それは、ついさっきまで自分の口から出ていたものだった。


腕には、水膨れ。


胸には、痛み。


身体の奥から、釘の音。


全部、自分のものだった。


自分のものだったものが、兄に移っている。


「兄さん」


悠二が言った。


「なんで」


惣一郎は、苦しそうに息をした。


それでも、言った。


「兄だからだ」


悠二の顔が歪んだ。


泣くのかと思った。


怒るのかと思った。


どちらでもなかった。


もっと古い顔だった。


子どもの顔。


山で迷った子どもの顔。


六郎には、ふと景色が見えた。


それは自分の記憶ではない。


けれど、見えた。


山の中。


夕暮れ。


幼い悠二が泣いている。


背の高くない少年が、弟の手を引いている。


少年は痩せていた。


顔色が悪い。


けれど、弟の手を離さない。


枝が鳴った。


弟は泣いている。


兄は、言う。


「俺が守ってやる」


それだけだった。


たったそれだけの言葉を、悠二はずっと持っていた。


持っていたのではない。


使っていた。


兄は自分を守るものだと。


そう思ってきた。


その言葉を、ずっと兄に返さずにいた。


悠二は、惣一郎の前に座った。


「兄さん」


惣一郎は、悠二を見る。


目が赤い。


痛みに耐えている。


それでも、泣いてはいない。


「もういい」


悠二が言った。


惣一郎の目が揺れた。


「悠二」


「もういい」


悠二は、もう一度言った。


声は震えていた。


けれど、逃げてはいなかった。


「百合さん」


悠二は百合を見た。


初めて、まっすぐ見た。


「戻してください」


百合は、何も言わなかった。


「俺に戻してください」


「戻せば死ぬわ」


「でしょうね」


「分かっているの」


「分かってます」


「なぜ」


悠二は、喉を鳴らした。


髪は、もう出ていない。


けれど、喉の奥にはまだ何かが残っているようだった。


「俺のものだからです」


座敷の空気が、静かになった。


小夜の笛も止まっている。


鹿角も鳴らない。


風もない。


悠二は続けた。


「志津を傷つけたのは、俺です」


百合は頷いた。


「ええ」


「待たせたのも、俺です」


「ええ」


「来ないと分かってて、来るようなことを言ったのも、俺です」


「ええ」


「不安になる顔を見て、少し面白いと思ったのも、俺です」


六郎は、悠二を見た。


その言葉は、聞いていて気持ちのいいものではなかった。


醜い。


ひどい。


だが、初めて本当のことを言っているように聞こえた。


悠二は、惣一郎を見た。


「兄さんに持たせていいものじゃない」


惣一郎は、首を振ろうとした。


髪が喉に絡んで、咳き込んだ。


「悠二」


「兄さんは、もういい」


その言葉を聞いた時、惣一郎の顔が崩れた。


それでも泣かなかった。


泣くのを堪えていた。


兄だから。


まだ、そう思っているのだろう。


悠二は、苦く笑った。


「俺、守られてばっかりなの、もう嫌だ」


それは、情けない言葉だった。


遅すぎる言葉だった。


けれど、嘘ではなかった。


百合は、しばらく悠二を見ていた。


やがて、静かに言った。


「いたしましょう」


小夜が笛を構えた。


「今度は?」


六郎が訊いた。


「支えるだけ」


小夜は言った。


「戻るのを?」


「違う」


小夜は、悠二を見た。


「逃げないのを」


笛が鳴った。


短い音だった。


昨夜より低い。


儀式というより、息を整えるための音に近かった。


百合は、鹿角へ手を伸ばした。


そして、惣一郎の前に置いた白いものと、悠二の髪と、血の跡を指先でなぞった。


かつん。


鹿角が鳴る。


その音と同時に、惣一郎が息を吐いた。


口元の髪が、ふっと緩む。


腕の水膨れが、少しずつ引いていく。


代わりに、悠二の身体が震えた。


肩が跳ねる。


胸が反る。


口が開く。


黒い髪が、喉の奥から出てきた。


一束。


また一束。


悠二は、呻いた。


だが、逃げなかった。


畳を掴む。


爪が畳に食い込む。


水膨れが腕に浮かぶ。


首筋に浮かぶ。


胸元に浮かぶ。


それらが、次々に膨らんでいく。


釘の音がした。


かん。


悠二の身体の中から。


かん。


もう一度。


かん。


小夜の笛が、その音の間に入る。


釘を止めるのではない。


痛みを消すのでもない。


悠二が、痛みの中で自分を見失わないように、細い糸を渡しているような音だった。


六郎は、悠二のそばへ行った。


なぜそうしたのか、自分でも分からなかった。


百合は止めなかった。


悠二の顔は汗に濡れている。


口から髪が垂れている。


目は血走っている。


けれど、六郎を見た。


「藤原」


初めて、名字を呼ばれた。


「はい」


「志津は」


悠二の声は、髪に絡まっていた。


「鬼だったか」


六郎は、答えに迷った。


迷ったが、迷いすぎなかった。


「いいえ」


悠二は、目を細めた。


「俺は」


六郎は、悠二を見た。


穴。


水膨れ。


髪。


釘の音。


その全部の中に、男がいた。


逃げてきた男。


傷つけた男。


今、逃げていない男。


「今は、違うと思います」


悠二は、笑った。


少しだけ。


「そうか」


「はい」


「なら、いい」


それから、悠二は泣いた。


声を上げて泣いたのではない。


涙が、目尻から流れただけだった。


「志津」


悠二が言った。


「悪かった」


許してくれ、とは言わなかった。


言わなかったことが、六郎には分かった。


悠二は、もうそれを言えないところまで来ている。


許しを求めるには、遅すぎる。


それを、ようやく知ったのだ。


床の間で、鹿角が鳴った。


かつん。


今までよりも、大きな音だった。


惣一郎が顔を上げる。


百合も見る。


鹿角の片方が、わずかに動いた。


誰も触れていない。


かつん。


もう一度。


そして、落ちた。


床の間から、畳の上へ。


白い角が、静かに転がった。


大きな音ではなかった。


けれど、屋敷の隅々まで響いたように聞こえた。


同時に、悠二の頭から何かが落ちた。


六郎には見えた。


小さな角だった。


黒い。


鹿の角にも似ている。


鬼の角にも似ている。


それは悠二の髪の中から、ぽろりと落ちた。


畳に触れた瞬間、ただの黒い髪の束になった。


悠二の身体が、ふっと緩んだ。


釘の音が止まった。


髪も止まった。


水膨れも、もう膨らまない。


穴は残っている。


傷も残っている。


けれど、何かが終わった。


悠二は、惣一郎を見た。


「兄さん」


惣一郎は、這うようにして弟のそばへ来た。


今度は、百合は止めなかった。


惣一郎は、悠二の手を取った。


悠二の指は冷たかった。


「兄さん」


「何だ」


「俺、戻った?」


惣一郎は、唇を噛んだ。


それから、頷いた。


「戻った」


「そっか」


悠二は、子どものように笑った。


「よかった」


それが最後の言葉だった。


悠二の手から力が抜けた。


惣一郎は、その手を握ったまま動かなかった。


六郎も動けなかった。


小夜は笛を下ろした。


百合は、落ちた鹿角を見ていた。


惣一郎が、ゆっくり弟の名を呼んだ。


「悠二」


返事はなかった。


もう一度呼ぶ。


「悠二」


返事はない。


惣一郎の肩が震えた。


震えたまま、しばらく声を出さなかった。


やがて、喉の奥から、細い声が漏れた。


泣き声だった。


さめざめと泣く、というのは、こういう声のことを言うのだと六郎は思った。


大きくはない。


取り乱してもいない。


けれど、止まらない。


惣一郎は、弟の手を握ったまま泣いた。


泣きながら、どこかで笑っているようにも見えた。


嬉しいのではない。


悲しいのに、誇らしい。


弟が最後に逃げなかったことを、兄は知っている。


そのことが、惣一郎を壊し、同時に支えているようだった。


百合は、何も言わなかった。


小夜も言わなかった。


六郎も、言えなかった。


その時、座敷の隅が暗くなった。


灯りは変わっていない。


障子も閉まっている。


それなのに、部屋の隅だけが、夜のように黒くなった。


六郎は、そこを見た。


何もいない。


何もいないはずだった。


けれど、そこに誰かが立っている気がした。


長い脚。


黒い背広。


白い手。


白い顔。


濡れてもいないのに、蜜を塗ったような黒い髪。


見えてはいない。


だが、いる。


そう思った。


小夜が笛を握り直した。


百合は、部屋の隅を見ずに言った。


「遅かったわね」


声は静かだった。


誰も答えない。


けれど、部屋の隅の暗がりが、ほんの少し濃くなった。


悠二の亡骸のそばで、黒い髪の束が動いた。


畳の上を、すう、と滑る。


惣一郎は気づいていない。


六郎は、それを見た。


髪の束は、部屋の隅へ向かっている。


百合が、落ちた鹿角を拾った。


拾って、畳へ軽く置き直す。


かつん。


音がした。


黒い髪の束が止まった。


小夜が笛を吹いた。


短い音だった。


今度の音は、鋭かった。


祓う音ではない。


切る音だった。


髪の束が、畳の上でほどける。


ただの髪になった。


暗がりが揺れた。


怒ったようにも見えた。


笑ったようにも見えた。


どちらでもないのかもしれない。


百合は、ようやく暗がりを見た。


「鬼ではなくなったわ」


誰に言ったのか。


六郎には分からない。


「あなたのものではない」


暗がりは、しばらくそこにあった。


それから、薄くなった。


朝の光に溶けるように。


いや。


朝ではない。


もう昼に近かった。


それなのに、今初めて明るくなったような気がした。


六郎は、息を吐いた。


自分が息を止めていたことに、その時初めて気づいた。


小夜が、低く言った。


「趣味悪」


「誰がですか」


六郎が訊いた。


「今の」


「見えたんですか」


「見えない方がよかった」


小夜は笛をしまった。


百合は、落ちた鹿角を見ている。


「持っていかれなかったんですね」


六郎が言った。


「ええ」


「どうして」


「鬼ではなくなったから」


「それだけですか」


「それだけよ」


百合は言った。


「それが、難しいの」


悠二の葬儀は、静かに行われた。


名倉志津の葬儀も、静かに行われた。


二つの死は、集落に広がった。


人は噂をした。


女が呪った。


男が呪い殺された。


旧家の因縁だ。


山の祟りだ。


いろいろなことが言われた。


けれど、誰も本当のことは言わなかった。


言えなかったのかもしれない。


知っていても、言葉にすると違うものになってしまうことがある。


惣一郎は、しばらく寝込んだ。


呪いは戻されたが、傷は残った。


髪は消えた。


水膨れも消えた。


だが、喉の奥に違和感が残るという。


時々、夜中に目が覚める。


胸に釘を打たれる夢を見る。


それでも、生きている。


惣一郎は生き残った。


百合は、そう言った。


助かった、とは言わなかった。


数日後、山際に小さな墓が二つ建てられた。


正式な墓ではない。


墓石というほど立派なものでもない。


古い杉の見える場所だった。


一つは、名倉志津のため。


一つは、加賀見悠二のため。


同じ墓ではない。


近すぎもしない。


離れすぎてもいない。


その距離を決めたのは、惣一郎だった。


「一緒にしてはいけないと思いました」


惣一郎は言った。


まだ顔色は悪い。


杖をついている。


それでも、自分の足で立っている。


「けれど、まったく離してしまうのも、違う気がしたのです」


百合は頷いた。


「いい場所ね」


「そうでしょうか」


「ええ」


「弟は、怒るでしょうか」


「怒るかもしれないわ」


惣一郎は、少しだけ笑った。


「名倉さんも、怒るでしょうか」


「怒るかもしれない」


「そうですか」


惣一郎は、二つの墓を見た。


「怒ってくれるなら、まだよい気がします」


六郎は、その言葉を聞いて、胸の奥が少し痛くなった。


小夜は、笛袋を肩にかけている。


今日は、いつもの軽口が少ない。


百合は、二つの墓の前に、落ちた鹿角の小さな欠片を置いた。


加賀見家の鹿角から削ったものではない。


あの日落ちた角の根元に、自然に割れた小さな欠片があった。


それを持ってきたのだ。


「山へ返すんですか」


六郎が訊いた。


「少しだけね」


「全部ではなく?」


「全部返すには、まだ早いわ」


百合はそれだけ言った。


小夜が笛を構えた。


惣一郎が深く頭を下げる。


六郎も、自然に頭を下げた。


笛の音が鳴った。


静かな音だった。


昨夜のように、流れを変える音ではない。


切る音でもない。


遠くへ送る音だった。


山の奥へ。


木の間へ。


水の下へ。


誰かが、二度と鬼として呼ばれない場所へ。


音は長く続かなかった。


短い。


けれど、十分だった。


惣一郎が、膝をついた。


墓の前で、両手をつく。


「悠二」


声は震えていた。


「よく戻った」


その言葉を聞いた時、六郎は惣一郎を見た。


惣一郎は泣いていた。


声を出さずに泣いている。


「よく、戻った」


もう一度言った。


それは、弟を許す言葉ではなかった。


弟のしたことを消す言葉でもなかった。


ただ、最後に逃げなかった弟へ向けた、兄の言葉だった。


百合は、何も言わない。


小夜も、何も言わない。


六郎も、何も言わなかった。


言葉を置くには、そこは静かすぎた。


帰り道、山の空は薄く晴れていた。


冬の空だった。


澄んでいるのではない。


乾いている。


木々は葉を落とし、枝だけになっている。


その枝が、時折、角のように見えた。


六郎は、歩きながら携帯を取り出した。


画面を見る。


何をするつもりだったのか、自分でも分からなかった。


ただ、連絡先を開いていた。


一臣。


次春。


兄たちの名前が並んでいる。


長兄は東京にいる。


次兄は兵庫にいる。


しばらく会っていない。


特別、仲が悪いわけではない。


だが、近くもない。


兄弟だから話さないこともある。


惣一郎の言葉を思い出した。


兄弟だから、話さないこともあります。


六郎は、その画面を見ていた。


発信はしない。


まだ、しない。


けれど、閉じることもできなかった。


「連絡したいのでしょう」


百合が言った。


六郎は、顔を上げた。


「顔に出てました?」


「ええ」


「嫌ですね」


「いいことよ」


「そうですか」


「ええ」


百合は前を見ていた。


「角が落ちることもあるわ」


「兄に連絡するのが、角なんですか」


「さあ」


「また、それですか」


百合は、少しだけ口元を動かした。


小夜が後ろから言った。


「兄弟って面倒くさ」


六郎が振り返る。


「小夜さん、兄弟いるんですか」


「さん、いらない」


「小夜は、兄弟いるんですか」


「いるかもしれない」


「かもしれない?」


「深掘りすんな」


六郎は、少し笑った。


小夜も、ほんの少しだけ笑った。


百合は笑わなかった。


ただ、山の方を見ていた。


その目は、もう誰もいない場所を見ているようだった。


長身痩躯の男。


黒い背広。


紙のように白い顔。


蜜を塗ったような黒い髪。


あの男は、まだどこかにいる。


志津と悠二は取られなかった。


だが、それで終わりではない。


六郎にも、それは分かった。


分かってしまった。


「百合さん」


「なに」


「あの黒い男は」


百合は、少しだけ足を止めた。


風が吹いた。


山の木々が鳴る。


枝と枝が触れ合う音。


釘の音ではない。


それでも、少し似ていた。


「また、会うでしょうね」


百合は言った。


「会いたくないですね」


「そうね」


「百合さんは、知ってるんですか」


「少しだけ」


「少し」


「ええ」


「どんな人なんです」


百合は、山道の先を見た。


しばらく答えなかった。


答えないまま歩き出すのかと思った。


けれど、言った。


「鬼ではないわ」


六郎は黙った。


百合は続けた。


「鬼をつくるものよ」


それだけだった。


六郎は、それ以上聞かなかった。


聞いても、今は答えが返ってこない気がした。


山を下りると、集落に夕方の気配があった。


まだ日は高いはずなのに、山の近くは暮れるのが早い。


加賀見家の黒い塀が見えた。


その奥に、床の間の鹿角がある。


片方を落とした鹿角。


もう片方を残したまま、あの家の中にある。


惣一郎は、あの家で生きていく。


弟のいない家で。


弟を守るという角を、少しだけ落として。


それでも兄として。


たぶん、ずっと。


六郎は、もう一度携帯を見た。


一臣。


次春。


親指が、画面の上で止まる。


百合は、何も言わない。


小夜も、何も言わない。


山の風が、三人の間を抜けていく。


乾いた風だった。


その風の中に、釘の音はもうなかった。


ただ、遠くで鹿が鳴いていた。


角の落ちた声だった。

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