麋角解 三
麋角解
かん。
音が、山の奥へ沈んだ。
名倉志津は、動かなかった。
釘を打った姿勢のまま、杉の前に立っている。
白い袖が垂れている。
髪が垂れている。
顔は見えない。
頭に、白いものが二つ立っていた。
角だった。
そう見えた。
六郎は、息をすることを忘れていた。
山は静かだった。
静かすぎた。
虫も鳴かない。
鳥も鳴かない。
風もない。
ただ、志津の手元だけが、夜の中で動く。
釘を添える。
金槌を上げる。
落とす。
かん。
そのたびに、木が少しずつ深くなる。
いや。
木ではない。
六郎には、そう思えた。
打たれているのは、杉ではない。
どこか別のものだ。
遠く離れた屋敷の、暗い部屋。
布団の上で丸まっている男。
加賀見悠二。
その身体へ、音が届いている。
かん。
六郎は、思わず口を開きかけた。
百合が、袖を掴んだままだった。
強くはない。
けれど、ほどけない。
「百合さん」
六郎が小さく言った。
「なに」
「止めないんですか」
「止めるわ」
「今ではなく?」
「今ではないわ」
「今じゃないと、遅いんじゃないですか」
百合は、志津を見ていた。
「早すぎても、遅いの」
「どういう意味です」
「まだ、あの人は打っている」
「はい」
「打っている間は、こちらの声を聞かない」
「では」
「打つ手が止まった時に、届く」
六郎は、志津の手を見た。
細い手だった。
釘を持つには、似合わない手だった。
けれど、その指は釘を離さない。
志津は、また金槌を上げた。
かん。
音がした。
その瞬間、山の向こうで、何かが小さく叫んだように思えた。
六郎は振り返った。
もちろん、何も見えない。
ただ夜がある。
木がある。
社がある。
けれど、耳の奥に声が残っている。
悠二の声だった。
打つな。
もう、打つな。
その声が、ここまで来ている。
あるいは、ここから向こうへ行っている。
どちらなのか、分からなかった。
小夜が、低く舌打ちした。
「嫌な響き」
「何が」
六郎が訊く。
「釘のあとに、別の音が鳴ってる」
「別の音?」
「木じゃない音」
小夜は笛袋に指をかけたまま、志津を見ている。
「穴が開く音」
六郎は返事をしなかった。
返事をしたくなかった。
志津が、少しだけ顔を上げた。
見えたのは横顔だった。
頬が痩せている。
唇が動いている。
何かを言っている。
声にはならない。
けれど、口の形だけは分かった。
ゆうじ。
そう言っているように見えた。
かん。
また打つ。
今度は、音が山へ沈まなかった。
すぐ近くで、誰かが息を呑んだ。
六郎かもしれない。
小夜かもしれない。
百合かもしれない。
あるいは、志津自身だったのかもしれない。
白い袖が、震えていた。
怒りか。
寒さか。
恐怖か。
未練か。
どれでもあり、どれでもないように見えた。
志津は、釘をもう一本取った。
どこから出したのか、六郎には分からない。
手の中に、最初からあったようにも見えた。
杉の幹には、すでにいくつもの釘が打たれていた。
一本。
二本。
三本。
数えようとして、六郎はやめた。
数えてはいけない気がした。
数えれば、その数だけ何かが決まってしまう。
そういう気がした。
志津は、釘を幹に当てた。
その時だった。
離れた場所から、鹿の鳴き声がした。
細い声だった。
山の奥で、一頭だけが鳴いた。
志津の手が止まった。
ほんのわずかに。
本当に、わずかだった。
金槌は上がったまま。
釘は幹に触れたまま。
けれど、打たれなかった。
百合が小夜を見た。
小夜は頷いた。
笛袋から、笛を出す。
細い笛だった。
古いものに見えた。
どこが古いのかは分からない。
ただ、手に持たれた瞬間、山の空気が少しだけ変わった。
小夜は笛を口元に運んだ。
「祓わないで」
百合が言った。
「分かってる」
小夜が答えた。
「戻して」
「戻るところが残ってればね」
「残っているわ」
「見えるの?」
「見える」
百合は静かに言った。
「まだ、人ね」
小夜は、それ以上何も言わなかった。
笛の音が鳴った。
最初、それは音に聞こえなかった。
息だった。
山の中を流れる、細い息。
木の葉の裏を撫でるような息。
それが少しずつ、音になった。
高くはない。
明るくもない。
人を慰める音ではない。
眠らせる音でもない。
ただ、遠くにあったものを、少しだけ近くへ呼ぶ音だった。
志津の肩が震えた。
金槌を持つ手が、少し下がる。
釘はまだ幹に当たっている。
笛の音は続く。
六郎は、その音を聞きながら、志津の背中を見た。
怖い。
怖いのに、悲しい。
悲しいのに、近づいてはいけない。
そういう背中だった。
白い衣の下に、人の身体がある。
骨がある。
血がある。
息がある。
そして、待っていた時間がある。
待って、待って、待って。
待つことだけが、身体の形になってしまったような背中だった。
笛の音が、少し低くなった。
志津の手から、金槌が滑りかける。
けれど、落ちない。
また握り直す。
小夜の眉がわずかに寄った。
「強いな」
小夜が呟いた。
「志津さんが?」
六郎が訊いた。
「志津も」
小夜は笛を離さず、息の間で言った。
「志津じゃないものも」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、志津が笑った。
声は小さい。
かすれている。
笑い声なのか、泣き声なのか分からない。
「来ない」
志津が言った。
初めて、声が聞こえた。
「来ない」
また言った。
「来ない」
三度目は、少し高かった。
六郎は、喉の奥が詰まるのを感じた。
志津の声は、悠二を責める声ではなかった。
いや、責めてはいる。
憎んではいる。
呪ってはいる。
けれど、それよりも先に、そこには待っていた人の声があった。
来なかったことに、まだ驚いている声だった。
「呼んだのに」
志津が言った。
「待っていたのに」
白い肩が震える。
「約束したのに」
その言葉に、杉が軋んだ。
志津は金槌を握り直す。
百合が、六郎の袖を離した。
「六郎」
「はい」
「呼んで」
「今なら?」
「今なら、届くかもしれない」
「何を言えば」
百合は、志津を見たまま言った。
「あなたが聞いたものを」
六郎は、息を吸った。
足が重い。
地面が、ぬかるんでいるわけではない。
けれど、前に出るのに力が要った。
一歩。
もう一歩。
志津との距離は、まだある。
近づきすぎてはいけない。
そう思った。
近づきすぎれば、志津が鬼になる。
離れすぎれば、声が届かない。
その間に立つ。
六郎は、そうするしかなかった。
「名倉志津さん」
声は震えた。
志津は振り返らない。
金槌を持った手だけが、止まった。
笛の音が、細く続いている。
「僕は、あなたのことを知りません」
六郎は言った。
自分でも、ひどい始まりだと思った。
けれど、嘘は言えなかった。
「悠二さんのことも、よく知りません」
志津の頭の白いものが、わずかに揺れた。
角だった。
そう見えた。
「でも」
六郎は続けた。
「あなたは、まだ待っているんですね」
志津の肩が止まった。
金槌が、少し下がる。
「憎んでいるのに」
笛の音が、低くなる。
「呪っているのに」
山が、息を止める。
「まだ、待っているんですね」
志津は動かなかった。
六郎は、言い過ぎたと思った。
踏み込みすぎたかもしれない。
そう思った時、志津の手から、釘が落ちた。
音はしなかった。
落ちたはずなのに、音がしなかった。
金槌も落ちた。
それも音がしなかった。
志津が、ゆっくり振り返った。
顔が見えた。
鬼ではなかった。
それが、六郎には怖かった。
鬼の顔なら、まだ耐えられた。
怒りで歪んだ顔なら、まだ分かった。
そこにあったのは、ただの女の顔だった。
痩せている。
目の下に深い影がある。
唇は乾いている。
頬には涙の跡がある。
けれど、涙はもう出ていない。
泣ききった人の顔だった。
「待っていた」
志津が言った。
「はい」
「来なかった」
「はい」
「でも、来ると思っていた」
六郎は、何も言えなかった。
「来ないと分かってからも」
志津は、少し笑った。
「来ると思っていた」
それは、笑いではなかった。
壊れたものが、かろうじて人の形をしているだけだった。
小夜の笛が、さらに細くなる。
志津の頭から、何かが落ちた。
ころり。
小さな音がした。
白いものだった。
地面に落ちると、それは蝋燭のようにも見えた。
骨のかけらのようにも見えた。
木の枝のようにも見えた。
六郎は、それを見た。
見たはずなのに、次の瞬間には形が分からなくなった。
ただ、そこに何かが落ちたことだけは分かった。
もう一つ。
ころり。
白いものが落ちた。
志津の頭には、何もなくなった。
白いものは消えた。
角も消えた。
ただ、乱れた髪だけがあった。
志津は、自分の頭に手をやった。
何かを探すように。
何かがなくなったことを確かめるように。
それから、急に膝をついた。
百合が近づいた。
「名倉志津さん」
志津は百合を見た。
「わたし」
声が小さい。
「何をしたんでしょう」
百合は、黙っていた。
「わたし、あの人を」
志津は杉を見た。
幹には釘がある。
数えきれないほどではない。
けれど、十分に多い。
「呪ったのね」
百合が言った。
静かな声だった。
慰めでも、責めでもなかった。
ただ、事実を置く声だった。
志津は頷いた。
「はい」
自分で言ったように、頷いた。
「わたし、呪いました」
「ええ」
「死ねばいいと思いました」
「ええ」
「でも」
志津は唇を噛んだ。
「死んでほしくないとも、思いました」
百合は、何も言わない。
志津は自分の手を見た。
白い手だった。
釘を押さえていた指先が、黒く汚れている。
「おかしいですね」
「おかしくはないわ」
百合が言った。
「人は、そういうものよ」
志津は、小さく首を振った。
「嫌です」
「ええ」
「そんなの、嫌です」
「ええ」
百合は、それだけ言った。
六郎は、胸の奥が苦しくなった。
救えたのか。
そう思いかけた。
思いかけて、思い直した。
百合の顔が、まったく緩んでいない。
小夜も笛を下ろしていない。
音はまだ、細く続いている。
まるで、切れかけた糸を指で支えているような音だった。
「百合さん」
六郎が言った。
「呪いは」
「止まらないわ」
百合は言った。
すぐに。
迷いなく。
志津が顔を上げた。
「止まらない?」
「ええ」
「でも、わたし」
「あなたの角は落ちた」
百合は静かに言った。
「けれど、釘は打たれている」
志津は杉を見た。
釘がある。
そこにある。
打ち込まれたものは、もう打ち込まれている。
「抜けば」
志津が言った。
「抜けば、いいですか」
百合は答えなかった。
代わりに杉へ近づいた。
幹に打たれた釘に、指を触れる。
触れただけで、百合の指先に赤い筋が走った。
血ではなかった。
けれど、血のように見えた。
百合は指を離した。
「もう、木だけではないわ」
「では」
志津の声が細くなる。
「どうすれば」
百合は、志津を見た。
「受けるしかない」
志津は、しばらく動かなかった。
小夜の笛が止まった。
止まった瞬間、山の音が戻った。
葉の擦れる音。
遠くの水の音。
どこかで小さく鳴く虫の声。
けれど、それらは戻ったのではなく、最初からずっとあったものが、ようやく聞こえるようになっただけかもしれない。
志津は立ち上がろうとした。
足がもつれて、倒れかける。
六郎が手を出した。
志津は、その手を見た。
触れなかった。
自分で立った。
「悠二さんは」
六郎が訊いた。
訊かない方がよかったかもしれない。
だが、訊いてしまった。
志津は、六郎を見た。
その目に、憎しみが戻った。
一瞬だった。
本当に一瞬。
すぐに消えた。
「分かりません」
志津は言った。
「死ねばいいと思っています」
「はい」
「でも、死んだら」
そこで言葉が止まった。
志津は口元を押さえた。
「死んだら、もう来ない」
それだけ言った。
六郎は、何も言えなかった。
百合が、志津の足元に落ちていた白いものを見た。
拾わない。
小夜も見た。
やはり拾わない。
「帰りましょう」
百合が言った。
「どこへ」
志津が訊いた。
「あなたの家へ」
「帰って、どうなるんですか」
「夜が明けるわ」
「それだけ?」
「それだけ」
志津は、少しだけ笑った。
今度は、ほんの少しだけ人の笑いだった。
「それだけで、いいんですね」
百合は答えなかった。
三人は、志津を連れて山を下りた。
誰も多くは話さなかった。
小夜は笛をしまった。
百合は前を歩いた。
六郎は、志津の少し後ろを歩いた。
志津の足取りは弱い。
けれど、ふらつきながらも歩いている。
山道の途中で、鹿がまた鳴いた。
志津が足を止めた。
「鹿ですか」
「たぶん」
六郎が答えた。
「角が」
志津はそう言って、言葉を切った。
「いえ」
それ以上は言わなかった。
集落へ戻る頃には、夜は深くなっていた。
志津の家の前で、百合は立ち止まった。
「ひとりで大丈夫?」
志津は頷いた。
「はい」
「戸は閉めて」
「はい」
「鏡は見ない方がいいわ」
志津は、少しだけ驚いた顔をした。
それから、うつむいた。
「はい」
百合はそれ以上、何も言わなかった。
志津は家に入った。
戸が閉まる。
音は小さかった。
六郎は、その戸を見ていた。
「本当に、これで」
言いかけて、やめた。
百合がこちらを見る。
「何」
「いや」
六郎は、首を振った。
「なんでもないです」
「救えたと思った?」
百合が言った。
六郎は黙った。
「少しは、救えたわ」
「少し」
「ええ」
「それは、救えたって言うんですか」
百合は、志津の家を見ていた。
「言うこともあるわ」
小夜が、低く息を吐いた。
「嫌な言い方」
「そうね」
百合は認めた。
「嫌なことだから」
その夜、加賀見家には戻らなかった。
百合が、戻らないと言った。
「悠二さんは」
六郎が訊いた。
「今夜は、越えるわ」
「分かるんですか」
「釘の音が止まった」
「それは、いいことでは」
「一晩だけなら」
「一晩だけ」
「ええ」
百合は、山の方を見た。
「明日から、返ってくる」
「何が」
小夜が答えた。
「見られたこと」
六郎は、小夜を見た。
「見られたこと?」
「見ちゃいけないものって、あるでしょ」
「丑の刻参り、ですか」
「名前なんか、何でもいいよ」
小夜は言った。
「人が人を呪うところは、見ちゃいけないんだよ」
六郎は、志津の家を振り返った。
戸は閉まっている。
灯りはついていない。
「見たのは、僕たちです」
「そうね」
百合が言った。
「じゃあ、返るのは」
「志津さんへ」
百合は言った。
六郎は、何かを言おうとした。
言えなかった。
言ったところで、何も変わらない気がした。
夜が明けた。
空は白かった。
薄い雲が、山の上にかかっていた。
朝の集落は、夜よりも静かだった。
人の気配はある。
けれど、誰も外へ出ていない。
百合は、加賀見家へは向かわなかった。
まっすぐ、志津の家へ向かった。
六郎と小夜も続く。
志津の家の前に、人が集まっていた。
二人。
三人。
近所の者らしかった。
誰も声を出していない。
ただ、玄関を見ている。
戸は、少し開いていた。
昨夜、志津が閉めたはずの戸だった。
百合は、靴を脱いで中へ入った。
六郎も続こうとした。
小夜が、袖を掴んだ。
「見ない方がいいよ」
「でも」
「見たいなら、止めない」
小夜の声は軽くなかった。
六郎は、小夜を見た。
小夜は目を逸らさない。
「見たら、残るよ」
六郎は、それでも入った。
入らなければならない気がした。
理由は分からない。
玄関は冷えていた。
昨日よりも冷えている。
台所の湯呑は、伏せたままだった。
窓辺の鏡には、布がかけられている。
百合がかけたのではない。
志津がかけたのだろう。
奥の部屋。
六郎は、そこに入った。
志津は、文机の前に座っていた。
座っているように見えた。
背を壁にもたせている。
顔は横を向いている。
目は閉じている。
白い衣ではない。
普段の服だった。
それが、妙に悲しかった。
口元に、黒い髪が絡んでいた。
長い髪だった。
志津自身の髪よりも、長いように見えた。
身体には、小さな穴がいくつもあった。
胸元。
腕。
首筋。
手の甲。
釘で打たれたような穴だった。
血は少ない。
少ないのに、そこがかえって恐ろしかった。
穴の周りが、ぷくりと膨れている。
水膨れが破れたようになっている。
畳の上に、水が少しこぼれていた。
透明な水だった。
その中に、黒いものが一本、沈んでいる。
髪だった。
六郎は、息を止めた。
吐いたら、何かを吐いてしまいそうだった。
文机の上に紙があった。
昨日の手紙とは違う紙だった。
そこに、一文字だけ書かれていた。
し
それだけだった。
志津の名の、し。
死の、し。
知っていた、の、し。
信じていた、の、し。
どれかは分からない。
分からないままで、その一文字はそこにあった。
壁に、釘が一本打たれていた。
昨日はなかった。
誰が打ったのか分からない。
釘には、白い小さなものが吊るされていた。
昨夜、社で落ちたものに似ていた。
蝋燭にも見えた。
骨にも見えた。
ただの木片にも見えた。
百合は、それを見ていた。
顔色は変わらない。
けれど、目だけが少し暗かった。
「返ったんですね」
六郎が言った。
声が掠れた。
「ええ」
「志津さんが、受けた」
「ええ」
「どうして」
百合は、六郎を見た。
「願ったから」
六郎は、唇を噛んだ。
「戻ったのに」
「ええ」
「人に戻ったのに」
「ええ」
「それでも、死ぬんですか」
百合は答えなかった。
小夜が入口に立っていた。
部屋の中には入らない。
けれど、笛袋を握っている。
強く。
「鬼のままではなかった」
百合が言った。
六郎は、志津を見た。
たしかに、そこに鬼はいなかった。
ただ、女が死んでいる。
待って、壊れて、呪って、戻って、死んだ女がいる。
それが、救いだと言われても、六郎にはすぐには頷けなかった。
頷けなかったが、否定もできなかった。
百合は、壁の釘に触れなかった。
紙にも触れなかった。
志津の顔にかかった髪だけを、そっと横へ払った。
その仕草が、あまりに静かで、六郎は目を逸らした。
小夜が、小さく笛を吹いた。
音は短かった。
ひと息だけ。
志津のための音だった。
鎮めるというより、送る音だった。
その音が終わった時、外で鹿が鳴いた。
遠くで。
一度だけ。
加賀見家へ戻ると、門の前に惣一郎が立っていた。
昨夜よりも顔色が悪い。
だが、立っている。
「名倉さんは」
惣一郎が訊いた。
百合は、少し黙った。
「亡くなりました」
惣一郎は、目を閉じた。
驚いた様子はなかった。
そうなると、どこかで思っていたのかもしれない。
「弟は」
「生きています」
百合が言った。
「ただし、悪くなるわ」
惣一郎は頷いた。
「はい」
「分かっていたの?」
「夜明け前から、弟の声が変わりました」
「声」
「痛がる声ではなくなりました」
惣一郎は、屋敷の奥を見た。
「穴の中から、声がしているような声です」
六郎は、背筋が冷たくなった。
離れへ向かう。
廊下の途中で、釘の音がした。
かん。
六郎は足を止めた。
百合も止まった。
小夜が舌打ちする。
「止まってないじゃん」
「止まらないわ」
百合が言った。
「打つ人がいなくなっても?」
「打たれたものは、残る」
離れの障子は閉まっていた。
中から、悠二の声がした。
笑っている。
泣いている。
どちらにも聞こえた。
惣一郎が障子を開けた。
悠二は布団の上にいた。
痩せていた。
昨日よりも、明らかに。
目が落ち窪み、頬がこけている。
口から髪が出ている。
昨日よりも多い。
髪は、布団の上に垂れ、畳に届いていた。
腕の水膨れはいくつも破れていた。
破れた跡には、小さな穴が開いている。
穴の奥は、黒かった。
血の黒さではない。
土の中のような黒さだった。
悠二が、こちらを見た。
「死んだのか」
誰も、すぐには答えなかった。
悠二は笑った。
「志津、死んだのか」
「はい」
六郎が言った。
言ってしまった。
百合が止めなかったからだ。
悠二は、しばらく六郎を見ていた。
それから、目を逸らした。
「俺のせいか」
六郎は答えられなかった。
悠二は、自分で頷いた。
「俺のせいだな」
その声は、反省の声ではなかった。
まだ、そうではない。
怯えと、自己憐憫と、後悔の形をした何かが混じっている。
「志津は」
悠二が言った。
「何か言ってたか」
六郎は、文机の紙を思い出した。
し
一文字だけ。
「何も」
六郎は言った。
「そうか」
悠二は笑った。
「そうだよな」
その時、悠二の胸元が膨らんだ。
水膨れだった。
見る間に大きくなる。
薄い皮膚の下で、水が動く。
その中で、黒い髪が揺れる。
悠二は声を上げた。
惣一郎が駆け寄ろうとする。
百合が止めた。
「触らないで」
「しかし」
「今、触れば、兄さんにも移るわ」
惣一郎の手が止まった。
兄さん。
百合は、あえてそう言ったのかもしれない。
悠二が、それを聞いた。
聞いてしまった。
「兄さん」
悠二が言った。
声は弱い。
「来るな」
惣一郎は、そこで初めて泣きそうな顔をした。
泣かなかった。
泣かないまま、立っていた。
悠二の胸元の水膨れが破れた。
水が滲む。
その下に、穴があった。
小さな穴。
けれど、さっきまでのものより深い。
穴の奥で、かすかに音がした。
かん。
釘の音だった。
悠二の身体の内側から、釘の音がした。
六郎は、思わず一歩下がった。
小夜が笛袋を握る。
百合は、悠二の胸元を見ていた。
そして、低く言った。
「持っていかれるわね」
「誰にですか」
六郎が訊いた。
百合は答えなかった。
窓の外が、少し暗くなった。
朝なのに。
そこに誰かが立っているような気がした。
黒い背広。
白い顔。
蜜を塗ったような黒い髪。
見えたわけではない。
けれど、いる。
六郎はそう思った。
百合は、窓の方を見ずに言った。
「まだよ」
誰に言ったのか、分からなかった。
悠二が呻いた。
惣一郎が、その場に膝をついた。
床の間の方で、鹿角が鳴った。
かつん。
一度。
かつん。
二度。
その音に重なるように、悠二の身体の中から、また釘の音がした。
かん。
かん。
かん。
志津は死んだ。
けれど、呪いは止まらない。
角は落ちた。
けれど、釘は残っている。
六郎は、そのことをようやく理解した。
理解したくなかった。
それでも、分かってしまった。
百合は、静かに悠二を見下ろしていた。
「次は」
小夜が言った。
「この男だね」
百合は頷いた。
「ええ」
離れの外で、鹿が鳴いた。
今度は近かった。
角のない鹿の声だった。




