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籠目屋商店怪異録 冬ノ巻  作者: 宇佐美夕日


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19/22

麋角解 二

麋角解さわしかつのおつる

夜の山へは、まだ行かなかった。


百合が、そう言ったからである。


「今夜、社へ行きましょう」


そう言ったくせに、百合はすぐには動かなかった。


加賀見家の座敷には、夕暮れが残っていた。


床の間には、鹿角がある。


白く乾いた、大きな角だ。


それは動かない。


動かないのに、時折、音を立てる。


かつん。


小さな音だった。


けれど、その小ささが、かえって耳に残る。


「行かないんですか」


六郎が訊いた。


「行くわ」


「今夜って言いましたよね」


「まだ夜ではないもの」


百合は、庭を見ていた。


夕暮れは、沈みきっていない。


山の端に、薄い赤が残っている。


その赤は綺麗ではなかった。


何かが擦れて、滲んだ色に見えた。


「夜になるのを待つんですか」


「それもあるわ」


「それ以外は」


「鬼になる前の話を、少し聞いておきたいの」


「鬼になる前」


「ええ」


百合は座敷を出た。


六郎もついて行く。


廊下の向こうに、悠二のいる離れがある。


その方から、低い咳が聞こえた。


咳ではない。


喉の奥に絡みついたものを、どうにか吐き出そうとする音だった。


六郎は足を止めかけた。


百合は止まらない。


「百合さん」


「なに」


「悠二さんは、このままで大丈夫なんですか」


「大丈夫ではないわ」


「ですよね」


「でも、今は死なない」


「今は」


「ええ」


百合は静かに言った。


「今夜、釘が打たれるまでは」


それ以上は言わなかった。


言わなくても、分かった。


今夜、何かが進む。


悠二の身体に。


山の社で。


あるいは、もっと別の場所で。


玄関先で、惣一郎が待っていた。


顔色は悪い。


けれど、立ち方は崩れていない。


病弱な身体が、礼儀の形を覚えてしまっているような立ち方だった。


「どちらへ」


「名倉志津さんのことを聞きに」


百合が言った。


惣一郎の顔が、わずかに動いた。


その名を聞いた瞬間だった。


「ご存じですね」


「はい」


「弟さんと」


「……親しくしていた女性です」


「それだけ?」


惣一郎は黙った。


沈黙は、答えではなかった。


答えきれないものが、そこにあった。


「私も、詳しくは知りません」


惣一郎は言った。


「悠二は、昔から外でのことをあまり話しませんでした」


「兄弟なのに?」


六郎が訊いた。


惣一郎は、六郎を見た。


怒ったわけではない。


ただ、少し寂しそうな目だった。


「兄弟だから、話さないこともあります」


六郎は、何も言えなくなった。


惣一郎は続けた。


「ただ、名倉さんのことは……少しだけ」


「どんな方でした」


「まっすぐな方でした」


惣一郎は、庭の方へ目を向けた。


「派手な方ではありません。よく笑うというわけでもない。でも、人の目をきちんと見る方でした」


「悠二さんは、彼女を大切にしていましたか」


百合の問いは静かだった。


静かだったが、逃げる隙がなかった。


惣一郎は、すぐには答えない。


その沈黙の間に、庭の木が鳴った。


風は弱い。


「していたと思います」


惣一郎は言った。


「思います、なのね」


「はい」


「大切にしたかった、ということかしら」


惣一郎は、目を伏せた。


「たぶん」


それは、弟を庇う言葉ではなかった。


弟の罪を軽くする言葉でもなかった。


ただ、兄が弟について知っているぎりぎりのところを、言葉にしたように聞こえた。


「大切にしたかったけれど、大切にできなかった」


百合が言った。


惣一郎は、ゆっくり頷いた。


「そういう男です」


その時、離れから悠二の声がした。


聞き取れない。


ただ、荒い。


誰かを呼んでいるようでもあり、誰かを罵っているようでもあった。


惣一郎の肩が動いた。


行きかける。


百合が言った。


「今は、見ない方がいいわ」


惣一郎は足を止めた。


「なぜです」


「弟さんが、あなたを見てしまうから」


惣一郎は、その意味を聞かなかった。


聞けば、答えが返ってくることを恐れたのかもしれない。


百合は、加賀見家を出た。


六郎も続く。


山の下の集落には、細い道がいくつもあった。


道の端には水路が流れている。


水は暗い。


暗いが、流れている。


家々は古く、どこも少しだけ閉じているように見えた。


人が住んでいる。


暮らしがある。


洗濯物も干してある。


軽トラックも停まっている。


それなのに、外から来た者を、家ごとじっと見ているような気配があった。


「こういうところは、話を聞きにくいですね」


六郎が言った。


「聞きやすいわ」


「そうですか?」


「みんな知っているもの」


「知っているから話さないんじゃないですか」


「話さないことも、話のうちよ」


「便利ですね、それ」


「便利よ」


百合は、集落の外れにある小さな食堂へ入った。


食堂というより、よろず屋に近い。


古い菓子が置かれている。


野菜も少し置かれている。


奥に、四つだけ卓がある。


客はいなかった。


店の奥から、年配の女が出てきた。


百合を見る。


六郎を見る。


それから、二人の後ろに誰もいないことを確認するように、戸口を見た。


「加賀見さんとこの人?」


女が言った。


「違います」


百合が答えた。


「違う人が、加賀見さんのことを聞きに来るの」


「名倉志津さんのことを」


女の目が、少しだけ細くなった。


それで十分だった。


知っている。


六郎にも分かった。


「志津は、ここで働いていたんですか」


六郎が訊いた。


女は、六郎を見た。


若造を見る目ではない。


ただ、どこまで話してよいか測る目だった。


「手伝いに来てただけ」


「いつ頃まで」


「去年の暮れまで」


「その後は」


「来なくなった」


「どうしてです」


女は、奥へ引っ込んだ。


答えないのかと思った。


しばらくして、湯呑を二つ持って戻ってきた。


茶を置く。


百合は礼を言った。


六郎も頭を下げた。


女は、椅子に座らなかった。


立ったまま、壁の方を見ている。


そこには、古いカレンダーが掛かっていた。


去年のものだった。


まだめくられていない月が残っている。


「待っとったんだわ」


女が言った。


「何を」


「迎えに来るのを」


六郎は黙った。


女は続ける。


「志津は馬鹿じゃない。あの家の次男が、どういう男か、知らんわけじゃない」


「それでも待っていた」


「そう」


女は、湯呑の縁を指で拭いた。


「待つ子だった。怒るより先に、待つ。泣くより先に、待つ。そういう子は、壊れる時に音がせん」


店の中が、少し冷えた。


「加賀見悠二さんは、志津さんに何と言っていたんですか」


六郎が訊いた。


女は鼻で笑った。


笑ったが、面白そうではなかった。


「言葉なんか、いくらでも言えるわ」


「結婚の話ですか」


「さあね」


「さあ、ですか」


「聞いとらんもの」


女はそう言った。


しかし、その声には、聞いていた者の重さがあった。


「ただ、志津は少しずつ変わった」


「どういうふうに」


「鏡を見るようになった」


「それは、普通では」


「普通だわ」


女は頷いた。


「けど、志津はあまり見ん子だった。自分が綺麗かどうかを、気にする子じゃなかった。それが、何度も何度も鏡を見るようになった」


「好きな人ができたから?」


「最初はね」


女は、そこで口を閉じた。


それから小さく言った。


「途中からは、違う」


「違う?」


「自分の顔が、まだ自分の顔かどうか、確かめていたんだと思う」


六郎は、茶に手をつけなかった。


百合も飲まなかった。


湯気だけが、薄く上がっていた。


「男がいましたか」


百合が訊いた。


女は、百合を見た。


「加賀見の坊ちゃん以外に?」


「ええ」


女はすぐには答えなかった。


店の外を、軽トラックが通った。


音が遠ざかる。


「一度だけ見た」


「どんな男」


「背の高い男」


「顔は」


「白かった」


女は嫌そうに言った。


「病人みたいな白さじゃない。紙みたいな白さだった」


六郎は、百合を見た。


百合は、何も言わない。


「黒い背広を着ていた」


女は続けた。


「葬式でもないのに、葬式みたいな男だった」


「志津さんと一緒に?」


「一緒というか」


女は言葉を探した。


「志津の少し後ろにいた」


「知り合いに見えましたか」


「見えん」


「では」


「影みたいだった」


店の奥で、冷蔵庫が低く唸った。


「志津さんは、その男と話していたんですか」


「口は動いとった。でも、声は聞こえんかった」


「いつ頃です」


「来なくなる少し前」


「その後、志津さんは」


「痩せた」


女は、カレンダーを見たまま言った。


「髪が長くなった気がした」


「気がした?」


「実際に伸びたんじゃない。そう見えた」


女は、そこで初めて椅子に座った。


急に疲れたように見えた。


「志津はな、悪い子じゃなかった」


「はい」


「でも、悪い子じゃないから、悪いことをせんわけじゃない」


百合が頷いた。


「そうね」


「悪いことは、するよ。人は」


女は、湯呑を見下ろした。


「ただ、志津があんなふうになる前に、誰かが止めてやれたらと思う」


「誰か」


六郎が言った。


女は、六郎を見た。


「誰でもないわ」


その言い方が、妙に痛かった。


誰でもない。


つまり、誰もいない。


百合は茶を一口だけ飲んだ。


それから立ち上がった。


「ありがとうございました」


「加賀見の坊ちゃんは」


女が言った。


百合が振り返る。


「死ぬの」


六郎は、息を止めた。


百合は、少し黙った。


「今のままなら」


「そう」


女は目を伏せた。


「志津は、まだあの人を待っとるんかね」


百合は答えなかった。


食堂を出たあと、百合はすぐに志津の家へは向かわなかった。


集落の道を下り、国道沿いへ出る。


山の際に、小さなスナックがあった。


看板には、古い電飾で店の名が書かれている。


いくつかの灯りは切れていた。


まだ開く前の時間だった。


百合は、ためらわず扉を開けた。


「開店前だよ」


奥から女の声がした。


煙草に焼けたような声だった。


百合は名乗らなかった。


ただ、言った。


「加賀見悠二さんのことで」


それだけで、奥の女は黙った。


店の中は、昼の光を嫌うように暗かった。


カウンターがある。


赤い椅子が並んでいる。


壁には、少し色の褪せたポスターが貼ってあった。


酒の瓶が、鏡の前に並んでいる。


鏡の中の瓶は、実物より多く見えた。


カウンターの向こうに、五十代ほどの女がいた。


髪をきちんと巻いている。


化粧もしている。


だが、目だけが疲れていた。


「また、あの坊ちゃんか」


女はそう言った。


「来ていたんですか」


六郎が訊いた。


「来てたよ。金払いはよかったからね」


女はグラスを拭きながら言った。


「女癖は悪かったけど」


「昔から?」


百合が訊いた。


女は少し笑った。


「昔から軽かったよ。軽い男だった。でもね」


そこで、グラスを拭く手が止まった。


「あそこまで嫌な男じゃなかった」


「嫌な男」


六郎が繰り返した。


女は、カウンターの奥に視線をやった。


そこには誰もいない。


けれど、誰かがそこに座っていたことを思い出しているような目だった。


「ある時期から、連れができたんだわ」


「連れ?」


「背の高い男」


百合は何も言わなかった。


女は続けた。


「黒い背広を着ていた。葬式帰りでもないのに、葬式みたいな格好でね」


六郎は、食堂の女の話を思い出した。


背の高い男。


白い顔。


黒い背広。


影みたいな男。


「顔は」


百合が訊いた。


「白かった」


女は、嫌そうに眉を寄せた。


「病気の白さじゃない。紙みたいな白さだった」


「その男と、悠二さんは何を話していたんですか」


「さあね。聞こえなかったよ」


女はまたグラスを拭き始めた。


「でも、あの男と来るようになってから、悠二は変わった」


「どういうふうに」


「女を試すようになった」


「試す?」


「呼び出して、待たせる。待たせたくせに、来たら急に冷たくする。帰れと言っておいて、帰ろうとすると引き止める。そういうことをするようになった」


女の声が、少し低くなった。


「前は、ただの調子のいい男だった。馬鹿だけど、まあ、よくいる男だわ。でも、途中から違った」


「違った」


「人が不安になる顔を、見たがるようになった」


六郎は黙った。


嫌な言葉だった。


「名倉志津さんも、ここに?」


「一度だけ」


女は言った。


「店の外まで来た。中には入らなかった。悠二を待ってたんだと思う」


「悠二さんは」


「中にいたよ」


「会ったんですか」


「会わなかった」


「なぜ」


女はグラスを置いた。


「悠二が、会わなかった」


店の中が、しんとした。


「気づいていたんですか」


六郎が訊いた。


「気づいていたよ」


女は言った。


「窓から見ていた」


「それでも?」


「それでも、出なかった」


「黒い男は」


百合が訊いた。


女は少しだけ肩をすくめた。


「笑っていた」


六郎は、腹の底が冷えるのを感じた。


女は続けた。


「声は聞こえなかった。でも、笑っているのは分かった。あの白い顔で、口だけ少し動いていた」


「悠二さんも笑っていましたか」


「最初はね」


女は言った。


「でも、その後で、やけに酒を飲んだ」


「後悔していた?」


六郎が訊くと、女は六郎を見た。


少しだけ、憐れむような目だった。


「後悔ってのは、便利な言葉だね」


六郎は返事ができなかった。


「悪いことをしたあとで苦しめば、少し人間らしく見える。でも、苦しんだからって、したことが消えるわけじゃない」


百合が、静かに頷いた。


「そうね」


女は、百合を見た。


「悠二は死ぬの」


「今のままなら」


百合は言った。


女は息を吐いた。


「志津も、あの男も、悠二も、みんなここに座った」


女はカウンターの隅を見た。


「でも、誰も同じものを見てなかったんだろうね」


百合は何も言わなかった。


店を出る時、六郎は振り返った。


カウンターの奥に、黒い背広の男が座っているような気がした。


長い脚を組み、白い指でグラスを持っている。


見えたのは、一瞬だった。


次に見た時、そこには誰もいなかった。


外に出ると、空はさらに暗くなっていた。


スナックの看板は、まだ灯っていない。


灯っていないのに、切れかけた電飾の管だけが、うっすら光っているように見えた。


「種を蒔かれたのね」


百合が、ぽつりと言った。


「誰にですか」


六郎が訊いた。


百合は答えなかった。


二人は、志津の家へ向かった。


家は、集落の外れにあった。


家というより、小さな平屋だった。


雨戸は閉まっていない。


だが、人はいない。


親族は隣町にいるらしく、今は空き家に近いという。


百合は、玄関の前で立ち止まった。


鍵はかかっていなかった。


「入っていいんですか」


六郎が訊いた。


「よくはないわ」


「ですよね」


「でも、入る」


「そういうものですか」


「そういうものよ」


中は、薄暗かった。


埃はある。


だが、荒れてはいない。


貧しい家だった。


物が少ない。


少ない物を、丁寧に使っていた気配がある。


台所には、湯呑がひとつ伏せられていた。


窓辺には、小さな鏡があった。


六郎は、その鏡を見た。


古い鏡だった。


縁が欠けている。


鏡面が少し曇っている。


覗くと、自分の顔が歪んで映った。


顔の輪郭が、少しだけ別の人間のように見える。


「見すぎない方がいいわ」


百合が言った。


六郎は、鏡から目を離した。


「こういうの、先に言ってくださいよ」


「見た後の方が、分かるでしょう」


「嫌な教え方ですね」


百合は答えず、奥の部屋へ入った。


六畳ほどの部屋だった。


布団は畳まれている。


小さな文机がある。


机の上に、紙が置かれていた。


書きかけの手紙だった。


宛名はない。


本文も、ほとんどない。


ただ、何度も同じ字が書かれていた。


ゆうじ


悠二


悠二さん


悠二


悠二


悠二


途中から字が崩れている。


最後の方は、名前ではなく線だった。


「これは」


六郎が言った。


「送るつもりのない手紙ね」


百合は紙に触れなかった。


「読んでもいいんですか」


「読まなくても、分かるわ」


「何が」


「届かなかったこと」


六郎は、紙を見下ろした。


言葉が届かなかったのか。


手紙が届かなかったのか。


人が届かなかったのか。


分からない。


机の横に、小さな箱があった。


百合が蓋を開ける。


中には、白い蝋燭が数本入っていた。


細い蝋燭だった。


ただ、白い。


不自然なくらい白かった。


六郎は、その白さを見て、山の社の話を思い出した。


頭に白いものが二つ。


角だった。


そう見えた。


「これですか」


六郎が言った。


百合は答えない。


蝋燭を一本だけ取り上げた。


しばらく見て、箱へ戻した。


「志津さんが、自分で用意したんですかね」


「自分で買ったのかもしれない」


「違うかもしれない」


「ええ」


百合は、部屋の隅を見た。


そこに、細い紐が落ちていた。


白い紐だった。


拾わない。


見ただけだった。


「誰かが、教えたんですね」


六郎が言った。


「本当に届く祈り方がある、と」


百合は、六郎を見た。


「よく分かったわね」


「分かりたくはないです」


「そう」


百合は文机の前に座った。


その姿は、どこか志津の代わりに座っているようにも見えた。


しばらくして、百合が言った。


「鬼は、急にはならないわ」


「はい」


「昨日まで人だったものが、今日いきなり鬼になるわけではない」


「では」


「毎日、少しずつ鬼に似ていくの」


六郎は、紙に書かれた悠二の名前を見た。


「誰かにされたんですか」


「されもしたでしょうね」


「志津さんは」


「自分でもした」


百合は静かに言った。


「そこを間違えると、何も見えなくなるわ」


六郎は、何も言えなかった。


志津は被害者だった。


捨てられた女だった。


壊された人だった。


けれど、呪った。


人を殺す願いを打っている。


それは、なかったことにはならない。


「悠二さんも、そうですか」


「ええ」


「唆されたけど、自分でもした」


「そう」


「嫌ですね」


「ええ」


百合は立ち上がった。


「人は、たいていそうよ」


家を出る時、六郎はもう一度、鏡を見た。


見ない方がいいと言われたのに、見てしまった。


鏡の中に、志津はいなかった。


当然だ。


いない。


いないはずなのに、曇った鏡の奥で、誰かがこちらを見ているような気がした。


その顔は女にも見えた。


鬼にも見えた。


ただの自分にも見えた。


六郎は、すぐに目を逸らした。


外へ出ると、道の先に人影があった。


背の低い人影だった。


街灯の下に立っている。


こちらに手を振った。


「おっそ」


小夜だった。


六郎は、少し驚いた。


「小夜さん」


「さん、いらない」


小夜は言った。


相変わらず、軽い声だった。


幼い顔立ちをしている。


整っている。


けれど、口元にすぐ悪態が出そうな癖がある。


黒い上着を羽織り、首に細い紐をかけていた。


その先に、笛袋がある。


「呼んだのは百合さんですか」


六郎が訊いた。


「この女以外に、こんな夜に山奥まで人を呼ぶやついる?」


「いそうですけど」


「あんた、意外と失礼だね」


「すみません」


「謝るの早」


小夜は百合を見た。


「で、面倒くさいやつ?」


「ええ」


「人、死ぬ?」


「たぶん」


「最初に言うなよ、そういうこと」


「聞いたでしょう」


「聞いたけどさ」


小夜は、志津の家をちらりと見た。


それだけで、表情が少し変わった。


軽さが消えた。


完全には消えない。


けれど、薄くなる。


「ここ、音が残ってる」


「どんな音」


六郎が訊いた。


小夜は、六郎を見た。


「待ってる音」


「待ってる音」


「そう。玄関の方ばっかり向いてる音」


六郎は、志津の家を振り返った。


閉めたはずの戸が、少しだけ開いているように見えた。


実際には閉まっている。


閉まっているのに、開いているように見える。


「笛で、どうにかなるんですか」


六郎が訊いた。


小夜は、嫌そうな顔をした。


「笛を何だと思ってんの」


「便利なものではないと思っています」


「ならよし」


「じゃあ、何ができますか」


「できることだけ」


「百合さんみたいな言い方ですね」


「やめて。傷つく」


百合は何も言わなかった。


小夜は、笛袋を指で軽く叩いた。


「祓うんじゃないよ」


「はい」


「戻すっていうか、思い出させるっていうか」


「何を」


「自分が、まだ人だった時の音」


六郎は黙った。


小夜は、ふっと笑った。


「分かった顔すんな」


「してました?」


「してた」


「すみません」


「謝るの早いって」


それでも、小夜の声は少し柔らかくなっていた。


三人は、加賀見家へは戻らなかった。


そのまま山へ向かった。


社は、集落の北にあった。


舗装された道は途中で終わり、そこから先は山道になる。


土は湿っている。


落ち葉が重なっている。


踏むたびに、音がする。


ざく。


ざく。


その音が、やけに大きく聞こえた。


虫の声は少ない。


鳥の声もない。


山は静かだった。


ただ、時折、遠くで鹿が鳴いた。


細く、哀しい声だった。


六郎は足を止めた。


道の先に、鹿がいた。


一頭。


こちらを見ている。


頭には、角がなかった。


目が合った。


そう思った瞬間、鹿は木の間へ消えた。


「今の」


六郎が言った。


「鹿ね」


百合が答えた。


「角がありませんでした」


「落ちる頃だから」


「そういうものですか」


「そういうものよ」


小夜が鼻を鳴らした。


「鹿まで意味ありげに出てくるとか、山ってサービス精神あるよね」


「怖くないんですか」


六郎が訊いた。


「怖いよ」


小夜は即答した。


「怖いから喋ってんの」


「なるほど」


「納得すんな」


三人はさらに登った。


道の先に、鳥居が見えた。


古い鳥居だった。


朱はほとんど剥げている。


木の地肌が見えている。


鳥居の向こうは、少し暗い。


夜の暗さではない。


そこだけ、古い時間が溜まっているような暗さだった。


百合が立ち止まった。


小夜も止まる。


六郎は、少し遅れて止まった。


音が聞こえた。


かん。


木を打つ音。


近い。


かん。


また。


音の間が、一定ではない。


急ぐでもない。


落ち着いているでもない。


迷いながら、恨みながら、祈りながら打っている音だった。


「下手だね」


小夜が言った。


「釘が?」


六郎が訊いた。


「呪いが」


小夜は、低く言った。


その声には、さっきまでの軽さがなかった。


百合は鳥居をくぐった。


六郎と小夜も続く。


社は小さかった。


本殿というほどのものではない。


木の祠があり、その奥に大きな杉が立っている。


杉の幹は太い。


黒い。


その前に、女がいた。


白いものを着ている。


髪が垂れている。


顔は見えない。


手には金槌がある。


もう一方の手で、釘を押さえている。


女の頭に、白いものが二つ立っていた。


角だった。


そう見えた。


六郎は息を止めた。


女は、こちらに気づいていない。


あるいは、気づいていて、振り返らないだけかもしれない。


かん。


釘が入る。


山の奥で、何かが呻いたような気がした。


六郎には、加賀見家の離れが見えた気がした。


布団の上で、悠二が身体を丸めている。


口から髪を垂らし、耳を塞いでいる。


皮膚の下に、水が膨らんでいる。


その水の中で、黒いものが揺れている。


かん。


また打つ。


女の肩が震えた。


怒りで震えているのか。


寒さで震えているのか。


泣いているのか。


分からない。


小夜が笛袋に手をかけた。


百合が、その手を軽く押さえた。


「まだ」


小夜は頷いた。


六郎は、女を見ていた。


怖い。


確かに怖い。


だが、それだけではなかった。


女の背中は、誰かを待っている背中だった。


来ない人を待ち続けて、待つことだけが身体に残ってしまった背中だった。


「名倉志津さん」


六郎は、声に出しかけた。


百合が、袖を掴んだ。


強くはない。


けれど、止まった。


「今、呼べば」


百合が言った。


「はい」


「鬼になるわ」


「呼ばなくても、なるんじゃないですか」


「そうね」


「では」


「なる速さが違うの」


六郎は、口を閉じた。


女は釘を振り上げた。


その動きは、ゆっくりだった。


金槌が上がる。


白い袖が揺れる。


髪が揺れる。


頭の白いものが、夜の中で細く立つ。


角だった。


やはり、そう見えた。


百合が、低く言った。


「まだ、人ね」


女の手が落ちた。


かん。


音が、山の奥へ沈んだ。

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