麋角解 一
麋角解
「鬼を見たそうよ」
百合はそう言った。
籠目屋商店の奥で、古い帳面を閉じたところだった。
紙の擦れる音がした。
それから、しばらく音がなかった。
六郎は、店の入口に立ったまま、百合を見ていた。
「鬼ですか」
「ええ」
「ずいぶん、まっすぐですね」
「まっすぐな言葉ほど、曲がっていることがあるわ」
百合は帳面の上に細い指を置いたまま、こちらを見ない。
店の中には、古い紙と酒の匂いがしていた。
棚には本が詰まっている。
文庫本もある。
和綴じの本もある。
背の文字が消えかけた帳面もある。
酒瓶もある。
どれも売り物のようで、売り物ではないようで、客の方が選ばれているような店だった。
六郎は、いつもの椅子に腰を下ろした。
「どこで見たんです」
「山の社」
「山」
「奥三河の方ね」
百合はそう言って、盃をひとつ出した。
酒を注ぐわけではない。
ただ、置いた。
六郎はその盃を見た。
「僕、飲むとは言ってませんけど」
「ええ」
「ではなぜ」
「置きたかったの」
「そうですか」
「そういうものよ」
百合はそれだけ言った。
六郎は、もう聞き返さなかった。
籠目屋商店に来ると、時々こういうことがある。
答えが返ってくることもある。
返ってこないこともある。
返ってこないからといって、答えがないわけではない。
そういう店だった。
「鬼を見たというのは、誰が」
「社の世話をしている男」
「神主さんですか」
「神主ではないわね。氏子の古い家の人」
「その人が、夜中に山へ?」
「釘の音を聞いたそうよ」
六郎は、少し黙った。
釘の音。
夜中の山。
社。
それだけで、いくつかのものが頭に浮かんだ。
浮かんだが、言わなかった。
「見に行ったんですか」
「ええ」
「勇気がありますね」
「そうね」
「褒めてませんよ」
「知っているわ」
百合は、少しだけ口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
笑っていないのかもしれない。
「その男は、山の下に住んでいるの。夜半を過ぎた頃、外で音がした」
「釘の音」
「ええ」
「家の近くで?」
「最初はそう思ったらしいわ。でも、音は山からしていた」
六郎は、店の奥の暗がりを見た。
そこには何もない。
何もないのに、山の匂いがした気がした。
湿った土。
落ち葉。
古い木。
「山へ入ると、社があるそうよ」
「古い社ですか」
「古いわ」
百合は、そう言った。
古い、という言葉に、少しだけ重さがあった。
古い家。
古い道。
古い社。
古いというだけで、何かが残っていることがある。
「社の裏手に、大きな杉がある」
「そこにいたんですか」
「いたそうよ」
「女が」
「ええ」
百合は、盃に指先で触れた。
陶器が、小さく鳴った。
「白い女だったそうよ」
「白い」
「白いものを着ていた。髪は長くて、顔はよく見えなかった」
「それで、釘を打っていた」
「木にね」
六郎は、息を吐いた。
「丑の刻参り、ですか」
「そう見えたのでしょうね」
「違うんですか」
「さあ」
百合は、いつものように答えた。
さあ。
便利な言葉だ。
知らない時にも使える。
知っていて言わない時にも使える。
百合が言うと、たいてい後者に聞こえた。
「その女の頭に、白いものが二つ立っていたそうよ」
「白いもの」
「ええ」
「角ですか」
「男はそう言ったわ」
「本当に?」
「本当にそう言った」
「そういう意味ではなく」
「見えたものが本当なのか、ということ?」
六郎は頷いた。
百合は答えなかった。
代わりに、棚から古い暦を取った。
紙は黄ばんでいる。
墨で季節の名が書かれていた。
百合はそこへ目を落とす。
「麋角解」
「なんですか、それ」
「さわしかのつのおつる」
「鹿ですか」
「鹿の角が落ちる頃」
「今の話と関係あります?」
「さあ」
また、さあだった。
六郎は少し笑った。
「便利ですね、それ」
「便利よ」
百合は暦を閉じた。
「鹿は角を落とすの」
「鬼は?」
六郎が言うと、百合はこちらを見た。
静かな目だった。
「落ちることもあるわ」
それきり、百合は黙った。
店の外を、風が通った。
表の暖簾が少しだけ揺れる。
揺れただけで、外の明るさが変わったように見えた。
「鬼を見たのではないかもしれないわ」
百合が言った。
「では、違うんですか」
「鬼になろうとしている人を、見たのかもしれない」
六郎は、返事をしなかった。
鬼になろうとしている人。
そういう言い方をされると、怖さの場所が変わる。
山でもない。
社でもない。
白い女でもない。
人の中に、怖さが来る。
「もうひとつ、相談が来ているの」
百合が言った。
「鬼女とは別ですか」
「別かもしれないし、別ではないかもしれない」
「また、ややこしい言い方を」
「ややこしいものを、簡単に言う方が怖いわ」
「確かに」
「奥三河の旧家からよ」
百合は、帳面を開いた。
そこには、細い字でいくつかの名前が書かれていた。
六郎は、読むつもりはなかった。
だが、一つだけ目に入った。
加賀見。
古い名字だった。
「加賀見家」
百合が言った。
「聞いたことがあります。たしか、山林を持っている家ですよね」
「ええ。昔から、あのあたりの山と水に関わってきた家」
「水」
「川も、山も、土地も。そういうものは、持っているようで、持たれているものよ」
「怖いこと言いますね」
「そうかしら」
百合は帳面を閉じた。
「そこの次男が、呪われているらしいの」
「らしい」
「口から髪が出るそうよ」
六郎は、思わず百合を見た。
百合は普通の顔をしている。
普通の顔で、変なことを言う。
いつものことだ。
「髪、ですか」
「ええ」
「喉から?」
「たぶん」
「たぶんって」
「見ていないもの」
「それはそうですけど」
「だから、見に行くの」
百合は立ち上がった。
話が早い。
早すぎる。
「今からですか」
「ええ」
「僕も?」
「来るのでしょう」
「僕、まだ何も言ってませんけど」
「顔に出ているわ」
「嫌ですね、それ」
「いいことよ」
百合は、黒い外套を取った。
店の奥で、小さな鈴が鳴った。
風はない。
けれど鳴った。
六郎はその音を聞いて、なぜか藤原珈琲のことを思い出した。
母の声。
兄たちの名前。
一臣。
次春。
自分は三男だ。
それだけのことが、妙に遠く感じられた。
「百合さん」
「なに」
「鬼になろうとしている人と、呪われている人は、同じ場所にいるんですか」
百合は、少しだけ考えた。
考えたように見えた。
「同じものの近くにいるのかもしれないわね」
「同じもの?」
「釘よ」
百合はそう言って、店の灯りを落とした。
奥三河へ向かう道は、少しずつ町の音を削っていった。
車は百合のものではなかった。
古本屋の老人が貸したものだという、古い軽自動車だった。
「これ、大丈夫なんですか」
六郎が言った。
「走るわ」
「走ること以外も、車には必要だと思います」
「止まるわ」
「最低限ですね」
百合は運転席で、前だけを見ていた。
六郎は助手席にいた。
車内には、古い布と煙草の匂いが残っている。
百合は煙草を吸わない。
なら、古本屋の老人だろう。
窓の外に、畑が流れた。
家が減った。
街灯が減った。
山が近づいた。
夕方と夜の境目だった。
空はまだ明るいのに、山の下は暗い。
その暗さが、道へ染み出している。
「古本屋のじいさんは、何か言ってました?」
六郎が聞いた。
「ろくなことにならん、と」
「だいたい、いつもそれですね」
「ええ」
「それで?」
「山のものは、山に返せと言っていたわ」
「今回も山のものなんですか」
「まだ分からない」
「百合さんが分からないって言う時、だいたい分かってますよね」
「そうかしら」
百合は、少しだけハンドルを切った。
道が細くなる。
山の斜面に沿って、家がぽつぽつと建っていた。
どの家も、古い。
だが、ただ古いのではない。
人が住んでいる古さと、人が住んでいない古さが混じっている。
やがて、黒い塀が見えた。
長い塀だった。
門は大きい。
だが、華やかではない。
威張ってもいない。
ただ、そこに長くありすぎて、動かせなくなったもののように見えた。
「加賀見家です」
百合が言った。
門の前に、男が立っていた。
痩せた男だった。
三十代の終わりか、四十代の初めくらいに見える。
だが、顔立ちは若い。
身体が弱いのだろうと、六郎は思った。
そう思ったあとで、少し違うと思った。
弱いのではない。
弱い身体で、長く立ってきた人だった。
男は深く頭を下げた。
「宇喜田さんですね」
「ええ」
「加賀見惣一郎です」
声は静かだった。
よく通る声ではない。
けれど、聞き取りにくくもない。
水の底から上がってくるような声だった。
「こちらは藤原六郎さん」
百合が言った。
「お手伝いの方ですか」
惣一郎が六郎を見る。
六郎は少し困った。
「まあ、そんな感じです」
「違うの?」
百合が聞く。
「違わないですけど、合ってもないです」
「そう」
百合はそれ以上、何も言わなかった。
惣一郎はもう一度、頭を下げた。
「弟のことで、ご足労をおかけします」
「弟さんは」
「離れに」
惣一郎は、門の内側へ二人を通した。
庭は広い。
広いが、手入れが行き届きすぎていない。
木々が少しずつ好きな方へ伸びている。
庭石は濡れていた。
雨は降っていない。
六郎は、それを見た。
濡れているように見えただけかもしれない。
屋敷の中は、冷えていた。
冬の冷え方ではない。
畳の下から、水が上がってきているような冷え方だった。
廊下を歩くと、どこかで木が鳴る。
ぎし。
ぎし。
古い家なら鳴る。
それだけのことだ。
それだけのことのはずだった。
「弟さんは、いつから」
百合が聞いた。
「十日ほど前からです」
「最初は」
「眠れない、と言っていました」
惣一郎は歩きながら答えた。
「夢を見るのだと」
「どんな夢ですか」
「木に縛られている夢だそうです」
廊下の奥に、障子があった。
そこだけ、空気が濃い。
「木に」
百合が言った。
「はい。山の中の木だと。そこに、誰かが釘を打つ」
六郎は、思わず足を止めた。
惣一郎も止まる。
百合だけが、止まらなかった。
障子の前まで行き、振り返る。
「どこに打つの」
「身体に」
惣一郎の声が、ほんの少しだけ掠れた。
「胸。腹。肩。喉。足。毎晩、場所が増えるそうです」
障子の向こうで、咳がした。
咳ではない。
喉に絡んだものを、無理に剥がそうとする音だった。
六郎は、肩に力が入るのを感じた。
百合は静かに障子を開けた。
部屋の中は暗かった。
昼間なのに、暗い。
雨戸は開いている。
それでも暗い。
布団の上に、男が寝ていた。
加賀見悠二。
三十代半ばほど。
痩せている。
もともとは見栄えのする男だったのだろう。
鼻筋が通っている。
目も大きい。
口元には、軽さが残っている。
だが、その軽さが今はかえって痛々しかった。
男は、こちらを見た。
「兄さん」
声が割れていた。
「宇喜田さんだ」
惣一郎が言った。
「この方が、見てくださる」
「見てどうにかなるのかよ」
悠二は笑おうとした。
笑えなかった。
口元が引きつる。
その口の端に、黒いものがあった。
髪だった。
一本ではない。
数本でもない。
濡れた髪の束が、唇の端から覗いている。
悠二はそれを指でつまんだ。
引こうとする。
百合が言った。
「引かない方がいいわ」
悠二の手が止まった。
「なんでだよ」
「向こうも、引いているから」
部屋の中が、静かになった。
誰も動かなかった。
悠二の目だけが動いた。
百合を見て、六郎を見て、惣一郎を見た。
「向こうって、誰だよ」
百合は答えない。
答えないまま、悠二の枕元に座った。
「夢の話を聞かせて」
「嫌だ」
「そう」
百合は立ち上がろうとした。
「待てよ」
悠二が言った。
その声は、さっきより弱かった。
「聞けば、どうにかなるのか」
「聞かなければ、どうにもならないわね」
「……夢だよ」
悠二は天井を見た。
「毎晩、同じ山にいる。木がある。でかい木だ。俺はそこに縛られてる」
「誰が縛るの」
「知らねえ」
「見えないの」
「見える時もある」
「誰」
悠二は黙った。
喉が鳴った。
髪が、少しだけ口の外へ出た。
六郎は、目を逸らさなかった。
逸らしたら、悠二が一人になるような気がした。
「女だ」
悠二が言った。
「白い女だ」
「顔は」
「見えねえよ」
「なぜ」
「髪で」
悠二は唇を歪めた。
「髪で、顔が見えない」
百合は頷いた。
「その女が、釘を打つのね」
「打つ」
悠二の声が低くなった。
「一本ずつ。ゆっくり打つ。胸に打たれると、胸が痛む。腹に打たれると、腹が痛む。目が覚めると、そこが膨れてる」
惣一郎が、布団をめくった。
六郎は息を止めた。
悠二の腕に、水膨れがあった。
いくつも。
透明な膜の下に、濁った水が溜まっている。
その中に、細い黒いものが揺れていた。
水草のようにも見えた。
髪のようにも見えた。
「最初は、蚊に刺されたくらいでした」
惣一郎が言った。
「医者にも見せました。薬も塗りました。ですが」
「増えている」
百合が言った。
「はい」
「破れたものは?」
惣一郎の顔が、わずかに強張った。
「あります」
「見せて」
悠二が笑った。
今度は、少しだけ笑えた。
嫌な笑いだった。
怖がっている人間が、怖がっていないふりをする時の笑いだった。
「見世物かよ」
「そうね」
百合が言った。
「今のあなたは、見られた方がいいわ」
悠二は黙った。
惣一郎が、足元の布をめくる。
脛に、小さな穴があった。
傷口ではない。
穴だった。
皮膚に開いた小さな暗がり。
その周りが、赤く腫れている。
六郎は、胃の奥が冷えるのを感じた。
血はほとんど出ていない。
それがかえって怖かった。
身体が傷ついているというより、身体の中に別の場所が開いているようだった。
「痛むの」
百合が聞いた。
「痛えよ」
悠二が言った。
「ずっと?」
「打たれてる時だけだ」
「今は」
「今は、痒い」
「そう」
百合は、穴を見ていた。
顔色ひとつ変えない。
「釘は、まだ奥まで入っていないわね」
「どういう意味だよ」
「そのままの意味よ」
悠二は悪態をつこうとした。
だが、喉が鳴った。
咳き込む。
口から、髪が出た。
さっきより多い。
濡れた黒い束が、唇の間からずるりと垂れた。
惣一郎が手を伸ばしかける。
百合が止めた。
「触らないで」
「しかし」
「今は、弟さんのものではないわ」
惣一郎の手が宙で止まった。
悠二は涙目になっていた。
痛みなのか。
恐怖なのか。
怒りなのか。
分からない。
「誰だよ」
悠二が言った。
「誰がこんなこと」
百合は、静かに聞いた。
「心当たりは」
悠二は黙った。
部屋の隅で、柱時計が鳴った。
古い時計だった。
音が遅れている。
こつ。
こつ。
こつ。
釘の音に似ていた。
悠二の顔が歪む。
「やめろ」
誰も何もしていない。
「やめろよ」
悠二は耳を塞いだ。
柱時計は、それきり鳴らなかった。
百合は立ち上がった。
「少し、家を見せてもらえるかしら」
惣一郎が頷いた。
「もちろんです」
「弟さんは」
「私が」
「いいえ」
百合は六郎を見た。
「六郎」
「はい」
「ここにいて」
六郎は、少しだけ目を瞬いた。
「僕がですか」
「ええ」
「何をすれば」
「見ていて」
「それだけ?」
「それだけ」
百合は、そう言って部屋を出た。
惣一郎も続いた。
障子が閉まる。
部屋には、六郎と悠二だけが残された。
しばらく、何も言わなかった。
悠二は布団の中で荒く息をしている。
六郎は、畳の上に座っていた。
「お前」
悠二が言った。
「はい」
「何者だよ」
「喫茶店の息子です」
悠二は、少しだけ目を細めた。
「ふざけてんのか」
「わりと本当です」
「なんで、こんなところにいる」
六郎は考えた。
百合に巻き込まれたから。
そう言えば、それで済む。
済むが、少し違う。
「見ていてって言われたので」
「だから、なんで見てるんだよ」
「たぶん」
六郎は悠二を見た。
「あなたが、まだ見られていた方がいいからだと思います」
悠二は黙った。
その顔から、少しだけ怒りが抜けた。
代わりに、疲れたものが出た。
「俺が悪いのか」
六郎は答えなかった。
「なあ」
悠二が言った。
「俺が悪いのかよ」
「僕が言うことじゃありません」
「じゃあ誰が言うんだよ」
六郎は、少しだけ間を置いた。
「たぶん、あなたです」
悠二は、笑わなかった。
泣きもしなかった。
ただ、天井を見た。
「嫌なこと言うな」
「すみません」
「謝るなよ」
「はい」
また沈黙が落ちた。
外で、風が鳴った。
風というより、遠くで木の枝が擦れた音だった。
その音に混じって、かすかに何かが聞こえた。
かん。
六郎は顔を上げた。
悠二も、聞こえたらしい。
目を開いた。
かん。
山の方からではない。
家の中からでもない。
もっと近い。
けれど、どこからか分からない。
「来た」
悠二が言った。
「何が」
「打つんだよ」
「今は昼です」
「関係ねえよ」
悠二の喉が鳴った。
口から髪が、また少し出る。
六郎は立ち上がりかけた。
その時、障子の外で百合の声がした。
「六郎」
声は静かだった。
「はい」
「来て」
六郎は悠二を見た。
悠二は布団を握りしめている。
「すぐ戻ります」
「戻らなくていい」
悠二が言った。
「見られてんのは、嫌だ」
「そうですか」
「でも」
悠二は、少しだけ声を落とした。
「一人も、嫌だ」
六郎は返事に迷った。
結局、何も言わずに障子を開けた。
廊下に百合が立っていた。
惣一郎もいる。
百合は、床の間のある座敷へ向かった。
座敷は広かった。
畳は古いが、よく拭かれている。
床の間に、鹿角が飾られていた。
大きな角だった。
白く乾いている。
左右に伸びた形が、どこか大げさだった。
山のものを、家の中へ持ち込んだような違和感がある。
いや。
山のものが、まだ山にいる顔で、そこに置かれているように見えた。
「これは」
百合が聞いた。
「昔から家にあるものです」
惣一郎が答えた。
「誰が獲ったの」
「分かりません。祖父の頃には、すでにありました」
「鹿の角?」
「そう聞いています」
「そう」
百合は、鹿角を見たまま黙った。
六郎も見た。
見ていると、妙な感じがした。
角は落ちている。
もう鹿の頭にはない。
それなのに、まだ何かを探しているようだった。
戻る場所を。
あるいは、刺さる場所を。
「昨夜、鳴りました」
惣一郎が言った。
「鳴る?」
六郎が聞いた。
「はい」
「鹿角が?」
「誰も触れていないのに」
惣一郎は床の間を見た。
「かつん、と」
その時だった。
かつん。
小さな音がした。
座敷の中で。
誰も動いていない。
鹿角も動いていない。
けれど、音はした。
六郎は背筋が冷たくなるのを感じた。
百合は、鹿角から目を離さなかった。
「麋角解ね」
百合が言った。
「また、それですか」
「ええ」
「鹿の角が落ちる頃」
「そう」
「これは、もう落ちてますよ」
「だから鳴るのかもしれないわ」
六郎は、百合の横顔を見た。
「何が起きてるんですか」
百合は少し黙った。
「人が鬼になる時、何かを生やすとは限らないわ」
「はい」
「けれど、人が鬼に見える時は、たいてい何かが余っている」
「余っている?」
「怒りとか」
百合は言った。
「悲しみとか」
それだけだった。
廊下の奥から、悠二の声がした。
低い声。
苦しそうな声。
「打つな」
六郎は振り返った。
声は続いた。
「もう、打つな」
同時に、遠くで音がした。
山の方だった。
かん。
かん。
かん。
釘を打つ音だった。
百合は、鹿角を見たまま言った。
「今夜、社へ行きましょう」
惣一郎が息を呑んだ。
六郎は、山の方を見た。
窓の外には、夕暮れが沈んでいた。
山は黒い。
その黒さの奥で、また音がした。
かん。
かん。
かん。
その音は、木に釘を打つ音にも聞こえた。
誰かの身体に、穴を開けている音にも聞こえた。
そして一瞬、六郎には見えた気がした。
山際の古い社。
大きな杉。
白い女。
頭に、白いものが二つ立っている。
角だった。
そう見えた。
女は振り返らない。
ただ、釘を打っている。
かん。
かん。
かん。
悠二の部屋で、男が叫んだ。
鹿角が、もう一度鳴った。
かつん。
その音は、小さかった。
けれど、屋敷の奥まで届いた。




