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籠目屋商店怪異録 冬ノ巻  作者: 宇佐美夕日


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17/22

幕間 三

百合さんと別れたあと、僕はしばらく歩いた。


夜はもう終わっていた。


空は白みはじめていて、街灯の光がまだ少しだけ頼りなく残っている。朝というには静かで、夜というには明るい。そういう時間だった。


腕時計を見ると、六時を過ぎていた。


このまま帰って寝る。


そう思った。


帰るといっても、家はすぐそこだ。


藤原珈琲。


一階が喫茶店で、二階と奥が住まいになっている。


僕はそこで暮らしている。


古くもないが、新しくもない。町の中に昔からある喫茶店だ。


特別に有名な店ではない。


雑誌に載ったこともない。


けれど、朝になるといつもの人が来る。


昼には近所の人が来る。


夕方には、もう少しだけ暇になる。


そういう店だった。


父が生きていたころからの店だと、母さんは言う。


正確には、父が始めた店ではない。


父が引き継ぐはずだった店を、母さんがそのまま続けている。


僕が生まれる前に、父は死んだ。


だから、僕は父のことを知らない。


写真は見たことがある。


声は知らない。


怒った顔も、笑った時の癖も知らない。


けれど、この店に入ると、時々、僕の知らない父の何かがまだ残っているのかもしれないと思うことがある。


裏口は開いていた。


まだ開店前だ。


中から、かすかに湯の音がした。


扉を開けると、コーヒー豆の匂いがした。


それだけで、少し息がしやすくなる。


「ただいま」


カウンターの方から母さんの声がした。


「おかえり」


振り向きもしない。


いつものことだった。


母さんはカウンターの中で、仕込みをしている。


白いエプロン。


髪は後ろでまとめている。


パンを切る。


卵を割る。


小さな鍋を火にかける。


必要なものを、必要な順番で出していく。


毎朝の動きだ。


何十年も同じことをしている人の動きだった。


迷いがない。


急いでもいない。


必要な分だけ動く。


「早いわね」


「まあ」


「早いというか」


母さんは卵を溶きながら言った。


「帰ってきたのが今なのね」


「ばれた?」


「隠す気あったの?」


「少しは」


「嘘が下手ね」


「一臣兄さんにもよく言われた」


「一臣は言うでしょうね」


「次春兄さんは?」


「あの子は言わないわ」


「言わないだけ?」


「分かっているから」


母さんはそう言って、フライパンに卵を流した。


じゅ、と小さな音がした。


僕はカウンター席に座る。


一臣兄さんは東京にいる。


不動産屋の営業をしている。


人に会う仕事が向いている人だ。


昔からそうだった。


分かりやすく明るく、分かりやすく強い。


声が大きい。


姿勢がいい。


人と話す時に、相手の目をまっすぐ見る。


僕は子どものころ、それが苦手だった。


一臣兄さんは悪い人ではない。


むしろ、いい人だと思う。


ただ、僕には少しまぶしかった。


次春兄さんは兵庫で公務員をしている。


あまり喋らない。


喋らないが、人の話を聞いていないわけではない。


むしろ、こちらが言わないことを、時々ひょいと拾う。


そういう人だった。


昔から、僕は次春兄さんの横にいると少し楽だった。


何かを説明しなくていいからだ。


母さんが言う。


「一臣には言ったの?」


「何を」


「最近、帰りが遅いこと」


「言うわけないでしょ」


「でしょうね」


「言ったら、生活習慣の改善案が送られてくる」


「送ってくるわね」


「あと、睡眠時間の記録表」


「作るわね」


「次春兄さんなら?」


「何も言わないでしょうね」


「うん」


「でも、次に会った時に寝具を送ってくるわ」


「それはありそう」


母さんは皿に卵を移した。


「あなたたち三人は、変なところで似ているのよ」


「似てるかな」


「似てるわよ」


「どこが」


「自分では普通だと思ってるところ」


僕は少し黙った。


「それ、悪口?」


「少し」


「少しか」


「少しね」


母さんはそう言って、僕の前に皿を置いた。


トースト。


卵。


小さいサラダ。


店で出すものと同じだ。


でも、家族に出す時だけ、少し雑だ。


雑なのに、ちゃんとしている。


僕はフォークを手に取った。


「いただきます」


「はい」


食べる。


うまい。


いつもの味だ。


何も特別ではない。


特別ではないものに救われることがある。


そう思って、言葉にはしなかった。


母さんがこちらを見る。


「なに」


「いや」


「変な顔してる」


「いつも通りじゃない?」


「いつもより、少し戻ってきた顔」


僕は手を止めた。


「戻ってきた?」


「そう」


母さんはカウンターの向こうで布巾を畳む。


「どこからとは聞かないけど」


「何かあった?」


僕はすぐには答えなかった。


卵をフォークで切る。


黄身が皿に広がる。


「……母さん」


「なに」


「いつもありがとう」


母さんの手が止まった。


ほんの一瞬だった。


すぐにまた動き出した。


「なに」


「いや」


「怖いこと言わないで」


「怖い?」


「朝から息子に感謝される母親の気持ちを考えなさい」


僕は笑った。


「だめ?」


「だめではないけど」


母さんはカウンターを拭いた。


「似合わないわね」


「ひどいな」


「照れてるだけよ」


「母さんが?」


「あなたが」


そう言って、母さんはコーヒーを淹れ始めた。


湯が落ちる。


粉が膨らむ。


香りが立つ。


店の中に、朝の匂いが少しずつ満ちていく。


「母さん」


「なに」


「僕、最近バイトしてるんだ」


母さんはカップを用意しながら言った。


「そう」


「驚かないんだ」


「あなたが急に言うことは、だいたい急じゃないもの」


「どういう意味」


「自分の中では、もうしばらく前から始まってるってこと」


僕は黙った。


それは、当たっていた。


「どこで?」


「籠目屋商店っていうところ」


母さんはコーヒーを注いだ。


「籠目屋」


小さく繰り返す。


それだけだった。


「知ってる?」


「聞いたことはあるわ」


「へえ」


「古い名前ね」


「そうなの?」


「そんな感じがするだけ」


母さんはカップを僕の前に置いた。


それ以上は言わなかった。


知っている、とも。


知らない、とも。


ただ、コーヒーを置いた。


僕はそのカップを見た。


湯気が上がっている。


「何のお店?」


母さんが聞く。


「古い本と、酒」


「変わった組み合わせね」


「だよね」


「飲食も?」


「少しだけ」


「そう」


「あと」


僕は一瞬迷った。


「変な依頼が来る」


母さんは驚かなかった。


驚かなかったが、笑いもしなかった。


「あなた向きね」


「そうかな」


「本があって、お酒があって、変な依頼が来るなら」


「そんなに僕向き?」


「ええ」


「普通、心配しない?」


「してるわよ」


母さんは何でもないことのように言った。


「してるんだ」


「してるわよ」


「そんな顔に見えないけど」


「心配してる顔で料理すると、卵が硬くなるの」


僕は少し笑った。


「それ、ほんと?」


「嘘」


「嘘なんだ」


母さんは口もとだけ緩めた。


僕はコーヒーを飲む。


苦い。


いつもの味だ。


「籠目屋ってさ」


「うん」


「百合さんって人がやってて」


「女の人?」


「うん」


「若い?」


「若いと思う」


「思う?」


「年がよく分からない」


「失礼ね」


「僕が?」


「少し」


僕は苦笑した。


「でも、ほんとに分からないんだよ」


「そう」


母さんはパンの耳を切りながら言う。


「変わった人なのね」


「うん」


「怖い人?」


「怖くはない」


少し間。


「たぶん」


「たぶん」


「いや、怖くはない」


「言い直したわね」


「怖くはない」


「じゃあ、何」


僕は考える。


「分かってる人」


「何を」


「分からないものを」


母さんは手を止めずに聞いていた。


「そう」


「うん」


「それは、怖い人かもしれないわね」


僕はコーヒーを飲んだ。


「やっぱり怖いのかな」


「あなたが決めればいいわ」


「母さんは?」


「会っていないもの」


「会ったら?」


「分かるかもしれないし、分からないかもしれない」


「便利だなあ」


「便利よ」


母さんは平然と言った。


僕は笑った。


少し間が空いた。


「その店を教えてくれたのがさ」


「うん」


「町外れの古本屋のじいさんなんだけど」


「古本屋」


「うん」


「駅から離れたところ」


「古い店?」


「そう」


「口が悪い?」


僕は顔を上げた。


「知ってるじゃん」


母さんは砂糖の瓶を取って、棚に戻した。


「昔、あの辺りはよく歩いたから」


「学生のころ?」


「そんなところ」


「店に行ったことあるの?」


「あるかもしれない」


「かもしれない?」


「昔のことだもの」


「そんなに昔?」


「あなたが生まれる前」


「それは昔だな」


「ええ」


母さんは軽く言った。


軽すぎるくらいだった。


僕はその軽さの方が気になった。


「どんな店だった?」


「本が多かった」


「古本屋だからね」


「埃っぽかった」


「今も」


「店主が無愛想だった」


「今も」


母さんは少しだけ笑った。


「じゃあ、あまり変わっていないのね」


「そうかも」


そこで僕は止めた。


聞こうと思えば、もう少し聞けた。


でも、母さんは答えない気がした。


答えたとしても、必要な分だけだろう。


それでいいのかもしれない。


コーヒーをもう一口飲む。


「一臣兄さんには言わないでよ」


「言うわけないでしょう」


「言ったら面倒だから」


「一臣はまず、勤務先と時給と契約内容を聞くでしょうね」


「絶対聞く」


「そのあと、源泉徴収の話をするわ」


「するなあ」


「社会保険も聞くわね」


「聞く」


「交通費も」


「聞くなあ」


母さんは小さく笑った。


「でも、悪気はないのよ」


「分かってる」


「一臣は、分からないものを分かる形にしないと落ち着かないの」


「営業っぽいね」


「そうね」


「次春兄さんには?」


「言ってもいいけど」


「次春は聞くだけね」


「うん」


「でも、止めない」


「たぶん」


母さんは布巾を畳んだ。


「あの子は昔からそうだったもの」


「何が」


「分からないものを、すぐ否定しない」


僕は黙った。


子どものころ、廊下の奥に誰かがいる気がして眠れなかった夜があった。


何がいたのかは、今でも分からない。


人だったのか。


影だったのか。


ただの思い込みだったのか。


けれど、その時の僕には、確かにそこに何かがいるように思えた。


一臣兄さんは、寝ぼけているんだと言った。


その言い方に悪気はなかった。


むしろ、安心させようとしていたのだと思う。


次春兄さんは何も言わなかった。


ただ、僕の布団の横で朝まで寝てくれた。


母さんはその翌朝、いつもより少しだけ濃い味噌汁を出した。


それも、何も言わずに。


「母さんも笑わなかったよね」


「笑ってほしかった?」


「いや」


「なら、いいでしょう」


「見えてたの?」


母さんはすぐには答えなかった。


カウンターの端に置いた皿を、一枚ずつ重ねる。


「何が」


「廊下の奥」


「さあ」


「さあって」


「もう昔のことだもの」


「ずるいなあ」


「親だから」


母さんは同じ調子で言った。


「でも」


僕は言った。


「怖くはなかった」


「そう」


「次春兄さんが横にいたから」


「でしょうね」


「母さんも知ってた?」


「何を」


「僕が怖がってたこと」


「親だから」


「それだけ?」


「それだけよ」


そう言って、母さんは僕のカップにコーヒーを足した。


「六郎」


「なに」


「その店に行くなとは言わない」


「うん」


「変な依頼に関わるなとも言わない」


「いいの?」


「止めたら、やめる?」


「どうかな」


「なら、言っても仕方ないわ」


「母さんらしいな」


「そう?」


「うん」


「ただ」


母さんはカウンターを拭いた。


「帰ってきなさい」


僕は母さんを見る。


「ここに?」


「ここでも、家でも」


「どこでもいいわ」


母さんは布巾を畳む。


「帰ってくる場所を、忘れないこと」


僕はカップを見た。


湯気が上がっている。


「母さん」


「なに」


「父さんも、そういうの分かる人だったの?」


母さんはすぐには答えなかった。


鍋の火を弱める。


それから、少しだけ考える。


「お父さんは」


「うん」


「分かるというより、気にしない人だった」


「どういうこと」


「見えたものを、見えたものとして置いておける人」


「強いね」


「強いというより」


母さんは思い出すように笑った。


「鈍いところもあったのよ」


「父さんが?」


「ええ」


「僕、似てる?」


「少し」


「どこが」


「変なところで気にしないところ」


「褒めてる?」


「少し」


僕は笑った。


母さんも、それ以上は言わない。


父の家のことを聞こうかと思った。


けれど、やめた。


今聞くことではない気がした。


母さんも、聞かれるのを待っている顔ではなかった。


店の外が明るくなっていく。


開店まで、まだ時間はある。


僕はトーストの最後の一切れを食べた。


母さんは仕込みを続けている。


「手伝う?」


「寝てないんでしょう」


「少しは寝たよ」


「嘘が下手ね」


「二回目だ」


「何回でも言うわよ」


「じゃあ、椅子だけ下ろす」


「それくらいなら」


僕は立ち上がって、テーブルの上に上げられていた椅子を一つずつ下ろした。


木の足が床に触れる。


こつ。


こつ。


小さな音が店内に並んでいく。


いつもの音だ。


店が開く前の音。


朝が始まる音。


怪異でも何でもない。


ただの生活の音だった。


母さんはカウンターの中からそれを見ていた。


「雑」


「そう?」


「椅子の向き」


「細かいな」


「店だから」


「はいはい」


向きを直す。


母さんは満足したのか、それ以上言わなかった。


僕は最後の椅子を下ろして、カウンターに戻る。


「一臣兄さんなら、椅子の向きも最初から揃えるね」


「揃えるわね」


「次春兄さんは?」


「何も言わずに直すわ」


「僕は?」


「言われてから直す」


「末っ子だなあ」


「そうね」


母さんは少しだけ笑う。


僕も笑った。


こういう時間は、久しぶりだった。


何かが起きたあと。


何かが終わったあと。


そのまま眠ってしまうのではなく、こうして朝の店で椅子を下ろす。


それだけのことが、ずいぶん遠くにあった気がした。


「母さん」


「なに」


「僕、変だった?」


「いつ」


「昔から」


母さんはすぐには答えなかった。


少し考えて、


「変ではなかったわ」


と言った。


「ほんと?」


「ええ」


「一臣兄さんは、たぶん変だと思ってたよ」


「一臣は普通が好きなの」


「次春兄さんは?」


「次春は、普通かどうかに興味がないの」


「母さんは?」


母さんは僕を見る。


「あなたは六郎だったわ」


「それ、答えになってる?」


「なってるわ」


「便利だなあ」


「便利よ」


母さんはそう言って、またコーヒーを注いだ。


静かに。


僕はそれを飲む。


それだけだった。


しばらく、二人とも何も言わなかった。


店の外が、少しずつ明るくなる。


通りの向こうで、自転車の音がした。


新聞配達かもしれない。


誰かが一日を始めている。


「今日は寝なさい」


母さんが言う。


「うん」


「風呂にも入りなさい」


「分かった」


「あと、昼過ぎに起きたら、一臣に電話しなさい」


「なんで」


「この前、連絡がないって言ってたから」


「母さんに?」


「ええ」


「直接言えばいいのに」


「長男はそういうところが面倒なの」


「面倒って言った」


「言ったわ」


僕は笑った。


「次春兄さんは?」


「次春は来月帰ってくるかもしれないって」


「かもしれない」


「あの子らしいでしょう」


「らしい」


母さんはカレンダーを見る。


「三人揃うと、狭いのよね」


「店が?」


「台所が」


「僕、手伝わない方がいい?」


「あなたは皿を割るから」


「昔の話でしょ」


「最近も割ったわ」


「……そうだっけ」


「そうよ」


母さんは少しだけ笑った。


僕はカップを置く。


「母さん」


「なに」


「ありがとう」


母さんは今度は何も言わなかった。


ただ、カウンターの上に置いてあった布巾を取り、ゆっくり畳み直した。


それだけだった。


言葉にしなくても、伝わることがある。


言葉にすると、余計になることもある。


僕は最近、それを分かり始めている。


たぶん。


母さんが言う。


「六郎」


「なに」


「開店まで、あと一時間あるわよ」


「うん」


「寝なさい」


「ここで?」


「二階」


「ああ」


僕は少し笑った。


「そうだった」


カウンター席から立ち上がる。


店の奥には、住まいへ続く階段がある。


子どものころから何度も上り下りした階段だ。


店の匂いと、家の匂いの境目のような場所。


僕は階段に足をかけて、ふと振り返る。


母さんはもう仕込みに戻っている。


いつもの背中だった。


僕は何か言おうとして、やめた。


言うほどのことではなかった。


それでも、少しだけ胸の奥が軽くなっていた。


階段を上がる。


二階の廊下はまだ薄暗い。


自分の部屋の戸を開ける。


古いベッド。


畳んでいない布団。


机の上に積まれた本。


いつもの部屋だ。


僕は上着だけ脱いで、布団に倒れた。


下から、母さんがカップを並べる音がする。


こつ。


こつ。


朝の音だ。


僕は目を閉じた。


水の匂いは、もうほとんどしなかった。


かわりに、コーヒーの匂いがした。


それで十分だった。

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