幕間 終
火事というものは、大きな炎から始まるとは限らない。
紙の端に、少しだけ火がつく。
畳の縁に、煙が立つ。
灰皿の中で、火種が残る。
気づいた時には、もう遅い。
人も似たようなものだ。
大きな憎しみから、人が壊れるとは限らない。
小さな不満がある。
小さな侮りがある。
小さな寂しさがある。
それが、胸の中の乾いたところへ落ちる。
落ちた時には、何も起こらない。
音もしない。
煙も立たない。
だが、そこに火はついている。
本人だけが、それに気づかない。
ある男がいた。
男は、人の話をよく聞いた。
それが、上手かった。
相槌が上手いのではない。
慰めるのが上手いのでもない。
人が、自分でも言葉にしたくなかったことを、言葉にしてしまうまで黙っているのが上手かった。
相手が黙る。
男も黙る。
相手が笑ってごまかす。
男は笑わない。
責めもしない。
ただ、待つ。
すると人は、勝手に話し始める。
あの人は、いつも私ばかりに仕事を押しつける。
あいつは、家のことを何も分かっていない。
あの女は、自分がきれいだと思っている。
あの男は、俺を馬鹿にしている。
兄は、いつも正しい顔をする。
弟は、いつも許される。
母は、私だけを見ない。
父は、最後まで謝らなかった。
そういう言葉が、ぽつりと出る。
出た言葉は、戻らない。
男は、その時に初めて少しだけ口を開く。
「そうでしょうね」
ただ、それだけ言う。
それだけで、人は安心する。
自分の中の醜いものを、誰かが認めてくれたような気になる。
男は、決して命じない。
殺せとは言わない。
呪えとも言わない。
捨てろとも、奪えとも、壊せとも言わない。
ただ、言葉を置く。
「それは、あなたが我慢することではないでしょう」
「ずいぶん、軽く扱われていますね」
「本当に大事なら、そんなことはしませんよ」
「優しい人ほど、損をしますから」
「一度くらい、思い知らせてもいいのでは」
言葉は軽い。
軽いから、入り込む。
重い言葉は、人を警戒させる。
軽い言葉は、人の隙間へ入る。
雨水のように。
煙のように。
髪の毛のように。
ある女は、夫の茶碗を割った。
それだけだった。
夫は怒った。
女は謝った。
夫は女の手を見た。
手の甲に、小さな切り傷があった。
その傷を見て、夫は何も言えなくなった。
女は泣いた。
夫も黙った。
それだけなら、ただの夫婦喧嘩だった。
だが、その夜、女は思った。
割った時、少しだけ胸がすいた。
翌日、女は夫の湯呑を隠した。
その翌日、財布から小銭を抜いた。
その次の日、夫の母へ出すはずだった手紙を破いた。
どれも、小さなことだった。
小さなことだから、誰も気づかない。
気づいた時には、家の中の空気が変わっていた。
女は言った。
「私、悪いことをしているんでしょうか」
男は答えた。
「悪いと思うなら、やめればよいのです」
女はやめなかった。
男は、それでよかった。
ある少年は、友人の自転車の鍵を隠した。
ある娘は、姉の化粧品に水を混ぜた。
ある老人は、隣家の鉢植えを夜ごと少しずつ日陰へ動かした。
ある男は、同僚が提出する書類の順番を入れ替えた。
誰も、最初から大きな悪事をしたわけではない。
ただ、少しだけ困らせた。
少しだけ傷つけた。
少しだけ恥をかかせた。
少しだけ泣かせた。
その少しが、積もる。
積もったものは、重くなる。
重くなったものは、沈む。
沈んだものは、腐る。
腐ったものは、匂う。
男は、その匂いが好きだった。
花の匂いよりも。
酒の匂いよりも。
焚きしめた香よりも。
人が人を恨み始める時の匂いが、好きだった。
それは、甘い。
甘すぎて、舌の奥が痺れる。
名古屋の街は、夜になると別の顔をする。
昼間は、車の音と人の声がある。
信号が変わる。
電車が走る。
ビルの窓が光る。
店の扉が開き、閉じる。
人は忙しそうに歩く。
だが、夜になると、街の隙間が見える。
ビルとビルの間。
古い路地。
閉まった店の軒下。
誰も見ていない川沿い。
明るい通りの一本裏。
そこには、昼間には見えないものがある。
見えないものというのは、幽霊のことではない。
人の顔である。
昼間には作っていた顔を、夜、人は外す。
疲れた顔。
怒った顔。
何かを諦めた顔。
誰かを憎んでいる顔。
自分だけは悪くないと思っている顔。
男は、そういう顔を見るのが好きだった。
ある夜、男は小さな酒場にいた。
カウンターの奥で、若い男が酒を飲んでいる。
金はある。
顔も悪くない。
よく喋る。
女に困ったことはなさそうだった。
ただ、どこかで怯えていた。
怯えている男ほど、よく喋る。
よく喋る男ほど、自分の言葉に酔う。
その若い男は、女の話をしていた。
「悪い子じゃないんですけどね」
男は聞いていた。
「重いんですよ」
男は頷いた。
「待ってるんですよ。いつも。こっちはそんなつもりじゃないのに」
男は、少しだけ笑った。
若い男は、笑われたと思わなかった。
理解されたと思った。
「女の人は、不安になると、試してくるでしょう」
男は言った。
若い男は、身を乗り出した。
「そうなんですよ」
「なら、あなたも試せばいい」
「俺が?」
「ええ」
男は、グラスの縁を指で撫でた。
「それでも来るかどうか」
若い男は、黙った。
その顔に、面白がる色が浮かんだ。
その下に、迷いも浮かんだ。
迷いは、まだあった。
男は、そこへもう一言だけ置いた。
「本当にあなたを好きなら、来るでしょう」
若い男は、その夜、よく酒を飲んだ。
別の日、男は小さな食堂の前にいた。
女がひとり、店の外に立っている。
薄い上着を着ていた。
寒そうだった。
それでも、帰らなかった。
店の中には、さっきの若い男がいる。
窓から、外の女が見えている。
若い男は、出てこなかった。
男は、女の少し後ろに立った。
女は気づいた。
振り返る。
「待っているのですか」
男は訊いた。
女は答えなかった。
「来ない人を」
女の顔が、少しだけ歪んだ。
男は、それを見た。
美しいと思った。
美人かどうかではない。
人の心が、割れる時の顔は美しい。
「来ます」
女は言った。
「そうですか」
男は頷いた。
「なら、待つといい」
女はまた前を向いた。
男は、女の背中へ言った。
「けれど、待つだけでは届かないこともあります」
女は動かなかった。
聞こえていないふりをしていた。
聞こえていないふりをする人間ほど、聞いている。
男は続けた。
「本当に届く祈り方があります」
女の肩が、かすかに動いた。
男は、それ以上言わなかった。
言いすぎてはいけない。
言葉は、余らせるくらいがよい。
余った言葉を、人は自分で埋める。
自分で埋めたものを、人は自分の考えだと思う。
男は、そのやり方をよく知っていた。
山の社を教えたのは、別の日だった。
釘を渡したのは、さらに別の日だった。
白いものを用意したのは、女自身だったのかもしれない。
男が渡したのかもしれない。
そこは、どちらでもよい。
大切なのは、女が自分の手でそれを選んだと思っていることだった。
人は、自分で選んだと思うものに、よく縛られる。
男は、縛るのが好きだった。
縄ではない。
鎖でもない。
言葉で縛る。
恩で縛る。
恥で縛る。
孤独で縛る。
愛で縛る。
愛は、よく縛れる。
それは柔らかい。
柔らかいから、食い込む。
女は、やがて山へ行った。
若い男は、やがて寝床で苦しんだ。
兄は、弟を守ろうとした。
弟は、最後に何かを落とした。
女も、落とした。
男は、それを遠くから見ていた。
見ていたというのは、目で見ていたという意味ではない。
見なくても分かることはある。
人が鬼になる時、空気が甘くなる。
鬼になったものが落ちる時、音が変わる。
その夜、音が変わった。
男は、それを聞いた。
つまらない、と思った。
女は、鬼のままでは死ななかった。
若い男も、鬼のままでは死ななかった。
魂は、扱いやすい形にならなかった。
それは、少し惜しいことだった。
男は、惜しいと思った。
怒りはしなかった。
怒るほどのことではない。
一度や二度、邪魔をされたところで、火種はいくらでもある。
街には人がいる。
人がいるところには、不満がある。
不満があるところには、恨みがある。
恨みがあるところには、鬼の芽がある。
男は、それを拾えばいい。
拾って、少しだけ温めればいい。
ある夕方、男は犬山の方へ向かった。
古い町並みの近くに、小さな店があると聞いていた。
古い本と酒を扱う店。
店内で酒も飲める。
何でも屋のようなこともしている。
怪異に関わる依頼も舞い込むという。
店の名は、籠目屋商店。
男は、その名を聞いた時、少しだけ笑った。
籠目。
籠の目。
目が多い。
目が多いものは、厄介である。
見なくてよいものまで、見る。
男は、店の前までは行かなかった。
路地の向こうから、眺めただけだった。
店の戸は閉まっている。
暖簾も出ていない。
けれど、奥に灯りがある。
薄い灯りだ。
人を招く灯りではない。
それでも、迷ったものはあそこへ行くのだろう。
男は、路地の影に立っていた。
店の中には、女がいる。
宇喜田百合。
男は、その名を知っていた。
会ったことはない。
まだ。
だが、名は知っている。
そういう名は、自然と耳に入る。
水の音のように。
釘の音のように。
男は、店の奥の灯りを見ていた。
その時、戸の内側で何かが動いた。
女ではない。
男でもない。
本でもない。
酒瓶でもない。
もっと古いものが、こちらを見た気がした。
男は、少し目を細めた。
「なるほど」
小さく、そう言った。
風が吹いた。
路地の端に落ちていた枯葉が、石畳の上を滑った。
からからと鳴った。
それは、釘の音には似ていなかった。
骨の音に似ていた。
男は、踵を返した。
今日は、まだよい。
冬は終わる。
終われば、春が来る。
春は芽の季節である。
芽は、どこにでも出る。
土の中にも。
人の中にも。
男は、また歩き出した。
その後ろ姿は、長身痩躯であった。
黒い背広を着ている。
喪服ではない。
だが、喪服のように見える。
肌は白い。
病の白さではない。
月の下に置いた紙のような白さであった。
眼は細い。
笑っているようにも見える。
怒っているようにも見える。
どちらでもないのかもしれない。
髪は黒い。
濡れているわけでもないのに、蜜を塗ったような艶があった。
その男は、鬼ではなかった。
幽霊でもなかった。
この世に生きている、人間であった。
ただし、人を鬼にすることを知っている人間だった。
男は、夜の方へ消えていった。
籠目屋商店の戸の内側で、小さく鈴が鳴った。
からん。
誰も、戸には触れていなかった。




