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籠目屋商店怪異録 冬ノ巻  作者: 宇佐美夕日


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22/22

幕間 終

火事というものは、大きな炎から始まるとは限らない。


紙の端に、少しだけ火がつく。


畳の縁に、煙が立つ。


灰皿の中で、火種が残る。


気づいた時には、もう遅い。


人も似たようなものだ。


大きな憎しみから、人が壊れるとは限らない。


小さな不満がある。


小さな侮りがある。


小さな寂しさがある。


それが、胸の中の乾いたところへ落ちる。


落ちた時には、何も起こらない。


音もしない。


煙も立たない。


だが、そこに火はついている。


本人だけが、それに気づかない。


ある男がいた。


男は、人の話をよく聞いた。


それが、上手かった。


相槌が上手いのではない。


慰めるのが上手いのでもない。


人が、自分でも言葉にしたくなかったことを、言葉にしてしまうまで黙っているのが上手かった。


相手が黙る。


男も黙る。


相手が笑ってごまかす。


男は笑わない。


責めもしない。


ただ、待つ。


すると人は、勝手に話し始める。


あの人は、いつも私ばかりに仕事を押しつける。


あいつは、家のことを何も分かっていない。


あの女は、自分がきれいだと思っている。


あの男は、俺を馬鹿にしている。


兄は、いつも正しい顔をする。


弟は、いつも許される。


母は、私だけを見ない。


父は、最後まで謝らなかった。


そういう言葉が、ぽつりと出る。


出た言葉は、戻らない。


男は、その時に初めて少しだけ口を開く。


「そうでしょうね」


ただ、それだけ言う。


それだけで、人は安心する。


自分の中の醜いものを、誰かが認めてくれたような気になる。


男は、決して命じない。


殺せとは言わない。


呪えとも言わない。


捨てろとも、奪えとも、壊せとも言わない。


ただ、言葉を置く。


「それは、あなたが我慢することではないでしょう」


「ずいぶん、軽く扱われていますね」


「本当に大事なら、そんなことはしませんよ」


「優しい人ほど、損をしますから」


「一度くらい、思い知らせてもいいのでは」


言葉は軽い。


軽いから、入り込む。


重い言葉は、人を警戒させる。


軽い言葉は、人の隙間へ入る。


雨水のように。


煙のように。


髪の毛のように。


ある女は、夫の茶碗を割った。


それだけだった。


夫は怒った。


女は謝った。


夫は女の手を見た。


手の甲に、小さな切り傷があった。


その傷を見て、夫は何も言えなくなった。


女は泣いた。


夫も黙った。


それだけなら、ただの夫婦喧嘩だった。


だが、その夜、女は思った。


割った時、少しだけ胸がすいた。


翌日、女は夫の湯呑を隠した。


その翌日、財布から小銭を抜いた。


その次の日、夫の母へ出すはずだった手紙を破いた。


どれも、小さなことだった。


小さなことだから、誰も気づかない。


気づいた時には、家の中の空気が変わっていた。


女は言った。


「私、悪いことをしているんでしょうか」


男は答えた。


「悪いと思うなら、やめればよいのです」


女はやめなかった。


男は、それでよかった。


ある少年は、友人の自転車の鍵を隠した。


ある娘は、姉の化粧品に水を混ぜた。


ある老人は、隣家の鉢植えを夜ごと少しずつ日陰へ動かした。


ある男は、同僚が提出する書類の順番を入れ替えた。


誰も、最初から大きな悪事をしたわけではない。


ただ、少しだけ困らせた。


少しだけ傷つけた。


少しだけ恥をかかせた。


少しだけ泣かせた。


その少しが、積もる。


積もったものは、重くなる。


重くなったものは、沈む。


沈んだものは、腐る。


腐ったものは、匂う。


男は、その匂いが好きだった。


花の匂いよりも。


酒の匂いよりも。


焚きしめた香よりも。


人が人を恨み始める時の匂いが、好きだった。


それは、甘い。


甘すぎて、舌の奥が痺れる。


名古屋の街は、夜になると別の顔をする。


昼間は、車の音と人の声がある。


信号が変わる。


電車が走る。


ビルの窓が光る。


店の扉が開き、閉じる。


人は忙しそうに歩く。


だが、夜になると、街の隙間が見える。


ビルとビルの間。


古い路地。


閉まった店の軒下。


誰も見ていない川沿い。


明るい通りの一本裏。


そこには、昼間には見えないものがある。


見えないものというのは、幽霊のことではない。


人の顔である。


昼間には作っていた顔を、夜、人は外す。


疲れた顔。


怒った顔。


何かを諦めた顔。


誰かを憎んでいる顔。


自分だけは悪くないと思っている顔。


男は、そういう顔を見るのが好きだった。


ある夜、男は小さな酒場にいた。


カウンターの奥で、若い男が酒を飲んでいる。


金はある。


顔も悪くない。


よく喋る。


女に困ったことはなさそうだった。


ただ、どこかで怯えていた。


怯えている男ほど、よく喋る。


よく喋る男ほど、自分の言葉に酔う。


その若い男は、女の話をしていた。


「悪い子じゃないんですけどね」


男は聞いていた。


「重いんですよ」


男は頷いた。


「待ってるんですよ。いつも。こっちはそんなつもりじゃないのに」


男は、少しだけ笑った。


若い男は、笑われたと思わなかった。


理解されたと思った。


「女の人は、不安になると、試してくるでしょう」


男は言った。


若い男は、身を乗り出した。


「そうなんですよ」


「なら、あなたも試せばいい」


「俺が?」


「ええ」


男は、グラスの縁を指で撫でた。


「それでも来るかどうか」


若い男は、黙った。


その顔に、面白がる色が浮かんだ。


その下に、迷いも浮かんだ。


迷いは、まだあった。


男は、そこへもう一言だけ置いた。


「本当にあなたを好きなら、来るでしょう」


若い男は、その夜、よく酒を飲んだ。


別の日、男は小さな食堂の前にいた。


女がひとり、店の外に立っている。


薄い上着を着ていた。


寒そうだった。


それでも、帰らなかった。


店の中には、さっきの若い男がいる。


窓から、外の女が見えている。


若い男は、出てこなかった。


男は、女の少し後ろに立った。


女は気づいた。


振り返る。


「待っているのですか」


男は訊いた。


女は答えなかった。


「来ない人を」


女の顔が、少しだけ歪んだ。


男は、それを見た。


美しいと思った。


美人かどうかではない。


人の心が、割れる時の顔は美しい。


「来ます」


女は言った。


「そうですか」


男は頷いた。


「なら、待つといい」


女はまた前を向いた。


男は、女の背中へ言った。


「けれど、待つだけでは届かないこともあります」


女は動かなかった。


聞こえていないふりをしていた。


聞こえていないふりをする人間ほど、聞いている。


男は続けた。


「本当に届く祈り方があります」


女の肩が、かすかに動いた。


男は、それ以上言わなかった。


言いすぎてはいけない。


言葉は、余らせるくらいがよい。


余った言葉を、人は自分で埋める。


自分で埋めたものを、人は自分の考えだと思う。


男は、そのやり方をよく知っていた。


山の社を教えたのは、別の日だった。


釘を渡したのは、さらに別の日だった。


白いものを用意したのは、女自身だったのかもしれない。


男が渡したのかもしれない。


そこは、どちらでもよい。


大切なのは、女が自分の手でそれを選んだと思っていることだった。


人は、自分で選んだと思うものに、よく縛られる。


男は、縛るのが好きだった。


縄ではない。


鎖でもない。


言葉で縛る。


恩で縛る。


恥で縛る。


孤独で縛る。


愛で縛る。


愛は、よく縛れる。


それは柔らかい。


柔らかいから、食い込む。


女は、やがて山へ行った。


若い男は、やがて寝床で苦しんだ。


兄は、弟を守ろうとした。


弟は、最後に何かを落とした。


女も、落とした。


男は、それを遠くから見ていた。


見ていたというのは、目で見ていたという意味ではない。


見なくても分かることはある。


人が鬼になる時、空気が甘くなる。


鬼になったものが落ちる時、音が変わる。


その夜、音が変わった。


男は、それを聞いた。


つまらない、と思った。


女は、鬼のままでは死ななかった。


若い男も、鬼のままでは死ななかった。


魂は、扱いやすい形にならなかった。


それは、少し惜しいことだった。


男は、惜しいと思った。


怒りはしなかった。


怒るほどのことではない。


一度や二度、邪魔をされたところで、火種はいくらでもある。


街には人がいる。


人がいるところには、不満がある。


不満があるところには、恨みがある。


恨みがあるところには、鬼の芽がある。


男は、それを拾えばいい。


拾って、少しだけ温めればいい。


ある夕方、男は犬山の方へ向かった。


古い町並みの近くに、小さな店があると聞いていた。


古い本と酒を扱う店。


店内で酒も飲める。


何でも屋のようなこともしている。


怪異に関わる依頼も舞い込むという。


店の名は、籠目屋商店。


男は、その名を聞いた時、少しだけ笑った。


籠目。


籠の目。


目が多い。


目が多いものは、厄介である。


見なくてよいものまで、見る。


男は、店の前までは行かなかった。


路地の向こうから、眺めただけだった。


店の戸は閉まっている。


暖簾も出ていない。


けれど、奥に灯りがある。


薄い灯りだ。


人を招く灯りではない。


それでも、迷ったものはあそこへ行くのだろう。


男は、路地の影に立っていた。


店の中には、女がいる。


宇喜田百合。


男は、その名を知っていた。


会ったことはない。


まだ。


だが、名は知っている。


そういう名は、自然と耳に入る。


水の音のように。


釘の音のように。


男は、店の奥の灯りを見ていた。


その時、戸の内側で何かが動いた。


女ではない。


男でもない。


本でもない。


酒瓶でもない。


もっと古いものが、こちらを見た気がした。


男は、少し目を細めた。


「なるほど」


小さく、そう言った。


風が吹いた。


路地の端に落ちていた枯葉が、石畳の上を滑った。


からからと鳴った。


それは、釘の音には似ていなかった。


骨の音に似ていた。


男は、踵を返した。


今日は、まだよい。


冬は終わる。


終われば、春が来る。


春は芽の季節である。


芽は、どこにでも出る。


土の中にも。


人の中にも。


男は、また歩き出した。


その後ろ姿は、長身痩躯であった。


黒い背広を着ている。


喪服ではない。


だが、喪服のように見える。


肌は白い。


病の白さではない。


月の下に置いた紙のような白さであった。


眼は細い。


笑っているようにも見える。


怒っているようにも見える。


どちらでもないのかもしれない。


髪は黒い。


濡れているわけでもないのに、蜜を塗ったような艶があった。


その男は、鬼ではなかった。


幽霊でもなかった。


この世に生きている、人間であった。


ただし、人を鬼にすることを知っている人間だった。


男は、夜の方へ消えていった。


籠目屋商店の戸の内側で、小さく鈴が鳴った。


からん。


誰も、戸には触れていなかった。

挿絵(By みてみん)

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