鱖魚群 二
鱖魚群
翌朝になっても、六郎の耳には笑い声が残っていた。
声と呼んでいいのかどうかは、わからない。
水音と言われれば、そうだったかもしれない。
風が橋の下を抜けただけだと言われれば、そうだったかもしれない。
けれど六郎には、あれが笑い声に聞こえた。
小さなものが、遠くで笑っている。
楽しそうではない。
けれど、悲しそうでもない。
それが、嫌だった。
籠目屋商店へ行くと、百合は帳場の奥で、昨日とは違う本を読んでいた。
今度は冊子ではない。
地図だった。
古い地図を広げ、その上に細い指を置いている。
六郎が戸を閉めると、百合は顔を上げた。
「眠れた?」
「寝ましたよ」
「そう」
「眠れたかと聞かれると、ちょっと違いますけど」
「聞こえていたのね」
「何がですか」
「笑い声」
六郎は黙った。
百合は地図へ目を戻した。
それで答えは済んだらしい。
六郎は店の奥へ入り、百合の前に座った。
「昨日のあれ、何なんですか」
「舟ね」
「それは聞きました」
「小鬼も乗っているわ」
「それも聞きました」
「じゃあ、だいたい聞いているわね」
「肝心なところが抜けてます」
百合は少しだけ首を傾けた。
「肝心なところ?」
「なぜ上るのか、とか」
「ええ」
「なぜ増えるのか、とか」
「そうね」
「なぜ笑っているのか、とか」
百合は指先で、古い地図の上をなぞった。
「それは、これから」
「調べるんですか」
「ええ」
「珍しく順序がありますね」
「いつもあるわ」
「そうでしたっけ」
「あなたが気づかないだけ」
六郎は言い返そうとして、やめた。
百合の前に広げられている地図を見る。
紙は黄ばんでいる。
今の道路とは少し違う線が引かれている。細い水路らしいものが、堀川へ向かって何本も伸びていた。
「これ、堀川ですか」
「古い地図よ」
「見ればわかります」
「そう」
「この細い線は?」
「水路」
「今もあるんですか」
「ないものもあるわ」
「ないものも、地図には残るんですね」
「地図だけではないわ」
百合は、一本の細い線に指を止めた。
「水の通ったところは、なかなか乾かない」
「地面がですか」
「地面も」
「も?」
「人も」
六郎は黙った。
百合は地図を畳んだ。
「行きましょう」
「どこへ」
「澪標」
「朝からバーですか」
「飲まないわ」
「それは知ってますけど」
百合は外套を取った。
「見た人に、聞くの」
「小鬼を?」
「ええ」
「嫌ですね」
「聞くだけよ」
「聞くだけで済むならいいですけど」
百合は答えなかった。
それが余計に嫌だった。
⸻
BAR 澪標は、昼間見ると、夜とはまるで違う顔をしていた。
入口の真鍮の板は、少しくすんでいる。
窓には薄いカーテンがかかっていて、堀川の水面はその向こうにぼんやり見えた。
昼の堀川は黒くない。
濁った灰色をしている。
夜にはあれほど深く見えた水が、昼には浅く見える。
けれど六郎は、夜よりも安心しなかった。
浅く見えるものほど、底がわからないこともある。
瀬尾透は、店の中でグラスを並べていた。
昼の店内には客はいない。
音楽も流れていない。
そのせいで、瓶同士の触れる音がやけにはっきり聞こえた。
「お待ちしていました」
瀬尾はそう言って、二人を中へ通した。
カウンターには、すでに数枚のメモが置かれていた。
「昨日のうちに、舟を見た方へ連絡しておきました」
「助かるわ」
百合が言った。
六郎はメモを見る。
名前と、見た日時と、場所が書いてある。
几帳面な字だった。
「瀬尾さん、仕事が早いですね」
「こういうことは、早く済ませたいので」
「でしょうね」
「ただ」
瀬尾は少し言いにくそうにした。
「おひとり、もう来ています」
「誰ですか」
六郎が聞くより先に、店の奥から声がした。
「悪かったね、暇で」
鳴海小夜だった。
昨日と同じように、軽い顔をしている。
ただ、昼に見ると、いくらか幼く見えた。
夜の店で見るための顔と、昼の顔とは、やはり違う。
小夜はカウンターの端に腰掛けていた。
水の入ったグラスを、両手で挟むように持っている。
「仕事は?」
六郎が聞くと、小夜は片眉を上げた。
「あんた、いきなりそれ聞く?」
「すみません」
「今日は遅番」
「そうですか」
「興味ない返事すんな」
「いや、あるように見せる方が失礼かと」
小夜は少し笑った。
「変なやつ」
「よく言われます」
「またそれ」
百合は小夜の前に立った。
「昨日の話を、もう少し聞かせて」
「笛の話?」
「それも」
小夜はグラスの縁に指を置いた。
「舟を見たのは、この店を出たあと。あそこの橋の手前」
窓の外を指す。
「タクシー待ってた。寒いし、腹立つし、眠いし。そうしたら、川に何かいた」
「最初から舟だとわかった?」
「ううん」
小夜は首を振った。
「最初は、影。水の上に黒いものがあって、流れてるんじゃなくて、動いてた。上へ」
「何が乗っていた」
「ちびの鬼。三つ」
「三つとも、同じように見えた?」
小夜は少し考えた。
「違う」
「どう違うの」
「一つは、膝抱えてた。一つは、ずっと下向いてた。もう一つは、何か持ってた」
六郎が顔を上げた。
「何か?」
「布みたいなやつ。ぐしゃぐしゃの。人形かと思ったけど、違うかも」
「何色でした?」
「暗くてわかんない。白っぽいような、泥っぽいような」
百合は静かに聞いている。
小夜は、水を一口飲んだ。
「で、笛が聞こえた」
「舟から?」
「わかんない。舟からじゃない気もする」
「どこから」
「川の下」
六郎は小夜を見た。
「川の下?」
「うん。水の下じゃなくて、川の下。もっと下。地面の中みたいなところ」
小夜は自分で言って、少し嫌そうな顔をした。
「今の、変だね」
「変ですね」
「そこは否定しろよ」
「すみません」
「謝ればいいと思ってんでしょ」
「少し」
「正直だな」
百合が言った。
「その笛を聞いたあと、どうなったの」
小夜はグラスを見た。
「静かになった」
「自分が?」
「うん」
「怖くなくなった?」
「怖かったよ」
小夜はすぐに言った。
「でも、怖いのが遠くなった。目の前にあるのに、遠い。ああいう感じ」
百合はうなずいた。
「あなたは、呼ばれなかったのね」
小夜の指が止まった。
「呼ばれること、あるの?」
「あるわ」
「誰に」
「戻るものに」
小夜はしばらく百合を見ていた。
それから、口元だけで笑った。
「やっぱ普通じゃないわ」
「そうかしら」
「そうだよ」
「そう」
小夜は少しだけ真面目な顔になった。
「ねえ」
「なに」
「あれ、悪いもの?」
百合はすぐには答えなかった。
店の中の空気が静かになった。
瀬尾の手も止まっている。
六郎も、なぜか息を浅くした。
百合は、窓の向こうの堀川を見た。
「まだ、わからないわ」
「ふうん」
小夜はつまらなさそうに言った。
けれど、それ以上聞かなかった。
⸻
次に来たのは、田所という男だった。
五十代半ば。
建設会社に勤めているらしく、日焼けした顔をしていた。体つきも大きい。
だが、カウンターに座ると、妙に落ち着かなかった。
手を膝に置いたり、グラスを触ったり、窓を見たりする。
「こんな話、人にするもんじゃないんだけどな」
田所は最初にそう言った。
瀬尾が言う。
「最初に話したのは田所さんですよ」
「だから後悔してるんだよ」
「でも、見たのでしょう」
百合が言うと、田所は百合を見た。
そして、諦めたように息を吐いた。
「見ましたよ」
「いつ」
「二週間くらい前だ。ここで飲んで、外に出た。俺は酒は強い方だし、その日は二杯しか飲んでない。酔ってはいたが、足元が怪しくなるほどじゃなかった」
「場所は」
「この店の前。ちょうど、あの街灯の下あたりから見た」
田所は窓の外を指した。
「舟は、どちらから」
「下だ」
「下流」
「ああ。音もなく上ってきた。古い舟だった。木の舟だ。今どき、あんなもん堀川に浮かんでるわけがない」
「乗っていたものは」
田所は唇を噛んだ。
「一匹だ」
「どんなふうに」
「子どもくらいの大きさだった。膝を抱えていた。髪が顔に張りついていて、顔はよく見えなかった。肌は黒い。泥を塗ったみたいに黒かった」
「こちらを見た?」
「見てない」
「笑っていた?」
「笑ってない」
田所は強く首を振った。
「笑ってなんかなかった。ただ、座っていた」
「怖かったですか」
六郎が聞くと、田所は少しむっとした顔をした。
「そりゃ怖いだろ」
「すみません」
「いや」
田所はすぐに表情を戻した。
「怖いというよりな、気の毒だった」
「気の毒」
六郎が聞き返す。
田所は、自分でも不思議そうな顔をした。
「ああ。なんでそう思ったのかはわからん。ただ、あれを見たとき、こいつはどこにも行けないんだなと思った」
百合が、少しだけ田所を見た。
「どこにも?」
「舟は動いてるのに、そう思ったんだ」
田所は窓の外を見る。
「上っているのに、どこにも着かない。そんな感じがした」
六郎は黙った。
舟は動いている。
なのに、どこにも着かない。
それは、昨日の笑い声よりも、六郎には嫌な感じがした。
百合は静かに言った。
「最初の一人ね」
田所が聞き返す。
「何がです」
「いいえ」
百合は答えなかった。
田所も、それ以上聞かなかった。
聞かない方がいいと思ったのかもしれない。
あるいは、聞いてもわからないと思ったのかもしれない。
次に来たのは、安西という女だった。
三十代後半。
近くのホテルで働いているという。
きちんとした服装で、言葉遣いも丁寧だった。
だが、舟の話になると、声が少し乱れた。
「私は、二匹見ました」
「場所は」
百合が聞く。
「納屋橋の少し上です。仕事帰りで、川沿いを歩いていました。舟が、反対側の岸に沿って上っていきました」
「何か音は」
「ありません。ただ」
「ただ?」
「水の匂いが、急に強くなりました」
六郎は顔を上げた。
「どんな匂いですか」
安西は少し考えた。
「雨の日の玄関みたいな」
「玄関」
「子どもが濡れて帰ってきた時の匂い、と言えばいいでしょうか」
六郎は黙った。
昨日、自分が感じた匂いに似ていた。
濡れた服。
甘くない子どもの匂い。
安西は続けた。
「舟にいたものは、二匹とも座っていました。一匹は小さく丸まっていて、もう一匹は横を向いていました」
「横?」
「はい。誰かを探しているように見えました」
「誰を」
安西は首を振った。
「わかりません。でも、何かを待っている顔でした」
「顔は見えたのですか」
「見えました」
安西は、そこだけはっきり言った。
「子どもではありませんでした」
六郎は聞いた。
「鬼、ですか」
「鬼というものを、私は見たことがありません」
安西は静かに答えた。
「でも、人ではありませんでした」
少し間があった。
「ただ」
「ただ?」
「人でないものが、人を待っているように見えるのは、嫌なものですね」
安西はそう言って、膝の上の手を握った。
それ以上、百合は聞かなかった。
最後に来たのは、年配の男だった。
名前は江口。
堀川沿いで古い喫茶店をやっていたが、数年前に閉めたという。
今は昼間に散歩をし、夜は澪標で一杯だけ飲む。
瀬尾が「この辺りの昔のことなら、江口さんが一番詳しいです」と言った。
江口は、ゆっくりした動きで椅子に座った。
「舟を見たのは、一昨日だ」
「何匹いました?」
六郎が聞く。
江口は六郎を見て、少し笑った。
「匹と数えるのか」
「あ、いや」
「いや、たしかに人ではなかったな」
江口は窓の外へ目を向けた。
「四つ、いた」
小夜が小さく笑った。
「ほら、やっぱ『つ』になるじゃん」
六郎は何も言わなかった。
百合が聞く。
「どこで見たの」
「五条橋の近く」
「上っているわね」
江口は百合を見た。
「そうだ。だんだん上へ行っている」
瀬尾が顔を上げた。
「江口さんも、そう思いますか」
「思うも何も、場所が違う。あれは同じ舟だろう。少しずつ上っている」
「何のために」
六郎が聞くと、江口は黙った。
しばらくして、低い声で言った。
「昔、この川はよく溢れた」
店の空気が、少し変わった。
瀬尾も、小夜も、黙った。
江口は続けた。
「今みたいに、川べりがきれいに整っていたわけじゃない。水路も多かった。細い川も、溝も、暗い抜け道もあった。雨が降れば、どこから水が来るかわからんかった」
「水害があったんですか」
「何度もな」
江口はグラスの水を見た。
飲まない。
ただ見ている。
「子どもが流された話もある」
六郎は息を止めた。
百合は何も言わない。
江口は、ゆっくりと言った。
「もっとも、古い話だ。俺が生まれる前のものもある。親から聞いた。祖母からも聞いた。堀川には、流された子の話が残りやすい」
「残りやすい?」
「家の話より、川の話は長く残る」
江口は、窓の外を見た。
「家は建て替わる。道も変わる。店もなくなる。だが川は、まあ、そこにある。水の色は変わってもな」
百合が小さく言った。
「残るのね」
「そうだ」
江口はうなずいた。
「残ってしまう」
六郎は聞いた。
「その、流された子どもたちは、見つかったんですか」
江口はすぐには答えなかった。
やがて首を振る。
「見つかった子もいる。見つからなかった子もいる」
「何人」
「さあな。そういう話は、数が合わなくなる」
「数が合わない?」
「聞くたびに変わるんだ。三人だったり、五人だったり、七人だったりする」
瀬尾が、小さく息を呑んだ。
「増える」
小夜がぽつりと言った。
誰もそれに答えなかった。
百合は江口に聞いた。
「地蔵の話は、知っている?」
江口の顔が、少しだけ強張った。
「どこの」
「川沿いの」
「川沿いに地蔵なんて、いくつもあった」
「子どもが待つ地蔵」
江口は、百合をじっと見た。
「誰に聞いた」
「まだ誰にも」
江口は苦い顔をした。
「そういう言い方をするやつは、昔からろくでもない」
六郎はなぜか、町外れの古本屋の老人を思い出した。
口の悪い老人たちは、みな同じようなことを言う。
江口はゆっくり話し始めた。
「昔、川沿いに小さな地蔵があった。赤い前掛けをしていた。子どもの守り地蔵だと言われていた」
「今は」
「ない」
「壊されたんですか」
「いや。移された」
「どこへ」
「少し離れた寺の脇だ。道路の工事だか、建物の都合だかでな。台座だけは、しばらく残っていた」
百合の目が、ほんの少しだけ細くなった。
「台座は、今も?」
「さあ」
江口は首を傾げた。
「残っているかもしれんし、もうないかもしれん。あの辺りもずいぶん変わった」
「その地蔵と、流された子どもの話はつながっていますか」
六郎が聞いた。
江口は黙った。
その沈黙は、知らない者の沈黙ではなかった。
言うべきかどうか迷う者の沈黙だった。
やがて、江口は言った。
「母親がいた」
「母親?」
「子を流された母親だ。子どもに、いつも言っていたそうだ。迷ったら、お地蔵さんのところで待っていなさい、と」
小夜が、グラスから指を離した。
瀬尾は窓の外を見たまま動かない。
六郎は、言葉を失った。
江口は続けた。
「その子は、戻らなかった」
「その子、ということは」
「一人ではない。兄弟だったとも聞くし、近所の子も一緒だったとも聞く。そこも話が変わる。ただ、その母親は長いこと地蔵のところに通っていた。赤い前掛けを替え、握り飯を置いた。子どもが帰ってきたら腹が減っているだろう、と言ってな」
瀬尾が、小さく言った。
「握り飯」
江口はうなずいた。
「そう聞いた」
百合は静かに言った。
「その母親は」
「とっくに亡くなっている」
「そう」
「地蔵も移された。母親もいない。話を知っている人間も減った」
江口は水をひと口飲んだ。
「だから、もう終わった話だと思っていた」
誰も何も言わなかった。
外では、昼の堀川が静かに流れている。
水面には、明るい空が映っていた。
けれど六郎には、その下を何かがゆっくり上っているように思えた。
⸻
店を出て、百合と六郎は江口に教えられた場所へ向かった。
小夜はついてこなかった。
「仕事あるし」
そう言った。
だが、店を出るとき、六郎の方を見て、
「あんた、見すぎない方がいいよ」
と言った。
「何をですか」
「舟」
「なぜ」
「知らない」
小夜は肩をすくめた。
「でも、見すぎると、向こうも見るじゃん」
六郎は返す言葉に困った。
小夜は少し笑って、店の奥へ戻っていった。
瀬尾は地図を書いてくれた。
江口が横から何度も直したせいで、地図には線がいくつも重なっている。
「この辺りだそうです」
瀬尾が言った。
「台座が残っているかどうかは、わかりませんが」
「ありがとう」
百合が言う。
瀬尾は少し迷ったようにしてから、口を開いた。
「あの」
「なに」
「もし、それが子どもの話なら」
そこまで言って、止まった。
百合は待った。
瀬尾は言葉を探すように、視線を落とした。
「怖がっていたことが、申し訳ないような気もします」
六郎は瀬尾を見た。
瀬尾は、自分でも困ったような顔をしていた。
百合は静かに言った。
「怖いものは、怖くていいわ」
「そうでしょうか」
「ええ」
「子どもでも?」
「子どもだから、怖いこともあるわ」
瀬尾は黙った。
百合は続けた。
「怖がることと、憐れむことは、同じ場所にあってもいいの」
瀬尾は小さく頭を下げた。
「また夜に来ます」
百合はそう言った。
瀬尾はうなずいた。
「開けておきます」
「閉めていてもいいわ」
「いえ」
瀬尾は少しだけ笑った。
「今日は、開けておきたいので」
百合はそれ以上、何も言わなかった。
堀川沿いを歩く。
昼の街は人が多い。
車も多い。
水面のそばには、知らない誰かの吸い殻や、濡れた落ち葉があった。
百合は地図を見ない。
瀬尾が書いた紙は、六郎が持っている。
それなのに、百合は迷わず歩いていく。
「地図、見なくていいんですか」
「見ているわ」
「どこを」
「水の方」
「地図じゃないですね」
「水も地図よ」
六郎は、もう何も言わなかった。
しばらく歩くと、川から少しだけ離れた細い道に入った。
古いビルと新しいマンションの間に、妙な空き地があった。
狭い。
何かを建てるには半端で、駐車場にするにも小さい。
奥に、低い石があった。
最初は、ただの基礎石かと思った。
けれど近づくと、違うとわかった。
四角い台座だった。
その上には、何もない。
石の表面は黒ずんでいる。
角が丸くなり、ところどころ欠けている。
六郎は足を止めた。
「これですか」
「たぶん」
百合は台座の前にしゃがんだ。
指で、石の表面に触れる。
「濡れているわ」
六郎も近づいて見る。
乾いている。
どう見ても、乾いている。
「濡れてます?」
「ええ」
「僕には乾いて見えます」
「そうでしょうね」
「便利ですね」
「便利よ」
百合は台座の下を見た。
そこには、小さな赤い糸の切れ端のようなものがあった。
布かもしれない。
前掛けの端かもしれない。
ただのゴミかもしれない。
百合はそれを拾わなかった。
見ただけだった。
「ここで待っていたのね」
「誰が」
「母親が」
六郎は台座を見た。
何もない石。
その前に、誰かが立っている様子を想像した。
雨のあと。
泥の匂い。
濡れた道。
川の方を見る母親。
子どもに言った言葉。
迷ったら、お地蔵さんのところで待っていなさい。
だが、子どもは戻らなかった。
それでも母親は、ここへ来た。
握り飯を置いた。
赤い前掛けを替えた。
何年も。
何年も。
六郎は胸の奥が重くなるのを感じた。
「百合さん」
「なに」
「舟は、ここへ向かっているんですか」
「向かっていたのでしょうね」
「今は?」
「今は、少し違う」
「違う?」
百合は台座から顔を上げた。
「目印が、ずれている」
六郎は、何もない台座を見た。
「地蔵が移されたから」
「ええ」
「じゃあ、舟は」
「探しているのかもしれないわ」
「何を」
百合は立ち上がった。
「待っている場所を」
風が吹いた。
細い空き地の奥で、落ち葉が一枚、石の前を転がった。
その音が、ひどく大きく聞こえた。
⸻
夕方になり、二人は町外れの古本屋へ向かった。
六郎はあまり気が進まなかった。
あの老人に会うと、たいてい嫌なことを言われる。
そして、たいてい当たる。
古本屋は、今日も暗かった。
店先には、色あせた文庫本が並んでいる。
戸を開けると、紙と埃の匂いがした。
老人は奥にいた。
湯呑を持っている。
百合を見ると、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「今度は堀川か」
「ええ」
「水ばかりだな」
「水の多い町ですもの」
「そういう話ではない」
老人は六郎を見た。
「お前も、まだついて回っとるのか」
「好きでついて回ってるわけではないです」
「好きでないなら、なお悪い」
「そういうものですか」
「そういうもんだ」
百合は店の奥へ入った。
「堀川の地蔵の話を知っている?」
老人は嫌そうな顔をした。
「知っとる」
「郷土誌か新聞の切り抜きは」
「ある」
「見せて」
「嫌だ」
百合は何も言わず、老人を見た。
老人も百合を見た。
しばらくして、老人が舌打ちした。
「そういう顔をするな」
「どんな顔」
「知らん」
老人は奥の棚へ行き、古い箱を出してきた。
中には、切り抜きや古い冊子が入っている。
「川沿いで、子どもの話は聞くな」
老人が言った。
「なぜです」
六郎が聞く。
老人は六郎を見た。
「残るからだ」
六郎は黙った。
老人は箱の中から、薄い冊子を一冊取り出した。
表紙には、堀川の古い写真が印刷されている。
水面に木の橋が映っている。
その下に、小さく町名が書かれていた。
老人はページをめくり、一か所を指した。
「ここだ」
六郎は覗き込んだ。
古い文章が載っている。
大雨。
水路。
流された子ども。
地蔵。
母親。
握り飯。
赤い前掛け。
すべてが、江口の話と重なっていた。
ただ、ひとつだけ違うことがあった。
六郎はその行を見つけて、眉を寄せた。
「人数が」
百合もうなずいた。
そこには、こう書かれていた。
行方の知れぬ児、七名。
六郎は息を呑んだ。
「七人」
老人が低い声で言った。
「そう書いてある」
「江口さんは、話によって数が変わると言っていました」
「変わるさ」
老人は冊子を閉じた。
「忘れられた子は、数から先に消える」
六郎は何も言えなかった。
老人は百合を見た。
「で、今は何人乗っている」
「昨日の夜で、たぶん五つ」
「今夜あたり、七つになるな」
六郎は老人を見た。
「どうしてわかるんです」
老人は嫌な顔をした。
「わかりたくてわかっとるわけじゃない」
百合は冊子を手に取った。
「借りていい?」
「返せ」
「ええ」
「濡らすなよ」
百合は少しだけ目を伏せた。
「濡れるかもしれないわ」
老人はまた舌打ちした。
「だから嫌なんだ」
⸻
夜。
BAR 澪標には、明かりがついていた。
客はいない。
瀬尾がカウンターの中に立っている。
小夜もいた。
「仕事は?」
六郎が聞くと、小夜は面倒そうに手を振った。
「一時間だけ抜けてきた」
「怒られません?」
「怒られる」
「いいんですか」
「よくない」
「じゃあ」
「うるさいな」
小夜は窓際の席に座った。
「見届けたいだけ」
その言い方は軽かった。
けれど、目は笑っていなかった。
百合は窓の前に立った。
堀川は黒い。
昨夜よりも、黒く見える。
水面には灯りが映っている。
けれど、その灯りはどこか薄い。
まるで水の下に、もうひとつ別の夜があるようだった。
瀬尾が言った。
「出ますか」
百合は答えた。
「来るわ」
「わかるんですか」
「匂うもの」
六郎は鼻を利かせた。
まだ、何も匂わない。
ただ、しばらくすると、ふいに来た。
濡れた木。
古い泥。
冷えた石。
濡れた服。
子どもの匂い。
小夜が小さく言った。
「来た」
誰も動かなかった。
川下の方で、水音がした。
ちゃぷん。
昨日と同じ音。
だが、今夜はそれだけではなかった。
すう、と水を分ける音が続く。
見えないものが、静かに水面を進んでいる。
瀬尾が窓に近づいた。
「見えます」
六郎も目を凝らした。
最初は、何も見えなかった。
黒い水があるだけだった。
だが、橋の影の中から、さらに黒いものが出てきた。
小さい。
古い舟。
本当に、古い木の舟に見えた。
音はない。
櫓の音もない。
エンジンの音もない。
それなのに、舟は上っている。
ゆっくり。
けれど、確かに。
舟の中には、小さなものが座っていた。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
六郎は数えた。
よっつ。
いつつ。
むっつ。
そして。
ななつ。
喉が鳴った。
舟には、七つの小さな影があった。
そのうちの一つが、何かを抱えている。
濡れた布のようなもの。
人形のようなもの。
小夜が息を呑んだ。
「あれだ」
瀬尾は黙っていた。
百合も黙っている。
舟の先には、船頭らしいものがあった。
だが、やはり見えない。
笠の影のようなもの。
石のような背中。
そこにいるのに、見ようとすると、かすむ。
舟が、店の前を通る。
七つの小鬼は、誰もこちらを見ない。
ただ座っている。
一つは膝を抱え。
一つは下を向き。
一つは何かを抱え。
一つは、舟のへりに手をかけている。
そして、二つが笑っていた。
瀬尾が、かすれた声を出した。
「増えている」
六郎は何も言えなかった。
小鬼の笑いは、やはり怖かった。
顔は人ではない。
目は暗い。
口元だけが、ほんの少し上がっている。
けれど六郎は、昨日とは違うものを感じた。
あれは、こちらを嘲っている笑いではない。
人を引きずり込む笑いでもない。
どこかへ近づいている。
そういう顔だった。
ずっと待っていた場所が、もう少しで見える。
そんな顔だった。
百合が小さく言った。
「拾い終えたのね」
六郎は百合を見た。
「何を」
百合は舟を見たまま答えた。
「帰れなかったものを」
舟は、ゆっくり上っていく。
店の前を過ぎ、橋の灯りの下へ入り、黒い影に半分沈んだ。
その時。
小鬼の一つが、ほんの少しだけ顔を上げた。
六郎は、見られたと思った。
だが違った。
小鬼は六郎を見ていない。
瀬尾も見ていない。
小夜も見ていない。
もっと上の方を見ている。
川の先を。
見えない何かを。
小さな口が動いた。
声は聞こえない。
けれど、六郎にはわかった気がした。
おかあさん。
舟は橋の下へ入った。
黒い影に呑まれ、やがて見えなくなった。
水音だけが、少し残った。
それも、すぐに消えた。
店の中に、誰のものでもない沈黙が落ちた。
しばらくして、百合が言った。
「間に合うかもしれないわ」
六郎は聞いた。
「何にですか」
百合は、堀川の上流を見た。
「帰るのに」
その声は静かだった。
怖いくらいに。
小夜が、低く言った。
「じゃあ、あれ、帰りたいんだ」
百合は少しだけ首を横に振った。
「帰りたいわけではないの」
「違うの?」
「帰れると、知ったのよ」
瀬尾は、何も言わずに窓の外を見ていた。
六郎も、同じ方を見た。
そこには、もう舟はいない。
ただ、黒い水があるだけだった。
けれど六郎には、その水の上に、まだ小さな影がいくつも残っているように思えた。
七つ。
川を上るもの。
流れに逆らうもの。
時ではないのに、戻ってくるもの。
そして、ようやく笑ったもの。




