鱖魚群 三
鱖魚群
舟が消えたあとも、誰もすぐには動かなかった。
BAR 澪標の窓には、堀川の黒い水が映っている。
その水の上に、もう舟はない。
小鬼もいない。
船頭も見えない。
ただ、水だけがある。
いつもの川のような顔をして、そこにある。
瀬尾透は、カウンターの中に立ったまま、拭き終えたはずのグラスを持っていた。
布は、もう同じところを何度も撫でている。
鳴海小夜は窓際の席に座り、膝に肘をついていた。
さっきまでの軽い顔は、少しだけ薄くなっている。
六郎は窓の外を見ていた。
見ているつもりだった。
けれど、本当は何も見ていなかった。
見えなくなった舟の方を、まだ見ているだけだった。
「七つ」
小夜が言った。
誰に向けた言葉でもなかった。
「いたね」
瀬尾が、小さくうなずいた。
「七つでした」
「言い方」
小夜は笑おうとした。
けれど、笑いにはならなかった。
「人じゃないから、いいんじゃないですか」
六郎が言うと、小夜はこちらを見た。
「でもさ」
「はい」
「人じゃないって言い切ると、なんか違うじゃん」
六郎は答えられなかった。
百合は窓の前に立っている。
背中だけが見える。
黒い外套の裾が、店の灯りを受けて、わずかに光っていた。
「鬼ではないわ」
百合が言った。
静かな声だった。
小夜が顔を上げる。
「じゃあ、何」
「鬼に見えるほど、遠くにいたもの」
「どこから遠いの」
「人から」
少し間があった。
小夜は、言葉を探すように口を開き、結局閉じた。
瀬尾が低く言った。
「子ども、なんですね」
百合は振り向かなかった。
「子どもだったものよ」
店の中が、さらに静かになった。
その言い方は、優しくはなかった。
だが、冷たくもなかった。
ただ、そのまま置かれた言葉だった。
六郎は胸の奥が少し重くなるのを感じた。
子どもだったもの。
その言葉の中には、戻れなかった時間がある。
待っていた場所がある。
誰かの名を呼ぶ口がある。
それが今、泥のような顔をして、舟の上に座っている。
小夜がぽつりと言った。
「じゃあ、笑ってたのは」
百合は、ようやく振り向いた。
「近づいているからでしょうね」
「何に」
「母のいる方へ」
瀬尾の手が止まった。
六郎は窓の外を見た。
堀川は、ただ黒い。
けれど、さっきまでその上を舟が行っていた。
下流から。
上流へ。
流れに逆らって。
母のいる方へ。
「母親は、もう亡くなっているんですよね」
六郎が言った。
「ええ」
「それでも、いるんですか」
百合は少しだけ目を伏せた。
「待っていた場所には、待っていたものが残るわ」
「人がいなくなっても?」
「人がいなくなったあとほど、残ることもある」
「それが、あの台座ですか」
「ええ」
六郎は昼に見た石の台座を思い出した。
何もない石。
黒ずんだ表面。
小さな赤い布の切れ端。
そこに立ち続けた母親。
握り飯を置き続けた手。
「じゃあ、舟はそこへ行けばいいんですね」
「本当なら」
「本当なら?」
百合は答えなかった。
代わりに、堀川の上流を見た。
瀬尾が言った。
「地蔵が、移されているからですか」
百合はうなずいた。
「目印がずれているの」
小夜が眉を寄せた。
「目印くらい、間違えんなよ」
「長い時間が経っているわ」
「それでもさ」
小夜は言いかけて、やめた。
その続きは、誰も聞かなかった。
百合はカウンターの上に置いてあった古い冊子を取った。
町外れの古本屋の老人から借りてきたものだ。
表紙には、堀川の古い写真がある。
木の橋。
低い家並み。
今よりずっと狭く、暗く見える川。
百合はページを開き、指で一か所を押さえた。
「ここに、移された先の寺の名があるわ」
六郎は覗き込んだ。
小さな文字で、寺の名が載っていた。
川から少し離れた場所だった。
今の道で言えば、大通りを越えた向こう側になる。
「今から行くんですか」
六郎が聞く。
「ええ」
「夜ですけど」
「夜だから」
小夜が立ち上がった。
「あたしも行く」
瀬尾がすぐに言った。
「仕事は」
「戻るって」
「さっき一時間だけと言っていました」
「まだ一時間経ってない」
「経っています」
「細かい男、嫌われるよ」
「仕事ですから」
小夜は舌打ちをした。
「じゃあ瀬尾さんも来ればいいじゃん」
瀬尾は少しだけ黙った。
それから、カウンターの奥へ入った。
「鍵をかけます」
小夜は驚いたように瀬尾を見た。
「来るんだ」
「はい」
「店長なのに」
「店長なので」
瀬尾はグラスを棚に戻した。
「見てしまったものに、知らない顔をするのも、あまり気分がよくない」
小夜は少しだけ笑った。
「真面目」
「よく言われます」
六郎は思わず瀬尾を見た。
「それ、僕のです」
「そうでしたか」
瀬尾は、ごく真面目な顔で言った。
小夜が小さく吹き出した。
百合だけが、笑わなかった。
けれど、止めもしなかった。
⸻
夜の街は、川から離れるほど普通になった。
車の音がある。
信号の音がある。
コンビニの灯りがある。
酔った人の笑い声も聞こえる。
それなのに、六郎には背中の方にずっと水がある気がした。
歩いても、角を曲がっても、ビルの陰に入っても、堀川の水がついてくる。
濡れた木。
古い泥。
冷えた石。
濡れた服。
その匂いが、ふいに近づいては、また遠のく。
小夜が隣で言った。
「ついてきてるね」
六郎は驚いて小夜を見た。
「わかるんですか」
「なんとなく」
「匂いですか」
「匂いもあるけど」
小夜は首の後ろを掻いた。
「音かな」
「笛?」
「違う。今日は笛じゃない」
「じゃあ」
「足音」
六郎は思わず足を止めそうになった。
しかし百合が前を歩いているので、止まれなかった。
「足音って」
「水の中を歩く音」
小夜は、軽く言った。
軽く言ったが、目は前を向いていた。
「ぴちゃぴちゃじゃない。もっと重いやつ。服が濡れて、足が冷えて、でも歩かなきゃいけない時の音」
「なんでそんな具体的なんですか」
「知らないよ」
小夜は少し不機嫌そうに言った。
「聞こえるんだから、しょうがないじゃん」
瀬尾は黙って歩いていた。
顔色はよくない。
けれど、戻ろうとはしなかった。
百合は一度も振り向かない。
「百合さん」
六郎が声をかける。
「なに」
「小夜さんは、危なくないんですか」
「危ないわ」
小夜がすぐに反応した。
「本人の前で言う?」
百合は立ち止まらない。
「でも、今は呼ばれていない」
「呼ばれたら?」
小夜が聞く。
百合は少しだけ振り向いた。
「笛を思い出しなさい」
小夜の表情が変わった。
ほんのわずかだった。
だが、六郎にはわかった。
今の言葉は、小夜の奥に触れた。
「吹けってこと?」
「吹かなくてもいいわ」
「じゃあ何」
「思い出すだけで、音になることもある」
小夜は嫌そうな顔をした。
「やっぱ気持ち悪い」
「よく言われるわ」
「それ、便利に使いすぎ」
六郎は少しだけ笑った。
だが、その笑いはすぐに消えた。
道の先に、小さな寺が見えてきた。
新しい寺ではない。
だが、古い寺というほどの風格もない。
町の中に押し込められるようにして建っている。隣は駐車場で、反対側はマンションだった。
門の脇に、石の地蔵があった。
赤い前掛けをしている。
小さい。
思ったより、ずっと小さかった。
六郎は足を止めた。
「これですか」
百合はうなずいた。
「ええ」
「普通のお地蔵さんですね」
「そう見えるでしょう」
小夜が地蔵の前にしゃがんだ。
「顔、削れてる」
たしかに、地蔵の顔はかなり磨り減っていた。
目も鼻も、ほとんどわからない。
笑っているのか、泣いているのか。
怒っているのか、何もないのか。
それすらわからない。
赤い前掛けは新しくはない。
色は褪せている。
端が少しほつれていた。
瀬尾が小さく言った。
「ここに移されたんですね」
「ええ」
「じゃあ、子どもたちはここへ来れば」
「来られないわ」
百合が言った。
六郎が聞く。
「なぜですか」
「ここは、待っていた場所ではないもの」
「でも、お地蔵さんはここにあります」
「地蔵はここにあるわ」
百合は、地蔵の前に立った。
「でも、待っていた母親はここにいない」
誰も何も言えなかった。
街の音が、遠くで鳴っている。
車が一台、横の道を通った。
ヘッドライトが地蔵の顔を照らし、すぐに消えた。
その一瞬、六郎には地蔵の顔がこちらを見たように見えた。
見えただけかもしれない。
「船頭は」
六郎は言った。
「この地蔵なんですよね」
百合は少しだけ目を伏せた。
「おそらく」
「じゃあ、ここに地蔵があるのに、舟に船頭がいるのは」
「地蔵の形だけが、ここにあるから」
「形だけ」
「役目は、まだ川にいる」
小夜が立ち上がった。
「それ、地蔵も帰れてないってこと?」
百合は答えなかった。
それが答えだった。
瀬尾は地蔵の前で、手を合わせた。
ぎこちない仕草だった。
六郎も、それにならって手を合わせた。
小夜はしばらく見ていたが、結局、小さく手を合わせた。
百合だけは、手を合わせなかった。
ただ、地蔵を見ていた。
まるで、誰かと向かい合っているように。
「まだ、連れていける?」
百合が言った。
誰に向けた言葉か、六郎にはわからなかった。
風が吹いた。
地蔵の前掛けが、少しだけ揺れた。
その下から、水の匂いがした。
濡れた布の匂い。
古い泥の匂い。
そして、ほんの少しだけ、握り飯の匂い。
六郎は顔を上げた。
「今」
「ええ」
百合は言った。
「覚えているのね」
「誰が」
「みんな」
⸻
寺から戻る途中、瀬尾が不意に言った。
「握り飯を、供えていたんですよね」
誰もすぐには答えなかった。
瀬尾は続けた。
「母親が。子どもが帰ってきたら腹が減っているだろう、と」
「そう聞いたわ」
百合が答える。
瀬尾は少し黙った。
それから言った。
「店に、米があります」
小夜が瀬尾を見た。
「バーに米?」
「まかない用です」
「ちゃんとしてる」
「ちゃんとしています」
瀬尾は真面目な顔で言った。
「握り飯を作るのは、早いでしょうか」
六郎は瀬尾を見た。
百合も、少しだけ瀬尾を見た。
「早くはないわ」
「では」
「でも、今夜はまだ置かない」
瀬尾の顔が少し曇る。
「なぜですか」
「置く場所が、ずれているから」
「古い台座に置けばいいのでは」
「置けば、来るわ」
「なら」
「来て、止まれなかったら」
瀬尾は口を閉じた。
百合は静かに続けた。
「余計に迷う」
瀬尾は、しばらく何も言わなかった。
小夜が小さく言った。
「ひどいね」
誰に向けた言葉かは、わからなかった。
たぶん、誰にも向けていない。
「帰れると思ったのに、違うとか」
百合は歩きながら言った。
「だから、笑っていたの」
小夜は百合を見る。
「どういう意味」
「近づいていたから」
「でも、違うんでしょ」
「ええ」
「じゃあ」
小夜は唇を噛んだ。
「これから、笑えなくなるじゃん」
百合は答えなかった。
六郎は、その沈黙が嫌だった。
嫌だったが、何も言えなかった。
⸻
その夜、四人は古い台座のある空き地へ向かった。
瀬尾は店を閉めなかった。
鍵だけかけ、灯りは落とさなかった。
「戻った時に、真っ暗なのは嫌なので」
そう言った。
小夜は仕事先に電話をして、何か乱暴な言い方で遅れると伝えていた。
電話の相手は怒っているらしかった。
小夜は最後に、
「死ぬよりましでしょ」
と言って切った。
六郎は何も聞かなかった。
聞かない方がいいと思った。
古い台座のある空き地は、昼よりも狭く見えた。
ビルとマンションの間に挟まれ、夜の中で沈んでいる。
街灯はある。
けれど、台座の前だけが妙に暗い。
百合は台座の前に立った。
六郎は少し後ろに立つ。
瀬尾はさらに後ろ。
小夜は壁にもたれて、腕を組んでいた。
「ここで待つんですか」
六郎が聞いた。
「ええ」
「舟、ここから見えませんよ」
「見えなくても、通るわ」
「川から離れてますけど」
「昔は、水が近かった」
百合は台座に目を落とした。
「今も、遠くはないわ」
六郎は耳を澄ませた。
最初は、車の音しか聞こえなかった。
それから、人の足音。
どこかの店の扉が閉まる音。
遠くで笑う声。
しばらくすると、それらが少しずつ遠ざかっていった。
消えたのではない。
遠くなった。
代わりに、水の音が近づいてくる。
ちゃぷん。
六郎は息を止めた。
ちゃぷん。
また聞こえた。
小夜が壁から背を離した。
「来る」
瀬尾が、強く目を閉じてから開けた。
百合は動かない。
水音は、堀川の方からではなかった。
地面の下から聞こえた。
舗装された道の下。
ビルの基礎の下。
埋められた古い水路の中。
そこを、何かが上ってくる。
すう、と水を分ける音。
小舟の音。
櫓の音はしない。
エンジンの音もしない。
ただ、進んでいる。
六郎の足元に、水があるような気がした。
実際には乾いている。
靴も濡れていない。
だが、足首のあたりが冷えた。
舟が来る。
見えない舟が、古い水路の上を通ってくる。
いや。
水路ではない。
もう水路ではない。
道の跡だ。
水の通ったところ。
乾かないところ。
百合が小さく言った。
「来たわ」
その瞬間、台座の前に、黒い影が差した。
何かが見えたわけではない。
けれど、確かにそこに影が落ちた。
舟の影。
六郎には、そう思えた。
小夜が息を呑む。
瀬尾が一歩、前に出そうになった。
百合が手を上げた。
「動かないで」
瀬尾は止まった。
水音が、台座の前で少しだけ弱くなった。
止まる。
六郎はそう思った。
舟がここで止まる。
七つの小鬼が降りる。
母親の待っていた場所へ帰る。
そう思った。
だが、舟は止まらなかった。
すう、と。
そのまま、台座の前を通り過ぎた。
六郎は、思わず声を出しそうになった。
瀬尾も、身を乗り出した。
小夜が低く言った。
「なんで」
百合は黙っている。
水音は、台座の前を通り過ぎ、少し先へ流れていく。
いや、流れているのではない。
迷っている。
進みながら、迷っている。
見えない舟の中で、何かがざわめいた。
声は聞こえない。
けれど、空気が震えた。
小さなものたちが、何かを探している。
ここではない。
そう言っているようだった。
六郎の耳に、かすかな声がした。
おかあさん。
ひとつ。
おかあさん。
またひとつ。
それは、笑い声ではなかった。
泣き声でもない。
ただ、呼ぶ声だった。
瀬尾が口元を押さえた。
小夜は、顔を歪めた。
「やめてよ」
小夜が言った。
「それは、やめてよ」
百合は動かない。
六郎は百合を見た。
「百合さん」
「呼ばないで」
百合が言った。
声は静かだった。
「今、名前を呼ばないで」
六郎は口を閉じた。
何かが、こちらを探している。
そう思った。
名前を呼べば、そちらへ向く。
こちらへ来る。
小夜が、小さく息を吸った。
それから、ほんのわずかに唇を動かした。
音は出なかった。
だが、六郎にはわかった。
笛を思い出している。
小夜の目が、どこか遠くを見た。
夜の川ではない。
もっと古い場所。
祭りでもなく、店でもなく、酒の席でもない。
子どもの頃に、誰かに教えられた音。
それを、思い出している。
すると、水音が少しだけ静かになった。
呼ぶ声も、わずかに遠くなった。
百合が、小夜を見た。
小夜は何も言わない。
ただ、唇を閉じた。
「今のでいいわ」
百合が言った。
小夜は怒ったような顔をした。
「何もしてない」
「それでいいの」
「むかつく」
「そうね」
六郎は、そのやり取りに少しだけ息が戻るのを感じた。
だが、すぐにまた空気が重くなった。
見えない舟は、台座の先で止まれずにいた。
同じ場所を、ゆっくり巡っているようだった。
水音が近づき、遠ざかり、また近づく。
そのたびに、子どもの声がする。
おかあさん。
おかあさん。
おかあさん。
六郎は耐えられなくなりそうだった。
怖いのではない。
いや、怖い。
たしかに怖い。
だが、それだけではない。
こんなに近くまで来ているのに。
母の待っていた場所まで、あと少しだったのに。
目印がない。
地蔵は別の場所にある。
母親はもういない。
握り飯もない。
赤い前掛けもない。
ただ、台座だけが残っている。
それだけでは、舟は止まれない。
瀬尾が、震える声で言った。
「握り飯を」
百合は答えなかった。
「作ってきます」
「まだよ」
「でも」
「今置けば、ここに集まる」
「それでいいじゃないですか」
「違うわ」
百合の声は、ほんの少しだけ強くなった。
「ここに集めるだけでは、帰れない」
瀬尾は言葉を失った。
百合は、台座の前を見つめていた。
「母親が待っていた場所と、地蔵の役目と、子どもたちの舟。その三つを合わせないと、降りられない」
「どうやって」
六郎が聞いた。
百合はすぐには答えなかった。
水音がまた近づいた。
見えない舟が、台座の前を通る。
その一瞬。
六郎は見た。
見えた、と思った。
黒い舟。
その中に、七つの小さな影。
昨日見たとき、二つは笑っていた。
けれど今、その笑いは消えていた。
代わりに、ひどく不安そうな顔をしている。
人ではない顔。
鬼のような顔。
それなのに、迷子の子どもの顔だった。
一つが、舟のへりに手をかけていた。
一つが、何かを抱えていた。
濡れた布。
いや。
小さな前掛けかもしれない。
一つが、上の方を見ていた。
母を探している。
その奥に、船頭がいる。
笠の影。
石の背中。
赤い布の端。
六郎は、そこまで見て、目を逸らした。
見すぎると、向こうも見る。
小夜の言葉を思い出したからだった。
水音が遠ざかる。
百合がようやく言った。
「明日の夜にするわ」
「何を」
六郎が聞く。
「戻すの」
「地蔵を?」
「地蔵の役目を」
「役目」
「形は、あちらにある。待っていた場所は、ここにある。母親の思いは、まだこの辺りに残っている」
百合は台座を見た。
「それを、一晩だけつなぐ」
瀬尾が言った。
「その時、握り飯を」
「ええ」
百合は瀬尾を見た。
「作って」
瀬尾は、うなずいた。
「塩だけでいいですか」
百合は少しだけ、瀬尾を見た。
それから言った。
「塩だけでいいわ」
小夜が顔を背けた。
「泣かせに来てんじゃん」
「泣いているの?」
百合が聞く。
「泣いてない」
「そう」
「見んな」
「見ていないわ」
「見てるじゃん」
六郎は少しだけ笑いそうになった。
けれど、笑えなかった。
水音が、また近づく。
今度は少しだけ弱い。
舟はまだ、降りる場所を探している。
子どもたちはまだ、母を呼んでいる。
おかあさん。
声は、だんだん遠くなる。
それなのに、耳の奥にはっきり残った。
やがて、水音は完全に消えた。
空き地には、いつもの街の音が戻ってきた。
車の音。
人の声。
遠くの信号。
どこかの店の笑い声。
けれど、台座の前だけが濡れていた。
六郎は近づいた。
昼間は乾いて見えた石の前に、小さな濡れた跡がいくつも残っている。
足跡のようだった。
子どもの足跡。
裸足の跡。
七つ分あるのかどうかは、わからない。
数えようとして、六郎はやめた。
数えるのが、少し怖かった。
百合は、台座の前にしゃがんだ。
小さな赤い布の切れ端を見ている。
拾わない。
触れない。
ただ、見る。
「間に合うかもしれないわ」
百合が言った。
希望ではない。
約束でもない。
ただ、間に合わせなければならないことが、そこにある。
そういう声だった。
瀬尾は台座の前で、深く頭を下げた。
「作ります」
誰に言ったのかは、わからない。
百合にか。
小鬼たちにか。
母親にか。
それとも、まだ見えない船頭にか。
小夜は壁にもたれたまま、鼻をすすった。
「だから泣いてないって」
誰も何も言っていなかった。
六郎は空を見上げた。
ビルとビルの隙間に、細い夜空があった。
星は見えない。
けれどその奥のどこかに、川を上るものたちの行く先があるような気がした。
百合が立ち上がる。
「帰りましょう」
「どこへですか」
六郎が聞く。
「それぞれの場所へ」
「舟は」
「まだ上っているわ」
「明日まで?」
「ええ」
百合は、堀川の方を見た。
「今夜は、降りられない」
誰も返事をしなかった。
ただ、遠くから、もう一度だけ水音がした。
ちゃぷん。
それは、川の音だった。
舟の音だった。
そして、誰かがまだ母を探している音だった。




