鱖魚群 一
鱖魚群
堀川は、夜になると川というより、黒い道に見える。
水は流れている。
けれど、流れているようには見えない。
街の灯が映り、橋の灯が映り、ビルの窓の明かりが映っている。そのどれもが水面で細く伸び、揺れ、切れて、またつながる。
名古屋の街の真ん中にあるのに、夜の堀川は、どこか街から外れている。
そういう顔をしている。
籠目屋商店の戸を開けたとき、六郎はまだ堀川のことなど考えていなかった。
考えていたのは、寒いということと、百合がまた何か言い出すのではないかということだけだった。
店の中には、古い紙の匂いがした。
それから、酒の匂い。
いつもの匂いだ。
百合は帳場の奥で、本を読んでいた。
薄い本だった。
和綴じではない。洋装でもない。古い冊子のようなものだ。紙の端が少しだけ茶色くなっている。
六郎が戸を閉めると、百合は顔を上げた。
「来たのね」
「来ましたよ」
「寒かったでしょう」
「寒かったです」
「それは、よかったわ」
六郎は眉を寄せた。
「よかったんですか」
「寒い日に寒いと思えるのは、悪いことではないもの」
「そういう話ですか」
「ええ」
百合は本を閉じた。
静かに。
その音が、店の中で思ったより大きく聞こえた。
六郎は上着の襟を少し直してから、店の奥へ入った。
「で」
「なに」
「今日は何ですか」
「何かあると思って来たの」
「最近、何もない日に呼ばれた記憶がないので」
「呼んでいないわ」
「そうでしたっけ」
「ええ」
百合は、目を細めるでもなく、笑うでもなく、六郎を見た。
「あなたが来ただけ」
「じゃあ帰ります」
「帰れるなら」
六郎は戸の方を見た。
外はもう暗い。
帰ろうと思えば帰れる。
そう思った。
けれど、百合がそう言ったときは、たいてい帰れない。
六郎は小さく息を吐いた。
「それで、何があるんです」
百合は答えず、帳場の横に置いてあった封筒を取った。
白い封筒だった。
新しいものではない。手で持たれた跡があり、角が少し曲がっている。
百合はそれを六郎の方へ差し出した。
六郎は受け取る。
表には、細い字でこう書かれていた。
籠目屋商店 宇喜田百合様
裏を見る。
差出人の名はない。
「手紙ですか」
「そうね」
「開けていいんですか」
「もう読んだわ」
「じゃあ、僕に渡す意味あります?」
「あるわ」
六郎は封を開け、中の紙を出した。
便箋ではない。
バーのコースターだった。
淡い灰色の厚紙に、銀色の文字で店名が入っている。
BAR 澪標。
その裏に、短く書かれていた。
堀川を舟が上っています。
小鬼が乗っています。
六郎はしばらくそれを見た。
それから顔を上げた。
「これは」
「依頼ね」
「依頼ですかね」
「相談かもしれないわ」
「小鬼って書いてありますけど」
「ええ」
「堀川を舟が上っている、とも書いてあります」
「ええ」
「帰っていいですか」
「帰れるなら」
六郎はコースターを持ったまま黙った。
百合は立ち上がり、奥から薄い黒の外套を取った。
「行くんですか」
「ええ」
「今から?」
「今から」
「小鬼を見に?」
「そうね」
「気が進まないですね」
「見なくてもいいわ」
「行くのに?」
「見るかどうかは、向こうが決めることだから」
「小鬼が?」
「川が」
六郎は、また面倒なことになったと思った。
言葉にはしなかった。
百合はそれを見ていたように、ふと盃を二つ出した。
「飲む?」
「今から行くんでしょう」
「だから」
「だから、じゃないです」
百合は盃をひとつだけ戻した。
もうひとつに、ほんの少しだけ酒を注ぐ。
自分で飲む。
静かに。
それだけだった。
店を出ると、外の空気は冷たかった。
⸻
空は濃い藍色で、ところどころ雲がある。
風は強くない。
ただ、冷えていた。
百合は何も言わずに歩き出した。
六郎は隣に並ぶ。
「BAR 澪標って、知り合いなんですか」
「オーナーを少し」
「少し」
「昔、頼まれごとをしたわ」
「どんな」
「忘れ物を届けたの」
「普通ですね」
「そうでもなかったわ」
「聞かない方がいいですか」
「ええ」
六郎は少しだけ笑った。
「聞かないことが増えていきますね」
「知らないままの方が、形のいいこともあるわ」
「便利ですね」
「便利よ」
堀川沿いに出ると、街の灯が水に映っていた。
水は黒い。
橋の下は、さらに黒い。
水面には、ときおり小さな波が立つ。風のせいか、川の流れのせいか、六郎にはわからなかった。
BAR 澪標は、堀川に面した古いビルの一階にあった。
大きな看板はない。
入口の横に、小さな真鍮の板があり、そこに店名が刻まれているだけだった。
澪標。
水路の目印。
六郎はそれを見て、少し嫌な感じがした。
「名前からして、川ですね」
「そうね」
「こういう時に限って、ぴったりですね」
「名前は、あとから意味を持つこともあるわ」
百合が戸を開ける。
中は静かだった。
暗すぎない。
明るすぎない。
カウンターの奥に、瓶が並んでいる。琥珀色、緑色、透明な瓶。それらの下に、小さな灯りが落ちている。
窓の向こうには、堀川が見えた。
川に向いた席が、三つだけある。
カウンターの中にいた男が、百合を見るなり軽く頭を下げた。
四十を少し越えたくらいの男だった。
髪は短く、白いシャツに黒いベストを着ている。動きが静かで、声も低い。
「宇喜田さんですね」
「ええ」
「瀬尾透です。この店の店長をしています」
「百合です」
瀬尾は六郎にも目を向けた。
「お連れの方は」
「藤原六郎です」
六郎が軽く頭を下げる。
瀬尾も頭を下げた。
「すみません。変な話で」
「変な話には慣れています」
六郎が言うと、百合が横から言った。
「慣れてはいないでしょう」
「慣れたくはないですね」
瀬尾は少しだけ笑った。
しかし、その笑いはすぐに消えた。
「オーナーから、宇喜田さんに相談してみろと言われまして」
「朝倉さんから」
「はい」
「お元気?」
「元気です。店にはあまり出ませんが」
「そう」
百合はカウンターに座った。
六郎も隣に座る。
瀬尾は水を出した。
百合には何も聞かずに、冷たい水。
六郎にも同じもの。
「お酒じゃないんですね」
六郎が言う。
瀬尾は少し困ったように笑った。
「こういう話をする時に酒を出すと、こちらのせいにされますから」
「なるほど」
「実際、最初は酒のせいだと思っていました」
百合がグラスに触れた。
「舟の話ね」
瀬尾はうなずいた。
「はい」
少し間があった。
店内には、低い音楽が流れていた。
ピアノか、ベースか、よくわからない。
川の向こうを車が通る。
その音も、店の中へは柔らかく入ってくる。
瀬尾は、窓の外を見た。
「最初に聞いたのは、二週間ほど前です。常連の方が、閉店前に言ったんです。堀川に小舟が出ていた、と」
「小舟」
「はい。夜中に、川を上っていったそうです」
「下るのではなく」
「上っていた、と言っていました」
六郎は水を一口飲んだ。
「船って、堀川に出るんですか」
「観光船や屋形船のようなものはあります。ただ、その時間には出ません。それに、見たという舟は、そういうものではなかったそうです」
「どんな舟ですか」
「小さい舟です。古い木の舟のような」
瀬尾は両手で、幅を示すような仕草をした。
「二人か三人乗ればいっぱいになるような舟だと」
「それに小鬼が?」
六郎が聞くと、瀬尾の顔が少し強張った。
「はい」
百合は何も言わない。
瀬尾は続けた。
「その時は、一匹だったそうです」
「匹」
六郎が思わず言う。
瀬尾は申し訳なさそうに眉を下げた。
「その方が、そう言ったんです。人ではなかった、と。子どもくらいの大きさで、髪が濡れていて、肌が黒くて、膝を抱えて座っていた、と」
「怖いですね」
「ええ。ただ、その方はかなり酔っていました。だから、私も笑って済ませたんです」
「でしょうね」
「でも、三日後に別の方が同じような話をしました」
瀬尾はグラスを拭きながら言った。
手は動いている。
けれど目は、窓の外にあった。
「その方は、ほとんど飲んでいませんでした」
百合が聞く。
「その時も、一匹?」
「二匹だったそうです」
六郎は百合を見た。
百合は水面を見ている。
瀬尾は続ける。
「それから、何人かが見ています。全員がこの店の常連です。見た場所は、だいたいこの店の前あたりから上流側です。時間は深夜。風のない夜が多い。舟は下流から来て、上流へ行く。音はしない。エンジンの音も、櫓の音も」
「乗っているものは」
百合が言った。
「増えています」
瀬尾の声が、少し低くなった。
「一匹、二匹、三匹。最後に聞いた時は、五匹でした」
「最後に聞いた時」
六郎が言う。
「見たんですか、瀬尾さんも」
瀬尾は、グラスを置いた。
乾いた音がした。
「見ました」
それきり、しばらく黙った。
百合は急かさない。
六郎も黙っていた。
瀬尾は、ゆっくり息を吐いた。
「閉店後でした。片づけをしていたんです。店内の灯りを少し落として、窓の外を見たら、舟がありました」
「どこに」
「この前です」
瀬尾は窓を指した。
そこには、黒い水があるだけだった。
「本当に、すうっと通っていきました。流れに逆らっているはずなのに、少しも力が入っていないように見えました」
「船頭は」
百合が聞いた。
瀬尾は少し考えた。
「いたような気もします」
「気もする?」
「舟の先に、何か黒いものがありました。人の背中のようにも見えました。でも、はっきり見ようとすると、見えなくなるんです」
百合は小さくうなずいた。
「乗っていたものは」
瀬尾の顔が、さらに硬くなった。
「五匹いました」
「小鬼が」
「はい」
「何をしていたの」
「何も」
瀬尾は即座に答えた。
「何もしていませんでした。ただ座っていました。こちらを見るわけでもない。怒っているわけでもない。泣いているわけでもない。ただ、座っている」
「それなら、なぜ相談を?」
六郎が聞いた。
瀬尾は六郎を見た。
責められたと思ったのではない。
ただ、そこを聞いてほしかったような顔だった。
「一匹だけ、笑っていました」
店の中の音が、少し遠くなった気がした。
六郎は、手元のグラスを見た。
水面が静かに揺れている。
「笑っていた」
百合が言う。
「はい」
「どんなふうに」
瀬尾はすぐには答えなかった。
「楽しそう、ではないと思います」
「では?」
「わかりません」
瀬尾は首を横に振った。
「わからないんです。ただ、笑っていた。それが、どうしようもなく怖かった」
六郎は、その言葉を聞いて、窓の外を見た。
黒い川。
そこに小舟があり、小鬼が座っている。
そのうちの一匹が笑っている。
想像すると、たしかに怖かった。
怒っているなら、まだわかる。
泣いているなら、まだわかる。
無表情なら、見なかったことにもできる。
けれど、笑っている。
なぜか。
それがわからない。
「笑っていたのね」
百合は、同じことをもう一度言った。
六郎が見る。
「そこ、そんなに大事ですか」
「ええ」
「怖いから?」
「怖いものは、だいたい大事よ」
「雑ですね」
「そうでもないわ」
百合は水を一口飲んだ。
「泣いているより、遠いことがあるの」
瀬尾は、その言葉に何かを言いかけて、やめた。
その時、店の戸が開いた。
外の冷たい空気が入ってくる。
⸻
振り向くと、若い女が立っていた。
二十代前半か、もっと若くも見える。
顔は幼い。
だが、目鼻立ちは整っている。人形のようというには、少し表情が悪い。目つきが鋭く、口元がだらしなく笑っている。
薄いコートの下に、夜の店で働く者らしい服が見えた。
「まだやってる?」
女は店に入るなり言った。
瀬尾が少し顔をしかめる。
「小夜さん、今日はもう閉めています」
「客いるじゃん」
「この方たちは、お客様ではありません」
「じゃあ何。幽霊?」
女は六郎と百合を見た。
百合を見て、少しだけ目を細める。
六郎を見て、軽く笑った。
「なに、取材?」
「違います」
六郎が答えると、女はさらに笑った。
「じゃあ怪談?」
瀬尾がため息をついた。
「ちょうどいい。こちら、鳴海小夜さんです。近くのガールズバーで働いています。舟を見た一人です」
「勝手に紹介すんなよ」
小夜はそう言いながら、カウンターに座った。
瀬尾は水を出した。
小夜はそれを見て、露骨に嫌そうな顔をする。
「酒じゃないの」
「閉店後です」
「けち」
「仕事帰りでしょう」
「だから飲むんじゃん」
瀬尾は何も言わなかった。
小夜は水を一口飲み、六郎を見る。
「で、あんた誰」
「藤原六郎です」
「ふうん」
「ふうん、ですか」
「うん。普通だなと思って」
「悪かったですね」
「悪いとは言ってないじゃん」
今度は百合を見る。
「こっちは普通じゃないね」
百合は静かに答えた。
「そうかしら」
「そういう返しがもう普通じゃない」
百合は少しだけ笑ったように見えた。
小夜は肩をすくめる。
「で、舟の話でしょ」
「見たの」
百合が聞く。
小夜は水の入ったグラスを指で回した。
「見たよ。酔ってたけど」
「どこで」
「この店出て、ちょっと上の橋のとこ。タクシー捕まえようとしてたら、川に舟がいた」
「何が乗っていた?」
「ちびの鬼」
小夜はあっさり言った。
六郎は少し驚いた。
普通、もう少しためらう。
だが、小夜にはそれがなかった。
「鬼に見えたんですか」
「見えたっていうか、鬼でしょ。角は見えなかったけど。肌黒いし、髪濡れてるし、目が変だし」
「何匹いました?」
「三ついた」
「三人じゃなくて」
「人じゃなかったから」
小夜は言った。
その言い方は軽い。
けれど、軽いだけではなかった。
見たものを見たまま言っている。
そういう感じだった。
百合が聞く。
「怖かった?」
「そりゃ怖いでしょ」
「逃げた?」
「逃げないよ」
「なぜ」
小夜は少し笑った。
「向こう、こっち見てなかったもん」
百合は小夜を見た。
小夜も百合を見る。
短い沈黙があった。
六郎には、その沈黙の意味がわからなかった。
小夜はふいと視線を外した。
「でもさ」
「ええ」
「音がした」
瀬尾が顔を上げる。
「音?」
「うん。水の音じゃなくて。笛みたいな」
六郎は思わず小夜を見た。
「笛?」
小夜は六郎を見返す。
「なに」
「いや」
「変?」
「いえ」
小夜は鼻で笑った。
「変だよね。自分でもそう思う」
百合が静かに聞く。
「どんな笛」
「細いやつ。祭りとかで鳴ってるみたいな、ああいう明るいやつじゃない。もっと、遠いやつ」
「遠い」
「うん。音が遠い。近くで鳴ってるのに、遠い」
小夜はグラスを置いた。
「それ聞いたら、ちょっと静かになった」
「何が」
「自分が」
小夜はそう言って、また笑った。
軽い笑い方だった。
でも、さっきより少しだけ薄かった。
六郎は小夜の横顔を見た。
幼い顔をしている。
けれど、目だけは夜に慣れている。
百合は小夜に言った。
「あなた、笛を吹くの」
小夜は一瞬だけ黙った。
それから、嫌そうに笑った。
「なんでわかんの」
「少し」
「きも」
「よく言われるわ」
「言われるんだ」
「ええ」
小夜は百合を見て、それからふいっと視線を逸らした。
「小さい頃にやってただけ。今は別に」
「そう」
「この話に関係あんの?」
「今は、ないわ」
「今は?」
「ええ」
小夜はまた水を飲んだ。
「含みを持たせる女、嫌われるよ」
「そうね」
「否定しろよ」
六郎は、少しだけ笑ってしまった。
小夜がそれを見た。
「何笑ってんの」
「いや、すみません」
「すみませんって顔じゃない」
「よく言われます」
「言われるんだ」
同じやり取りになって、小夜は少しだけ笑った。
百合は何も言わず、窓の外を見ていた。
瀬尾が低い声で言った。
「小夜さんが見た時は、笑っていましたか」
小夜は首を振った。
「笑ってなかった」
「そうですか」
「ただ、こっち見てなかった。だから、まだましだった」
「まだ」
「見るでしょ、そのうち」
瀬尾の顔が強張る。
小夜は悪びれもせずに言った。
「だって増えてんじゃん。そういうのって、だいたい最後にこっち見るんだよ」
「やめてください」
「ごめん」
軽い謝り方だった。
だが、瀬尾はそれ以上怒らなかった。
百合が立ち上がった。
「見てくるわ」
六郎も立つ。
「今からですか」
「ええ」
「出ないかもしれませんよ」
「出ないなら、それでいいわ」
小夜が言った。
「あたしも行く?」
百合は小夜を見た。
「今日はいいわ」
「今日は」
「ええ」
「その言い方、やめた方がいいよ」
「よく言われるわ」
小夜は呆れたように笑った。
瀬尾が店の外まで送ってくれた。
⸻
戸を開けると、冬の空気が頬に当たった。
堀川沿いの道は、昼間よりずっと細く見える。
車は通っている。
人も、いないわけではない。
けれど、川のそばだけが、音から少し遅れているようだった。
百合は川に近づいた。
六郎も続く。
瀬尾は店の前に立ったまま、二人を見ている。
小夜は店の中から、窓越しにこちらを見ていた。
六郎は川を覗いた。
黒い。
ただ黒い。
灯りが揺れている。
舟はない。
小鬼もいない。
「何もいませんね」
「そうね」
「見えないだけですか」
「それもあるわ」
「それ以外は」
「まだ来ていない」
「来るんですか」
百合は水面を見たまま答えた。
「上っているなら」
六郎は川下の方を見た。
暗い水が、ビルの間を抜けて続いている。
その先に何があるのか、六郎にはよくわからない。
海だろうか。
港だろうか。
もっと暗いところだろうか。
「下流から来るんですよね」
「ええ」
「なぜ上るんでしょう」
「下へ流されたものが、上へ戻ることもあるわ」
「鮭みたいですね」
六郎が言うと、百合は少しだけこちらを見た。
「そうね」
「冗談のつもりだったんですけど」
「冗談が、たまに正しいことを言うの」
「嫌ですね、それ」
「ええ」
百合はまた川を見た。
「時ではないのに」
六郎は聞き返す。
「何がですか」
「上るには」
風が吹いた。
水面が少し揺れる。
その時、六郎はふと匂いを感じた。
水の匂い。
いや、ただの水ではない。
濡れた木。
古い泥。
冷えた石。
それから、どこかで嗅いだことのある、甘くない子どもの匂い。
汗でもない。
菓子でもない。
濡れた服の匂いに似ていた。
六郎は顔をしかめた。
「匂いますね」
「ええ」
「川ですか」
百合は首を横に振った。
「舟よ」
六郎は水面を見る。
何もいない。
「舟、ないですよ」
「まだ、こちらには」
「こちらには?」
その時だった。
川下の方で、かすかに水音がした。
ちゃぷん。
小さい音だった。
魚が跳ねたようにも聞こえた。
だが、次の音は違った。
すう、と何かが水を分けるような音。
六郎は息を止めた。
水面の灯りが、少しだけ割れた。
何かが来る。
そう思った。
けれど、何も見えない。
橋の下の黒が、少しだけ濃くなったように見えただけだった。
百合は動かない。
六郎も動けない。
瀬尾が店の前で、息を呑む気配がした。
小夜が窓の内側で、顔を近づけている。
水音は、もう一度した。
今度は、少し近い。
そして。
子どもの笑い声のようなものが、聞こえた。
声というには小さい。
風の音と言われれば、そうかもしれない。
水の音と言われれば、そうかもしれない。
だが、六郎には笑い声に聞こえた。
ひとつではない。
いくつかが、重なっていた。
百合が小さく言った。
「増えているわね」
六郎は、川から目を離せなかった。
「見えるんですか」
「見えないわ」
「じゃあ、どうして」
「舟は見えなくても」
百合は、黒い水面を見たまま言った。
「乗っているものが、近づくときがあるの」
また、水音がした。
舟は見えない。
小鬼も見えない。
けれど、六郎ははっきりと感じていた。
何かが、堀川を上っている。
下から。
上へ。
流れに逆らって。
静かに。
誰かのところへ帰るように。
それが怖いのか、悲しいのか、六郎にはまだわからなかった。
ただ、笑い声だけが、いつまでも耳に残っていた。




