第3話 狂騒の現場
週末の午後。
水道橋駅のホームに降り立った瞬間、鼓膜を劈くような凄まじい喧騒と、甘ったるい香水の入り混じった熱気が私の全身を打ち据えた。
胃の奥底が、ギリギリと痙攣する。
丸三日、まともな固形物を口にしていない。あの夜、全財産をはたいて定価の数倍もするプラチナチケットを買って以来、私の主食は水道水で溶いて焼いた小麦粉の塊と、塩だけだった。スーパーの廃棄弁当すら持ち帰ることが許されない底辺の労働環境下で、私の胃袋は自らの粘膜を消化し始めているのではないかと錯覚するほど、鋭い痛みを訴え続けていた。
栄養失調と睡眠不足で、視界の端には常にチカチカとしたノイズが走っている。踵の擦り減ったパンプスの中で、足の指先は氷のように冷え切っていた。
だが、私の網膜に映る景色は、そんな肉体の惨めさを完全に嘲笑うかのように、どこまでも極彩色で狂気に満ちていた。
見渡す限りの女、女、女。
十代から二十代の若い女たちが中心だが、中には母親世代の姿もある。彼女たちは一様に、赤、青、緑、黄、紫という、NONELのメンバーカラーを基調とした派手な服を着飾り、これ見よがしに推しの名前が刺繍されたトートバッグや、不気味なほどデフォルメされたメンバーのぬいぐるみを見せびらかして歩いている。
誰も彼もが、まるで自分自身が今日の主役であるかのように、根拠のない自信と熱病に浮かされたような笑顔を顔面に張り付けていた。
「ねえ、今日の席どこ!? アリーナ?」
「ううん、一階スタンド! でもトロッコ通る道からめっちゃ近いから、絶対緋月くんに確定ファンサもらえると思う!」
すれ違う女たちの会話の端々から聞こえてくる、ひどく頭の悪い単語の数々。
ファンサ。トロッコ。確定。
彼女たちは、自分たちが資本主義という巨大な搾取システムの末端で、ただの集金装置として消費されていることに微塵も気づいていない。
あのスーパーのバックヤードで私を蔑み、愛想だけで世の中を渡り歩けると思い上がっていた結衣も、おそらくこの数万の群衆のどこかに紛れ込んでいるのだろう。職場では特別扱いされている彼女も、この場所では数万分の一のモブに過ぎず、彼らの視界の端にすら入らない無価値な存在へと成り下がるのだ。そう想像するだけで、乾いた喉の奥から歪んだ笑いが込み上げてきた。
駅の改札を抜けると、目の前には巨大な白い卵、東京ドームが、鈍い銀色に輝きながら鎮座していた。
ドームの周辺を埋め尽くす人の波は、駅のホームの比ではなかった。数万人という、およそ一個の軍隊にも匹敵する数の人間が、たった五人の若者を崇めるためだけにこの場所に集結している。
グッズ売り場には、最後尾が見えないほどの長蛇の列ができている。一枚数千円もする薄っぺらいタオルや、原価など数十円であろうプラスチックのペンライトを買い求めるために、彼女たちは何時間も冷たい風の中で並び続けているのだ。
巨大な紙袋に詰め込まれた大量のグッズ。あれらを買うために、彼女たちはどれほどの時間を時給千円の単純労働に費やしたのだろうか。私と同じように理不尽な客に頭を下げ、無能な上司に怒鳴られながら削り出した命の時間。それが、何の生産性もないプラスチックのゴミへと変換され、最終的には緋月の姉が食べる高級寿司やブランドバッグへと化けるのだ。
ドームの正面ゲートに掲げられた巨大な看板には、NONELの五人が見下ろすように笑っている。
完全な宗教だ、と私は思った。
知性も教養もない大衆が、作られた虚像にすがりつき、自分の稼いだ端金を喜んで差し出す。この狂気的な搾取のシステムこそが、現代社会が抱える最大の病理である。
私は、周囲の熱気から完全に孤立したまま、擦り切れたトレンチコートのポケットに両手を突っ込み、その狂騒の海をゆっくりと歩き出した。
すれ違う女たちが、時折、私の地味で薄汚れた姿を一瞥し、すぐに興味を失って視線を外すのがわかった。彼女たちの目には、私がただの付き添いの親か、あるいは道に迷った哀れな部外者にしか見えていないのだろう。
ふふっ、と。
ひび割れた唇から、自然と笑みがこぼれた。
笑え。今のうちに存分に笑っておくがいい。
お前たちが身をよじって熱狂し、神のように崇めているその偶像の喉元には、今、私の手によって見えない刃が突きつけられているのだから。
お前たちの隣を歩くこの冴えない女が、ネットの世界で数万の軍勢を率い、彼らの家族の不祥事を暴き、アイドルというビジネスモデルそのものを崩壊の危機に陥れているあのGhost In the Roomであることなど、お前たちのアメーバのような脳髄では到底理解できないだろう。
圧倒的な優越感だった。
空腹で眩暈がするほどの肉体的な劣等感と、自分だけが真実を知っているという精神的な特権意識。その矛盾した二つの感情が私の脳内でスパークし、強烈なアドレナリンとなって全身の血管を駆け巡っていた。
開場時間を告げるアナウンスが、ドームの周囲に設置されたスピーカーから響き渡る。
それに呼応するように、数万の群衆から地鳴りのような歓声が上がった。
私はチケットのQRコードが表示されたスマートフォンの画面を握りしめ、獲物を解体する屠殺場へと向かう足取りで、入場ゲートの列へと並んだ。
これから始まるのは、三時間に及ぶ地獄の視察だ。
彼らのパフォーマンスの粗、MCでの不用意な発言、メンバー間の不自然な距離感。ファンどもが尊いと涙を流すその空間で、私だけが冷徹なメスを握りしめ、彼らの化けの皮を剥ぎ取るための証拠を収集する。
私は偶像を破壊するための、ただ一人の異端審問官なのだ。
電子チケットのQRコードをかざし、無機質な電子音とともに回転ゲートを抜ける。
案内係の若い女性スタッフが、マニュアル通りの完璧な笑顔で「いらっしゃいませ、ごゆっくりお楽しみください」と声をかけてきた。その声のトーンも、口角の上がり方も、私がスーパーのレジ打ちで強要されているものと全く同じ、魂の籠もっていない業務用のプラスチックの笑顔だった。私は彼女を一瞥しただけで無視し、薄暗いコンコースへと足を踏み入れた。
私の席は、二階スタンドの最後列に近い場所だ。
急勾配の薄暗い階段を上っていくたび、三日間まともな食事をとっていない私の肉体は悲鳴を上げた。息が切れ、膝がカクカクと震え、視界の端が白く明滅する。すれ違うファンたちは皆、底抜けに明るい顔をして軽やかに階段を駆け上がっていくというのに、私一人だけが、重い十字架を背負ってゴルゴダの丘を登る罪人のようだった。
ようやく自分の座席番号を見つけ、硬いプラスチックの椅子に腰を下ろした。
眼下に広がる光景に、私は思わず息を呑んだ。
高い。ひどく高い。急なすり鉢状になったドームの観客席は、まるで巨大な蟻地獄のようだった。見下ろすアリーナ席には、米粒のような大きさの人間たちが、信じられないほどの密度で蠢いている。
五万五千人。
それが、このひとつの空間に詰め込まれた愚民どもの数だ。
彼女たちの手には、開演前だというのにすでにそれぞれの推しカラーに発光するペンライトが握られ、ドーム全体が毒々しい極彩色の海と化していた。
私は自分の席から、メインステージの半分が巨大なスピーカータワーの機材に遮られて見えないことに気がついた。いわゆる見切れ席というやつだ。私の全財産である二万五千円は、彼らの肉眼での姿すらまともに拝めない、この薄暗い天井すれすれの劣悪なスペースを買い取るために消え失せたのだ。
だが、不思議と怒りは湧かなかった。
むしろ、この下界を見下ろす圧倒的な俯瞰の視点こそが、私という神にふさわしい玉座であるように思えた。
アリーナの最前列で、何十万円も払って彼らにすがりついている熱狂的な女たちは、ステージの細部しか見えていない。彼らの作られた笑顔と、飛んでくる汗の雫という表層的な麻薬に酔いしれているだけだ。しかし、この最上段の暗がりに座る私には、この巨大な搾取のシステム全体が手に取るように見える。
照明機材の数、警備員の配置、そして、彼らのために何十億という金が動いているという、資本主義のグロテスクな真実のすべてが。
開演定刻の午後六時。
突如として、場内に流れていたBGMがプツリと途切れ、五万五千個の照明が一斉にブラックアウトした。
「キャアアアアアアアッ!!」
鼓膜が破れるかと思うほどの、物理的な質量を伴った絶叫がドーム全体を揺るがした。内臓を直接鷲掴みにされるような凄まじい音圧。それは歓声というよりも、もはや狂気に満ちた獣の咆哮に近かった。
暗闇の中、メインステージの巨大なLEDモニターに、心臓の鼓動を思わせる重低音とともに、レーザー光線が走り抜ける。CGで描かれた神殿の扉が開き、NONELの五人のメンバーの顔が一人ずつ、ドラマチックなスローモーション映像で紹介されていく。
メンバーの顔が映し出されるたびに、地鳴りのような悲鳴が上がる。
私は硬いプラスチックの椅子に深く背中を預け、腕を組んだまま、氷のように冷たい視線でその狂騒を見下ろしていた。
周囲の女たちが総立ちになり、狂ったようにペンライトを振り回す中、私だけが微動だにせず、暗闇に紛れた墓石のように座り続けている。
やがて、ステージの中央に設置された巨大なゴンドラが、まばゆい逆光と大量のスモークの中からゆっくりとせり上がってきた。
きらびやかなスパンコールと金糸で装飾された、王族のような衣装を纏った五人の男たち。
彼らがポーズを決めた瞬間、ドームの屋根を吹き飛ばさんばかりの爆発音とともに、大量の特効の炎が噴き上がった。
一曲目が始まる。アップテンポで、頭の空っぽな若者が好みそうな、中身のない電子音のダンスナンバーだ。
私はポケットから百円均一で買った小さなメモ帳と短いボールペンを取り出し、膝の上で構えた。さあ、視察の開始だ。
双眼鏡を持たない私の目には、彼らの細かな表情までは見えない。しかし、見切れ席の目の前に設置された巨大なサブモニターが、彼らの顔を克明に映し出していた。
私はまず、センターで歌う緋月の口元を執拗に監視した。
激しいダンスを踊りながら、彼は涼しい顔で高音のフェイクを響かせている。
「……なるほど。完全な口パクね」
私は暗がりの中で低く呟き、メモ帳に乱暴な文字を書き殴った。
マイクのヘッドから唇が数センチ離れた瞬間があったにもかかわらず、スピーカーから流れる音声のボリュームや息遣いが全くブレていなかったのだ。激しいステップを踏んでいるのに、呼吸の乱れ一つマイクに乗らない。
愚かなファンどもは緋月くん、生歌めっちゃ上手くなっていると感動の涙を流しているが、あんなものは事前にスタジオでピッチ補正をかけまくった録音音源を流しているに過ぎない。数万円のチケット代を取っておきながら、生で歌うという歌手としての最低限の義務すら放棄しているのだ。
私はメモ帳に『一曲目から明白な口パクである。ライブという生の手作りの価値に対する著しい冒涜だ』と書き込んだ。これを帰ってから、いかにも音楽的な専門知識があるかのように装飾してタイムラインに投下してやるのだ。
続いて、私の視線はメンバー間のやり取りへと向けられた。
曲の合間、立ち位置が交差する瞬間に、リーダーの蒼波が末っ子の柚煌の肩をポンと叩き、二人が顔を見合わせて笑顔を作るシーンがモニターに抜かれた。
会場からは尊い、蒼波くん優しいという黄色い悲鳴が上がる。
だが、私の目は誤魔化されない。いや、私の脳内ではすでに完璧なシナリオが出来上がっているのだ。
あれは、私がネットで放ったパワハラ疑惑の炎上に対する、運営側のあからさまなダメージコントロールだ。炎上を意識しすぎるあまり、不自然なまでに仲の良さをアピールする振り付けを急遽追加したに違いない。
よく見ろ。蒼波の笑顔は目が笑っていないし、肩を叩かれた柚煌の肩は、一瞬だがビクッと強張っていたように見えた。あれは恐怖の反射だ。日常的な支配関係が、あの刹那の身体の動きに表れているのだ。
『表面的な仲良しアピールの裏に透けて見える、深刻な権力勾配と怯え』
私のペンが、暗闇の中でガリガリと音を立ててノートを削っていく。
そして、MCの時間。
五人が横一列に並び、息を切らしながらファンに向かって挨拶を始める。
「みんなー! 今日は会いに来てくれて、本当にありがとう! 最高の一日にしようぜ!」
緋月がカメラに向かってウインクを投げると、ドームが揺れた。
私は吐き気を催した。数日前、彼の実の姉が弟の奢りで高級寿司を食らっていたあのInstagramの投稿を思い出す。
お前が今、その薄っぺらい口先でファンに投げかけているありがとうという言葉は、俺の家族の贅沢な生活費を貢いでくれてありがとう、この愚か者どもという意味なのだろう。どの面を下げて、そんな甘い言葉を吐けるのだ。お前たちの裏の顔、その腐敗しきった血脈の真実を、私はすべて知っているのだぞ。
私は、他のメンバーが喋っている間の、緋月の態度を観察した。
彼は自分の順番が終わると、ほんの一瞬だけ、客席から視線を外し、ステージの床に目を落として無表情になった。おそらく、激しいダンスの疲労を逃がすための無意識の生理現象だろう。
だが、私にとってそれは決定的な証拠だった。
『MC中、他メンバーの発言時にあからさまに退屈そうな表情を浮かべ、客席から目を逸らす緋月氏。ファンと向き合う時間を単なる消化試合としか捉えていない、プロ意識の決定的な欠如』
すべてが、私の用意した正義のシナリオ通りに動いている。
彼らが笑えば炎上を隠蔽するための不自然な演技となり、真顔になればファンを蔑ろにする傲慢な態度となる。もはや彼らがステージ上で何をしようが、息をすることすらも、私の手にかかればすべて社会悪への告発材料へと変換されるのだ。
私は、熱狂の渦の中でただ一人、カチカチとボールペンの芯を出し入れしながら、獲物を解剖する冷徹な外科医のように、彼らの罪をノートに刻み込み続けていた。
ライブは終盤に差し掛かり、ドーム内の熱気は文字通り沸点に達していた。
アンコールを告げるけたたましい電子音が鳴り響き、アリーナの外周に用意された巨大なトロッコに、五人のメンバーが乗り込んで登場する。彼らがスタンド席のファンの目の前をゆっくりと通り過ぎていくという、アイドルライブ特有のファンサービスの時間だ。
「キャアアアアッ! こっち見てえええっ!」
私の周囲の見切れ席に座っていた女たちまでもが、身を乗り出して狂ったように金切り声を上げ始めた。色とりどりのペンライトが、まるで嵐の海のように激しく波打つ。
トロッコが私から最も近いスタンド下を通過した時のことだ。
巨大なサブモニターが、トロッコの上でファンに向かって手を振る緋月の姿を大写しにした。彼はアリーナ席の前列にいた特定のファンたち――おそらく、自作の派手なうちわやボードを持った若い女たちだろう――に向かって、甘ったるい笑顔で指を差し、投げキスを放っていた。
だが、その直後。
トロッコが少し進み、スタンド席の中段あたりに視線を移した瞬間、緋月の表情が一瞬だけ無になったように見えた。彼は手を振るのをやめ、わずかに顎を上げ、視線を遠くの暗闇へとスッと外したのだ。
ほんの数秒の出来事だった。ファンサービスに疲れたか、あるいは照明の眩しさに目を細めただけの、ただの生理的な反応だろう。
しかし、私の歪んだレンズを通せば、それは全く別の醜悪な真実として映し出された。
『特定のファンにのみ過剰なファンサービスを行い、それ以外の客層が目に入った瞬間に露骨に表情を曇らせ、視線を外す緋月氏。ファンを金蔓としてしか見ていないだけでなく、客を容姿や年齢でランク付けし、あからさまに差別している醜悪な選民思想の表れ』
私は暗闇の中でニタリと笑い、ボールペンをノートに走らせた。
これだ。これが現場でしか手に入らない生の事実だ。アイドルのファンにとって、推しから露骨に無視されること、あるいはファン同士で差別されることほど、強烈な憎悪と絶望を生むものはない。この一文は、彼を盲信している層の心に、取り返しのつかない決定的な亀裂を入れるはずだ。
さらに私の視線は、メインステージに残って機材の準備をしている裏方スタッフと、緑色の衣装を着た翠弦のやり取りを捉えた。
翠弦がスタッフから受け取ったタオルで汗を拭きながら、マイクを通さずに何か短い言葉を交わしている。スタッフはペコッと頭を下げて足早に去っていった。
ただの業務連絡。あるいはありがとうという労いの言葉かもしれない。
だが、私はノートの新しいページを開き、太く力強い筆圧でこう書き殴った。
『ステージの暗転時、裏方のスタッフからタオルを受け取る際、翠弦氏がスタッフに対して威圧的な態度で何かを吐き捨てる場面を目撃。スタッフは萎縮して頭を下げていた。表舞台での笑顔の裏で、立場の弱い裏方労働者を日常的に見下し、暴言を吐いている可能性が極めて高い』
完璧だった。
私がこれまでネット上で構築してきた権力勾配と傲慢の温床というシナリオが、この現場視察によって、一つ一つの強固な証拠として実体化していく。
私は自分の席から見下ろす五万五千人の熱狂を、もはや滑稽な喜劇としてしか見ていなかった。お前たちは、こんな性根の腐り切った連中に何万円も貢ぎ、涙を流して喜んでいるのだ。なんという愚かさ。なんという滑稽さ。
やがて、三時間に及ぶ狂騒の儀式が終わりを告げた。
「今日は本当にありがとう! みんなのこと、愛してるよー!」
五人が手をつなぎ、マイクを通さない肉声でドーム全体に叫ぶ。銀テープがキャノン砲から発射され、キラキラと輝きながらアリーナの空を舞い落ちていく。それを取り合って悲鳴を上げる女たちを見下ろしながら、私は誰よりも早く硬いプラスチックの椅子から立ち上がり、出口へと向かった。
これ以上、この茶番に付き合う義理はない。
私には、手に入れたこの猛毒を、一刻も早く世界に向けて放つという重要な使命があるのだ。
ドームの外に出ると、十一月の凍てつくような夜風が私の火照った顔を撫でた。
帰りの総武線の車内は、ライブの余韻に浸り、興奮冷めやらぬファンたちで立錐の余地もないほどすし詰め状態だった。
彼女たちの発する甘ったるい香水の匂いと、熱気に当てられた汗の匂いが混ざり合い、空腹で限界を迎えている私の胃を容赦なく締め付ける。
私はドアの脇の狭いスペースに身体を押し込み、震える手でトレンチコートのポケットからスマートフォンを取り出した。
車内の揺れに耐えながら、私は『Ghost In the Room』のアカウントを開き、新規ポストの作成画面を立ち上げる。
親指が、画面のキーボードの上を滑るように踊り始めた。
空腹も、足の痛みも、周囲の騒音も、すべてが私の意識から遠ざかっていく。私は今、何万という軍勢を動かす総司令官であり、歴史を書き換える預言者なのだ。
『これまでの情報だけでは断定を避けていたが、彼らの本質を私自身の目で確認する義務があると感じ、本日、NONELの東京ドーム公演に一般客として潜入してきた。結論から言えば、私がこれまで抱いていた危機感は、想像を絶する絶望へと変わった』
導入は重々しく、そして現場を見た者としての絶対的な権威を匂わせる。私が全財産を投げ打って手に入れた二万五千円のチケットは、この一文に説得力を持たせるための安い免罪符だ。
『まず言及すべきは、彼らのパフォーマンスの空虚さだ。ドームという大舞台でありながら、大半の楽曲が明白な口パクであった。高いチケット代を払って足を運んだファンに対し、生身の音楽を届けるというアーティストとしての最低限の誠意すら放棄している』
そして、あのトロッコでの差別の告発を織り込む。
『さらに許しがたいのは、客席への態度の露骨な差異である。緋月氏は、自分の気に入った特定の容姿のファンにのみ愛想を振りまき、それ以外の客層が視界に入った途端、あからさまに不快感を露わにして視線を外していた。これは、純粋な気持ちで彼らを応援しているファンを、明確にランク付けし、差別しているという事実に他ならない』
親指の動きは加速していく。
私の紡ぎ出す論理は、ドームで見た断片的な映像を、悪意という強力な接着剤で繋ぎ合わせ、一つの巨大な真実へと練り上げられていく。
『極めつけは、翠弦氏の裏方スタッフに対する威圧的な態度だ。暗転時、彼は手伝いをしたスタッフに対して労いの言葉をかけるどころか、何かを冷たく吐き捨て、相手を萎縮させていた。以前指摘したメンバー内の権力勾配だけでなく、立場の弱い関係者すべてを足下に見るその横柄さは、エンターテインメント業界の根幹を腐敗させる猛毒である』
書き連ねた長文を、最後に一つの決定的な言葉で締めくくる。
『アイドルという虚像の裏に隠された、この醜悪な現実。彼らはファンを金のなる木としか見ておらず、その金で家族を肥え太らせ、裏では他者を見下して嘲笑っている。我々は、この巨大な搾取と欺瞞のシステムを、これ以上野放しにしてはならない。盲目的な消費は、彼らの傲慢さを助長する加担であると知るべきだ』
私は、電車の揺れで何度かタイプミスを修正しながら、その長大なテキストを三つのポストに分割し、ツリー形式にして繋げた。
「……ふうっ」
小さく息を吐き出し、すべてをポストするという青いボタンの上に親指を乗せる。
隣では、全身を推しのカラーで彩った二人組の若い女が、スマートフォンの画面で今日のライブのセットリストを見返しながら最高だったね、明日からまた仕事頑張れると笑い合っている。
可哀想に。お前たちのその小さな幸せは、あと数分で私が粉々に打ち砕いてやる。
私は、彼女たちの笑顔を横目で冷ややかに見据えながら、親指に力を込めて画面をタップした。
送信完了の小さなバーが、スマートフォンの上部に表示されて消える。
それは、NONELという巨大な偶像の心臓部に向かって放たれた、最大火力にして、後戻りのできない最悪のミサイルだった。
総武線のくたびれた車両が、ガタンと大きく揺れた。
その物理的な揺れとは全く無関係に、私の右手の中で握りしめられたスマートフォンが、微細かつ暴力的な振動を連続して発し始めた。ブブッ、ブブッ、ブブブブブッ。それはまるで、熱を持った生き物が私の掌の中で痙攣しているかのようだった。
送信ボタンを押してから、わずか数分の出来事である。
私は画面に目を落とした。
ロック画面を埋め尽くすように、SNSの通知ポップアップが滝のように流れ落ちていく。その速度は、過去のパワハラ疑惑や家族の特定の時とは比較にならない。もはや視神経で追うことすら不可能な速度で、リポスト、引用、いいね、そして直接のダイレクトメッセージが押し寄せてきている。
『現場からの告発、ありがとうございます。信じたくなかったけど、今日のライブで私も緋月くんと目が合った瞬間にフイッと逸らされて、気のせいだと思いたかったのに……涙が止まりません』
『口パクだったなんて……。私、あんなに一生懸命歌ってると思って感動してたのに。なんか急に全部バカバカしくなってきた』
『スタッフさんへの態度が悪いって、本当に終わってる。人間性疑う。Ghost In the Roomさんが命がけで潜入してくれて、ようやく目が覚めました』
『拡散希望! NONELの裏の顔がヤバすぎる。これ完全にクロでしょ。スポンサー企業はこんな奴ら降板させるべき』
私の放った三連のポストは、完璧なまでに真実として受肉し、ネットの海を業火となって焼き尽くし始めていた。
「……ふっ、あははっ」
満員の車内、押し潰されそうになりながら、私は思わず口元を押さえて声を漏らした。
隣に立っていた若いサラリーマンが、不気味なものを見るような目で私を横目で見下ろして少しだけ距離を取ったが、そんなことはどうでもよかった。
痛快だ。なんという圧倒的な破壊力。
私がたった数十分前に、見切れ席の暗闇で捏造し、悪意でつなぎ合わせただけのチープな妄想が、今や数万人の人間にとっての揺るぎない事実として君臨している。
ファンどもは、私が仕掛けた特定の客層への差別、口パク、スタッフへの暴言という、誰もが飛びつきやすい扇情的なキーワードに群がり、自らの手で自分の推しを切り刻み始めている。これまで彼らを必必死に擁護していたファンでさえ、現場にいたという私の目撃証言の前に、反論の言葉を失い、次々と崩れ落ちていく。
私の脳髄の奥底で、ドバドバと際限なく快楽物質が分泌されるのがわかった。
丸三日まともな食事をとっていない空腹も、立ちっぱなしで限界を迎えている足の痛みも、この甘美な痺れの前では完全に麻痺していた。
最寄り駅で電車を降り、深夜の冷たい風が吹きすさぶ住宅街を歩く。
擦り切れたトレンチコートの裾が風に煽られ、安物のパンプスがアスファルトを叩く音が虚しく響く。現実の私は、財布の中に数千円しか入っていない、明日の食事すら事欠く底辺の派遣社員だ。
だが、私の精神は今、地球上のどの権力者よりも高く、神聖な玉座に座っていた。
「私が……私が、世界を動かしている……!」
街灯の少ない暗い夜道で、私は両手を広げ、天を仰いで恍惚と呟いた。
政治家でもなく、大企業の社長でもない。この誰からも見向きもされない三十代の女が、指先一つで、何十億という金が動くエンターテインメントの巨大なプロジェクトを根底から破壊しようとしているのだ。
錆びついたアパートの階段を駆け上がる。足の痛みなど感じなかった。
鍵を乱暴に回してドアを開け、カビと下水の匂いが充満する六畳間に飛び込む。靴を脱ぎ捨てるのももどかしく、私は一直線にデスクへ向かい、ノートパソコンの電源を叩きつけるように入れた。
暗い部屋の中で、モニターの青白い光が私を神々しく照らし出す。
ブラウザを立ち上げ、Ghost In the Roomのアカウントを開く。
「……すごい」
私は、乾ききった唇を震わせた。
フォロワー数は、私が家を出る前の五万人から、すでに六万五千人を突破していた。たった数時間で、一万五千人もの人間が私の言葉を求めて群がってきたのだ。
タイムラインは、完全に狂乱の坩堝と化していた。
私のポストは、すでに大手まとめサイトに『悲報・人気絶頂NONEL、ドーム公演での悪態が現地ファンに暴露され大炎上!』というセンセーショナルな見出しで転載され、それを見たYouTuberたちが嬉々として終了のお知らせという動画を次々とアップロードし始めている。
『Ghost In the Roomさん、あなたが本当の英雄です。誰も言えなかった真実を暴いてくれてありがとう』
ダイレクトメッセージの受信箱には、私を教祖のように崇め奉る言葉が何百通も届いていた。
私は、彼らへの返信など一切しない。
神は、信者の祈りにいちいち応えたりはしないのだ。ただ黙って、彼らが私の与えた啓示に従って暴れ回り、偶像の城に火を放つのを俯瞰して楽しむだけでいい。
冷蔵庫を開け、昨日から飲みかけの水道水の入ったペットボトルを取り出す。
私はモニターの光を浴びながら、その生ぬるい水を、まるで最高級のシャンパンでも開けるかのように喉に流し込んだ。
「乾杯」
誰もいない部屋で、一人祝杯をあげる。
胃袋が水を受け入れてキュルキュルとみっともない音を立てたが、私の心はこれ以上ないほどの満腹感に包まれていた。
これだ。これこそが、私の求めていた真の力だ。
あの傲慢な緋月も、無能な蒼波も、今頃はドームの楽屋でスマートフォンを見て、顔面を蒼白にしていることだろう。自分たちが何万人ものファンに笑顔を振りまき、大成功だと思い込んでいたライブの裏側で、すでに自分たちの首に致命的な縄がかけられていることに気づいて、恐怖に震えているはずだ。
「もっと苦しめ。もっと絶望しろ……!」
私は画面の中の、炎上を知らせる無数の通知を撫でるようにスクロールしながら、低く、狂気に満ちた声で笑い続けた。
現実世界で私が受けたすべての屈辱、見下された視線、理不尽な労働の苦痛。そのすべてを束ねた巨大な呪いが、今、彼らの上に降り注いでいる。
私は、自分が完全に無敵の存在になったと確信していた。
私が論理を組み立て、正義の旗を掲げれば、この世界のどんな強者でも引きずり下ろすことができる。私は決して表舞台に立つことなく、安全なこの六畳間から、ただ指先を動かすだけで世界を正しく裁くことができるのだ。
異常な全能感の頂点で、私の脳は完全に神の視点に同化していた。
狂乱のタイムラインを眺めていると、ごく少数だが、いまだにNONELを擁護しようとする哀れな信者たちの声が散見された。
『緋月くんは疲れてただけだよ! トロッコが揺れて顔をしかめたのを悪意ある切り取りしてるだけ!』
『アンチの捏造に騙されないで! ライブにすらいない奴が適当なこと言ってるんだから!』
私は冷ややかに鼻で笑った。彼女たちは現実を受け入れられず、認知不協和を起こしているのだ。何万円も貢ぎ、自分の人生のすべてを捧げてきた対象が、実は自分たちを薄汚い金蔓としか見ていなかったという絶望的な真実から、必死に目を背けようとしている。
だが、私はその逃げ道すらも完全に塞いでやる。
私は再びキーボードに手を置き、彼女たちの息の根を止めるためのトドメの攻撃を構築し始めた。
『いまだに彼らのプロ意識の欠如を疲労や体調を理由に擁護する層がいることには驚きを禁じ得ない。何万円という対価を受け取っている以上、ステージ上で疲労を見せること自体がプロ失格である。また、私がライブにいないと現実逃避する者がいるが、先ほどの投稿は私がドームの二階スタンド席から直接この目で確認した紛れもない事実である』
さらに、以前用意した比較の生贄をここで再召喚する。
『LUMINOUSのような地下アイドルたちは、彼らよりもはるかに過酷な環境とスケジュールの中で、誰一人として客席から目を逸らしたりはしない。恵まれた環境に胡座をかき、ファンをATMとして消費し、家族を肥え太らせているNONELの傲慢さを肯定することは、もはや彼らへの応援ではなく、エンターテインメント業界全体の腐敗を助長する共犯行為に他ならない』
送信ボタンを押す。
このポストは、擁護派の信者たちを盲目的なファンから社会悪の共犯者へと強引に引きずり下ろす、極めて悪辣で効果的なレッテル貼りだった。
私の軍勢たちは、この新しい大義名分に狂喜乱舞し、わずかに残っていた擁護派のアカウントへと一斉に群がり、凄まじい言葉の暴力を浴びせ始めた。
『まだそんなこと言ってるの? 目を覚ましなよATMさん』
『擁護してる奴らも同罪。お前らが甘やかすからあんなモンスターが育つんだよ』
擁護派のアカウントが次々と鍵をかけ、あるいはアカウントごと削除して逃亡していく。完全な勝利だった。ネットの海において、私の紡ぎ出す論理は絶対的な法であり、何者にも覆せない真実となったのだ。
私は、ドームの帰りに駅のゴミ箱から拾ってきた誰かが捨てた銀テープをモニターの前に無造作に放り投げ、そのまま万年床へと倒れ込んだ。
翌朝。
カラスの濁った鳴き声と、窓の隙間から差し込む冷たい冬の朝日で目を覚ました。
胃袋がギリギリと収縮し、強烈な吐き気に襲われる。丸四日近く固形物を口にしていない肉体は、明らかに限界を超えていた。立ち上がろうとすると激しい眩暈がし、視界がぐらりと揺れた。
しかし、枕元のスマートフォンを手に取ると、フォロワー数は七万人を超え、私の投下した炎は依然としてネットニュースのトップを飾っていた。私はその青白い光から精神的なカロリーを摂取し、這うようにして万年床から抜け出した。
今日は、あの忌まわしいスーパーマーケットでのパートの日だ。
私は、数日洗っていない脂ぎった髪を一つに束ね、安物の制服を鞄に押し込んでアパートを出た。
従業員通用口からバックヤードに入ると、空気がひどく淀んでいるように感じられた。
タイムカードを押そうとした私の背中に、不自然なほどの静寂が突き刺さる。休憩室の長机に集まっていたパートの主婦たちや、あの結衣たち学生アルバイトが、私が入ってきた瞬間にピタリと会話を止め、一斉に目を逸らしたのだ。
私は感情を殺し、無言のままロッカールームへと向かおうとした。
「あ、君。ちょっといいかな」
背後から、店長の鈴木に声をかけられた。彼の声はいつもより低く、そしてどこか怯えたような、事務的な冷たさを帯びていた。
「……はい」
鈴木は私を、バックヤードの奥にある狭い備品倉庫へと促した。埃っぽい段ボールの山に囲まれた薄暗い空間で、彼は腕を組み、私と一切目を合わせようとせずに口を開いた。
「結論から言うとね、君、今日で上がってもらうことになったから。派遣会社の方には、うちからもう連絡してある」
ドクン、と。
心臓が一つ、不快な音を立てた。
「……上がってもらう、とは。契約解除ということですか?」
「まあ、そうだね。ほら、君も最近ずっと体調悪そうだしさ、レジでのクレームも続いてたでしょ。他のスタッフからも、やっぱりちょっと君とは一緒に働きづらいって声が多くて。店の雰囲気に関わるから、これ以上は無理だと判断したんだよ」
鈴木の言葉は、建前と責任逃れで塗り固められていた。要するに、愛想が悪く、職場の空気を乱す目障りな非正規労働者を、合法的に切り捨てただけだ。
一週間前の私なら、この理不尽な宣告に絶望し、膝から崩れ落ちていたかもしれない。全財産は数千円しかなく、次の仕事の当てもないのだから。家賃も払えず、このまま路上に放り出されるかもしれないという恐怖に支配されていたはずだ。
だが。
今の私の心を満たしていたのは、絶望ではなく、底知れない優越感だった。
私は、目の前で目を泳がせている中年の男を、冷ややかに見下ろした。
この男は、自分が誰にクビを宣告しているのか全く理解していない。私がネットの世界で、何万という軍勢を動かし、巨大なアイドルグループの命運すら左右している絶対的な神であることを、この程度の低い愚民は知る由もないのだ。
「……わかりました。お世話になりました」
私は一切の抗議をせず、淡々と頭を下げた。
鈴木は拍子抜けしたような顔をし、そして安堵の息を漏らした。
「あ、うん。まあ、次の職場でも頑張ってよ」
私は備品倉庫を出て、自分のロッカーから私物を紙袋に詰め込んだ。
バックヤードを出る時、結衣とすれ違った。彼女は気まずそうに目を伏せ、逃げるように足早に通り過ぎていった。
私は彼女の背中を見送りながら、内心で嘲笑った。
お前が昨日、泣きながら擁護していたあのアイドルの城を叩き壊したのは、今お前が見下し、追い出したこの私だ。お前たちは一生、この狭いスーパーという泥水の中で、無自覚に搾取されながら愛想笑いを浮かべて生きていくがいい。
従業員出入口から外に出ると、真っ白な冬の空が広がっていた。
私は完全に社会からの接続を絶たれた。職を失い、金もなく、誰一人として味方のいない、現実世界における完璧な敗北者。
しかし、擦り切れたトレンチコートのポケットの中で、私のスマートフォンは七万人の熱狂という強大な力を抱えて、熱く脈打っていた。
「私は、神だ……」
私は空きっ腹を抱え、冷たい風に吹かれながら、狂気に満ちた足取りで、私の玉座であるあのカビ臭い六畳間へと向かって歩き出した。




