表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ゴーストインザルーム  作者: 葦原 蒼紫


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/8

第2話 比較の生贄

 

 廃棄処分の惣菜をバックヤードに運ぶプラスチックの番重が、ひどく重く感じられた。

 時計の針は午後八時を回っている。スーパーの店内は、仕事帰りの疲弊した客たちと、値引きシールを求める浅ましい視線で満ちていた。蛍光灯の無機質な光が、売れ残った揚げ物の酸化した油をぬらぬらと照らし出している。

「ちょっと、あんた! このお肉、特売のポップが出てたのに、レジ通したら通常価格になってたわよ!」

 不意に、ヒステリックな声が耳をつんざいた。振り返ると、パーマをあてた小太りの主婦が、豚肉のパックを片手に私をねめつけていた。

「申し訳ありません。確認いたします」

 私は感情を殺し、レジの端末を操作した。確かに、特売のバーコードではなく通常のバーコードが読み込まれている。しかし、私がスキャンした記憶はない。レジの担当履歴を確認すると、十分前、休憩に入る直前の結衣のIDが記録されていた。

「お客様、こちらは先ほどの担当者が誤ってスキャンしてしまったようです。すぐに差額を返金し、打ち直させていただきます」

 事実を淡々と述べただけだった。誰のミスであるかを明確にし、システムのエラーを修正する。至極論理的な対応だ。

 しかし、主婦の怒りの矛先は収まらなかった。

「なによその態度! 自分が間違えたわけじゃないから関係ないって言いたいの? 本当に感じの悪い店員ね。店長さん呼んでちょうだい!」

 バックヤードから飛んできた鈴木店長は、事情を聞くや否や、客の前で私を怒鳴りつけた。

「申し訳ありませんお客様! こいつ、派遣でまだ仕事に不慣れなものでして! ほら、お前もちゃんと謝れ!」

「ですが、担当履歴の記録では……」

「言い訳をするな! お客様が不快な思いをされているんだぞ!」

 鈴木の怒声が店内に響く。遠巻きに見ていた他の客たちが、哀れむような、あるいは軽蔑するような目で私を見ている。

 私は口を噤んだ。ここで論理を振りかざしても無駄だということを、私は嫌というほど知っている。この現実世界では、事実がどうであるかよりも、誰が誰に頭を下げるかという力学と感情だけがすべてなのだ。鈴木は、客の怒りを鎮めるための手頃なサンドバッグとして、愛想のない三十代の女である私を差し出すのが最もコストが低いと、本能的に判断したに過ぎない。

「……大変、申し訳、ありませんでした」

 私は豚肉のドリップで汚れたレジ台に手をつき、深く頭を下げた。

 その数十分後、休憩から戻ってきた結衣は、バックヤードで鈴木店長から軽く注意を受けていた。

「結衣ちゃん、バーコードの読み間違いには気をつけてね。さっきクレームになっちゃったから」

「えーっ、本当ですかぁ? わたしドジだから、ごめんなさーい。次から気をつけますっ!」

 結衣が舌を出して愛嬌たっぷりに笑うと、鈴木の顔からはあっさりと険が取れた。

「まあ、誰にでもミスはあるからな。落ち込まなくていいよ」

 壁越しにそのやり取りを聞いていた私は、冷たいコンクリートの床を見つめたまま、ただ静かに呼吸を繰り返していた。怒りというよりは、もはや絶対的な虚無感だった。

 この社会は、完全に狂っている。

 真面目に働き、論理的に物事を処理しようとする人間が不当に罰せられ、ただ若くて顔が良く、他人に媚を売るのが上手いだけの人間が、すべての罪を免罪される。鈴木も、あの主婦も、結衣も、誰も彼もが、表層的な感情という麻薬に酔いしれ、真実から目を背けている愚民だ。

 終業後、私は逃げるようにアパートへと帰った。

 錆びたドアを開け、カビと下水の匂いが充満する六畳間に足を踏み入れる。濡れたパンプスを脱ぎ捨て、一切の猶予もなくパソコンの電源を入れた。

 モニターから放たれる青白い光が、私の顔を照らす。その瞬間、スーパーで押し付けられた理不尽な屈辱と、泥のような疲労感が、スーッと潮が引くように薄れていくのを感じた。

 私は、現実世界では誰にも庇ってもらえない、惨めな非正規労働者だ。しかし、この『Ghost In the Room』という玉座に座れば、私は彼らのような愚民どもを俯瞰し、裁くことのできる神となる。

 ブラウザを開き、通知アイコンを見る。

 数字は依然としてカンストしたままだ。私が投下したNONELのパワハラ告発の炎は、まだ勢いを増して燃え広がっていた。まとめサイトが私のポストを引用し、YouTuberたちがそれに便乗して動画を作っている。私が着火した小さな火種が、巨大な暴力装置となって機能している。

 ふふっ、と。私の口から、乾いた笑い声が漏れた。

 今日、私を理不尽に怒鳴りつけたあの主婦も、私を見下した鈴木店長も、知る由もないだろう。自分たちがゴミのように扱ったこの女が、裏では数万の人間を動かし、テレビでちやほやされているようなアイドルを社会的に抹殺しようとしている、恐るべき怪物であることを。

 しかし、私はタイムラインの濁流を眺めながら、ふと冷静な思考を取り戻した。

 ただNONELの粗探しをして叩き続けるだけでは、いずれ大衆は飽きる。そして何より、ただの嫉妬に狂ったアンチというレッテルを貼られれば、私の言葉が持つ大義名分が薄れてしまう危険性があった。

 私は絶対的な正義であり、高潔な批評家でなければならない。

 そのためには、私の攻撃により強固な説得力と、道徳的な正当性を付与する必要があった。

 悪を際立たせるために最も効果的な方法は何か。

 それは、比較対象となる善を用意することだ。

 私はマウスを握り直し、検索窓にあるキーワードを打ち込んだ。

 数ヶ月前、深夜の音楽番組の端っこで、わずか数分だけ紹介されていた無名の男性地下アイドルグループ。たしか名前は『LUMINOUS』と言ったか。

 検索結果には、彼らの公式アカウントと、数えるほどしかないファンの投稿が表示された。

 NONELのような大手事務所の強力なバックアップもなく、煌びやかな衣装もない。小さなライブハウスで、汗だくになりながら必死に歌い踊る五人の若者たち。彼らのダンスは不器用で、歌唱力も素人に毛が生えた程度だ。だが、その顔には、今の自分の境遇に対する焦りと、それでも夢にしがみつこうとする泥臭い必死さが張り付いていた。

「……これだ」

 私は、冷たいモニターの前で唇を歪めた。

 彼ら自身に興味など一ミリもない。彼らが売れようが売れまいが、私の知ったことではない。

 だが、彼らが持つ「恵まれない環境で、泥臭く、ファンを大切にして直向きに努力する若者」という記号は、私がNONELという巨大な不当な成功者を叩き潰すための、これ以上ないほど完璧な棍棒になるのだ。

 薄暗い六畳間に、安っぽい電子音が響き渡る。

 私は検索結果から飛んだ動画共有サイトで、LUMINOUSのライブ映像を再生していた。画面に映し出されているのは、都内の地下にあるらしい、お世辞にも綺麗とは言えない小規模なライブハウスだ。観客は数十人程度。照明も暗く、音響はひどく割れていて、演者の息遣いよりもマイクのノイズの方が目立つ有様だった。

 ステージ上で歌い踊る五人の若者たちは、揃いの衣装すら持っていないようだった。それぞれが市販の服を少しだけリメイクしたような安っぽい服を身に纏い、滝のような汗を流しながら、必死の形相で客席にアピールしている。

 ダンスのフォーメーションはところどころズレており、息が上がって歌のピッチも外れている。NONELの洗練された一糸乱れぬパフォーマンスとは比べるべくもない、完全な素人の延長線上にある学芸会のようなステージだ。

 だが、曲が終わり、MCに入った瞬間の彼らの態度は、私の冷酷な審美眼にピタリとはまった。

「今日は、こんなにたくさん集まってくれて、本当にありがとうございます!」

 センターでマイクを握る黒髪の青年が、涙声で叫ぶ。数十人しかいないフロアに向かってたくさんと表現するその痛々しいまでの虚勢。そして彼らは、まるで土下座でもするかのように、頭が膝につくほど深く、長いお辞儀をしたのだ。

 画面越しの彼らの額から、汗の滴がポタポタとステージの床に落ちるのが見えた。

 滑稽だ。数十人の前で泥水すするようにして踊り、それでも全く売れる気配のない底辺の若者たち。彼らの人生もまた、私と同じように報われない泥濘の中にあるのだろう。

 私は彼らに一切の同情を抱かなかった。彼らの直向きさなど、私にとっては一円の価値もない。

 しかし、この「恵まれない環境で、泥臭く、ファンに深く頭を下げて感謝する無名の若者」という記号は、あまりにも美しかった。

 私が憎悪してやまない、巨大な資本に守られ、最初からすべてを与えられ、テレビのひな壇でふんぞり返っているNONELの傲慢さを浮き彫りにするための、これ以上ない完璧なコントラストなのだ。

 私は背もたれの硬いパイプ椅子から身を乗り出し、乾いた眼球でモニターを睨みつけながら、キーボードの上に両手を構えた。

 脳内で、ドロドロとした黒い感情が、またしても輝かしい正論へと錬成されていく。

 静かな部屋の中に、小気味よいタイピング音が鳴り響き始めた。

『偶然、LUMINOUSという無名のグループのライブ映像を目にした。お世辞にも技術は洗練されているとは言えないし、衣装も簡素だ。しかし、そこにはエンターテインメントの原点とも呼べる、表現者としての真摯な魂があった』

 まずは、善を徹底的に持ち上げる。私が彼らの隠れた魅力に気づき、評価してやるという上から目線の庇護者としてのポジションを確立するのだ。

『彼らは目の前のたった数十人の観客に対して、文字通り命を削るような熱量で向き合っている。与えられた劣悪な環境に甘えず、自らの足で立ち、汗を流し、ファンとの間に嘘偽りのない信頼関係を築き上げようとするその姿勢。これこそが、ステージに立つ者としての本来のあり方ではないだろうか』

 文章を打ちながら、私の口角は自然と吊り上がっていた。嘘八百だ。私は彼らのステージなど一秒たりとも感動していない。だが、言葉というものは、装飾すればするほど、真実味を帯びて愚民たちの心を打つ。

 さあ、ここからが本番だ。高々と持ち上げたこの善の棍棒を振り下ろし、標的の頭蓋骨を叩き割る番だ。

 改行キーを強く叩き、段落を変える。

『翻って、昨今のマスメディアを席巻している作られた偶像たちはどうだろうか。莫大な広告宣伝費と、大手事務所の権力によって与えられた巨大なステージを、自らの実力だと勘違いしている輩があまりにも多い。プロとしての最低限の努力すら怠り、公の場で不貞腐れた態度をとり、あまつさえグループ内部でのパワーハラスメントを絆という言葉で隠蔽する。そのような倫理観の欠如したハリボテが、若者の熱狂を不当に搾取している現状に、私は強い危機感を覚える』

 NONELという固有名詞は、あえて出さない。

 出さなくても、私のタイムラインを追っている七万人のフォロワーたちには、誰のことを指しているのか一目瞭然だ。名指ししないことで、特定のグループへの単なる誹謗中傷ではなく、エンターテインメント業界全体の腐敗を憂う、高潔な批評家による警鐘という体裁を保つことができる。

『LUMINOUSのような、真摯に泥水をすする若者たちが正当に評価されず、モラルを欠き、他者を見下す傲慢な若者たちが富を独占する。この社会の構造的なバグは、必ずどこかで破綻をきたす。我々消費者は、与えられた情報に踊らされるのではなく、本物の価値を見極める目を持たなければならない』

 完璧だった。

 スーパーのバックヤードで、自分は何の努力もせずに愛嬌だけで生きている結衣が許され、真面目に論理的に生きようとしている私が理不尽に罰せられたあの怒り。その個人的な怨念が、この文章の根底にはマグマのように流れている。だからこそ、このテキストには、単なる嫌がらせを超えた、異様なまでの説得力と熱が宿っているのだ。

 私は一度だけ深呼吸をし、マウスポインタを右下の青いボタンに合わせた。

 そして、重々しくクリックする。

 静寂に包まれた六畳間に、わずかなクリック音が吸い込まれた。

 送信と同時だった。私の予測通り、いや、それ以上の凄まじい速度で、画面左端の通知アイコンが赤く点滅し始めた。

 ベルのマークの横にある数字が、滝のような勢いで跳ね上がっていく。

『Ghost In the Roomさんの仰る通りです。某グループの態度には本当にがっかりしていました。これからはこういう真面目な子たちを応援したいです』

『LUMINOUS、初めて知りましたが映像を見て泣きました。実力のない奴らが資本の力でゴリ押しされる社会はおかしい』

『圧倒的な正論。名前を出さなくても誰のことかすぐに分かります。傲慢な彼らにはこの言葉は届かないでしょうが』

 通知のポップアップを猛然と目で追う私の口から、低く歪んだ笑い声が溢れ出した。

 愚かだ。本当に愚かで、操りやすい大衆どもだ。

 彼らは私が用意した比較の生贄にまんまと食いつき、私と同じように正義の仮面を被って、安全な場所からNONELに向けて嬉々として石を投げ始めている。LUMINOUSのファンになるわけでもないくせに、ただ誰かを叩くための大義名分として、見ず知らずの地下アイドルを利用しているのだ。

 スーパーのレジ打ちとして、誰からも見向きもされない透明人間である私が。

 今この瞬間、何万人もの感情をコントロールし、一つの巨大な世論を創り出している。

 この圧倒的な支配の感覚。他者の人生を盤上の駒のように動かし、私の気に食わない存在を間接的に、しかし確実に社会的に包囲していく快感。

 私は、冷え切ったマグカップに残っていた、いつ淹れたかもわからない濁ったコーヒーの残骸を一気に飲み干した。ひどく酸っぱく、泥のような味がしたが、今の私の脳内には最高級の美酒のように甘美に感じられた。

 もっとだ。

 もっと、彼らを追い詰めなければ。

 私は、LUMINOUSという便利な盾を手に入れたことで、自分の攻撃がいかなる反撃も受けない無敵の要塞になったと完全に錯覚していた。

 それから数日後。私が派遣されているスーパーマーケットでの孤立は、もはや決定的なものとなっていた。

 あの豚肉のバーコードの一件以来、バックヤードにおける私の扱いは、扱いづらい年増の派遣から、自分の非を認めず周囲を不快にさせる疫病神へと明確に格下げされた。店長の鈴木は私と極力目を合わせようとせず、業務連絡すらパートのリーダー格の女性を介して行われるようになった。

 昼休憩のバックヤード。パイプ椅子と長机が置かれただけの殺風景な休憩室で、私は一番端の席に座り、特売のツナマヨおにぎりを無言で咀嚼していた。パサついた海苔が上顎に張り付き、ひどく飲み込みづらい。

 数メートル離れた机の中心では、結衣が他の学生アルバイトたちとスマートフォンの画面を覗き込みながら、けたたましい嬌声を上げていた。

「ねえ、これ見た? 最近ネットでNONELのこと、すっごい叩いてるアカウントがあるんだけどぉ」

 不意に飛び出したその単語に、私の心臓がドクン、と大きく跳ねた。咀嚼する顎の動きが無意識に止まる。

「あー、なんかニュースのまとめサイトで見たかも。パワハラがどうとかってやつでしょ?」

「そうそう! 柚煌くんがいじめられてるってやつ。でもさあ、あれ絶対ただのアンチの捏造だよね。緋月くんがそんなことするわけないし。ただでさえ最近スケジュールきつくて疲れてるのに、ほんと可哀想……」

 結衣は、本気で悲しそうな、それでいて自分が被害者の身内であるかのような酔いしれた声を出した。

「だよねー。てか、無名の地下アイドルと比べてNONELは傲慢だ、とか言ってるのも意味わかんないし。売れてる嫉妬でしょ、どうせ暇なオバサンが書いてるんだよ」

 その瞬間、私の手の中で、安っぽいビニールに包まれたツナマヨおにぎりが、ぐちゃりと無惨な形にひしゃげた。

 息が詰まる。怒りではない。現実世界の絶対的な理不尽さと、自分の置かれた立場の滑稽さに、吐き気にも似た目眩を覚えたのだ。

 お前たちが、何の疑問も持たずに消費し、盲目的に擁護しているその偶像を内側から破壊しようとしているのは、今お前たちと同じ空間で、息を殺して冷たい飯を食っているこの暇なオバサンだぞ。

 鈴木店長が休憩室に入ってきて、結衣たちの輪に加わった。

「おっ、なんの話? またイケメンアイドルの話か?」

「あ、店長ぉ。聞いてくださいよ、ネットでひどいこと言ってる人がいてぇ」

「ネットの書き込みなんて気にするなよ。結衣ちゃんみたいに、素直で性格のいい子には縁のない世界の話さ」

 和気藹々とした笑い声が、休憩室に響き渡る。

 私は立ち上がり、半分残ったひしゃげたおにぎりをゴミ箱に叩き込むと、誰にも挨拶をせずにその場を逃げ出した。

 午後、シフトの終わり際。鈴木店長にバックヤードの隅へと呼ばれた。

「あのさ、君。来月のシフトなんだけど……少し減らさせてもらうから」

 予想はしていたが、実際に言葉の刃として突きつけられると、胃の腑が鉛のように重くなった。

「……理由を、お聞かせいただけますか」

「君ねえ、他のスタッフからやりづらいって声が出てるんだよ。休憩中もずっとムスッとしてるし、店の雰囲気が悪くなる。うちはチームワークでやってるんだ。結衣ちゃんみたいに、とは言わないけどさ、もう少し協調性ってものがないと」

 協調性。要するに、ヘラヘラと笑って上の人間に媚を売り、他人のミスを被って泥を啜れということだ。私は何も言い返さず、ただ深く頭を下げてスーパーを後にした。

 夜の氷雨が、私の安物のトレンチコートを容赦なく濡らしていく。

 帰り道、私の頭の中はどろどろとした黒い炎で満たされていた。

 結衣の言葉が脳内で反響する。絶対ただのアンチの捏造だよね。緋月くんがそんなことするわけない。

 あのような思考停止した愚民どもが、あの傲慢なアイドルたちを無条件に肯定し、甘やかしているのだ。私がどれだけ論理的な正義のメスを突き立てても、彼らは推しが可哀想という感情論のバリアで真実から目を背ける。

 許せない。

 アイドル本人たちだけではない。彼らを無批判に礼賛するファンも、そして彼らを取り巻くすべての環境も、徹底的に破壊しなければならない。ただの態度が悪い、パワハラ疑惑程度の炎上では、彼らの強固な城は揺らいでも崩壊までは至らないのだと、私は現実の底辺で冷水を浴びせられて悟った。

 アパートに帰り着き、濡れたコートも脱がずにパソコンの前に座る。

 モニターの青白い光を浴びながら、私はキーボードに指を這わせた。

 もっとだ。もっと深くまでえぐり出し、彼らのファンですら擁護できなくなるような、致命的な毒を盛らなければならない。

 私はターゲットを、アイドル本人から、彼らの血脈へと切り替えた。

 もし彼らが本当に傲慢で腐敗しているのなら、その周囲の人間、特に家族もまた、ファンから搾取した金で不当な恩恵を受け、傲慢に振る舞っているはずだ。

 私は検索エンジンの奥深くへと潜り込んだ。

 SNSの匿名掲示板、過去のインタビュー記事、ファンの間で囁かれている真偽不明の噂。あらゆる情報を結びつけ、執念深くパズルのピースを嵌めていく。

 数時間後、私の目はある一つのInstagramアカウントに釘付けになった。

 アカウント名は、アルファベットと数字の羅列。アイコンは高級ホテルのラウンジらしき場所で撮られた、ブランド物のバッグの写真だ。

 一見すれば、ただの自己顕示欲の強い港区女子のアカウントに見える。しかし、過去の投稿を数年単位で遡り、背景に写り込んだ実家の間取り、飼っている犬の犬種、そして何より、投稿される豪華な食事の日付と、NONELのセンター・緋月の大きな仕事が終わった日付の奇妙な一致。

 決定打は、数ヶ月前の投稿だった。

『弟の初ドームツアー記念! お疲れ様会で回らないお寿司。ごちそうさまー』というテキストと共にアップされた、高級寿司と、顔はスタンプで隠されているものの、明らかに緋月と同じ特徴的な腕時計をつけた男性の腕の写真。

 見つけた。

 緋月の実の姉のアカウントだ。

 私は、獲物の急所を噛み切る寸前の肉食獣のように、唇を歪めて笑った。

 彼女の投稿をスクロールしていく。出るわ出るわ、ハイブランドの新作バッグ、ファーストクラスでの海外旅行、高級タワーマンションの夜景。そして、そのどれもが弟からのプレゼント、家族特権であることを仄めかす、品性の欠片もないハッシュタグの数々。

 結衣のような底辺の労働者が、少ないアルバイト代を切り詰めてCDを何十枚も買い、グッズに何万も貢いだ金。それが、この何も努力していない身内の女の、承認欲求を満たすためのブランドバッグや高級寿司へと変換されているのだ。

「……愚かだね、本当に」

 私は独り言を呟きながら、キャプチャツールで彼女の投稿を次々と保存していった。

 ファンどもは、アイドル本人の態度は擁護できても、自分たちの落とした金が身内に特権として浪費され、あまつさえSNSで見せびらかされているという現実を突きつけられれば、確実に発狂する。これは、アイドルとファンの間にある疑似恋愛と応援という脆い幻想を、根本から叩き壊すための強力な爆弾だ。

 私は、スーパーで削り取られた自尊心を埋め合わせるように、猛烈な勢いでキーボードを叩き始めた。

 この女の自己顕示欲を、社会悪として糾弾してやる。

 アイドルの家族という不当な特権階級が、いかに一般大衆を舐め腐っているか。そして、それを放置し、あまつさえ金銭を与えて助長している緋月という人間が、いかにファンを金蔓としか思っていない冷酷な人間であるか。

 私の紡ぎ出す正義の論理は、もはやアイドル本人への批判という枠を超え、彼らの血脈、彼らの人生のすべてを焼き尽くすための、業火へと変貌を遂げようとしていた。

 私は、緋月の姉と思われるInstagramアカウントから、数十枚に及ぶスクリーンショットを保存した。

 高級フレンチのフルコース、誰もが知るハイブランドの新作バッグ、ファーストクラスの搭乗券、そして弟の奢り、家族でドームお祝いといった、軽薄極まりないテキストの数々。

 これらを無作為に並べるだけでは、ただの特定班の嫌がらせで終わってしまう。私が為すべきは、これを社会問題、あるいはアイドルというビジネスモデルの倫理的欠陥として昇華させることだ。

 私は、スーパーのレジ打ちで冷え切った指先を擦り合わせ、キーボードのホームポジションに置いた。

 頭の中で、スーパーの休憩室で結衣が発した「緋月くんがそんなことするわけない」「ファン想いだし」という甘ったるい声がリフレインする。彼女たちのような無知で愚かな労働者が、時給千円足らずで必死に稼いだ金。それが、何の努力もしていない、ただ血が繋がっているだけの女の承認欲求を満たすための餌として消費されている。

 この残酷な現実の構造を、最も鋭利な言葉で切り裂いてやる。

『NONELの緋月氏に関して、看過できない事実が浮上している。彼の親族と思われる人物のSNSアカウントにおいて、著しく品性を欠く自己顕示が長期間にわたって繰り返されている件だ』

 カタカタというタイピング音が、淀んだ六畳間に小気味よいリズムを刻む。

『投稿には、緋月氏のドームツアー成功を祝う名目での過剰な散財や、彼からの高額なプレゼントと推測されるブランド品の数々が、家族特権を誇示するような文脈で掲載されている。身内を大切にすること自体は否定しない。しかし、彼らが享受しているその莫大な富の源泉は、彼を盲目的に支持し、生活費を削ってまでCDやグッズを買い支えているファンたちの金である』

 改行し、さらに言葉の刃を研ぎ澄ます。ここからがGhost In the Roomの真骨頂だ。個人的な恨みを、大義名分へとすり替える錬金術。

『このような、ファンの献身を嘲笑うかのような親族の軽率な振る舞いを放置し、あまつさえ資金を提供して助長している緋月氏の態度は、プロのエンターテイナーとして致命的な背信行為である。彼はファンを応援してくれる大切な存在ではなく、単なる身内を養うためのATMとしか認識していないのではないか。このような搾取の構造を許容する運営会社のガバナンスも、根本から腐敗していると言わざるを得ない』

 推敲を重ね、感情的な単語を冷徹なビジネス用語へと変換していく。

 完璧だ。

 この文章には、アイドル本人への直接的な罵倒はない。あるのはファンへの搾取構造の告発とガバナンスの欠如に対する憂慮だけだ。だが、その実態は、ファンとアイドルの間に構築された疑似恋愛や信頼関係という脆い幻想の急所を、正確に抉り取る猛毒だった。

 私は、厳選した四枚のキャプチャ画像――高級寿司、ブランドバッグ、ファーストクラスのチケット、そして弟の奢りというテキスト――を添付し、右下の青いボタンをクリックした。

 タァン。

 乾いたクリック音が響く。

 私は背もたれに深く寄りかかり、両手を後頭部で組みながら、モニターを睨みつけた。

 最初は静かだった。

 数秒間、タイムラインには何の反応もない。重たい静寂が部屋を支配した。

 だが、それは嵐の前の静けさに過ぎなかった。

 十秒後。左端のベルのアイコンが、チカッ、と赤く点滅した。

 そこから先は、決壊したダムのようだった。

 通知の数字が、一瞬にして「100」「500」「1000」と跳ね上がっていく。前回までのパワハラ疑惑の時とは、明らかに反応の質が違っていた。

 流れてくる引用リポストの数々。

 そこには、これまで必死に彼らを擁護していたファンたちの、生々しい絶望と阿鼻叫喚が綴られていた。

『え、嘘でしょ……私、全公演参加するためにバイト掛け持ちしてるのに……』

『家族に還元するのはいいけど、わざわざSNSで匂わせてファンを煽る必要ある? さすがに引いた』

『ATMって言葉が刺さりすぎて辛い。私たちが買ったCDのお金が、お姉ちゃんのバーキンになってるの?』

『Ghost In the Roomさんの言う通りかもしれない。もう何信じていいかわかんない』

 私の口から、歓喜の笑い声が溢れ出した。

 痛快だった。

 現実世界では、あの結衣のような若く愛想のいい女たちが、私を見下し、安全な場所からアイドルを消費してキャピキャピと笑っている。私は彼女たちに何も言い返せず、ただドリップで汚れたレジ台を拭き、頭を下げることしかできない。

 だが、ここでは違う。

 私が放ったたった一つのテキストが、彼女たちの信じていた世界を根底から叩き壊し、絶望の淵へと突き落としたのだ。

「ざまあみろ……」

 私は暗い部屋の中で、誰にともなく呟いた。

 お前たちの信じているアイドルなんて、所詮はこんなものだ。資本主義の搾取のシステムに組み込まれた、ただの集金マシーン。お前たちの純粋な応援など、彼らにとっては家族で高級寿司を食うためのチップでしかない。

 私はその事実を暴き、愚かな大衆を啓蒙する神なのだ。

 通知は止まることを知らない。ファンの悲鳴に混じって、「やっぱりこいつらはクズだった」「地下アイドルのLUMINOUSの方がよっぽどファン想いだ」と、私が以前蒔いた比較の生贄の種が、見事に花を開かせている投稿も目立ち始めた。

 ファン同士の疑心暗鬼、他グループへの担ぎ上げ、そしてNONELへの決定的な幻滅。

 私の盤上で、すべてが私の思い通りに動いている。

 ぐうぅ、と腹の鳴る音がした。

 そういえば、昼間にバックヤードでひしゃげたツナマヨおにぎりを一口食べたきり、何も口にしていない。

 私は冷蔵庫を開けたが、中には賞味期限の切れた卵と、飲みかけの水道水のペットボトルしかなかった。ペットボトルを掴み、生ぬるい水を胃に流し込む。

 物理的な肉体は飢え、寒さに震え、明日の派遣の仕事への絶望感に包まれている。

 しかし、モニターの前に座る私の精神は、この上ない万能感と全能感に満たされ、高く、高く飛翔していた。

 もっとだ。もっと彼らを追い詰めてやる。

 ネットの炎上だけでは足りない。彼らの現実の現場に赴き、その化けの皮を完全に剥がしてやらなければならない。

 私は、机の引き出しの奥にしまってある、なけなしの生活費が入った封筒に目をやった。

 机の一番下の引き出し。そこには、銀行の封筒が無造作に放り込まれている。

 中に入っているのは、今月末に支払わなければならない電気代とガス代、そして次の給料日までの二週間を生き延びるための、なけなしの食費だ。合わせても三万円に満たない、私の命をつなぐための絶対的な防衛線である。

 私はその茶色い封筒を震える手で掴み出し、中身の紙幣を引き抜いた。

 福沢諭吉が二枚と、野口英世が数枚。スーパーのレジで毎日何百枚と数え、他人の手垢に塗れたそれを機械的に処理しているというのに、いざ自分の全財産として手元にあるこの薄っぺらい紙切れを見ると、ひどく惨めで滑稽な気分になった。

 私は再びパソコンのモニターに向き直り、ブラウザの新しいタブを開いた。

 検索窓に打ち込むのは、国内最大手のチケット売買仲介サイトの名前だ。

 結衣たちのような狂信的なファンどもは、NONELのライブチケットをプラチナチケットと呼び、血眼になって定価の何倍もの価格で取引している。ドームツアーの真っ最中である今、直近の公演のチケットが定価で手に入るはずがない。

 検索結果には、週末に開催される東京ドーム公演のチケットがずらりと並んでいた。

 アリーナ席や一階スタンドの前方といった良席は、十万円を超える狂ったような値段で取引されている。私は冷ややかな目でそれらをスクロールし、天井に近い最後列、いわゆる見切れ席に近い最も安いチケットを探した。

『東京ドーム公演 2階スタンド 後方席 1枚:25,000円』

 私の手元にある全財産と、ほぼ同額だ。

 これを買えば、明日の夜から私は文字通り、水道水と特売の小麦粉を水で溶いたものだけで生き延びなければならなくなる。電気やガスが止められる危険性すらある。物理的な死へのカウントダウンが、静かに始まるのだ。

 胃の奥底が、ギリギリと音を立てて収縮した。

 生物としての生存本能が、やめろ、と警告を発している。たかがアイドルの粗探しのために、自分の命綱を手放すなど、狂気の沙汰以外の何物でもない。

 だが。

『Ghost In the Roomさんの言う通りかもしれない。もう何信じていいかわかんない』

 モニターの端で、いまだに滝のように流れ続けているファンの悲鳴と絶望のテキストが、私の脳髄に甘い麻薬を打ち込み続けていた。

 私は、ネットの海に隠れて石を投げるだけの、ただのアンチで終わるつもりはない。

 真の批評家であり、社会の啓蒙者たる者は、時に自らの身を削り、敵の陣地へと単身で乗り込む覚悟が必要なのだ。

 彼らのライブという、欺瞞と搾取の最前線。

 数万人の愚民どもが、あの傲慢な若者たちに熱狂し、金を落とす狂宴の現場。

 そこへ赴き、彼らの化けの皮を直接剥がすための決定的な証拠を、この目で、この手で掴み取らなければならない。口パクの証拠、ファンへの愛想笑いの裏にある冷たい視線、MCでの不用意な失言。現場でしか得られない生の情報を手に入れた時、私の言葉はもはや誰にも反論できない絶対的な真実として完成する。

 これは消費ではない。正義のための投資であり、聖戦なのだ。

 私は、乾ききった唇をペロリと舐め、クレジットカードの情報を入力する画面へと進んだ。限度額ギリギリのカード番号を、一つ一つ、祈りを込めるように打ち込んでいく。

 購入を確定するという赤いボタン。

 それをクリックする人差し指には、もはや一片の迷いもなかった。

 タァン。

 画面が切り替わり、『ご購入ありがとうございました』という無機質な文字が表示された。同時に、スマートフォンの画面にカード会社からの決済完了の通知が光る。

 終わった。

 私は、生活のすべてを投げ打って、ルビコン川を渡ったのだ。

 全身から一気に力が抜け、私は背もたれに深く体を沈めた。手の中にある数枚の千円札だけが、今の私を現実世界に繋ぎ止める唯一の錨だった。

「……ふふっ」

 暗い六畳間の中で、私は自分の手のひらを見つめながら笑った。

 来週の週末、私はあの煌びやかなドームへと足を運ぶ。何万円もの服を着飾り、推しのために髪を巻いてやってくる愚かな女たちの群れの中に、この擦り切れた服を着たまま紛れ込むのだ。

 彼女たちは、隣に立つ薄汚れた三十代の女が、自分たちの信奉する神を奈落の底へと引きずり下ろす死神であることなど、夢にも思わないだろう。

 私は神を殺すための、ただ一人の異端審問官。

 冷蔵庫のモーター音が、低い唸りを上げて深夜の静寂を破る。

 私は立ち上がり、再び水道の蛇口を捻って、冷たい水をマグカップに注いだ。泥のような味がするはずの水が、今夜は不思議と、透き通った冷徹な味がした。

 私の放った家族への利益供与という猛毒は、今この瞬間もネット上で致死量の炎を上げながら燃え広がっている。NONELの所属事務所も、もはやこの事態を静観することはできないだろう。

 だが、彼らがどう動こうが関係ない。

 私は次の週末、彼らの息の根を完全に止めるための、最後の一撃を放つ。

 モニターの青白い光が、カビ臭い部屋の中で、私の青白い顔を不気味に照らし出していた。

 Ghost In the Room。

 部屋に潜む幽霊は今、現実の肉体という枷を脱ぎ捨て、真の怪物へと羽化しようとしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ