第8話 消えた男
朝。
ゆうさくは、昨日まであった寝床の前に立っていた。
布団。
枕。
毛布。
何もない。
昨日まで、確かに誰かが使っていた。
だが――
その痕跡すら消えていた。
「……本当に、いなくなった」
高橋が後ろから言った。
「そうだ」
「誰だった?」
高橋は少し黙った。
「片桐」
「片桐?」
「ああ。片桐修」
その名前を聞いて、ゆうさくは周囲を見た。
何人かの囚人がこちらを見ている。
だが、誰も口を開かない。
「どんな人?」
「六十九歳」
「何の罪?」
「昔、殺し屋をやってた」
ゆうさくは息を呑んだ。
「殺し屋……」
「ああ」
高橋は声を落とした。
「この刑務所でも古株だった」
「じゃあ、なんで誰も騒がないんだ?」
「騒いでも意味がないからだ」
「……」
「消えた奴は戻ってこない」
その言葉が、
妙に冷たかった。
ゆうさくは片桐の寝床をもう一度見る。
「でも、逃げた可能性は?」
高橋が笑った。
「どこへ?」
「外へ」
「壁がある」
「でも、門が――」
「門は村人しか開けられない」
ゆうさくは黙った。
「じゃあ、村人に頼めば?」
高橋の顔から笑みが消えた。
「頼む?」
「外に出してくれって」
「……お前、本気で言ってるのか?」
「だって、刑期を終えたら――」
高橋が遮った。
「終わらない」
「え?」
「ここに入った奴に、刑期なんてない」
ゆうさくの喉が鳴った。
「じゃあ俺は……」
「死ぬまでだ」
その言葉を聞いた瞬間、
ゆうさくの胸が締め付けられた。
「……そんなの」
「俺たちも最初はそう思った」
高橋は遠くを見る。
「みんな最初は、外に出られると思ってる」
「……」
「一年経てば出られる」
「十年経てば出られる」
「刑期が終われば出られる」
高橋は静かに言った。
「でも、誰も出ない」
ゆうさくは何も言えなかった。
その時だった。
食堂の外から声がした。
「ゆうさく」
振り返る。
美月だった。
仮面をつけている。
昨日と同じ白い着物。
彼女は周囲を確認してから、
ゆうさくに近づいた。
「昨日は、ごめんなさい」
「いや……」
「怖かったでしょう?」
「……はい」
美月は少し俯いた。
「父が、あんなに怒るとは思わなかった」
「あなたのお父さん?」
「うん」
「村長……?」
美月は答えなかった。
その沈黙が答えだった。
ゆうさくは少し驚いた。
「村長の娘……」
「そう」
「なんで俺に話しかけるんですか?」
美月は黙った。
そして、
ゆうさくを見る。
「……あなたが、寂しそうだったから」
その言葉に、
ゆうさくは何も返せなかった。
「私も、この村が好きじゃない」
美月が小さく言った。
「……」
「だから、少しだけ話したかった」
ゆうさくは彼女を見る。
村人は怖い。
あまりにも怖い。
なのに――
美月だけは違った。
「ありがとう」
ゆうさくが言う。
美月は少し笑った。
その瞬間だった。
遠くから、
声が響いた。
「美月!」
美月の身体が強張る。
村長だった。
仮面をつけた巨体が、
こちらへ向かって歩いてくる。
「何をしている」
「話していただけ」
「離れろ」
「でも――」
「離れろ!」
村長の声が響いた。
ゆうさくは反射的に一歩下がった。
その瞬間。
村長の目が、
ゆうさくに向いた。
殺意。
明確な殺意だった。
「お前」
「……はい」
「娘を見るな」
ゆうさくは凍りついた。
「え……?」
「見るな」
村長が近づいてくる。
その後ろから、
他の村人たちも集まってきた。
誰もがゆうさくを睨んでいる。
だが――
美月が村長の前に立った。
「やめて」
「どけ」
「この人は何もしてない」
「お前には関係ない」
「私に関係ある」
その言葉に、
村長が黙った。
美月はゆうさくを見る。
「行って」
「……でも」
「早く」
ゆうさくは後ずさった。
そして走った。
食堂へ戻る。
扉を閉める。
息が苦しい。
「……何なんだよ」
高橋がゆうさくを見る。
「言っただろ」
「何を?」
「美月には近づくなって」
「でも、あの人は……」
高橋は首を振った。
「理由なんて考えるな」
「じゃあ、あの娘は何なんだ?」
高橋は答えなかった。
その代わり、
黒田が口を開いた。
「……鍵だ」
ゆうさくが振り返る。
「鍵?」
黒田はそれ以上言わなかった。
「どういう意味ですか?」
「知らなくていい」
「でも――」
「知らないほうが生き残れる」
黒田は立ち上がり、
ゆうさくの肩を掴んだ。
「いいか」
黒田の手は、
老人とは思えないほど強かった。
「この村では、村人の怒りを買うな」
「……」
「特に、あの娘のことでな」
「なぜです?」
黒田は答えない。
ただ、
神社の方向を見た。
「……あの娘は、普通の村人じゃない」
ゆうさくは眉をひそめた。
「どういうことです?」
「それ以上聞くな」
黒田は歩き去った。
その日の午後。
ゆうさくは廃棄物の回収作業をしていた。
村から集めたものを、
畑へ運ぶ。
人間の生活から出たものが、
土へ戻される。
村人にとっては当たり前。
囚人にとっては苦痛。
その作業中、
西村拓也が近づいてきた。
「なあ」
「何?」
「片桐のこと、気になるか?」
「……うん」
西村は周囲を見る。
「俺、少し調べた」
「何を?」
「消えた奴のこと」
ゆうさくは手を止めた。
「分かったの?」
「全部じゃない」
西村は声を落とした。
「でも、妙なんだ」
「何が?」
「片桐だけじゃない」
「……」
「去年も消えてる」
「何人?」
「三人」
「その前は?」
「四人」
ゆうさくの背筋が冷たくなる。
「毎年……?」
「毎年じゃない」
西村は首を振った。
「でも、祭りの前後に集中してる」
「祭り……」
西村は頷いた。
「一年に一度の祭り」
「……」
「そして、消えた奴らには共通点がある」
「何?」
西村は、
ゆうさくの耳元で言った。
「みんな――」
その瞬間。
背後から声がした。
「何を話している」
二人が振り返る。
村人だった。
西村がすぐに笑顔を作る。
「仕事の話ですよ」
「そうか」
村人は二人をしばらく見た。
そして、
西村の持っていた袋を確認する。
「運べ」
「はい」
村人が去る。
西村は息を吐いた。
「……危なかった」
「共通点って?」
西村は答えなかった。
「夜に話そう」
「分かった」
夜。
消灯後。
ゆうさくの部屋に、
西村と高橋が入ってきた。
黒田もいた。
「片桐の話だ」
黒田が言った。
「まず、お前たちに言っておく」
全員が黒田を見る。
「片桐は逃げていない」
ゆうさくは息を呑んだ。
「じゃあ……」
「連れていかれた」
「誰に?」
黒田は黙った。
西村が続ける。
「祭りの準備が始まると、村人が刑務所を見に来る」
「何を見に?」
「人間の数を確認する」
ゆうさくの顔が強張る。
「人間の……数?」
黒田は答えなかった。
ただ、
古い紙を取り出した。
そこには、
何十年分もの記録があった。
名前。
年齢。
入所日。
そして――
ある欄。
「……これは?」
ゆうさくが指差す。
黒田が言った。
「消失日だ」
そこには、
毎年何人もの名前が並んでいた。
そして、
その多くが、
祭りの数日前の日付だった。
ゆうさくは震える指で、
一番古い記録をめくる。
さらに古い。
二十年前。
二十五年前。
三十年前。
どこまでめくっても、
同じだった。
「……こんなに」
「そうだ」
黒田が言う。
「俺は三十年前からここにいる」
「……」
「三十年間、見てきた」
「何を?」
黒田は答えた。
「人が消えるところを」
ゆうさくの心臓が、
大きく鳴った。
その時。
遠くから、
鐘が鳴った。
ゴォォォン――。
黒田の顔が変わる。
「……今日は早い」
「何が?」
黒田は立ち上がった。
「祭りの準備が始まった」
「それって……」
黒田は窓の外を見る。
村では、
松明が一つ、
また一つと灯り始めていた。
そして――
その明かりの向こう。
神社へ続く道を、
何人もの村人が歩いている。
全員、
同じ方向へ。
同じ仮面をつけて。
ゆうさくは呟いた。
「……何をするんだ?」
黒田は、
しばらく答えなかった。
そして、
低い声で言った。
「人を選ぶ」
「……誰を?」
黒田はゆうさくを見た。
その目には、
同情があった。
「それを決めるのは――」
一拍。
「俺たちじゃない」
その夜。
ゆうさくは初めて、
一つの可能性を考えた。
もし、
自分が選ばれたら。
もし、
自分も消えたら。
だが――
その直後。
別の考えが浮かんだ。
「……逆に」
ゆうさくは小さく呟いた。
「逃げられる奴も……いるんじゃないか?」
誰も答えなかった。
しかし、
西村がゆっくり顔を上げた。
「……逃げられる?」
「だって、片桐さんがいなくなったなら……」
ゆうさくは言った。
「どこかに道があるんじゃないのか?」
その言葉に、
誰も笑わなかった。
黒田だけが、
ゆうさくを見つめていた。
そして、
ほんの一瞬だけ。
その目に――
希望のようなものが浮かんだ。
だが。
黒田は、
すぐに目を伏せた。
「……そうだな」
その声は、
あまりにも小さかった。
まるで――
自分自身に言い聞かせるようだった。




