第7話 仮面の娘
朝。
ゆうさくは、いつもより早く目を覚ました。
眠れなかった。
昨日聞いた言葉が、頭から離れない。
――一年に一度。
――大量の人間が必要になる。
布団の中で何度も考えた。
「……祭りって、何なんだよ」
答えは出なかった。
起き上がる。
顔を洗おうとして、部屋を出た。
廊下には、すでに何人もの囚人がいた。
「おい、新入り」
高橋和也だった。
「朝飯だ」
「ああ……」
ゆうさくは高橋の後についていく。
食堂へ向かう途中だった。
外から、奇妙な音が聞こえてきた。
コン。
コン。
コン。
木を叩くような音。
ゆうさくは足を止めた。
「何の音?」
高橋も立ち止まる。
「……村のほうだ」
「何してるんだ?」
「知らないほうがいい」
「でも……」
「ゆうさく」
高橋の声が低くなった。
「ここでは、知らなくていいことを知ろうとするな」
その言葉に、ゆうさくは黙った。
二人は食堂へ向かった。
朝食は、薄い汁物と少量の米だった。
「これだけ……?」
ゆうさくが呟く。
高橋が苦笑する。
「まだマシだ」
「これが?」
「ああ」
高橋は周囲を見た。
長くここにいる囚人たちは、誰もが痩せていた。
腕は細い。
頬はこけている。
だが、目だけは異様に鋭かった。
「長くいると、もっと減る」
「なんで?」
「食料の大部分が村へ行くからだ」
「でも、俺たちも食べないと……」
「俺たちが死なない程度には食わせる」
ゆうさくの箸が止まった。
「……死なない程度?」
高橋は答えなかった。
その時だった。
食堂の入口が騒がしくなった。
数人の囚人が外を見ている。
「来たぞ」
「またか」
「今日は誰だ?」
ゆうさくも振り返った。
そこに――
一人の少女が立っていた。
いや。
少女と呼ぶには、少し大人びている。
二十四歳くらい。
白い着物。
長い黒髪。
そして――
顔には仮面。
村人たちと同じ仮面だった。
だが、その仮面には他の村人とは違う模様が描かれていた。
白い面。
細い目。
口元には、赤い線。
彼女は食堂の中を見渡していた。
囚人たちの視線が、一斉に集まる。
「……誰だ?」
「見たことないな」
「いや、前にも来てた」
「美人だな……」
男たちの声が小さくなる。
ゆうさくも彼女を見ていた。
すると――
彼女が、ゆうさくを見た。
仮面越しなのに、
目が合った気がした。
彼女はゆっくり歩いてくる。
囚人たちは道を空けた。
そして、ゆうさくの前で止まった。
「あなた……」
声は、思っていたより優しかった。
「はい……?」
「新しく来た人?」
「……はい」
彼女は少し首を傾けた。
「名前は?」
「ゆうさくです」
「ゆうさく……」
彼女は、その名前を小さく繰り返した。
「私は美月」
ゆうさくは戸惑った。
村人が、自分から名前を名乗った。
それだけでも異様だった。
「白石美月」
「……よろしくお願いします」
ゆうさくが頭を下げる。
美月は少し笑った。
仮面をつけているため表情は分からない。
それでも、
笑ったように見えた。
「あなた、怖がってるね」
「……怖いです」
「そう」
美月は少しだけ黙った。
「ここは怖いから」
その言葉に、ゆうさくは顔を上げた。
「……村の人も?」
美月は答えなかった。
代わりに、ゆうさくの食器を見た。
「それだけ?」
「え?」
「朝ご飯」
「ああ……」
美月はしばらく考えた。
そして持っていた籠から、小さな包みを取り出した。
「これ」
「……?」
「食べて」
包みの中には、握り飯が二つ入っていた。
ゆうさくは驚いた。
「いいんですか?」
「うん」
「でも……」
「食べて」
美月はそう言った。
ゆうさくが受け取る。
「ありがとうございます」
その瞬間だった。
食堂の空気が変わった。
ざわ――。
囚人たちが、美月とゆうさくを見ていた。
特に、
三浦修司。
彼は露骨に顔をしかめていた。
「……なんだよ」
低い声。
「何が?」
高橋が聞く。
三浦はゆうさくを睨んだ。
「なんで、あいつなんだよ」
「……」
「俺が話しかけても無視するくせに」
美月が振り返る。
「三浦さん」
「……なんだ」
「怒らないで」
「怒ってねえよ」
「怒ってる」
三浦は黙った。
美月はそれ以上何も言わなかった。
そして、ゆうさくを見る。
「またね」
そう言って、食堂から出ていった。
扉が閉まる。
しばらく、
誰も喋らなかった。
やがて。
「おい」
三浦が立ち上がった。
ゆうさくを見る。
「お前」
「……はい」
「何した?」
「何も……」
「嘘つけ」
三浦が近づいてくる。
「昨日来たばっかりだろ」
「……」
「なのに、なんであの女がお前にあんな態度なんだよ」
「知りません」
「気に入らねえ」
三浦の拳が握られる。
だが――
黒田玄蔵の声が響いた。
「やめろ」
三浦が振り返る。
「黒田さん……」
「村人に関わるな」
「でも――」
「特に、あの娘にはな」
ゆうさくが黒田を見る。
「どういう意味ですか?」
黒田は答えなかった。
ただ、ゆうさくをじっと見た。
その目には、
昨日までとは違うものがあった。
警戒。
いや。
恐怖だった。
「……黒田さん?」
「お前は、あの娘に近づくな」
「でも、向こうから話しかけてきただけで……」
「それでもだ」
黒田の声は強かった。
「絶対にだ」
ゆうさくは理由が分からなかった。
その時――
外から怒鳴り声が聞こえた。
「何をしている!」
全員が振り返った。
村人だった。
食堂の外に、
十人近い村人が立っている。
全員、仮面。
刀。
銃。
そして――
明らかに怒っていた。
その視線は、
ゆうさくに向けられていた。
「……え?」
ゆうさくは立ち上がる。
村人の一人が叫んだ。
「その男を下げろ!」
囚人たちがざわめく。
「何だ?」
「ゆうさくが?」
「何したんだ?」
村人が一歩入ってくる。
「その男は――」
そこまで言って、
村人は口を閉じた。
仮面の奥から、
殺気だけが漏れている。
ゆうさくの背中に冷たい汗が流れた。
「……俺、何もしてません」
返事はない。
村人たちは、
ゆうさくを睨み続けている。
そして――
美月が戻ってきた。
「待って」
村人たちが一斉に美月を見る。
「お父さん」
その一言で、
空気が凍った。
先頭にいた男が美月を見る。
「美月」
「この人は何もしてない」
「お前は黙っていろ」
「でも――」
「黙れ」
美月の身体が僅かに震えた。
ゆうさくは思った。
この男。
美月の父親なのか。
村人たちの中でも、
明らかに他とは違う。
立っているだけで、
周囲の村人が距離を取っている。
その男は、
ゆうさくを見た。
そして――
美月との距離を見る。
ほんの数メートル。
それだけだった。
男の肩が、
わずかに震えた。
「……近づくな」
「え?」
「娘に近づくな」
ゆうさくは意味が分からなかった。
「僕は――」
「近づくな!」
怒鳴り声が響いた。
窓が震える。
囚人たちが一斉に黙る。
ゆうさくは反射的に一歩下がった。
すると――
村人の怒りが、
ほんの少しだけ収まった。
その瞬間を、
黒田は見逃さなかった。
「……やっぱりか」
小さく呟く。
ゆうさくが振り返る。
「何が?」
黒田は答えなかった。
美月も、
父親も、
何も言わない。
ただ――
美月だけが、
ゆうさくを見ていた。
悲しそうに。
そして、
少し怯えながら。
「……ごめんなさい」
「え?」
「私が話しかけたから」
美月はそれだけ言うと、
村人たちに連れられていった。
ゆうさくはその背中を見つめた。
「……なんなんだよ」
誰も答えない。
しばらくして、
高橋が小さな声で言った。
「ゆうさく」
「何?」
「美月には近づかないほうがいい」
「でも、何もしてない」
「分かってる」
「じゃあ何で?」
高橋は周囲を確認した。
誰も聞いていないことを確かめる。
そして、
声を落とした。
「美月に近づいて殺された奴がいる」
ゆうさくの顔から血の気が引いた。
「……殺された?」
「ああ」
「誰に?」
高橋は村の奥を見る。
そこには、
巨大な鳥居があった。
その向こうには、
古い神社。
さらに奥には、
山へ続く石段。
高橋は言った。
「村人じゃない」
「……え?」
「村人たちは、あそこを怖がってる」
「神社を?」
「違う」
高橋は首を振った。
「神社の奥にいる――」
そこで言葉を止めた。
「……何?」
高橋は答えなかった。
代わりに、
遠くから音が聞こえた。
コン。
コン。
コン。
昨日と同じ。
木を叩く音。
だが今度は――
それに混じって、
低い声が聞こえた。
歌のような。
祈りのような。
そして、
村人たちが一斉に動き始めた。
誰も笑っていない。
誰も話していない。
全員、
神社の方向を見ている。
その顔には、
恐怖があった。
ゆうさくは呟いた。
「……村人が、怖がってる」
高橋は答えた。
「そうだ」
「何を?」
高橋はしばらく黙った。
そして、
震える声で言った。
「神だよ」
「……神?」
「ああ」
「この村の神様?」
「そう」
高橋は神社から目を離さない。
「村人は俺たちを怖がらない」
「……」
「熊にも怯えない」
「……」
「銃にも刀にも怯えない」
高橋がゆうさくを見る。
「でも、神の話になると――」
その瞬間。
神社の奥から、
鐘の音が響いた。
ゴォォォン――。
村人全員が、
一斉に頭を下げた。
囚人たちも、
誰も動かなかった。
黒田玄蔵だけが、
神社を睨んでいた。
その顔には、
憎しみがあった。
恐怖もあった。
そして――
深い絶望。
ゆうさくは思った。
この村には、
自分たちより上に、
何かがいる。
囚人より村人が強い。
村人より――
さらに強い何か。
その日の夜。
ゆうさくは食堂の隅で、
昼間にもらった握り飯を一つ食べた。
美月の顔が頭から離れない。
なぜ、
自分に優しくしたのか。
なぜ、
村人たちはあれほど怒ったのか。
そして――
なぜ黒田は、
あれほど怯えていたのか。
その時。
隣の席にいた囚人が、
小さく呟いた。
「……また一人だ」
「え?」
ゆうさくが振り向く。
男は、
刑務所の奥を見ていた。
「何が?」
「消えた」
「誰が?」
男は答えなかった。
ゆうさくは立ち上がる。
「誰が消えたんだよ?」
男はゆうさくを見る。
そして、
恐ろしいほど静かな声で言った。
「昨日まで、あそこにいた男だ」
ゆうさくが見る。
空いた寝床。
誰もいない。
荷物もない。
まるで――
最初から誰もいなかったようだった。
「……逃げたの?」
男は首を振った。
「ここから?」
「……」
男はゆうさくの耳元で囁いた。
「逃げたんじゃない」
一拍。
「――消えたんだ」
その夜。
神社から、
また鐘が鳴った。
ゴォォォン――。
そして、
壁の外へは決して届かないその音を聞きながら、
ゆうさくは初めて思った。
この刑務所には、
囚人が入ってくるだけではない。
何かが、囚人を連れていっている。
そして――
その「何か」を、
村人たちは神と呼んでいる。




