第23話「帰る場所」
「帰る場所を失った者」
その文字を見つめたまま、ゆうさくは動けなかった。
「……何だよ、これ」
手紙を裏返す。
表。
裏。
何度確認しても、文字は消えない。
田中が小さく呟いた。
「触るな」
「でも……」
「触るな!」
田中が手を伸ばす。
しかし、その手が止まった。
紙の端から、
黒い染みが広がっていた。
墨のようなものだった。
ゆっくり。
ゆっくり。
文字を飲み込んでいく。
そして最後に、
第七番
だけが残った。
ゆうさくは手紙を落とした。
「……俺は何なんだよ」
返事はなかった。
その日の夜。
刑務所では、食事が出なかった。
村から食料が届かなかったのだ。
囚人たちは黙っていた。
誰も文句を言わない。
長くいる者は知っている。
こういう日は、
何かが起こる。
黒田が窓の外を見る。
「祭りが近い」
神谷が続ける。
「食料を減らしてるんだろ」
「違う」
黒田は首を振った。
「人間を弱らせてる」
ゆうさくは顔を上げた。
「……何のために?」
黒田は答えなかった。
その代わり、
「明日から選ばれた奴らへの食事が増える」
と言った。
ゆうさくの胸が痛んだ。
死ぬ人間に、
最後の食事を与える。
そんな意味にしか聞こえなかった。
翌朝。
食堂には、いつもより多くの食事が並んだ。
肉。
魚。
白米。
味噌汁。
囚人たちは驚いた。
「祭り前だからか?」
誰かが言った。
しかし、
食事を配っていた田辺は何も言わなかった。
ゆうさくは箸を持てなかった。
「食え」
黒田が言う。
「……俺たちの分なのか?」
「違う」
黒田は答えた。
「選ばれた奴らの分だ」
その言葉で、
ゆうさくは箸を置いた。
その日の午後。
御堂が再び現れた。
「ゆうさく」
「……はい」
「四人目を決める」
名前が読み上げられた。
宮本でもない。
三浦でもない。
新しい名前だった。
「高橋和也」
ゆうさくの顔が固まった。
高橋。
刑務所に入って最初に声をかけてくれた男。
この場所のルールを教えてくれた男。
「……高橋さん?」
高橋が顔を上げる。
「俺か」
御堂は頷いた。
高橋はしばらく黙っていた。
そして、
「ゆうさくが運ぶのか?」
「そうだ」
高橋は笑った。
「そうか」
その笑顔は、
いつもの高橋とは違った。
「じゃあ、頼むわ」
ゆうさくの胸が痛んだ。
「……何を?」
「途中で逃げたくなったら」
高橋は小さく笑う。
「俺を置いて逃げろ」
「何言ってるんですか」
「お前は外へ行くんだろ?」
ゆうさくは答えられなかった。
高橋は、
ゆうさくの顔を見て気づいた。
「……違うのか?」
「分からない」
「そうか」
高橋は少しだけ寂しそうに笑った。
「じゃあ、最後まで一緒に行こうぜ」
二人は歩き始めた。
村の中央を抜ける。
高橋は周囲を見ながら言った。
「なあ、ゆうさく」
「何ですか?」
「外の新聞、読んだか?」
「……読んだ」
「俺の事件、載ってた?」
「分からない」
「そうか」
高橋は笑う。
「俺には、外に家族がいないんだ」
ゆうさくは黙った。
「だから、お前が羨ましいよ」
「俺が?」
「手紙が来るんだろ?」
ゆうさくの足が止まる。
「……どうして知ってる?」
高橋は答えなかった。
その代わり、
「家族がいるってことは、それだけで帰る場所があるってことだ」
と言った。
ゆうさくは妹の手紙を思い出した。
――一度だけ、顔を見せてください。
そして、
もう一枚の手紙。
――帰ってこないで。
どちらが本物なのか。
分からない。
そもそも、
あの手紙自体が本当に外から来たのか。
それすら分からない。
歩いていると、
村の女性が道端に立っていた。
白石美月だった。
美月は高橋を見ても何も反応しない。
だが、
ゆうさくが近づいた瞬間。
近くの家から、
ドンッ!
という音が響いた。
村人が一斉にこちらを見る。
刀に手をかける者。
銃を構える者。
高橋が驚く。
「何だ?」
ゆうさくは美月を見る。
美月の顔は青ざめていた。
「……来ないで」
「美月さん?」
「ここから先は駄目」
「でも仕事だから」
「違う」
美月がゆうさくを見る。
「あなたが高橋さんを運ぶんじゃない」
「……え?」
「あなた自身が――」
美月は言葉を止めた。
村人たちの視線が、
美月へ集まっている。
美月は口を閉じた。
そして、
ゆうさくにだけ聞こえる声で言った。
「夜になったら、古い井戸へ来て」
「井戸?」
「一人で」
「何がある?」
美月は答えなかった。
ただ、
「あなたが知りたがっている『外』のことを話す」
そう言って去っていった。
高橋が首を傾げる。
「何だったんだ?」
「……何でもない」
二人は再び歩いた。
しばらくして、
高橋がぽつりと言った。
「ゆうさく」
「はい」
「お前、本当に外へ出たいんだな」
「……ああ」
「じゃあ、覚えておけ」
高橋は前を向いたまま言った。
「この村で一番怖いのは、外に出られないことじゃない」
「……何ですか?」
「外に出られると思わされることだ」
その言葉を最後に、
高橋は黙った。
目的地に着く。
古い建物。
扉の前には、
木札が四枚並んでいた。
宮本浩二。
三浦修司。
田中誠。
そして――
高橋和也。
ゆうさくは四枚目の木札を見つめた。
その横には、
まだ何も書かれていない札が三枚。
さらにその後ろ。
少し離れたところに、
もう一枚。
そこには、
最初から文字が書かれていた。
第七番
ゆうさくは息を止めた。
七人目。
その札を見つめていると、
高橋が言った。
「……なあ」
「何ですか?」
「お前の名前じゃないか?」
ゆうさくは答えなかった。
その瞬間。
建物の中から、
紙をめくる音がした。
一枚。
二枚。
三枚。
そして、
最後に。
「ゆうさく」
と呼ぶ声。
今度は、
妹の声だった。
「お兄ちゃん」
ゆうさくの目から、
涙が一粒落ちた。
「……美月さんは、外のことを知ってる」
高橋が呟く。
「だったら聞けばいい」
「何を?」
高橋はゆうさくを見る。
「俺たちが、ここに来る前に何があったのか」
その瞬間。
遠くの井戸から、
水を汲み上げる音が聞こえた。
誰もいないはずなのに。
ギィ……
ギィ……
井戸の滑車が、
ゆっくり回っていた。




