第9話 幕が落ちても芝居は止めない
公演当日の朝から、岩山の風は止まなかった。
天幕が大きく膨らむたび、綱が低く唸る。
リヴィアはすべての杭を抜き、昨日より深く打ち直した。北側の綱は二本から四本へ増やし、根元には重い石材を載せる。
ノアは中央の柱へ木の添え板を当て、紐で固く巻いた。
「これで持ちますか」
「普段の風なら」
「今日は普段の風ですか」
「グラーデンの人に聞きましょう」
通りかかった石工に空を見てもらうと、男は岩山の上へ流れる雲を眺めた。
「夕方には弱まる。たぶんな」
「その『たぶん』は、どのくらい信用できますか」
「石よりは軽い」
まったく参考にならなかった。
リヴィアは天幕の裾を普段より低く張り、風を受ける飾り布をすべて外した。客席側の布は開けたままにして、何かあればすぐ外へ出られるようにする。
舞台上の小道具も最小限にした。
石板、椀、綱、つるはし、子どもの靴。
六脚の空いた椅子。
飛ばされる危険がある造花や紙の背景は使わない。
「風が強くなったら、一幕の途中でも止めます」
リヴィアはノアへ確認した。
「二回続けて鈴を鳴らしてください。私は客席を外へ誘導します。あなたは北側の留め具を外して、天幕を地面へ下ろす」
「公演は中止ですか」
「安全を確かめてから決めます。天幕より、人のほうが大事です」
ノアはうなずき、鈴を手の届く場所へ置いた。
昼までに売れた切符は四十八枚。
規定の六十人には十二人足りない。
それでも前回の一枚と比べれば、空の客席が少しずつ公演を待つ場所に変わっていた。
共同食堂へ置いた切符を、エッダが追加で持ってくる。
「残りは七枚だよ」
「五枚も売れたのですか」
「あたしが売ったんじゃない。公開稽古を見た連中が、仕事場へ持っていった」
綱職人が三枚。
鍛冶屋が四枚。
伝言を運んだ若い石工は、自分の組から六枚。
聞かせてもらった話が、話した本人の手で次の客へ渡っていた。
公演開始の一刻前には、五十七枚。
あと三枚。
ノアが切符箱を見つめる。
「三人、道から連れてきますか」
「人さらいになるのでやめてください」
「無料で招待すれば」
「無料客は満員人数に入りません。それに、買ってくださった方に失礼です」
リヴィアはそう答えたが、胸の内は穏やかではなかった。
脚本を書き直し、町の人に稽古を見てもらい、できることはすべてした。
あと三人届かなければ、巡業札の円は空白のままだ。
開演半刻前。
採石場から終業の鐘が聞こえた。
白い粉をまとった人々が、坂道を下りてくる。その中から三人の石工が広場へ走り、銅貨を差し出した。
「第三坑道の夜勤組だ。話を聞いて、交代を早めてもらった」
六十枚。
リヴィアは切符を渡しながら、深く頭を下げた。
さらに家族や仕事仲間が続き、最終的に用意した石の客席まで埋まっていく。
ゴードは入口で一人ずつ切符を確かめ、記録板へ人数を書いた。だが、リヴィアには見せない。
「公演が最後まで成立したら、結果を告げる」
「分かりました」
客席には、以前のような嘲笑がなかった。
だからこそ、失敗できないという思いが強くなる。
リヴィアが袖で呼吸を整えていると、ノアが水筒を差し出した。
「顔が、王立劇場の初日より怖いです」
「あの夜、客席に知っている人はいませんでした」
「今日は?」
「台詞の元になった人が、全員こちらを見ています」
「間違えれば、すぐ分かりますね」
「緊張を増やさないでください」
「では、別の話を。あなたの名前を呼んで始めても?」
ノアの問いに、リヴィアは客席を見た。
大勢を前にすれば、彼の声は詰まる。
無理をさせる必要はない。
「鈴を一度。それで十分です」
ノアは少しだけ迷い、やがてうなずいた。
夕刻の鐘と同時に、鈴が一度鳴った。
リヴィアは舞台へ出る。
「旅一座〈青い天幕〉、『九日目の椅子』。出演、リヴィア・フェン。脚本、ノア・ヴァイス。そして、石切り町グラーデンの皆さんから預かった物語です」
深く一礼する。
客席のどこかで、エッダが一度だけ手を打った。
その音を合図に、リヴィアは物語を始めた。
「坑道が崩れた翌朝、町には三十二人分の名前がありました」
黒い石板へ、白墨で線を引く。
一人、二人と役を切り替えるのではない。
記録係が名を書き直した手。
湯の椀を布で包んだ手。
伝言を握りしめて走った手。
リヴィアは仕草を通じ、一つの町にあった多くの仕事を語った。
喝采魔法は起きない。
空白の役紋は、今日も何の形も借りていない。
それでも客席は、誰一人として目をそらさなかった。
第一幕の終わり、風が一段強くなった。
天幕の北側が大きく膨らみ、柱が軋む。
ノアが綱を確かめる。まだ持っている。
リヴィアは第二幕へ進んだ。
五日目。
救出された者が増える一方、石板に残る名前もある。
「まだ消すな」
記録係の言葉を語った瞬間、突風が天幕を打った。
ばきり、と乾いた音が響く。
中央の柱に入っていた亀裂が、一気に広がった。
天井が沈む。
ノアが鈴を二度鳴らした。
「公演を止めます! 皆さん、入口から広場の外へ!」
リヴィアは役を捨て、舞台前へ出た。
客たちが立ち上がる。ゴードと数人の石工が、倒れかけた柱へ駆け寄ろうとした。
「近づかないでください! 天幕を下ろします!」
ノアが北側の留め具を外す。
リヴィアも南側の綱を杭から抜いた。
二人が合図を合わせると、青い天幕は風にあおられながら、舞台の後方へ崩れ落ちた。裂けた布が柱を包み、重い音を立てて床へ倒れる。
客席側の空間は開けていたため、怪我人はいない。
全員が広場の外へ出たことを数え、リヴィアはようやく息を吐いた。
舞台馬車は無事だった。
だが、天幕の中央柱は折れ、屋根布は大きく裂けている。石板は倒れ、六脚の椅子も二脚が横倒しになっていた。
空にはまだ夕暮れの明るさが残っている。
風は先ほどの一撃を最後に、少しずつ弱まっていた。
「続行は無理です」
ノアが裂けた天幕を見て言う。
「天幕は使えません」
「台本も風で飛びました」
何枚もの紙が、広場の端や屋根の上へ散っている。
「台詞は覚えています」
「背景も幕もありません」
「舞台馬車は残っています」
「客席を戻してよい風か、まだ分かりません」
「それを確かめてから決めます」
無理に続けるつもりはなかった。
リヴィアはゴードと石工たちへ風の様子を尋ねた。岩山を見た綱職人が、しばらく空気を確かめる。
「大きい風は抜けた。屋根を張らなければ、広場は使える」
ゴードも周囲を調べ、倒れる物がないことを確認した。
「屋外興行としてなら、続行を認める。ただし、風が戻れば即中止だ」
リヴィアは広場の外で待つ人々へ向き直った。
「天幕は壊れました。続きを上演することはできますが、屋根も背景もありません。ここで終えることもできます」
「俺たちは、最初から芝居に屋根なんて求めてないぞ」
綱職人が言った。
「石の上で働く町だからな」
若い石工が、倒れた椅子を起こす。
「続きがあるなら、最後まで見せてくれ」
一人が客席へ戻ると、ほかの者も続いた。
ゴードは黒い石板を拾い、割れていないことを確かめて舞台へ置いた。食堂の女は泥のついた椀を拭う。綱職人は切れた縄を小道具の位置へ戻した。
エッダは、白い粉の残る最後の椅子を自分で立てた。
「これは、このままでいいんだろう?」
「はい」
ノアは裂けた青い布から、細長く残った一片を畳もうとした。
数人の石工がその端を持ち、風を逃がすようにたるませて、舞台馬車の後ろへ横に広げる。
「柱がなくても、俺たちなら持てる」
破れた天幕が、人の手で一枚の背景になった。
リヴィアは舞台へ戻った。
幕も袖もないため、ノアも客席から見える場所に立っている。彼は散らばった台本を見たあと、小さな鈴だけを拾った。
「どこから再開しますか」
「止まった台詞から」
リヴィアは黒い石板の前へ立った。
風に乱れた髪を整えず、白墨を握る。
「まだ消すな」
同じ言葉を、もう一度語った。
客席が静まる。
台本はない。
天幕を持つ石工の腕が震えれば、リヴィアは場面の間を短くした。椀を置く音が風に消えれば、その音を台詞で説明せず、もう一度静かに置いた。
ノアは鈴と舞台板を使い、救出の時間を刻む。
一度、二度。
坑道で使われた、腕を叩く合図と同じ間だった。
町の人々が支える舞台で、町の物語が続いていく。
九日目。
二十六人が帰り、六脚の椅子が残った。
リヴィアは五脚の石粉を拭い、最後の一脚には触れなかった。
「帰れなかった者の椅子を、空席とは呼びません」
エッダが、まっすぐ舞台を見ている。
「ここにいたと覚えている者の席です」
破れた青い幕を、夕暮れの風が静かに揺らした。
リヴィアは六脚の椅子へ一礼し、次に客席へ向き直った。
そして、最後の台詞を口にした。
「今日もこの町は、三十二人の名前を数えています」




