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王立劇場で十二年間、名無しの代役でしたが、外れ役紋【空白】で旅一座を始めます~訳あり役者の舞台は今日も満員です~  作者: やまご


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9/17

第9話 幕が落ちても芝居は止めない

 公演当日の朝から、岩山の風は止まなかった。


 天幕が大きく膨らむたび、綱が低く唸る。


 リヴィアはすべての杭を抜き、昨日より深く打ち直した。北側の綱は二本から四本へ増やし、根元には重い石材を載せる。


 ノアは中央の柱へ木の添え板を当て、紐で固く巻いた。


「これで持ちますか」


「普段の風なら」


「今日は普段の風ですか」


「グラーデンの人に聞きましょう」


 通りかかった石工に空を見てもらうと、男は岩山の上へ流れる雲を眺めた。


「夕方には弱まる。たぶんな」


「その『たぶん』は、どのくらい信用できますか」


「石よりは軽い」


 まったく参考にならなかった。


 リヴィアは天幕の裾を普段より低く張り、風を受ける飾り布をすべて外した。客席側の布は開けたままにして、何かあればすぐ外へ出られるようにする。


 舞台上の小道具も最小限にした。


 石板、椀、綱、つるはし、子どもの靴。


 六脚の空いた椅子。


 飛ばされる危険がある造花や紙の背景は使わない。


「風が強くなったら、一幕の途中でも止めます」


 リヴィアはノアへ確認した。


「二回続けて鈴を鳴らしてください。私は客席を外へ誘導します。あなたは北側の留め具を外して、天幕を地面へ下ろす」


「公演は中止ですか」


「安全を確かめてから決めます。天幕より、人のほうが大事です」


 ノアはうなずき、鈴を手の届く場所へ置いた。


 昼までに売れた切符は四十八枚。


 規定の六十人には十二人足りない。


 それでも前回の一枚と比べれば、空の客席が少しずつ公演を待つ場所に変わっていた。


 共同食堂へ置いた切符を、エッダが追加で持ってくる。


「残りは七枚だよ」


「五枚も売れたのですか」


「あたしが売ったんじゃない。公開稽古を見た連中が、仕事場へ持っていった」


 綱職人が三枚。


 鍛冶屋が四枚。


 伝言を運んだ若い石工は、自分の組から六枚。


 聞かせてもらった話が、話した本人の手で次の客へ渡っていた。


 公演開始の一刻前には、五十七枚。


 あと三枚。


 ノアが切符箱を見つめる。


「三人、道から連れてきますか」


「人さらいになるのでやめてください」


「無料で招待すれば」


「無料客は満員人数に入りません。それに、買ってくださった方に失礼です」


 リヴィアはそう答えたが、胸の内は穏やかではなかった。


 脚本を書き直し、町の人に稽古を見てもらい、できることはすべてした。


 あと三人届かなければ、巡業札の円は空白のままだ。


 開演半刻前。


 採石場から終業の鐘が聞こえた。


 白い粉をまとった人々が、坂道を下りてくる。その中から三人の石工が広場へ走り、銅貨を差し出した。


「第三坑道の夜勤組だ。話を聞いて、交代を早めてもらった」


 六十枚。


 リヴィアは切符を渡しながら、深く頭を下げた。


 さらに家族や仕事仲間が続き、最終的に用意した石の客席まで埋まっていく。


 ゴードは入口で一人ずつ切符を確かめ、記録板へ人数を書いた。だが、リヴィアには見せない。


「公演が最後まで成立したら、結果を告げる」


「分かりました」


 客席には、以前のような嘲笑がなかった。


 だからこそ、失敗できないという思いが強くなる。


 リヴィアが袖で呼吸を整えていると、ノアが水筒を差し出した。


「顔が、王立劇場の初日より怖いです」


「あの夜、客席に知っている人はいませんでした」


「今日は?」


「台詞の元になった人が、全員こちらを見ています」


「間違えれば、すぐ分かりますね」


「緊張を増やさないでください」


「では、別の話を。あなたの名前を呼んで始めても?」


 ノアの問いに、リヴィアは客席を見た。


 大勢を前にすれば、彼の声は詰まる。


 無理をさせる必要はない。


「鈴を一度。それで十分です」


 ノアは少しだけ迷い、やがてうなずいた。


 夕刻の鐘と同時に、鈴が一度鳴った。


 リヴィアは舞台へ出る。


「旅一座〈青い天幕〉、『九日目の椅子』。出演、リヴィア・フェン。脚本、ノア・ヴァイス。そして、石切り町グラーデンの皆さんから預かった物語です」


 深く一礼する。


 客席のどこかで、エッダが一度だけ手を打った。


 その音を合図に、リヴィアは物語を始めた。


「坑道が崩れた翌朝、町には三十二人分の名前がありました」


 黒い石板へ、白墨で線を引く。


 一人、二人と役を切り替えるのではない。


 記録係が名を書き直した手。


 湯の椀を布で包んだ手。


 伝言を握りしめて走った手。


 リヴィアは仕草を通じ、一つの町にあった多くの仕事を語った。


 喝采魔法は起きない。


 空白の役紋は、今日も何の形も借りていない。


 それでも客席は、誰一人として目をそらさなかった。


 第一幕の終わり、風が一段強くなった。


 天幕の北側が大きく膨らみ、柱が軋む。


 ノアが綱を確かめる。まだ持っている。


 リヴィアは第二幕へ進んだ。


 五日目。


 救出された者が増える一方、石板に残る名前もある。


「まだ消すな」


 記録係の言葉を語った瞬間、突風が天幕を打った。


 ばきり、と乾いた音が響く。


 中央の柱に入っていた亀裂が、一気に広がった。


 天井が沈む。


 ノアが鈴を二度鳴らした。


「公演を止めます! 皆さん、入口から広場の外へ!」


 リヴィアは役を捨て、舞台前へ出た。


 客たちが立ち上がる。ゴードと数人の石工が、倒れかけた柱へ駆け寄ろうとした。


「近づかないでください! 天幕を下ろします!」


 ノアが北側の留め具を外す。


 リヴィアも南側の綱を杭から抜いた。


 二人が合図を合わせると、青い天幕は風にあおられながら、舞台の後方へ崩れ落ちた。裂けた布が柱を包み、重い音を立てて床へ倒れる。


 客席側の空間は開けていたため、怪我人はいない。


 全員が広場の外へ出たことを数え、リヴィアはようやく息を吐いた。


 舞台馬車は無事だった。


 だが、天幕の中央柱は折れ、屋根布は大きく裂けている。石板は倒れ、六脚の椅子も二脚が横倒しになっていた。


 空にはまだ夕暮れの明るさが残っている。


 風は先ほどの一撃を最後に、少しずつ弱まっていた。


「続行は無理です」


 ノアが裂けた天幕を見て言う。


「天幕は使えません」


「台本も風で飛びました」


 何枚もの紙が、広場の端や屋根の上へ散っている。


「台詞は覚えています」


「背景も幕もありません」


「舞台馬車は残っています」


「客席を戻してよい風か、まだ分かりません」


「それを確かめてから決めます」


 無理に続けるつもりはなかった。


 リヴィアはゴードと石工たちへ風の様子を尋ねた。岩山を見た綱職人が、しばらく空気を確かめる。


「大きい風は抜けた。屋根を張らなければ、広場は使える」


 ゴードも周囲を調べ、倒れる物がないことを確認した。


「屋外興行としてなら、続行を認める。ただし、風が戻れば即中止だ」


 リヴィアは広場の外で待つ人々へ向き直った。


「天幕は壊れました。続きを上演することはできますが、屋根も背景もありません。ここで終えることもできます」


「俺たちは、最初から芝居に屋根なんて求めてないぞ」


 綱職人が言った。


「石の上で働く町だからな」


 若い石工が、倒れた椅子を起こす。


「続きがあるなら、最後まで見せてくれ」


 一人が客席へ戻ると、ほかの者も続いた。


 ゴードは黒い石板を拾い、割れていないことを確かめて舞台へ置いた。食堂の女は泥のついた椀を拭う。綱職人は切れた縄を小道具の位置へ戻した。


 エッダは、白い粉の残る最後の椅子を自分で立てた。


「これは、このままでいいんだろう?」


「はい」


 ノアは裂けた青い布から、細長く残った一片を畳もうとした。


 数人の石工がその端を持ち、風を逃がすようにたるませて、舞台馬車の後ろへ横に広げる。


「柱がなくても、俺たちなら持てる」


 破れた天幕が、人の手で一枚の背景になった。


 リヴィアは舞台へ戻った。


 幕も袖もないため、ノアも客席から見える場所に立っている。彼は散らばった台本を見たあと、小さな鈴だけを拾った。


「どこから再開しますか」


「止まった台詞から」


 リヴィアは黒い石板の前へ立った。


 風に乱れた髪を整えず、白墨を握る。


「まだ消すな」


 同じ言葉を、もう一度語った。


 客席が静まる。


 台本はない。


 天幕を持つ石工の腕が震えれば、リヴィアは場面の間を短くした。椀を置く音が風に消えれば、その音を台詞で説明せず、もう一度静かに置いた。


 ノアは鈴と舞台板を使い、救出の時間を刻む。


 一度、二度。


 坑道で使われた、腕を叩く合図と同じ間だった。


 町の人々が支える舞台で、町の物語が続いていく。


 九日目。


 二十六人が帰り、六脚の椅子が残った。


 リヴィアは五脚の石粉を拭い、最後の一脚には触れなかった。


「帰れなかった者の椅子を、空席とは呼びません」


 エッダが、まっすぐ舞台を見ている。


「ここにいたと覚えている者の席です」


 破れた青い幕を、夕暮れの風が静かに揺らした。


 リヴィアは六脚の椅子へ一礼し、次に客席へ向き直った。


 そして、最後の台詞を口にした。


「今日もこの町は、三十二人の名前を数えています」

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