第8話 英雄ではなく、待っていた人の物語
その夜、ノアが最初に書いたのは、坑道が崩れる場面だった。
地鳴り。砕ける支柱。暗闇から聞こえる助けを求める声。
リヴィアは台本を読み、首を横に振った。
「この場面は使いません」
「事故を描かなければ、何を待っているのか伝わりません」
「客席にいるのは、本当にその音を聞いた人たちです。私たちが作った地鳴りで、もう一度怖がらせる必要はありません」
破れた天幕の中に、夜の風が入り込む。
ノアは書いたばかりの紙を見つめたあと、上から一本の線を引いた。
「では、事故の翌朝から」
「それも、私たちだけでは書けません」
「エッダさんの話を聞きました」
「一人の記憶を、町全体の記憶として使うのですか」
ノアのペンが止まった。
「また同じことをするところでした」
「今、止まりました」
慰めるのではなく、事実だけを告げる。
リヴィアも、正しい芝居がどのようなものか知っているわけではない。王立劇場で覚えたのは、完成した台本を予定どおり上演する方法だ。
まだ形のない物語を、誰かと作る方法ではなかった。
「明日、町の人に聞きましょう」
「話してくれるでしょうか」
「話してもらえなければ、この町では上演しません」
七つの満員印には期限がある。
それでも、聞きかじった悲しみを勝手に舞台へ載せるより、別の町へ行くほうがよい。
翌朝、二人はエッダが働く共同食堂を訪ねた。
大鍋では豆と根菜のスープが煮え、夜勤を終えた石工たちが長机で食事をしている。リヴィアたちの姿を見ると、話し声が目に見えて減った。
「昨日の芝居を、書き直したいのです」
リヴィアが切り出すと、エッダは鍋をかき混ぜたまま答えた。
「あたしの話だけでかい」
「いいえ。話してもよいという方から、それぞれの記憶を聞かせていただきたいです」
「聞いて、それを切符にして売るのか」
長机の端から、腕の太い石工が言った。
責められて当然だった。
「はい。有料で上演します」
リヴィアは答えた。
「私たちには満員印が必要です。売上も必要です。それを隠して、皆さんのためだけに演じるとは言いません」
食堂の空気がさらに重くなる。
「ただし、聞いた話を勝手には使いません。台本ができたら、先に皆さんへ見せます。違うと言われた場面は直します。上演してほしくないと言われたら、公演は中止します」
「中止したら、あんたたちは困るんだろう」
「困ります」
「正直すぎる役者だな」
「嘘をついて失敗したばかりですから」
ノアが言った。
大勢の前で声を出したため、最後の言葉はかすれていた。それでも、視線を下げなかった。
エッダは鍋の火を弱め、空の椀を二つ、二人の前へ置いた。
「昼の休憩まで待ちな。話すかどうかは、それぞれが決める」
正午になると、十人ほどが食堂の奥へ残った。
最初に口を開いたのは、興行監督官のゴードだった。
「当時は組合の記録係だった」
彼は古びた黒い石板を机へ置いた。表面には、何度も消して書いた白い跡が残っている。
「坑道にいた三十二人の名を書いた。救出されるたびに印をつけた。雨が吹き込めば文字が薄くなったから、一刻ごとに書き直した」
「なぜ紙ではなく、石板を?」
ノアが尋ねた。
一対一で話すときは、声が出るらしい。
「紙は水に弱い。石の町には石がある」
次に、食堂で働く中年の女が話した。
「湯を絶やさないようにした。掘る者が戻るたび、手が震えて椀を持てなかったから、布を巻いて渡した」
若い石工は、当時まだ十二歳だった。
「坑道口から家々へ伝言を走った。『生きている』と伝える家もあれば、『まだ分からない』としか言えない家もあった」
綱職人は、救出用の縄を三度作り直した。
鍛冶屋は、折れたつるはしを夜通し打ち直した。
坑道へ入った者だけではない。
外で待ち、数え、食べさせ、道具を渡した者がいた。
リヴィアは名前と話を混ぜないよう、一人につき一枚の紙へ記録した。使ってよい言葉には丸を、使わないでほしい部分には線を引いてもらう。
ノアはほとんど口を挟まず、分からないところだけ短く尋ねた。
「救出された順番は、物語に必要ですか」
「必要ない」
ゴードが答える。
「早く出た者が勇敢で、遅かった者が弱いわけではない」
ノアはうなずき、台本の順番を書き換えた。
最後まで、エッダは息子の名を告げなかった。
「名前は使わないでおくれ」
「分かりました」
「忘れたいわけじゃない。知らない役者の口から呼ばれたくないだけだよ」
リヴィアは記録紙へ、大きく不使用と書いた。
その日の午後から、二人は台本を作り直した。
題名は『九日目の椅子』。
坑道が崩れる瞬間は描かない。
舞台には、空の椅子を六脚置く。だが、〈青い天幕〉にある椅子は三脚しかないため、残りは石の腰掛けで代用した。
一脚目には、湯を入れた椀。
二脚目には、白墨と石板。
三脚目には、綱。
四脚目には、打ち直したつるはし。
五脚目には、泥のついた子どもの靴。
最後の一脚には、何も置かない。
「英雄役は出しませんか」
ノアが尋ねる。
「出します」
リヴィアは答えた。
「最初に割れ目へ入った人も、この町の一人です。英雄だから消すのではなく、一人だけで救ったことにしない」
誰かを持ち上げるために周囲を消すことも、周囲を描くために誰かを悪者にすることも、同じように違う。
リヴィアは一人の語り手として、英雄の言葉も、食堂の女の言葉も、伝言を運んだ子どもの言葉も預かることにした。
役ごとに声色を作りすぎない。
本人たちの真似ではなく、言葉を客席へ渡すことを優先する。
ノアは夕方までに最初の台本を書き上げた。
表紙の脚本家名は、空欄だった。
「名前を書かないのですか」
「私は以前の公演にかかわりました。今回、前へ出るべきではありません」
「責任を取ることと、名前を消すことは違います」
リヴィアはペンを差し出した。
「失敗した台本には前座長の名を残し、書き直した台本から自分だけ消えるのですか」
「そのつもりでは」
「つもりではなく、そう見えます」
ノアは返す言葉を失った。
「書いた人の名前も、演じた人の名前も載せます。批判されるときも、評価されるときもです。それが〈青い天幕〉の決まりです」
しばらくして、ノアは表紙へ自分の名を書いた。
脚本、ノア・ヴァイス。
「厳しい一座へ入ってしまいました」
「座長はあなたです」
「さらに厳しい事実ですね」
翌日の夕刻、荷積み広場で公開稽古を行った。
話を聞かせてくれた十人とエッダ、ゴードが石の客席へ座る。
リヴィアが第一場を終えると、綱職人がすぐ手を上げた。
「縄を引くとき、そんな掛け声は出さん。坑道の中へ余計な音を響かせないため、腕を二度叩いて合図した」
「直します」
食堂の女からは、椀を渡す向きが逆だと指摘された。若い石工には、伝言を走って届けたあと、その家の前で泣いたことは一度もないと言われた。
「泣けば、家の人が悪い知らせだと思うから。我慢した」
リヴィアは、泣く演技を削った。
直して、演じる。
また止められ、話を聞き、書き直す。
王立劇場なら、観客が稽古へ口を出すなど考えられなかった。
しかし、一つ直すたび、舞台の言葉が町の人々の呼吸へ近づいていく。
最後の場面。
九日目、二十六人が戻る。
六脚の椅子は、空いたまま残る。
語り手は、椅子を片づけようとはしない。ただ、椅子に積もった白い粉を、一脚ずつ布で拭う。
リヴィアが最後の椅子へ手を伸ばしたとき、エッダが言った。
「その椅子だけは、拭かなくていい」
皆の視線が集まる。
「息子の仕事着は、いつも石粉だらけだった。きれいな椅子じゃ、あの子は自分の席だと分からない」
リヴィアは布を置いた。
「分かりました」
稽古が終わっても、誰もすぐには立たなかった。
やがてゴードが、石の客席から降りてきた。
「長椅子十脚を、保証金なしで貸す」
「よいのですか」
「町の者が十二人も座って見た。壊したら全員で取り立てる」
エッダは前掛けから、売れ残った切符の束を取った。
「共同食堂に置くよ。英雄様の芝居じゃないと、あたしからも言っておく」
翌朝までに、二十七枚が売れた。
規定の六十人には、まだ三十三人足りない。
それでも、切符箱には一枚では数えられない重みがあった。
二人は公演を二日後の夕刻に決め、古いポスターの題名へ紙を重ねた。
新作『九日目の椅子』。
出演、リヴィア・フェン〈空白〉。
脚本、ノア・ヴァイス。
協力、石切り町グラーデンの人々。
最後の一枚を天幕へ貼ったとき、岩山から強い風が吹き下ろした。
新しく替えた綱が張り、中央の古い柱が低く軋んだ。
リヴィアは揺れる天幕を見上げた。
「公演前に、もう一度すべての杭を打ち直しましょう」
二十七人の約束を、今度こそ途中で終わらせるわけにはいかなかった。




