第7話 売れた切符は一枚
公演当日の夕刻、六十人分の客席に座っていたのは、エッダ一人だった。
採石場の終業を告げる鐘は、とうに鳴っている。
石工たちは白い粉を払いながら荷積み広場の前を通ったが、足を止めない。こちらを指さして笑う者さえ、今日はもういなかった。
舞台にかかわりたくないのだと、その背中が語っていた。
興行監督官のゴードは、広場の入口で人数を数え、記録板へ一本の線を引いた。
「有料客、一名。規定は六十名だ」
「分かっています」
リヴィアは答えた。
「公演を中止するなら、開始前に届けろ。中止記録は残るが、違反にはならん」
「上演します」
ゴードの眉がわずかに動いた。
「満員印は出ないぞ」
「切符を買った方がいますから」
前列中央には、王都から運んだ背もたれの高い椅子を置いていた。
エッダはその椅子へ座り、杖を両膝の間に挟んでいる。舞台を見上げる顔には、期待も笑みもなかった。
ただ、本当に英雄が出ないのか見定めに来たようだった。
ゴードは何も言わず、広場の端へ下がった。監督官は公演の成立を確認するが、客の人数には含まれない。
ノアが天幕の陰から顔を出す。
「開演を遅らせますか。あと半刻待てば、誰か来るかもしれません」
「切符には、この時刻が書いてあります」
「ですが、一人です」
「一人分の約束はしました」
リヴィアは舞台板の継ぎ目をもう一度踏み、ぐらつきがないことを確かめた。
黒と白の半仮面は、手を伸ばすだけで取れる位置にある。外套の留め具は、一息で外せるよう上だけを留めた。水筒、予備の紐、針と糸は西袖の箱へ。
「月の張り物が降りなかったら、どうします?」
ノアが尋ねた。
「今回は、月の張り物がありません」
「安心しました」
「代わりに、あなたが三幕目で椅子を動かします。忘れないでください」
「緊張してきました」
「客席からは見えません」
「それでも緊張します」
リヴィアは少しだけ笑った。
千席の王立劇場では、開幕前に笑う余裕などなかった。一人しかいない客席のほうが、かえって相手の顔がよく見える。
エッダが杖の先で地面を鳴らした。
「始めないのかい。あたしは一人分、ちゃんと払ったよ」
「ただいま」
リヴィアは舞台中央へ進み、深く一礼した。
「旅一座〈青い天幕〉、『帰り道の椅子』。主演、リヴィア・フェン」
自分の名を、自分の声で告げる。
拍手はなかった。
けれど、誰かの名に置き換えられることもなかった。
ノアが舞台袖で小さな鈴を一度鳴らす。
「この町には、座る人のいない椅子が一脚ありました」
リヴィアは自分の声で語り始めた。
町外れで椅子を直す女。
生まれた町を捨てたい若い旅人。
出ていく者を叱る老人。
誰かが帰るたび、もう一脚だけ椅子を増やそうとする子ども。
リヴィアは立ち位置と姿勢、二枚の半仮面だけで人物を渡り歩いた。
老人を演じても、手首へ〈老賢者〉の紋を呼ばない。旅人になっても、羽根の形を借りない。
すべてを、名前のない語り手の中で演じる。
喝采魔法の光は生まれなかった。
岩山からの風が外套を揺らし、空の客席を吹き抜ける音だけが、舞台の静けさを際立たせた。
一人しかいないから、誤魔化しも利かない。
エッダが目を伏せれば、台詞が届いていないと分かる。指が杖を強く握れば、何かが触れたと分かる。
第二幕。
旅人は町を出て、女は毎朝、店の外へ椅子を置く。
「待っているだけで、一日を使ってしまうのか」
老人の問いに、椅子職人の女は答える。
「帰る場所をなくさないのも、仕事です」
エッダの指が止まった。
その瞬間、リヴィアの左手首に細い熱が走った。
空白の円は光っていない。
それでも、役が入らないまま誰かとつながったような、不思議な温かさがあった。
リヴィアはその感覚を追わず、最後の台詞まで進んだ。
第三幕。
長い旅を終えた男が、町へ帰ってくる。
ノアが舞台の陰から椅子を一脚押し出す。リヴィアは旅人の白い半仮面を外し、待ち続けた女の前へ置いた。
「ただいま」
「遅かったね」
「椅子は、まだ空いているか」
「あんたが座れば、空席じゃなくなるよ」
旅人がその椅子へ腰を下ろしたところで、物語は終わる。
ノアが鈴を二度鳴らした。
リヴィアは中央へ戻り、頭を下げた。
六十人分の空席。
拍手は、なかった。
やがてエッダが、杖を支えにゆっくり立ち上がった。
「よく一人で演じたね」
「ありがとうございます」
「でも、最後が嫌いだ」
リヴィアは礼の姿勢から顔を上げた。
ノアも台本を抱え、舞台袖から出てくる。
「どの部分でしょう」
「帰ってきたところさ」
エッダは前列の椅子を見下ろした。
「待っていれば、みんな帰ってくる。帰ったら、待っていた時間も報われる。そんな話に見えた」
「そう書いたつもりは――」
ノアが言いかけて、口を閉じた。
「書いた側のつもりではなく、見た方の話を聞きましょう」
リヴィアが言うと、ノアはうなずいた。
エッダは二人の顔をしばらく見比べたあと、空いた石の客席へ腰を下ろした。
「六年前、この町の第三坑道が崩れた」
岩山から響く槌の音が、少し遠くなった気がした。
「中にいたのは三十二人。町中の石工が交代で穴を掘った。女たちは湯と食事を運び、子どもは家族へ伝言を走らせた。九日かけて、二十六人が戻った」
残りは六人。
数えなくとも分かった。
「あたしの息子は、戻らなかった六人の一人だ」
エッダの声に涙はなかった。
六年をかけて、何度も同じ事実を口にしてきた声だった。
「救出の初日に、若い組頭が危険な割れ目へ入った。あの子は勇敢だったよ。何人も助けた。王都から勲章をもらって、新聞は一人の英雄が坑道を開いたと書いた」
「ですが、実際に掘ったのは町の人々だった」
「英雄が嘘だったわけじゃない。あの子も命を懸けた。だが、一人じゃなかった」
英雄を否定したいのではない。
英雄だけを残し、その周りにいた者を消されたくないのだ。
「事故の翌年、旅一座が来た。金色のつるはしを持った英雄が、たった一人で岩を割り、閉じ込められた全員を救う芝居だった」
エッダの視線が、ノアへ向いた。
「五年前、ここで石を投げられた芝居ですか」
リヴィアが尋ねる。
「そうだよ」
ノアの顔から血の気が引いていた。
「『金槌の英雄』」
エッダが題名を口にする。
ノアは、逃げずに答えた。
「私は、あの舞台にいました」
リヴィアは彼を見た。
「まだ脚本家ではなく、一座の記録係でした。前座長が王都の新聞記事をもとに書き、私は資料を集めた。事故の詳細も、亡くなった人がいたことも調べませんでした」
「町の連中は、悲しみを笑い物にされたと思った。役者へ石を投げた。それから芝居が来るたび、また英雄の話だと追い返すようになった」
「なぜ、あのとき理由を聞かなかったのですか」
「怖くて、逃げました」
ノアの返事は短かった。
責任を小さく見せる言葉も、知らなかったから仕方がないという弁解もなかった。
「申し訳ありませんでした」
彼はエッダへ深く頭を下げた。
「今さら謝られても、息子は戻らない」
「はい」
「あんたが楽になるための謝罪なら、受け取らないよ」
「それでも、謝るべきでした」
エッダは許すとも、許さないとも言わなかった。
杖をつき、ゆっくりと立ち上がる。
「今の芝居は、あのときよりましだった。英雄が出なかったからね。でも、最後にはやっぱり全員が帰る」
空いた客席の間を歩き、広場の出口で振り返った。
「この町で見たい者がいるとすれば、戻った一人の話じゃない。穴を掘った者、湯を運んだ者、名前を数えた者。それから、空いた椅子を片づけられなかった者の話だよ」
エッダが去ると、広場には再び二人だけが残った。
ゴードは公演記録へ観客一名と書き、満員印のない巡業札を返してきた。
「場所代の二割は、次の売上とまとめていい」
それだけ言い、彼も会館へ戻っていった。
ノアは舞台へ腰を下ろし、『帰り道の椅子』の最終頁を開いた。
「私は、また名前を消しました」
「今度は、まだ書き直せます」
リヴィアは隣へ座らず、六十人分の石の客席を見渡した。
「帰ってきた一人を消す必要もありません。英雄を悪者にする必要もない」
「では、誰を主役にしますか」
「前の芝居で、名前をもらえなかった人たちです」
ノアは最後の頁へ大きく線を引き、新しい紙を取り出した。
売れた切符は一枚。
その一枚が、六十席を埋めるために何を書けばよいか、二人へ教えていた。




