第6話 石切り町は芝居を笑う
王都を出て半日で、リヴィアは旅の舞台馬車が王立劇場より厳しい職場だと知った。
石を踏むたびに荷台が跳ね、衣装箱が動く。車輪が穴へ落ちれば、台本まで宙を舞う。座っているだけで背中と腰が痛んだ。
「この揺れで、よく台本を書けますね」
「字が曲がっても、台詞の意味は変わりません」
御者台で手綱を握りながら、ノアは膝の上の紙へ書き込んでいる。
「前を見てください」
「馬が見ています」
「座長も見てください」
リヴィアは荷台へ移り、最初の仕事として積み方を変えた。
重い衣装箱を車軸の真上へ置き、滑り止めの布を挟む。小道具箱は蓋が開かないよう紐で固定し、台本には革帯を巻いた。
三脚の椅子も結び直す。
道具を一つ落とせば、買い直す金はない。
「以前は、どうしていたのですか」
「落ちたら拾っていました」
「これまでよく王都へ戻れましたね」
「三回ほど戻れないかと思いました」
「初めて聞く悪い話です」
「今、分かった時点で共有しました」
条件を字面どおり守ろうとしているらしい。
三日間の旅で、二人は昼に馬を休ませ、その間に稽古をした。
一本の木を老人の店に見立て、道端の石を空いた椅子にする。リヴィアは外套と二枚の半仮面だけで役を行き来した。
役紋を切り替えようとはしない。
台詞を語る自分を中心に置き、老人のときは右肩を下げ、旅人のときは顎を上げる。町の女は声を高くするのではなく、言葉の終わりをわずかに急ぐ。
五人をまったく別人に見せるのではない。
一人の語り手が、五人の記憶を預かっているように見せる。
まだ喝采魔法は生まれなかったが、手首の空白は台詞を重ねるたび、縁だけが温かくなった。
「今の老人は、昨日より十年若く見えました」
ノアが台本へ書き込みながら言う。
「褒めていますか」
「七十歳が六十歳になりました」
「それは失敗です」
「ですが、旅人は少し賢くなりました」
「それも失敗です。彼は考える前に町を出る人です」
道端の稽古には、華やかな照明も楽団もない。
鳥の声で台詞が消え、風が台本をめくり、馬が大事な場面で鼻を鳴らす。
それでもノアは、リヴィアが演じやすいよう台詞を削り、リヴィアは必要な間を足していった。
誰かが完成させた型へ自分を押し込むのではなく、二人で舞台に乗る形を探す稽古だった。
三日目の午後、白い岩山が見え始めた。
山の斜面は大きく削られ、何段もの階段のようになっている。遠くからでも、槌が石を打つ硬い音が聞こえた。
石切り町グラーデン。
町の建物は、壁も屋根も灰色の石で造られていた。道の端には白い粉が積もり、行き交う人々の髪や服まで薄く曇っている。
門の前で巡業札を見せると、詰所の男が〈青い天幕〉の名を見て鼻を鳴らした。
「まだ残っていたのか」
「以前の公演をご存じですか」
リヴィアが尋ねる。
「石を投げられた一座だろう。今度は丈夫な天幕を持ってきたか?」
後ろにいた門番たちが笑った。
ノアの顔が強張ったが、悪い話を追加する様子はない。どうやら彼が知っていた以上のことは、門番も教えてくれないらしい。
「興行監督官はどちらですか」
「採石組合の会館だ。無駄だと思うがな」
町へ入ると、笑われた理由が少し分かった。
広場に楽器を鳴らす者はいない。酒場にも歌声はなく、窓辺へ花を飾る家さえ見当たらない。休憩の鐘が鳴っても、石工たちは水を飲むとすぐ持ち場へ戻っていく。
採石組合の会館で待っていた興行監督官は、石のように四角い顔をした男だった。
名をゴードといい、本職は組合の会計係らしい。
「規定人数は六十人。場所は東の荷積み広場なら使っていい」
巡業札と行程届を確かめ、ゴードは事務的に告げた。
「使用料はいくらですか」
「切符売上の二割。売れなければ取らん」
「客席を借りられますか」
「長椅子が十脚ある。一脚につき銅貨一枚の保証金だ。壊さず返せば戻す」
手持ちでは、十脚すべての保証金を払えない。
リヴィアは窓の外に積まれた、加工前の平たい石へ目を向けた。
「広場にある石材を客席として並べても?」
「端材なら好きにしろ。ただし作業の邪魔になる場所へ置くな。終わったら戻せ」
椅子の問題は解決した。
座る客が来るかどうかは、別の問題だった。
「公演は三日後の夕刻にします」
リヴィアが届けへ記入すると、ゴードは初めて二人をまともに見た。
「忠告しておく。この町で芝居をやる一座は、長くても一晩で帰る」
「娯楽を好まないのですか」
「石を切れば壁ができる。道ができる。橋ができる。芝居を見て、何が残る?」
答えを求めている顔ではなかった。
会館を出た二人は、荷積み広場へ馬車を運んだ。
まず舞台の位置を決め、夕方の風向きを確かめる。岩山から吹き下ろす風を背に受ければ、リヴィアの声は町側へ届く。
ノアが天幕を張る間に、リヴィアは端材を六列に並べた。細長い石を二つずつ置けば、どうにか六十人分の腰掛けになる。
最後に、自分たちの三脚の椅子を前列へ置いた。
「丸椅子も出すのですか」
「売ってはいけないとは言いましたが、座らせてはいけないとは言っていません」
「一番勇敢なお客様へ勧めましょう」
「誰にも勧めないでください」
翌朝から、二人は宣伝を始めた。
公演日を書き込んだポスターを、組合の掲示板、食堂、共同井戸、道具屋の壁へ貼らせてもらう。
目線の高さ、立ち止まりやすい場所、雨に濡れない向きを選んだ。
切符代は銅貨二枚。
石工の一日分の給金から見れば高くない。家族なら二人目から一枚。終業の鐘から半刻後に始めれば、仕事にも重ならない。
条件だけなら悪くないはずだった。
「旅一座〈青い天幕〉の新作です。三日後、荷積み広場で――」
リヴィアが声をかけても、歩みを止める者はいない。
「芝居を見る暇があるなら寝る」
「〈空白〉が主演? 役のない役者を見てどうする」
「また英雄様が俺たちを救う話か?」
「英雄は登場しません」
「なら、もっと見る意味がない」
ポスターを一目見て、笑う者もいた。
一人五役という文句は、王都なら珍しさになったかもしれない。この町では、五人雇う金がない一座だと正しく見抜かれただけだった。
昼休みには、食堂前で短い実演をした。
リヴィアが黒い半仮面を持ち、最初の台詞を語る。
「この町には、座る人のいない椅子が一脚ありました」
数人がこちらを見た。
しかし、採石場から午後の鐘が聞こえると、全員が台詞の途中で背を向けた。
「鐘には勝てませんね」
ノアが紙束を抱え直す。
「次は終業後に酒場の前で」
「休みませんか。朝から声を出し続けています」
「切符はまだ一枚も売れていません」
「喉を潰せば、公演そのものができません」
ノアは水筒を差し出した。
リヴィアは反論しかけ、受け取った。
水を飲む間、ノアが代わりにポスターを持って通りへ立った。
「三日後、荷積み広場で……」
声を上げようとした途端、行き交う人々の視線が集まる。
その喉が詰まった。
息だけが漏れ、続く言葉が出てこない。
通行人は一度見ただけで、すぐに去っていった。
「すみません」
「謝る必要はありません」
「役に立てていない」
「ポスターを貼る許可は、すべて取ってくれました。あれは私が苦手な仕事です」
できないことではなく、できたことを口にする。
昨夜までなら、自分にも他人にも、そんな見方はできなかったかもしれない。
夕刻まで歩き、二人は荷積み広場へ戻った。
売れた切符は、ゼロ。
翌日も、状況は変わらなかった。
ポスターの前で足を止める者はいる。だが、主演の横にある〈空白〉の文字を見ると離れていく。子どもの立ち見は無料と告げても、売れなかった。
公演前日の夕暮れ。
リヴィアは切符箱を閉じた。
「日程を延ばせば、滞在費と馬の飼料が増えます。明日は予定どおり公演します」
「観客がいなくても?」
「一人も来なければ、通し稽古にします」
そう言った直後、広場の端から杖をついた老女が歩いてきた。
白い石粉の染み込んだ前掛けを着け、片手には空のスープ鍋を下げている。昼に食堂の裏で見かけた女だった。
「あんたが、空白の役者かい」
「はい。リヴィア・フェンです」
老女はポスターとリヴィアの顔を交互に見た。
「英雄は出ないと言ったね」
「出ません。帰る人と、待つ人の物語です」
老女はしばらく黙り込み、前掛けのポケットから銅貨を二枚取り出した。
「なら、一枚おくれ」
リヴィアは、最初の切符へ日付と席番号を書き入れた。
「お名前を伺っても?」
「エッダだよ」
切符を受け取った老女は、六十人分の石の客席を眺めた。
「ほかの席は、たぶん空いたままだ」
エッダはそれ以上何も言わず、夕暮れの町へ帰っていった。
切符箱に残された銅貨が二枚。
それが、二日間で売れたすべてだった。




