第5話 七つの満員印
「先にポスターを見せなければ、私が帰ると思った?」
リヴィアが聞き返すと、ノアは黙ってうなずいた。
印刷所の作業台では、刷り上がったばかりの仮ポスターが乾くのを待っている。
主演、リヴィア・フェン〈空白〉。
その文字を喜んだ直後だからこそ、胸の奥へ冷たいものが落ちた。
「それは、私が判断するために必要な情報を、わざと隠したということです」
「はい」
「私が名前に弱いと知っていて?」
「……はい」
言い訳をしないことが、今は余計に腹立たしい。
リヴィアは仮ポスターを作業台に残し、封筒だけを手に取った。
「詳しい話を聞きます。そのうえで仮契約を終えるか決めます」
「分かりました」
「ここでは印刷所の邪魔になります。巡業管理局へ行きましょう」
店を出る前、印刷所の店主が声をかけた。
「ポスターはどうする?」
リヴィアが足を止めると、ノアが答えた。
「彼女へ渡してください。一座に残るかどうかとは関係なく、彼女の名前を刷ったものです」
リヴィアは振り返った。
ノアはもう仮ポスターを見ていなかった。自分にそれを引き留める権利はないと、本気で考えている顔だった。
「乾いたら、帰りに受け取ります」
それだけ告げて、リヴィアは先に店を出た。
巡業管理局は、王都東門のすぐそばにある。
石造りの建物の中は、許可証を求める芸人や商人で混み合っていた。楽器を背負った楽団、犬を連れた曲芸師、荷台いっぱいの人形を運ぶ人形一座。窓口の前には長い列ができている。
人の視線が集まる場所へ入った途端、ノアの歩みが遅くなった。
「手続きは私が話します」
「助かります」
「まだ一座に残ると決めたわけではありません」
「それでも助かります」
待つこと半刻。二人の番になると、眼鏡をかけた女性役人が封筒の赤い印を確認した。
「旅一座〈青い天幕〉ですね。仮巡業札の期限に関する最終通知です」
役人は棚から、手のひら二枚分ほどの金属板を取り出した。
青い塗料の剥げた札には〈青い天幕〉の名と、七つの小さな円が刻まれている。円はどれも空だった。
「新規および継承された一座は、九十日以内に七つの異なる町で規定興行を成功させなければなりません。成功した町ごとに、興行監督官がこの円へ満員印を押します」
「満員というのは、客席数を一座が決められるのですか」
リヴィアの問いに、役人は眼鏡の奥からじっと見返した。
「三脚の椅子を並べて三人呼べば満員になる、と?」
「その可能性を先に潰しておきたくて」
「賢明です。必要人数は、町の人口と公演場所を基準に監督官が指定します。最小でも五十人。公演中止、無料の通行人を数えただけの見せ物、同じ町での繰り返しは認められません」
最小でも五十人。
現在の客席の、十六倍を超える。
「期限を過ぎた場合は?」
「仮巡業札を失効。一年間、有料興行はできません。保証として登録された舞台馬車は管理局が回収し、未払いの興行費用へ充てます。一座名の再登録もできません」
馬車を失い、〈青い天幕〉の名も失う。
潰れかけではない。期限が来れば、確実に潰れるのだ。
「残りは八十九日ですね」
「本日を含めて、です」
役人が名簿を開く。
「ところで、登録上の構成員は座長兼脚本家一名です。役者の追加届が出ていませんが」
「仮契約中です」
「お名前と役紋を」
答えれば、単なる見学者ではいられなくなる。
リヴィアは隣に立つノアを見た。
「席を外していただけますか」
ノアは何も尋ねず、窓口から離れた。
彼が声を聞けない距離まで行ったことを確かめ、リヴィアは役人へ向き直る。
「この札は、前の座長からノアさんが継いだものですか」
「はい。前座長の死亡に伴う継承です。継承日から九十日の仮期間が始まりました」
「ノアさんに、過去の違反は?」
「ありません。以前の構成員への給金完済証明も提出されています。ただし、興行実績はゼロです」
「舞台馬車以外に、隠された保証や借金はありますか」
役人は書類をめくった。
「管理局へ届けられたものはありません」
少なくとも、ノアが役者の給金を踏み倒したり、違反を重ねたりしたわけではない。
情報を隠したことは許せない。
けれど、知ったうえで選ぶ権利は、今のリヴィアにある。
「登録は、まだしません。今日中に戻ります」
「窓口は夕刻の鐘までです」
リヴィアは礼を言い、ノアを連れて管理局を出た。
二人は東門脇の石段へ腰を下ろした。人通りは多いが、誰も旅一座の話など気に留めていない。
「なぜ、知らせなかったのですか」
「あなたが必要だったからです」
「必要なら、相手の選択を奪ってもよいと?」
「よくありません」
ノアは膝の上で両手を組んだ。
「前の座長から一座を預かったとき、私は脚本さえあれば立て直せると思っていました。役者が去っても、良い台詞を見せれば誰かが戻ると。椅子を売っても、舞台が残れば客は来ると」
「来ませんでしたね」
「はい。誰にも届かない脚本は、紙束でした」
悔しさを飾ることも、自分を哀れむこともしない。
「あなたを見つけて、これが最後の機会だと思った。正直に全部話せば、台本を読む前に断られる。それが怖くて、順番を変えました」
「順番ではありません。隠したのです」
「そのとおりです」
ノアは深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。仮契約を終えるなら、異議はありません」
リヴィアはすぐに答えず、封筒から同封の巡業地図を取り出した。
王都を中心に街道が延び、満員印を発行できる町が記されている。
「七つの町を八十九日。十二日に一つでは間に合いません。移動と稽古、天候で必ず遅れます」
「はい」
「最初の町まで何日ですか」
ノアが顔を上げた。
「東街道の石切り町グラーデンなら、馬車で三日です」
「公演場所は?」
「採石組合の広場を借りられます。五年前、前座長と公演した記録があります」
「必要な観客数は」
「おそらく六十人」
「椅子は町で借りるしかありません。天幕の穴を塞ぎ、綱を替え、台本を完成させる。移動中も稽古します。到着翌日に宣伝、早くても五日目に公演です」
指で地図の距離を測りながら、必要な仕事を数えていく。
口にするほど、無謀さがはっきりした。
同時に、何から始めればよいかも見えてくる。
王立劇場では、決められた公演を失敗させないために働いてきた。
ここには、決められたものが何もない。
だから自分で決められる。
「条件を一つ追加します」
リヴィアは地図を畳んだ。
「借金、契約、巡業札、公演中止につながる問題は、分かった時点ですべて共有してください。私に残ってほしいときほど、先に悪い話をすること」
「分かりました」
「次に隠したら、その場で辞めます」
「異議ありません」
「それから、仮契約は最初の一公演までではなく、七つの印を集めるまでに変えます」
ノアが息を止めた。
「よいのですか」
「よいかどうかは、まだ分かりません」
リヴィアは正直に言った。
「後悔する可能性も高いでしょう。それでも、自分で選んだ後悔にすると決めたばかりです」
ノアは何か長い言葉を探しているようだった。
だが、人の行き交う門前では声が詰まり、結局、短い一言だけを絞り出した。
「ありがとう」
「お礼は七つ集めてからにしてください」
二人は管理局の窓口へ戻った。
「旅一座〈青い天幕〉へ、役者兼舞台監督として登録します」
役人に告げ、リヴィアは左手首を示した。
「リヴィア・フェン。役紋は〈空白〉です」
名簿へペンが走る。
王立劇場の出演記録には一度も残らなかった名が、初めて公の一座名簿へ記された。
役人は青い巡業札と一緒に、行程届を差し出した。
「最初の公演地を」
リヴィアはノアを見た。
「石切り町グラーデン」
二人の声が重なった。
その日の午後は、出発準備で瞬く間に過ぎた。
残っていた銅貨で新しい綱を買い、穴の小さい二つは古い衣装布で塞いだ。印刷所では仮ポスターへ公演地だけを加え、日付は到着後に書き込めるよう空欄にした。
三脚の椅子を今度こそ落ちないよう馬車へ結び直し、衣装箱と台本を積む。最後に、七つの円が空いた巡業札を御者台の内側へ掛けた。
翌朝、東の空が白み始めるころ。
〈青い天幕〉の舞台馬車は、王都の門を出た。
見送りはいない。楽団も、華やかな旗もない。
それでもリヴィアの鞄には、自分の名が刷られたポスターが入っている。
誰かの代わりではなく、自分の名で向かう初めての公演だった。
「ところで、リヴィアさん」
御者台で手綱を握るノアが、街道の先を見たまま言った。
「悪い話は先に伝える、という条件でしたね」
「早速、何ですか」
「グラーデンの人々は、芝居をあまり好みません」
「五年前に公演したのでしょう?」
「舞台へ石を投げられ、二幕で中止になりました」
リヴィアは無言で、遠ざかる王都を振り返った。
「……今のは、出発前に言うべき悪い話です」
「次から気をつけます」
最初の満員印は、早くも遠かった。




