第4話 空白の役紋
「立ち位置は、ここでよいですか」
翌朝、リヴィアは舞台の床へ白墨で小さな印をつけた。
中央に一つ。左右に二つ。舞台の奥、古い椅子を置く場所に一つ。
「老人は左、旅人は右、町の女は中央。物語をつなぐ語り手は、椅子のそばです」
客席側に立つノアが、書き直した台本と見比べる。
「一歩で役を変えるのですね」
「衣装を替える時間がありませんから。立つ場所、声、身体の向き、仮面。それだけで別の人物だと伝えます」
三脚の椅子のうち、丸椅子は客席から外されていた。代わりにノアが地面へ直接座っている。
「本当に私が座ってはいけませんか」
「稽古初日に座長が転んで怪我をする一座へ、入りたい役者はいません」
「説得力があります」
リヴィアは茶色い外套を羽織り、舞台左の印へ立った。
背を丸める。顎を引き、右膝をわずかに内側へ入れる。長年使った片脚をかばう老人の身体だ。
「町を出るなら、椅子を一脚持っていきなさい。疲れたときに、帰る理由を思い出せる」
声を置くと、左手首が温かくなった。
袖をまくる。
細い円だけだった役紋の中に、杖を思わせる一本の線が浮かんでいた。王立劇場で〈老賢者〉を代演した夜と、同じ形だ。
「出ましたね」
「まだ薄いです。観客がいませんから」
役紋は、役者一人では完成しない。
役者が役を信じ、舞台を支える者が息を合わせ、最後に観客が信じる。三つが重なったとき、紋に宿る喝采魔法が舞台へ光や音を生む。
空の椅子しかない今は、老人の輪郭を借りるだけだった。
「次へ進みます」
リヴィアは外套を脱ぎながら舞台を横切った。背筋を伸ばし、歩幅を広げる。右の印へ着くまでに白い半仮面をつけた。
「道は、帰る人のためにあるんじゃない。出ていく人のためにあるんだ」
若い旅人の声を出す。
手首の杖が消え、代わりに小さな羽根の形が現れかけた。
だが、輪郭は途中で崩れた。
焼けた針を当てられたような痛みが走る。
「っ……」
リヴィアは台詞を止め、手首を押さえた。
「大丈夫ですか」
ノアが立ち上がる。
「続けられます。ただ、切り替えが速すぎました」
「王立劇場では、いくつもの役を代演していたのでしょう?」
「一晩に一役です。同じ演目の途中で、別の役紋へ移ったことはありません」
どの役にも合わせられる〈空白〉。
そう言えば便利に聞こえるが、実際は何もない型へ、稽古で役の形を押し込んでいるだけだ。一度なじんだ形を剥がし、すぐ別の役を入れれば、身体に負担がかかる。
「五役は無理ですか」
「今のやり方では」
ノアは台本を閉じた。
「では、一人芝居をやめましょう」
「ずいぶん簡単に諦めるのですね」
「あなたの手首を壊してまで上演する脚本ではありません」
その言葉に迷いがなかった。
王立劇場では、できないと告げる前に「代役ならできるだろう」と命じられた。痛みを見せれば、集中が足りないと言われた。
リヴィアは手首から指を離した。
「芝居をやめるとは言っていません」
「ですが」
「役紋を五回替えるから無理なのです。役を替えずに、五人を演じます」
リヴィアは舞台奥の椅子へ向かった。
「物語を語る一人の人物が、老人や旅人の言葉を借りる。完全に別人になるのではなく、声と姿勢だけを変えるのです」
「昨日話した、台本にない役ですね」
「ええ」
「その役に、役紋は?」
「ありません」
役紋の型は、何百年も前から大きく変わっていない。
英雄、姫君、悪役、賢者、道化。劇場は役紋に合う物語を選び、脚本家もまた、役紋に存在する人物を書く。
物語を語りながら、登場人物の間を行き来する者に、決められた紋はなかった。
「存在しない役を、〈空白〉へ入れられると思いますか」
「分かりません」
「試しても?」
リヴィアはうなずいた。
ノアが台本を開き、前置きもなく新しい一行を読み上げた。
「あなたは、空いた椅子を守る者です。名前はまだない」
舞台奥に立つリヴィアは、黒い半仮面を片手に持った。
老人ではない。旅人でもない。町の女でもない。
誰かの代わりではなく、すべての人物の言葉を観客へ運ぶ者。
「この町には、座る人のいない椅子が一脚ありました」
自分の声で、最初の台詞を語った。
手首は痛まなかった。
光もしなかった。
空白の円は空白のまま、何一つ受け取らない。
けれど、失敗したときの冷たさとも違った。何かを待つように、円の縁だけがかすかに熱を持っている。
「今、どうなっています?」
「何も」
「残念です」
「いいえ」
リヴィアは、空白の役紋を見つめた。
「何もないから、もう少し試せます」
午前の稽古では、結局一度も喝采魔法は生まれなかった。
それでも二人は、五人分だった台詞を一人の語り手へ集め、立ち位置を四つから三つへ減らした。仮面の交換は二回だけ。衣装は茶色い外套一枚だけにした。
昼を過ぎるころには、最初の場面だけなら幕を止めずに演じられる形になっていた。
「午後は印刷所ですね」
ノアが言った。
「その前に、昼食を」
「銀貨二枚の中からですか」
「銅貨十八枚のほうからです」
「安心しました」
「何も安心できません」
二人は固いパンを半分ずつ食べ、王都へ戻った。
印刷所は職人街の外れにあった。
扉を開けた途端、紙と油と金属の匂いが押し寄せる。大きな圧搾機が床の中央を占領し、棚には大小さまざまな活字が並んでいた。
「ようやく来たか、青天幕」
腕を黒いインクで汚した店主が、ノアを見るなり眉をつり上げた。
「先に言っておくが、七枚払うまで新しい仕事は――」
「古いポスターの裏へ刷ってください」
リヴィアは、持ってきた紙束を作業台へ置いた。
店主が言葉を止める。
「裏なら紙代は不要です。今日は仮刷りを一枚。残りは公演地と日付が決まってからお願いします。代金は最初の切符売上から、以前の七枚と合わせて支払います」
「あんたは?」
「仮契約中の役者兼舞台係、リヴィア・フェンです」
自分から名乗ると、まだ少しだけ胸が落ち着かなかった。
店主はリヴィアとノアを見比べ、深いため息をついた。
「この男よりは金の話が通じそうだ。仮刷り一枚だけならやってやる」
「ありがとうございます」
ノアが用意した原稿を広げる。
紙の上半分には、『失われし時の果て、帰還と別離が交差する感涙の新作悲劇』と細かな文字で書かれていた。
「長すぎます」
リヴィアは即座に言った。
「まだ題名にも届いていません」
「道を歩く人は、三行目まで読みません」
「一行目には自信があったのですが」
「台本へ使ってください」
リヴィアは余白へ、必要な情報だけを書き直した。
旅一座〈青い天幕〉新作。
一人五役『帰り道の椅子』。
主演、リヴィア・フェン。
「これなら離れた場所からでも読めます。公演地、日付、切符代は下へ」
店主がうなずき、活字を拾い始めたが、主演者名のところで手を止めた。
「役紋の種類がないぞ」
「必要なのですか」
「喝采魔法を使う芝居は、主な役者の役紋を載せる決まりだ。客は〈英雄〉を見たいのか、〈道化〉を見たいのかで切符を買う。役紋は?」
リヴィアは左の袖を少し上げた。
細い円の中には、文字も絵もない。
「〈空白〉です」
店主の表情が曇った。
「それを主演の横へ載せるのか? 代役の一人芝居に金を払う客はいないぞ。役紋なしで届け出て、名前だけ載せる手もあるが」
「それでは昨夜までと同じです」
リヴィアは答えた。
「名前だけ載せて、都合の悪い部分を隠すのなら、私が演じたことにはなりません」
店主は困ったようにノアを見た。
店の奥では二人の職人が活字を組み、入口では別の客が待っている。視線が集まった途端、ノアの唇がかすかに震えた。
「彼女の……」
声が途中で詰まる。
ノアは一度目を閉じ、短く息を吐いた。
「彼女の、希望どおりに」
それだけ言うのに、額へ汗がにじんでいた。
店主は肩をすくめた。
「客が来なくても、俺のせいにするなよ」
「しません」
金属の活字が、一つずつ枠へ収められていく。
店主がインクを塗り、古いポスターを裏返して圧搾機へ挟んだ。長い取っ手を下ろすと、木枠が重い音を立てる。
やがて、一枚の紙が作業台へ置かれた。
旅一座〈青い天幕〉新作。
一人五役『帰り道の椅子』。
主演、リヴィア・フェン〈空白〉。
黒いインクで刷られた文字は、手書きよりもずっと動かしがたく見えた。
誰かの名を消して代わりに入れたのではない。
最初から、彼女のために空けられた場所にある。
リヴィアは文字へ触れかけ、インクが乾いていないことに気づいて指を止めた。
「……本当に載りましたね」
「消しません」
ノアが言った。
大きな拍手を受けた昨夜より、その一枚のほうが胸に深く残った。
「そうだ、青天幕」
店主が作業台の下を探り、封筒を一通取り出した。
「巡業管理局の役人が置いていったぞ。至急と書いてある」
ノアの顔から、仮刷りを見ていた喜びが消えた。
リヴィアは封筒の赤い印と、宛名の下に記された期限を見た。
「ノアさん。これは、何ですか」
「仮の巡業札に関する通知です」
「期限まで、九十日しかありません」
「正確には、今日で八十九日です」
「なぜ昨日、帳簿と一緒に見せなかったのですか」
ノアは気まずそうに、刷り上がったリヴィアの名を見た。
「先にこれを見せなければ、あなたが帰ると思ったからです」




