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王立劇場で十二年間、名無しの代役でしたが、外れ役紋【空白】で旅一座を始めます~訳あり役者の舞台は今日も満員です~  作者: やまご


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第4話 空白の役紋

「立ち位置は、ここでよいですか」


 翌朝、リヴィアは舞台の床へ白墨で小さな印をつけた。


 中央に一つ。左右に二つ。舞台の奥、古い椅子を置く場所に一つ。


「老人は左、旅人は右、町の女は中央。物語をつなぐ語り手は、椅子のそばです」


 客席側に立つノアが、書き直した台本と見比べる。


「一歩で役を変えるのですね」


「衣装を替える時間がありませんから。立つ場所、声、身体の向き、仮面。それだけで別の人物だと伝えます」


 三脚の椅子のうち、丸椅子は客席から外されていた。代わりにノアが地面へ直接座っている。


「本当に私が座ってはいけませんか」


「稽古初日に座長が転んで怪我をする一座へ、入りたい役者はいません」


「説得力があります」


 リヴィアは茶色い外套を羽織り、舞台左の印へ立った。


 背を丸める。顎を引き、右膝をわずかに内側へ入れる。長年使った片脚をかばう老人の身体だ。


「町を出るなら、椅子を一脚持っていきなさい。疲れたときに、帰る理由を思い出せる」


 声を置くと、左手首が温かくなった。


 袖をまくる。


 細い円だけだった役紋の中に、杖を思わせる一本の線が浮かんでいた。王立劇場で〈老賢者〉を代演した夜と、同じ形だ。


「出ましたね」


「まだ薄いです。観客がいませんから」


 役紋は、役者一人では完成しない。


 役者が役を信じ、舞台を支える者が息を合わせ、最後に観客が信じる。三つが重なったとき、紋に宿る喝采魔法が舞台へ光や音を生む。


 空の椅子しかない今は、老人の輪郭を借りるだけだった。


「次へ進みます」


 リヴィアは外套を脱ぎながら舞台を横切った。背筋を伸ばし、歩幅を広げる。右の印へ着くまでに白い半仮面をつけた。


「道は、帰る人のためにあるんじゃない。出ていく人のためにあるんだ」


 若い旅人の声を出す。


 手首の杖が消え、代わりに小さな羽根の形が現れかけた。


 だが、輪郭は途中で崩れた。


 焼けた針を当てられたような痛みが走る。


「っ……」


 リヴィアは台詞を止め、手首を押さえた。


「大丈夫ですか」


 ノアが立ち上がる。


「続けられます。ただ、切り替えが速すぎました」


「王立劇場では、いくつもの役を代演していたのでしょう?」


「一晩に一役です。同じ演目の途中で、別の役紋へ移ったことはありません」


 どの役にも合わせられる〈空白〉。


 そう言えば便利に聞こえるが、実際は何もない型へ、稽古で役の形を押し込んでいるだけだ。一度なじんだ形を剥がし、すぐ別の役を入れれば、身体に負担がかかる。


「五役は無理ですか」


「今のやり方では」


 ノアは台本を閉じた。


「では、一人芝居をやめましょう」


「ずいぶん簡単に諦めるのですね」


「あなたの手首を壊してまで上演する脚本ではありません」


 その言葉に迷いがなかった。


 王立劇場では、できないと告げる前に「代役ならできるだろう」と命じられた。痛みを見せれば、集中が足りないと言われた。


 リヴィアは手首から指を離した。


「芝居をやめるとは言っていません」


「ですが」


「役紋を五回替えるから無理なのです。役を替えずに、五人を演じます」


 リヴィアは舞台奥の椅子へ向かった。


「物語を語る一人の人物が、老人や旅人の言葉を借りる。完全に別人になるのではなく、声と姿勢だけを変えるのです」


「昨日話した、台本にない役ですね」


「ええ」


「その役に、役紋は?」


「ありません」


 役紋の型は、何百年も前から大きく変わっていない。


 英雄、姫君、悪役、賢者、道化。劇場は役紋に合う物語を選び、脚本家もまた、役紋に存在する人物を書く。


 物語を語りながら、登場人物の間を行き来する者に、決められた紋はなかった。


「存在しない役を、〈空白〉へ入れられると思いますか」


「分かりません」


「試しても?」


 リヴィアはうなずいた。


 ノアが台本を開き、前置きもなく新しい一行を読み上げた。


「あなたは、空いた椅子を守る者です。名前はまだない」


 舞台奥に立つリヴィアは、黒い半仮面を片手に持った。


 老人ではない。旅人でもない。町の女でもない。


 誰かの代わりではなく、すべての人物の言葉を観客へ運ぶ者。


「この町には、座る人のいない椅子が一脚ありました」


 自分の声で、最初の台詞を語った。


 手首は痛まなかった。


 光もしなかった。


 空白の円は空白のまま、何一つ受け取らない。


 けれど、失敗したときの冷たさとも違った。何かを待つように、円の縁だけがかすかに熱を持っている。


「今、どうなっています?」


「何も」


「残念です」


「いいえ」


 リヴィアは、空白の役紋を見つめた。


「何もないから、もう少し試せます」


 午前の稽古では、結局一度も喝采魔法は生まれなかった。


 それでも二人は、五人分だった台詞を一人の語り手へ集め、立ち位置を四つから三つへ減らした。仮面の交換は二回だけ。衣装は茶色い外套一枚だけにした。


 昼を過ぎるころには、最初の場面だけなら幕を止めずに演じられる形になっていた。


「午後は印刷所ですね」


 ノアが言った。


「その前に、昼食を」


「銀貨二枚の中からですか」


「銅貨十八枚のほうからです」


「安心しました」


「何も安心できません」


 二人は固いパンを半分ずつ食べ、王都へ戻った。


 印刷所は職人街の外れにあった。


 扉を開けた途端、紙と油と金属の匂いが押し寄せる。大きな圧搾機が床の中央を占領し、棚には大小さまざまな活字が並んでいた。


「ようやく来たか、青天幕」


 腕を黒いインクで汚した店主が、ノアを見るなり眉をつり上げた。


「先に言っておくが、七枚払うまで新しい仕事は――」


「古いポスターの裏へ刷ってください」


 リヴィアは、持ってきた紙束を作業台へ置いた。


 店主が言葉を止める。


「裏なら紙代は不要です。今日は仮刷りを一枚。残りは公演地と日付が決まってからお願いします。代金は最初の切符売上から、以前の七枚と合わせて支払います」


「あんたは?」


「仮契約中の役者兼舞台係、リヴィア・フェンです」


 自分から名乗ると、まだ少しだけ胸が落ち着かなかった。


 店主はリヴィアとノアを見比べ、深いため息をついた。


「この男よりは金の話が通じそうだ。仮刷り一枚だけならやってやる」


「ありがとうございます」


 ノアが用意した原稿を広げる。


 紙の上半分には、『失われし時の果て、帰還と別離が交差する感涙の新作悲劇』と細かな文字で書かれていた。


「長すぎます」


 リヴィアは即座に言った。


「まだ題名にも届いていません」


「道を歩く人は、三行目まで読みません」


「一行目には自信があったのですが」


「台本へ使ってください」


 リヴィアは余白へ、必要な情報だけを書き直した。


 旅一座〈青い天幕〉新作。


 一人五役『帰り道の椅子』。


 主演、リヴィア・フェン。


「これなら離れた場所からでも読めます。公演地、日付、切符代は下へ」


 店主がうなずき、活字を拾い始めたが、主演者名のところで手を止めた。


「役紋の種類がないぞ」


「必要なのですか」


「喝采魔法を使う芝居は、主な役者の役紋を載せる決まりだ。客は〈英雄〉を見たいのか、〈道化〉を見たいのかで切符を買う。役紋は?」


 リヴィアは左の袖を少し上げた。


 細い円の中には、文字も絵もない。


「〈空白〉です」


 店主の表情が曇った。


「それを主演の横へ載せるのか? 代役の一人芝居に金を払う客はいないぞ。役紋なしで届け出て、名前だけ載せる手もあるが」


「それでは昨夜までと同じです」


 リヴィアは答えた。


「名前だけ載せて、都合の悪い部分を隠すのなら、私が演じたことにはなりません」


 店主は困ったようにノアを見た。


 店の奥では二人の職人が活字を組み、入口では別の客が待っている。視線が集まった途端、ノアの唇がかすかに震えた。


「彼女の……」


 声が途中で詰まる。


 ノアは一度目を閉じ、短く息を吐いた。


「彼女の、希望どおりに」


 それだけ言うのに、額へ汗がにじんでいた。


 店主は肩をすくめた。


「客が来なくても、俺のせいにするなよ」


「しません」


 金属の活字が、一つずつ枠へ収められていく。


 店主がインクを塗り、古いポスターを裏返して圧搾機へ挟んだ。長い取っ手を下ろすと、木枠が重い音を立てる。


 やがて、一枚の紙が作業台へ置かれた。


 旅一座〈青い天幕〉新作。


 一人五役『帰り道の椅子』。


 主演、リヴィア・フェン〈空白〉。


 黒いインクで刷られた文字は、手書きよりもずっと動かしがたく見えた。


 誰かの名を消して代わりに入れたのではない。


 最初から、彼女のために空けられた場所にある。


 リヴィアは文字へ触れかけ、インクが乾いていないことに気づいて指を止めた。


「……本当に載りましたね」


「消しません」


 ノアが言った。


 大きな拍手を受けた昨夜より、その一枚のほうが胸に深く残った。


「そうだ、青天幕」


 店主が作業台の下を探り、封筒を一通取り出した。


「巡業管理局の役人が置いていったぞ。至急と書いてある」


 ノアの顔から、仮刷りを見ていた喜びが消えた。


 リヴィアは封筒の赤い印と、宛名の下に記された期限を見た。


「ノアさん。これは、何ですか」


「仮の巡業札に関する通知です」


「期限まで、九十日しかありません」


「正確には、今日で八十九日です」


「なぜ昨日、帳簿と一緒に見せなかったのですか」


 ノアは気まずそうに、刷り上がったリヴィアの名を見た。


「先にこれを見せなければ、あなたが帰ると思ったからです」

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