第3話 客席が三つしかない一座
「客席が三つというのは、本当に三つなのですね」
「四つに見える角度があるなら、ぜひ教えてください」
ノアが真顔で答えた。
古い舞台馬車の側面には、背もたれの高い椅子、丸椅子、肘掛けの片方がない椅子が一脚ずつくくりつけられている。しかも丸椅子は脚の長さがそろっておらず、馬車が揺れるたびに小刻みに震えていた。
「あの丸椅子を客に使わせるつもりですか」
「昨日までは、そのつもりでした」
「今日からは?」
「あなたの顔を見て、考え直しています」
判断だけは早いらしい。
ノアが御者台へ乗り、リヴィアはその隣へ木箱を置いた。痩せた栗毛の馬がゆっくり歩きだす。
馬車は王都の東門を抜け、旅芸人や行商人が滞在する野営地へ向かった。城壁の外を流れる細い川沿いに、色とりどりの天幕が並んでいる。
その一番奥に、〈青い天幕〉はあった。
「青い、というより灰色ですね」
「雨に洗われて、慎み深い色になりました」
「天井に穴があります」
「星を見ながら眠れます」
「雨の日は?」
「雨も見られます」
色あせた天幕には、大小五つの穴が開いていた。布の端はほつれ、中央を支える柱はわずかに傾いている。入口に掲げられた〈青い天幕〉の看板だけは立派だったが、文字の上を斜めに亀裂が走っていた。
リヴィアは木箱を下ろすと、天幕へ入る前に外周を一周した。
「何をしているのですか」
「綱と杭の確認です。北側の二本が緩んでいます。風が吹けば、先にこちらが浮きます」
しゃがんで綱をつまむ。麻はけば立ち、一部が細くなっていた。
「この綱は交換を。柱の根元も腐りかけています。舞台馬車の車輪止めはありますか」
「荷台の下に」
「先に入れてください。床を開いたとき、傾斜で馬車が動きます」
ノアは言われたとおり、木製の車輪止めを取り出した。
「まだ入団していないのに、ずいぶん働きますね」
「入団するか決めるために見ています」
「見れば見るほど、断る理由が増えませんか」
「今のところは」
ノアの肩が落ちた。
舞台馬車は、側板を左右へ開くと小さな舞台になる造りだった。床板には無数の傷があったが、踏んでも大きな軋みはない。古いなりに、要所は手入れされている。
「床は悪くありませんね」
「前の座長が、客席より舞台を大事にする人でした」
「だから客席が三脚に?」
「それは私が売りました」
悪びれもせず言われ、リヴィアは舞台から振り返った。
「四十脚あった椅子を?」
「三十七脚売りました。去年の冬に前座長が亡くなり、残った役者へ給金を払う必要がありましたから」
冗談を言っている顔ではなかった。
「給金の未払いは?」
「ありません。全員に最後の一月分まで払いました」
「その結果、一座に残ったのは」
「私と、あの馬と、椅子が三脚です」
「馬は役者に数えません」
「では、私と椅子が三脚です」
「ノアさんは、人前で演じられるのですか」
問いかけた途端、ノアの視線が外れた。
「……台詞は書けます」
「尋ねたのは、演じられるかどうかです」
「客席を前にすると、声が出なくなることがあります」
昨日、大通りの歓声を避けた姿を思い出す。
無口なのではない。話そうとしても、話せなくなるのだ。
リヴィアはそれ以上、理由を尋ねなかった。
「つまり、現在舞台に立てる役者は一人もいない」
「昨日までは」
「私を数えないでください」
「努力します」
まったく努力する顔ではなかった。
舞台の奥には、薄い仕切りを挟んで衣装棚があった。残っているのは、茶色い外套、裏返せば赤くなる胴着、年老いた男のかつら、白と黒の半仮面。役者五人分どころか、一人分としても心細い。
小道具箱には木の杯が二つ、欠けた王冠、造花が一輪。王冠は近くで見ると金色の塗料が剥げ、下の木目が出ている。
「帳簿を見せてください」
リヴィアが言うと、ノアは舞台下から分厚い革表紙の帳面を取り出した。
記録は意外なほど細かかった。
椅子を売った金額。役者へ支払った給金。馬の飼料代、野営地代、天幕の補修布、橋の通行料。日付も領収印もそろっている。
ただし、一番下に記された残高は、銀貨二枚と銅貨十八枚。
「借金は?」
「車輪の修理代が銀貨二十四枚。馬屋へ十二枚。印刷所へ七枚」
「合計四十三枚ですね」
「計算が速い」
「褒めるところではありません。手持ちの二十倍以上です」
「だから潰れかけと申し上げました」
「これは、ほとんど潰れています」
「まだ天幕は立っています」
リヴィアは頭痛をこらえるように、こめかみを押さえた。
虚偽の記載は見当たらない。ノアは金を持ち逃げしたわけでも、役者をただ働きさせたわけでもなかった。
ただ、客を集めて金を稼ぐ才能が、恐ろしいほど欠けている。
「印刷所への借金は、何を刷ったのですか」
リヴィアの問いに、ノアが衣装棚の裏から紙束を出した。
そこには大きく、『帰り道の椅子』と印刷されていた。
昨夜渡された台本の題名だ。
紙の下半分には、以前所属していたらしい五人の役者の名が並んでいる。公演日だけが空欄のまま、ポスターは百枚近く残っていた。
「役者が辞める前に刷ったのですか」
「辞めると知る前に、です」
「百枚も?」
「町中へ貼るつもりでした」
「許可なく貼れば罰金です」
「それは知りませんでした」
「知ってください、座長」
思わず強く言うと、ノアは素直に頭を下げた。
「脚本を書けても、客に届ける方法を私は知りません。だから、あなたに来てほしかった」
「私は宣伝係ではありません」
「舞台を最後まで成立させる人です」
ノアは、青い台本をリヴィアへ差し出した。
「読んで、上演できないところを教えてください」
リヴィアは受け取らなかった。
「この脚本には五人の登場人物がいます。私一人に、五人の代役をさせるおつもりですか」
また、誰かの代わりになる。
そのために王立劇場を辞めたのではない。
「違います」
ノアは、ためらわずに答えた。
「五人とも、あなたに演じてほしいのです」
「同じことでは?」
「代役なら、配役表には元の役者の名前が残る。私が書きたいのは、五つの役の横に、リヴィア・フェンと記された配役表です」
リヴィアは言葉を失った。
「〈空白〉なら、短い場面ごとに役を変えられる。そう考えました。ただし、あなたが嫌なら一人芝居にはしません」
ノアは台本を舞台中央へ置き、数歩下がった。
「決めるのは、あなたです」
誰かに決めるよう促された経験ならある。
だが、自分の望みを問われた記憶は、ほとんどなかった。
リヴィアは青い台本を拾い、舞台の端へ腰を下ろした。
物語の主人公は、町外れで古い椅子を直す女だ。住民が次々と町を離れても、彼女は毎日一脚だけ、店の外へ椅子を置く。
――座って待つ者は、何もしていないように見える。でも、帰る場所をなくさないのも仕事です。
昨夜、その一行を読んだとき、先へ進む指が止まった。
華やかな英雄も、美しい姫君も登場しない。帰ってくるか分からない誰かのために、空席を守り続ける女がいるだけだ。
「この台詞は、好きです」
「昨夜もそう言ってくれました」
「ですが、五役を着替えで見せるのは無理です。役が変わるたびに幕を下ろせば、物語が切れます」
「では、どうします?」
リヴィアは白と黒の半仮面を手に取った。
「着替えません。外套と仮面だけを客の前で替えます。別人に見せるのではなく、一人の役者が役を渡り歩くところまで芝居にする」
ノアの灰色の目に、初めて強い光が差した。
「台本にない役が必要になりますね。物語を語りながら、登場人物にもなる役が」
「既存の役紋にはありません」
「あなたの役紋は空白です」
左手首が、かすかに疼いた気がした。
リヴィアは袖の上からそこを押さえる。
「できる保証はありません」
「失敗する保証もありません」
「座長としては、ずいぶん無責任な言葉ですね」
「脚本家としては、続きを書きたくなる言葉です」
破れた天幕から差し込む細い陽光が、舞台の傷を照らしていた。
王立劇場の床より狭く、傾きもある。客席は三脚。役者は一人もいない。借金は銀貨四十三枚。
条件だけを見れば、断るべきだった。
それでも、この何もない舞台には、まだ誰の名前も置かれていない。
「一公演だけです」
リヴィアは言った。
「最初の公演が終わるまでは、仮契約とします。帳簿はいつでも見せること。売上から必要経費を引き、残りは折半。安全に関する判断は私が止められるようにしてください」
「分かりました」
「それから、最後の椅子三脚は、私に相談せず売らないこと」
「最も厳しい条件ですね」
「もう一つあります」
リヴィアは、役者の名が残った古いポスターを裏返した。
「次に刷るものには、出演者の名前を必ず載せてください。代役でも、端役でもです」
ノアは笑わなかった。
「もちろんです」
彼は新しい紙を一枚取り出し、中央に大きく一行を書いた。
主演――リヴィア・フェン。
「明日、これを印刷所へ持っていきます」
リヴィアは、自分の名前から目を離せなかった。
三脚しかない客席が、昨日までいた千席の劇場よりも、少しだけ広く見えた。




