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王立劇場で十二年間、名無しの代役でしたが、外れ役紋【空白】で旅一座を始めます~訳あり役者の舞台は今日も満員です~  作者: やまご


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第3話 客席が三つしかない一座

「客席が三つというのは、本当に三つなのですね」


「四つに見える角度があるなら、ぜひ教えてください」


 ノアが真顔で答えた。


 古い舞台馬車の側面には、背もたれの高い椅子、丸椅子、肘掛けの片方がない椅子が一脚ずつくくりつけられている。しかも丸椅子は脚の長さがそろっておらず、馬車が揺れるたびに小刻みに震えていた。


「あの丸椅子を客に使わせるつもりですか」


「昨日までは、そのつもりでした」


「今日からは?」


「あなたの顔を見て、考え直しています」


 判断だけは早いらしい。


 ノアが御者台へ乗り、リヴィアはその隣へ木箱を置いた。痩せた栗毛の馬がゆっくり歩きだす。


 馬車は王都の東門を抜け、旅芸人や行商人が滞在する野営地へ向かった。城壁の外を流れる細い川沿いに、色とりどりの天幕が並んでいる。


 その一番奥に、〈青い天幕〉はあった。


「青い、というより灰色ですね」


「雨に洗われて、慎み深い色になりました」


「天井に穴があります」


「星を見ながら眠れます」


「雨の日は?」


「雨も見られます」


 色あせた天幕には、大小五つの穴が開いていた。布の端はほつれ、中央を支える柱はわずかに傾いている。入口に掲げられた〈青い天幕〉の看板だけは立派だったが、文字の上を斜めに亀裂が走っていた。


 リヴィアは木箱を下ろすと、天幕へ入る前に外周を一周した。


「何をしているのですか」


「綱と杭の確認です。北側の二本が緩んでいます。風が吹けば、先にこちらが浮きます」


 しゃがんで綱をつまむ。麻はけば立ち、一部が細くなっていた。


「この綱は交換を。柱の根元も腐りかけています。舞台馬車の車輪止めはありますか」


「荷台の下に」


「先に入れてください。床を開いたとき、傾斜で馬車が動きます」


 ノアは言われたとおり、木製の車輪止めを取り出した。


「まだ入団していないのに、ずいぶん働きますね」


「入団するか決めるために見ています」


「見れば見るほど、断る理由が増えませんか」


「今のところは」


 ノアの肩が落ちた。


 舞台馬車は、側板を左右へ開くと小さな舞台になる造りだった。床板には無数の傷があったが、踏んでも大きな軋みはない。古いなりに、要所は手入れされている。


「床は悪くありませんね」


「前の座長が、客席より舞台を大事にする人でした」


「だから客席が三脚に?」


「それは私が売りました」


 悪びれもせず言われ、リヴィアは舞台から振り返った。


「四十脚あった椅子を?」


「三十七脚売りました。去年の冬に前座長が亡くなり、残った役者へ給金を払う必要がありましたから」


 冗談を言っている顔ではなかった。


「給金の未払いは?」


「ありません。全員に最後の一月分まで払いました」


「その結果、一座に残ったのは」


「私と、あの馬と、椅子が三脚です」


「馬は役者に数えません」


「では、私と椅子が三脚です」


「ノアさんは、人前で演じられるのですか」


 問いかけた途端、ノアの視線が外れた。


「……台詞は書けます」


「尋ねたのは、演じられるかどうかです」


「客席を前にすると、声が出なくなることがあります」


 昨日、大通りの歓声を避けた姿を思い出す。


 無口なのではない。話そうとしても、話せなくなるのだ。


 リヴィアはそれ以上、理由を尋ねなかった。


「つまり、現在舞台に立てる役者は一人もいない」


「昨日までは」


「私を数えないでください」


「努力します」


 まったく努力する顔ではなかった。


 舞台の奥には、薄い仕切りを挟んで衣装棚があった。残っているのは、茶色い外套、裏返せば赤くなる胴着、年老いた男のかつら、白と黒の半仮面。役者五人分どころか、一人分としても心細い。


 小道具箱には木の杯が二つ、欠けた王冠、造花が一輪。王冠は近くで見ると金色の塗料が剥げ、下の木目が出ている。


「帳簿を見せてください」


 リヴィアが言うと、ノアは舞台下から分厚い革表紙の帳面を取り出した。


 記録は意外なほど細かかった。


 椅子を売った金額。役者へ支払った給金。馬の飼料代、野営地代、天幕の補修布、橋の通行料。日付も領収印もそろっている。


 ただし、一番下に記された残高は、銀貨二枚と銅貨十八枚。


「借金は?」


「車輪の修理代が銀貨二十四枚。馬屋へ十二枚。印刷所へ七枚」


「合計四十三枚ですね」


「計算が速い」


「褒めるところではありません。手持ちの二十倍以上です」


「だから潰れかけと申し上げました」


「これは、ほとんど潰れています」


「まだ天幕は立っています」


 リヴィアは頭痛をこらえるように、こめかみを押さえた。


 虚偽の記載は見当たらない。ノアは金を持ち逃げしたわけでも、役者をただ働きさせたわけでもなかった。


 ただ、客を集めて金を稼ぐ才能が、恐ろしいほど欠けている。


「印刷所への借金は、何を刷ったのですか」


 リヴィアの問いに、ノアが衣装棚の裏から紙束を出した。


 そこには大きく、『帰り道の椅子』と印刷されていた。


 昨夜渡された台本の題名だ。


 紙の下半分には、以前所属していたらしい五人の役者の名が並んでいる。公演日だけが空欄のまま、ポスターは百枚近く残っていた。


「役者が辞める前に刷ったのですか」


「辞めると知る前に、です」


「百枚も?」


「町中へ貼るつもりでした」


「許可なく貼れば罰金です」


「それは知りませんでした」


「知ってください、座長」


 思わず強く言うと、ノアは素直に頭を下げた。


「脚本を書けても、客に届ける方法を私は知りません。だから、あなたに来てほしかった」


「私は宣伝係ではありません」


「舞台を最後まで成立させる人です」


 ノアは、青い台本をリヴィアへ差し出した。


「読んで、上演できないところを教えてください」


 リヴィアは受け取らなかった。


「この脚本には五人の登場人物がいます。私一人に、五人の代役をさせるおつもりですか」


 また、誰かの代わりになる。


 そのために王立劇場を辞めたのではない。


「違います」


 ノアは、ためらわずに答えた。


「五人とも、あなたに演じてほしいのです」


「同じことでは?」


「代役なら、配役表には元の役者の名前が残る。私が書きたいのは、五つの役の横に、リヴィア・フェンと記された配役表です」


 リヴィアは言葉を失った。


「〈空白〉なら、短い場面ごとに役を変えられる。そう考えました。ただし、あなたが嫌なら一人芝居にはしません」


 ノアは台本を舞台中央へ置き、数歩下がった。


「決めるのは、あなたです」


 誰かに決めるよう促された経験ならある。


 だが、自分の望みを問われた記憶は、ほとんどなかった。


 リヴィアは青い台本を拾い、舞台の端へ腰を下ろした。


 物語の主人公は、町外れで古い椅子を直す女だ。住民が次々と町を離れても、彼女は毎日一脚だけ、店の外へ椅子を置く。


 ――座って待つ者は、何もしていないように見える。でも、帰る場所をなくさないのも仕事です。


 昨夜、その一行を読んだとき、先へ進む指が止まった。


 華やかな英雄も、美しい姫君も登場しない。帰ってくるか分からない誰かのために、空席を守り続ける女がいるだけだ。


「この台詞は、好きです」


「昨夜もそう言ってくれました」


「ですが、五役を着替えで見せるのは無理です。役が変わるたびに幕を下ろせば、物語が切れます」


「では、どうします?」


 リヴィアは白と黒の半仮面を手に取った。


「着替えません。外套と仮面だけを客の前で替えます。別人に見せるのではなく、一人の役者が役を渡り歩くところまで芝居にする」


 ノアの灰色の目に、初めて強い光が差した。


「台本にない役が必要になりますね。物語を語りながら、登場人物にもなる役が」


「既存の役紋にはありません」


「あなたの役紋は空白です」


 左手首が、かすかに疼いた気がした。


 リヴィアは袖の上からそこを押さえる。


「できる保証はありません」


「失敗する保証もありません」


「座長としては、ずいぶん無責任な言葉ですね」


「脚本家としては、続きを書きたくなる言葉です」


 破れた天幕から差し込む細い陽光が、舞台の傷を照らしていた。


 王立劇場の床より狭く、傾きもある。客席は三脚。役者は一人もいない。借金は銀貨四十三枚。


 条件だけを見れば、断るべきだった。


 それでも、この何もない舞台には、まだ誰の名前も置かれていない。


「一公演だけです」


 リヴィアは言った。


「最初の公演が終わるまでは、仮契約とします。帳簿はいつでも見せること。売上から必要経費を引き、残りは折半。安全に関する判断は私が止められるようにしてください」


「分かりました」


「それから、最後の椅子三脚は、私に相談せず売らないこと」


「最も厳しい条件ですね」


「もう一つあります」


 リヴィアは、役者の名が残った古いポスターを裏返した。


「次に刷るものには、出演者の名前を必ず載せてください。代役でも、端役でもです」


 ノアは笑わなかった。


「もちろんです」


 彼は新しい紙を一枚取り出し、中央に大きく一行を書いた。


 主演――リヴィア・フェン。


「明日、これを印刷所へ持っていきます」


 リヴィアは、自分の名前から目を離せなかった。


 三脚しかない客席が、昨日までいた千席の劇場よりも、少しだけ広く見えた。

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