第2話 辞表は一行で足りた
「旅一座、ですか」
リヴィアは、ノアが抱えた青い台本を見た。
「はい。もっと正確に言えば、潰れかけの旅一座です」
「勧誘の最初に伝える言葉ではありませんね」
「後から知られるよりは、嫌われるのが少し早く済みます」
乾いた答えに、リヴィアはわずかに目を瞬いた。
華やかな王立劇場の裏手で、ノアの外套はひどくくたびれて見えた。袖口には繕った跡があり、革靴には長い旅の泥が残っている。
少なくとも、裕福な一座の座長ではなさそうだ。
「なぜ私を?」
「今夜の芝居を見たからです」
「一度見ただけで役者を決めるのですか」
「一度ではありません。春の『翡翠の王子』で、二幕だけ王子を代演した。先月の『冬薔薇の館』では、腰を痛めた老女役の代わりに出た」
どちらも銀の仮面をつけていた。
「どうして同じ人間だと?」
「主役を演じながら、共演者の足元を見ている人は多くありません。立ち位置を間違えた若手がいると、あなたは自分の見せ場を半歩ずらす」
ノアは青い台本の角を指で押さえた。
「芝居を一人で完成させようとしない役者を、探していました」
それは、王立劇場では一度も評価されたことのない部分だった。
リヴィアはすぐに返事をせず、夜の劇場を振り返った。明かりのついた窓の向こうでは、まだ後片づけが続いている。十二年間、最後の一灯を消してきたのは自分だった。
「私はまだ、正式には辞めていません。辞表を渡しただけです」
「ベルモンド支配人なら、明日の朝には破って返すでしょう」
「よくご存じですね」
「以前、私の脚本も破られました」
ノアは淡々と言ったが、台本を持つ指に少しだけ力が入った。
「ですから、今夜返事をいただくつもりはありません。これを読んでください」
差し出された青い台本を、リヴィアは受け取った。
「明日の正午、ここで待っています。来なければ、縁がなかったと思います」
「潰れかけというのは、どの程度ですか」
「それも明日、嘘をつかずにお見せします」
そこは今夜説明しないらしい。
ノアは一礼すると、劇場前の人波を避けるように歩きだした。だが、大通りから歓声が上がった途端、その足が止まった。肩がわずかに強張り、人の少ない路地へ回り込んでいく。
人混みが苦手なのだろうか。
リヴィアはその背を見送り、青い台本を胸に抱えた。
翌朝。
リヴィアが王立劇場の事務室へ入ると、辞表は予想どおり机の上へ投げ出されていた。
「認められん」
ベルモンドは椅子に深く腰かけ、腕を組んでいた。
夜会服から仕事着へ戻ってはいるが、ほとんど眠っていないらしい。目の下に濃い影がある。机の脇には、今朝の新聞が何紙も積まれていた。
どの一面にも、銀の花びらを浴びる仮面の姫が描かれている。見出しはすべて、セリア・ローネの復活を称えるものだった。
「理由欄が空白だ」
「必要であれば、今から書きます」
リヴィアはペンを取り、辞表を引き寄せた。
退職理由――当劇場に、私の名前を置く場所がないため。
書いたのは、その一行だけだった。
「これでよろしいですか」
「子どもの意地ではないんだぞ」
「三か月前から用意していた辞表です」
ベルモンドの目が細くなった。
「ならば、なおさらだ。なぜ相談しなかった」
「相談すれば、名前を残していただけましたか」
「お前には名前より確かな職がある。王立劇場で十二年も雇われた〈空白〉が、ほかにいると思うか?」
彼は本気で、好条件を示しているつもりなのだろう。
毎月決まった給金が出る。雨風をしのげる職場がある。役紋に型がないリヴィアを雇う劇場など、王都にはほかにない。
昨日までの彼女なら、その事実を何度も自分に言い聞かせたはずだ。
「感謝しています。だからこそ、引き継ぎも残します」
リヴィアは鞄から六枚の紙を取り出した。
「今月の代役候補と稽古状況です。赤印は台詞が入っていない役、青印は衣装直しが必要な役。大道具の修理は西袖の床板、月の滑車、第二倉庫の雨漏りの順で。衣装台帳と小道具台帳の数が合わない箇所も記しました」
ベルモンドは一枚目をめくり、二枚目で手を止めた。
「これを誰が管理する」
「新しい舞台監督補佐へお渡しください」
「お前と同じ仕事ができる者を、今日明日で用意できるわけがない」
「昨日は、私の代わりなら探せばいると」
「舞台上の話だ」
「私の仕事は、舞台上と舞台裏で分けられません」
ベルモンドは黙り込んだ。
それでも謝罪はなかった。代わりに、机の上で指を組み直す。
「ここを辞めれば、王立劇場の推薦状は出ない。出演記録のない二十九歳の〈空白〉を、まともな劇場が雇うと思うか?」
「思いません」
「なら――」
「それでも辞めます。ここにあと十二年いても、出演記録は空白のままですから」
声を荒らげる必要はなかった。
ベルモンドはようやく、目の前にいるのが昨夜だけ腹を立てた代役ではないと理解したらしい。新聞を一部つかみ、仮面の姫を見下ろした。
「後悔するぞ」
「するかもしれません」
リヴィアは正直に答えた。
「ですが、それも私が選んだ後悔です」
事務室を出ると、廊下に舞台監督補佐の少年が立っていた。昨夜、指示を運んでくれた子だ。
「リヴィアさん。本当に辞めるんですか」
「ええ」
「今日の読み合わせ、改訂台本が三冊足りなくて……いつも、どこから出していました?」
泣きそうな顔をしている。
リヴィアは足を止めた。
「第三書庫の一番下に予備があります。持ち出したら貸出台帳に役名を書いて。人の名前だけだと、配役変更のときに分からなくなるから」
「はい」
「それから、分からないことを一人で抱えないで。開幕してから困るより、稽古を止めるほうがずっとましです」
少年は何度もうなずいた。
「僕、ちゃんとできますか」
「最初から全部できる人はいません。昨日の指示は、全部正しく伝わっていました」
少しだけ表情を明るくした少年に別れを告げ、リヴィアは自分の荷物棚へ向かった。
荷物は、小さな木箱一つに収まった。
使い慣れた裁縫道具。書き込みだらけの個人用台本。喉を守るための水筒。十二年働いた場所にしては、驚くほど少ない。
箱を抱えたところで、楽屋の扉が開いた。
「リヴィア」
セリアが立っていた。
顔色はまだ白く、厚い部屋着の上から肩掛けを羽織っている。付き添おうとする衣装係を制し、一人で廊下へ出てきた。
「寝ていなくて大丈夫なのですか」
「医師にも同じことを言われたわ。少しだけ話したいの」
二人は誰もいない第一楽屋へ入った。
鏡の前には昨夜の化粧道具が残り、その中央に銀の仮面が置かれている。
「公演を救ってくれて、ありがとう」
セリアは仮面を見たまま言った。
「仕事をしただけです」
「老王役から聞いたわ。月が降りなかったことも、あなたが変えた最後の台詞も」
指先が肩掛けの房を強くつまむ。
「目を覚ましたとき、公演が成功したと聞いて安心した。次に、あなたが私より称賛されたらどうしようと思った」
リヴィアは黙って、その告白を聞いた。
「新聞にあなたの名を載せるよう、私は言えたはずよ。でも言わなかった。看板を奪われるのが怖かったから」
「セリア様が名前を守りたいと思うことを、責めるつもりはありません」
「なら、許してくれる?」
「それと、私の名前が消されてよいことは別です」
セリアが唇を結んだ。
二人は友人ではなかった。敵でもなかった。同じ舞台に必要とされながら、片方の名を輝かせるために、もう片方の名を消す仕組みの中で働いてきた。
「ベルモンド支配人から聞いたわ。辞めるのね」
「はい」
「私には、残ってほしいと言う資格はないわね」
「資格の問題ではありません。私が行くと決めました」
セリアはしばらく目を伏せていたが、やがて銀の仮面を手に取った。
「昨夜のこれは、あなたの仮面だった」
「劇場の備品です」
「そういうところ、本当に変わらないのね」
寂しそうに笑い、仮面を元の位置へ戻す。
「さようなら、リヴィア。次に舞台へ立つときは、あなたの名が呼ばれるといい」
「ありがとうございます。セリア様も、どうかご自分の身体を守ってください」
これが正しい別れだったのかは、分からない。
それでも、借り物の台詞ではなかった。
正午前、リヴィアは木箱を抱えて勝手口を出た。
ノアは昨日と同じ壁際で待っていた。人通りが増えるたびに落ち着かない様子で場所をずらしていたが、リヴィアを見ると背筋を伸ばした。
「辞められましたか」
「辞めました」
「台本は?」
「読みました。登場人物が五人必要なのに、三幕目で同じ役者を同時に左右の袖から出す指定があります。場面転換も多すぎます。あれでは大道具を積む馬車が二台要ります」
ノアは何度か口を開閉した。
「最初の感想が、それですか」
「台詞は好きです」
「先にそちらを聞きたかった」
「上演できなければ、台詞は観客に届きません」
数秒の沈黙のあと、ノアが吹き出した。
「やはり、あなたを誘ってよかった」
「まだ入るとは言っていません。一座の状態を見せてください。給金、借金、役者の人数、次の公演予定も確認します」
「……見たあとで、帰りたくなるかもしれません」
「見ないまま決めるよりはましです」
ノアは観念したようにうなずき、大通りの向こうを指した。
車輪を軋ませながら、一台の古い舞台馬車が曲がってくる。御者台の上には色あせた青い天幕。側面には、種類の違う木の椅子が三脚だけ、縄でくくりつけられていた。
「先に、一つだけお伝えしておきます」
「何でしょう」
「うちの客席は、あれで全部です」
リヴィアは、三脚の椅子を見つめた。
潰れかけという言葉は、どうやら比喩ではなかった。




