第10話 初めて呼ばれた名前
「今日もこの町は、三十二人の名前を数えています」
最後の台詞が、夕暮れの広場へ消えていく。
拍手は、すぐには起きなかった。
町の人々が支える破れた青い布だけが、風に鳴っている。
リヴィアは六脚の椅子の前に立ち、沈黙を受け止めた。
届かなかったのだろうか。
悲しみを借りただけの芝居になってしまったのだろうか。
不安が胸をよぎったとき、前列でエッダが立ち上がった。
彼女は拍手をしなかった。
代わりに、リヴィアの顔をまっすぐ見て言った。
「リヴィア」
小さな声だった。
けれど、千人の歓声より、はっきり聞こえた。
「リヴィア・フェン!」
伝言を運んだ若い石工が続く。
そこで初めて、拍手が起きた。
綱職人が両腕を二度叩く。坑道で使った合図と同じ音に、鍛冶屋が手を打ち、食堂の女が続いた。
「リヴィア!」
「よかったぞ、空白の役者!」
「もう空白じゃないだろう!」
名前が、客席のあちこちから届く。
セリアの名ではない。
役の名でもない。
リヴィア自身の名だった。
王立劇場で銀の花びらを浴びた夜、観客の顔はまぶしい照明の向こうに見えなかった。今は、一人ひとりの顔が見える。
エッダがいる。
ゴードがいる。
言葉を預けてくれた石工たちがいる。
白い粉にまみれた手が、彼女のために打ち合わされている。
リヴィアは礼をしようとした。
けれど、身体が動かなかった。
左手首の空白が熱い。
役紋には、相変わらず何も浮かんでいない。それでも、誰かの型を一晩だけ借りたときとは違う熱が、円の内側に残っていた。
「リヴィアさん」
隣からノアの声がした。
「今は、礼をしてもよい場面です」
リヴィアはようやく息を吸った。
「……はい」
客席へ向かい、深く頭を下げる。
仮面はない。
誰かの代わりでもない。
顔を上げても、拍手は続いていた。
「脚本家も出てこい!」
客席から声が飛ぶ。
ノアの肩が大きく揺れた。
幕も袖もないため、すでに全身を見られている。それでも大勢の視線を受けた途端、足が舞台板へ縫いつけられたように動かない。
リヴィアは彼を呼ばず、客席へ向き直った。
「この物語を書いたのは、ノア・ヴァイスです。けれど、私たち二人だけの芝居ではありません」
六脚の椅子を示す。
「言葉を預けてくださった皆さん。天幕を支えてくださった皆さん。最後まで客席へ戻ってくださった皆さんと作った舞台です」
「なら、全員で礼をすればいい」
ゴードが言った。
裂けた青い布を持っていた石工たちが、その場で前を向く。ゴードは黒い石板を抱え、食堂の女は椀を持ったまま並んだ。
エッダだけは客席から動かなかった。
「あたしは切符を買った客だよ。そっちへは行かない」
「では、そこから見ていてください」
リヴィアは答えた。
ノアはまだ一歩を踏み出せずにいた。
リヴィアは手を差し出さなかった。
引かれて立つのではなく、彼自身が選ぶまで待った。
やがてノアは、胸元で台本を強く抱え、一歩だけ前へ出た。
言葉は出なかった。
それでもリヴィアの隣へ立ち、客席へ頭を下げた。
「ノア!」
誰かが名を呼ぶ。
ノアは顔を上げられないまま、もう一度だけ礼をした。
その隣で、リヴィアも町の人々も頭を下げる。
舞台と客席の境目がなくなった広場で、全員の名を含んだ拍手が続いた。
拍手が収まると、ゴードは興行監督官の顔へ戻った。
「公演終了時の有料客、六十八名。中断後の再開時も、六十八名全員を確認した」
誰一人、帰らなかった。
「規定人数六十名を満たし、公演は最後まで成立。旅一座〈青い天幕〉へ、満員印を交付する」
ゴードが革鞄から、青い巡業札と金属製の印型を取り出した。
七つの円の、一番左。
そこへ白い石粉を練った顔料を塗り、印型を当てる。
石を打つときのように、小さな槌を一度振り下ろした。
硬い音が響く。
印型を外すと、空だった円の中に、交差する二本のつるはしが刻まれていた。
一つ目の満員印。
「おめでとう」
ゴードが巡業札を差し出した。
「ありがとうございます」
リヴィアは両手で受け取った。
札そのものの重さは変わっていないはずなのに、昨日より確かに重く感じる。
「残り六つ。期限まで七十九日だ」
「分かっています」
「次の町でも天幕を壊すつもりなら、予備の柱を持っていけ」
「壊す予定はありません」
「予定して壊す一座はいない」
その言葉には、初めてわずかな笑みが混じっていた。
ゴードが去ると、エッダが杖をついて近づいてきた。
「最後の椅子を、拭かなかったね」
「約束しましたから」
「約束を守った芝居なら、それでいい」
よかったとも、許したとも言わない。だが、最初の公演を見終えたときより、エッダの顔は穏やかだった。
「一つ、聞いてもよいですか」
「何だい」
「どうして、最初に私の名前を呼んでくださったのですか」
エッダは、妙なことを聞くというように眉を上げた。
「舞台へ出たとき、自分から名乗っただろう。あんたが渡した名前を、客席から返しただけさ」
名前は、誰かから奪うものでも、隠して守るものでもない。
呼び、返してもらうものなのかもしれなかった。
「次の町でも、最初に名乗りな」
「はい」
公演後、リヴィアとノアは共同食堂の隅を借り、切符箱の中身を数えた。
売れた切符は六十八枚。
そこから荷積み広場の使用料二割と、最初の公演で未払いだった分を差し引く。次に、食堂から借りた椀と、組合から借りた長椅子が壊れていないことを確認した。
「残りで天幕布と柱を買えば、馬の飼料は四日分です」
リヴィアが帳簿へ記す。
「借金の返済までは届きませんね」
「満員でも、裕福にはならないのですね」
「客席が六十八人ですから。千席の劇場と同じ計算をしないでください」
「次は六百八十人を目指しますか」
「天幕を十倍にする金がありません」
利益は小さい。
それでも、王都を出たときにはなかった旅費が生まれた。次の町へ進める。
何より、切符を買った人が何を見て、なぜ拍手したのかを二人とも知っている。
金額だけでは帳簿に残せない成果だった。
翌朝、荷積み広場へ行くと、すでに何人もの石工が集まっていた。
折れた中央柱は運び出され、代わりにまっすぐな木材が置かれている。裂けた天幕は地面へ広げられ、綱職人と食堂の女たちが太い針で布を縫い合わせていた。
「これは?」
「組合で使わなくなった荷覆いだ」
ゴードが新しい青灰色の布を指す。
「広場の使用料から材料代を引いた。余りは帳簿へ書いてある。施しではない」
差し出された明細には、布、柱、釘、作業時間まで細かく記されていた。
「助かります」
「次に来る一座まで、また石を投げられても困るからな」
石工たちは笑った。
昼までに、新しい柱が舞台馬車へ固定された。天幕の大きな裂け目には青灰色の布が縫いつけられ、以前より大きな継ぎはぎができた。
丸椅子の短かった脚も、誰かが新しい木を足していた。
「これなら、客に勧めても?」
ノアが座ろうとすると、リヴィアは先に椅子を揺らした。
「もう少し乾くまで待ってください」
「信用がありませんね」
「椅子ではなく、座長にありません」
午後、出発の準備が整った。
エッダは見送りに来なかった。
代わりに、食堂の女から包みを渡された。中には固いパンと干し肉、それから白い石粉のついた一枚の切符が入っている。
裏には、エッダの字で短く書かれていた。
――次の町でも、ちゃんと名乗りな。
リヴィアは切符を、自分の名が刷られたポスターと一緒に鞄へしまった。
舞台馬車が町を出ると、門番たちが手を上げた。
入ってきたときの嘲笑はない。
「次はどこですか」
御者台でリヴィアが地図を広げる。
「北東の谷にある、風の町フィオラです。三日ほど」
「公演場所と規定人数は?」
「到着後に確認します。それから、先に伝えるべき悪い話が一つ」
リヴィアは地図から顔を上げた。
「今度は出発前ですね。どうぞ」
「フィオラでは、大きな声を出す芝居が禁じられています」
「……芝居なのに?」
ノアがうなずく。
「声を出すと、風が答える町だそうです」
青灰色の継ぎを当てた天幕を載せ、〈青い天幕〉は次の町へ進んだ。
巡業札には、一つの白い印。
リヴィアの耳には、初めて自分の名を呼んだ声が、まだ残っていた。




