第11話 風の町では声を出せない
風の町フィオラでは、門番が声を出さなかった。
谷の入口にある詰所で、男はリヴィアたちの巡業札を確かめると、二本の指を立てた。次に町の奥を指し、手のひらを下へ向けて何度か動かす。
「二人で、静かに入れという意味でしょうか」
リヴィアが尋ねた瞬間、谷の奥で風が渦を巻いた。
声は普段より少し大きかっただけだ。
それでも突風が門を抜け、舞台馬車に結んだポスターを激しく鳴らした。御者台の帽子が飛び、ノアが慌てて追いかける。
門番は眉間を押さえた。
「すみません」
今度は意識して声を落とす。
門番はうなずき、詰所の壁を指した。
木の板に、赤い文字で注意書きがある。
――谷内では、大声、怒鳴り声、呼び売りを禁ずる。
その下には、屋根を吹き飛ばす風の絵が描かれていた。
「文字より先に、絵を見るべきでしたね」
帽子を拾って戻ったノアが小声で言う。
「悪い話は聞いていましたが、ここまでとは思いませんでした」
「私もです。以前読んだ旅の記録には、『声に風が答える』とだけ」
「次からは、答え方まで調べてください」
二人は声を抑え、馬車を町へ進めた。
フィオラは、二つの高い岩壁に挟まれた細長い町だった。
崖には淡い緑色の結晶が筋のように走り、陽を受けて光っている。風響晶と呼ばれる石で、人の声に含まれる魔力へ反応し、谷を抜ける空気を動かすという。
普通の会話なら、頬を撫でる風が起きる程度だ。
だが、感情を込めて遠くまで響かせる声ほど、風も強くなる。
舞台役者の発声とは、最も相性が悪かった。
町の人々は皆、静かに話した。
離れた相手を呼ぶときは、家ごとに音の違う小さな鐘を鳴らす。市場の値段は色板で示し、荷車を動かす合図には旗を使う。
通りでは靴音や車輪の音がよく聞こえ、不思議なほど落ち着いていた。
「この町なら、私も人前で話せるかもしれません」
ノアが言う。
「大勢に聞こえる声を求められませんから?」
「誰にも聞こえない言い訳として、風が使えます」
「それは話せるとは言いません」
それでも、採石組合の会館でほとんど声を出せなかったときより、ノアの表情は柔らかい。
二人は町の中央にある風守所へ向かった。
巡業札を扱う役所の中には、厚い布が何枚も垂らされている。声が外へ響かないためのものらしい。
興行担当の女性はミナと名乗った。
「一つ目の満員印を、グラーデンで?」
彼女は交差するつるはしの印を確かめた。
「はい。次の公演許可をお願いします」
「演目は」
「一人芝居です」
「台詞は?」
「あります」
ミナは気の毒そうに首を横へ振った。
「声を張る芝居は許可できません。過去には一幕目で屋台が三軒倒れ、楽屋の屋根が谷の外まで飛んだことがあります」
「会話程度の声なら?」
「認められます。ただし、公演広場の最後列まで届かないでしょう」
リヴィアは公演条件を一つずつ確認した。
指定会場は、町北側の風除け広場。
規定人数は八十人。
楽器、踊り、曲芸、操り人形は許可される。大声を使わない限り、芝居の形式に決まりはない。
「無言劇でも、満員印の対象になりますか」
「観客から切符代を受け取り、一つの演目として最後まで成立すれば」
「では、会場を見せてください」
風除け広場は、町の北端にあった。
三方を低い石壁で囲まれ、谷の風を逃がすため、客席が扇形に広がっている。前列から最後列まで、およそ三十歩。
王立劇場よりは狭い。
しかし、話し声を最後列へ届けるには遠すぎた。
「試してもよいですか」
リヴィアはミナの許可を得て、舞台中央に立った。
最後列にはノアが座る。
まず、普段の会話と同じ声で台詞を言った。
「この町には、座る人のいない椅子が一脚ありました」
ノアが耳へ手を当てる。
「最初しか聞こえません」
もう少し息を乗せる。
「この町には、座る人のいない――」
風響晶が淡く光った。
広場を横切った風が、舞台上の半仮面を床へ落とす。
「それ以上は駄目です」
ミナが手を上げた。
「今の倍の声なら、石壁の外にある露店まで被害が出ます」
リヴィアは仮面を拾った。
役者として身につけた呼吸も、最後列へ言葉を運ぶ技術も、この町では危険になる。
「天幕を閉じて、音を外へ出さなければ?」
ノアが尋ねる。
「声は布より先に風響晶へ届きます。閉じれば、起きた風が天幕の中で逃げ場を失います」
グラーデンで直したばかりの天幕を、また壊すわけにはいかない。
ミナは舞台脇の掲示板を示した。
「この町の公演は、踊りや楽器が中心です。話を伝えたいなら、大きな絵札を使う一座もあります」
「絵札……」
ノアが台本へ書き留める。
二人は仮の会場使用届だけを出し、広場を借りた。
公演日は未定。
まず、声のない芝居を作らなければならない。
午後、舞台馬車を広場へ入れ、試しに『帰り道の椅子』の一場面を無言で演じた。
リヴィアは椅子を直す女になる。
壊れた脚を調べ、道具を使い、直した椅子を店の前へ置く。
次に旅人の仮面をつけ、町を出ていく。
台詞がないぶん、歩幅と身振りを大きくした。
「どう見えましたか」
稽古を見ていたノアへ、小声で尋ねる。
「椅子に呪いをかけた女が、仮面をつけて逃亡しました」
「まったく違います」
「途中まで、椅子と戦っているようにも」
「直していたのです」
「金槌を振り上げすぎました」
王立劇場では、台詞を支えるための細かな演技を身につけてきた。
身体だけで筋を伝えようとすると、動きが大きすぎる。抑えれば、何をしているのか分からない。
「もう一度やります」
二度目は、椅子を丁寧に調べる時間を長くした。
「病気の椅子を診察しています」
三度目は、旅人が町を去る方向をはっきり示した。
「椅子を置き去りにして、借金から逃げました」
「あなたは、わざと間違えていませんか」
「いえ。意味が分からないと、人は知っている筋へ当てはめます。呪いか、病気か、借金か」
ノアは台本の台詞を見下ろした。
「私の書いた言葉が、一つも役に立ちませんね」
「言葉を別の形へ変えればよいのです」
「大きな絵札を八十人へ見せるには、描き手と紙が要ります」
「紙を買う金はありません」
二人は同時に黙った。
グラーデンの売上は、天幕の材料と旅費に消えた。手元にあるのは、再利用する予定の古いポスターだけだ。
裏へ台詞を書いて掲げることはできる。
だが、一人で演じながら何十枚もめくるのは不可能だった。
ノアが札を持てば、鈴や小道具を動かす者がいなくなる。
「人手が足りません」
「金も足りません」
「声も使えません」
「椅子は三脚あります」
「今は慰めになりません」
夕方まで試したが、無言の『帰り道の椅子』は最後まで伝わる形にならなかった。
リヴィアは舞台端へ腰かけ、水筒を飲んだ。
風除け広場の外では、店じまいを始める人々が色板を片づけている。声を張らなくても、誰もが迷わず動いていた。
この町には、声以外の伝え方がすでにある。
自分たちが知らないだけだ。
「今日の稽古を見ていた人がいました」
ノアが、客席の一番後ろを指した。
灰色の作業着を着た少女が、膝に何枚もの小さな板を載せて座っている。
年は十四歳ほど。黒い髪を耳の下で切りそろえ、指先を青い絵の具で汚していた。
少女はリヴィアたちの視線に気づくと、一枚の板を掲げた。
そこには、椅子の脚を直す女が描かれている。
次の板には、町を去る旅人。
三枚目には、空の椅子を守る女と、遠くへ延びる道。
リヴィアが三度演じても伝わらなかった場面が、三枚の絵だけで分かった。
「あの絵を描いたのですか」
リヴィアは声を抑えながら、少女へ呼びかけた。
返事はない。
少女は絵を片づけ、広場の出口へ歩き始める。
「待ってください」
もう一度呼んでも、振り返らなかった。
近くで市場の色板を片づけていた女性が、リヴィアの肩を軽く叩いた。
「声では届かないよ」
彼女は手の指を動かし、少女へ何かを伝えた。
少女が足を止め、こちらを見る。
「あの子はトワ。看板絵師の娘だ」
女性は小さな声で告げた。
「耳が聞こえないんだよ」
トワは三枚の絵を抱えたまま、リヴィアを静かに見つめていた。




