第12話 絵で話す少女トワ
リヴィアはトワの正面へ回り、視界に入ってから足を止めた。
声をかけても届かない。
だからといって、いきなり腕や肩へ触れるべきではないだろう。
どう伝えればよいか迷っていると、トワが自分の耳を指した。次に首を横へ振り、胸元を指す。
それから指先で空中へ文字を書く仕草をした。
「書けばよいのですね」
リヴィアは口の動きが見えるようゆっくり言い、鞄から稽古帳と鉛筆を出した。
――あなたの絵について、話を聞いてもよいですか。
帳面を渡すと、トワは文章を読み、鉛筆を受け取った。
――仕事ですか。
丸みの少ない、はっきりした字だった。
――そうです。私たちの芝居を、声がなくても分かる形にしたいのです。
トワは少し考え、もう一行書く。
――お金は出ますか。
リヴィアはノアを見た。
「正直に書くしかありませんね」
「悲しいほどに」
――今すぐ払えるお金は、ほとんどありません。公演の売上から報酬を払う契約なら相談できます。
トワは眉を寄せたあと、紙の隅へ銅貨袋を描いた。その袋を八つに区切り、一つを指で叩く。
「売上の八分の一でしょうか」
少女はうなずいた。
「交渉が早いですね」
「私より商売に向いています」
ノアが小声で言った。
リヴィアは帳面へ、必要経費を引いた残りの八分の一、と書き加えた。
トワは少し不満そうだったが、丸をつけた。
次に、リヴィアの仮ポスターを指す。主演の横にある名前を確かめ、自分の胸元を指した。
――私の名前も載せますか。
今度は、リヴィアが迷わず答えた。
――載せます。あなたが望む名前と役割で。
トワの表情が初めて少し緩んだ。
だが、すぐに広場の外を指し、両手で屋根の形を作る。看板絵師の店へ来いという意味らしい。
先ほど手話を使っていた市場の女性が、二人へ教えてくれた。
「母親の許可が要る。店は南通りの、鳥の看板があるところだよ」
トワは絵札を抱え、先に歩き始めた。
南通りの看板工房には、文字より絵が多かった。
パン屋には麦の穂。
靴屋には赤い長靴。
薬屋には白い葉をくわえた鳥。
声を張って客を呼べないフィオラでは、絵看板そのものが店の言葉になる。
工房の主人は、サナという三十代後半の女性だった。トワと同じ黒髪を頭の後ろで束ね、細い筆で木板へ色を重ねている。
トワが両手を動かすと、サナも手話で返した。
動きは速く、リヴィアには一つも意味が分からない。
「旅一座の方ですね」
サナは手を止め、声を抑えて尋ねた。
「はい。娘さんに、舞台で使う絵をお願いしたいと考えています」
「考えているのは、あなたですか。トワですか」
問われ、リヴィアはトワを見た。
先に母親へ説明しようとしていた自分に気づく。
リヴィアは稽古帳をトワへ向けた。
――私たちの芝居を手伝いたいですか。
トワは鉛筆を走らせる。
――手伝う、ではありません。一緒に作りたいです。
リヴィアは文を読み直した。
「失礼しました。一緒に作っていただきたいです」
トワが大きくうなずく。
サナの表情は、まだ硬いままだった。
「旅の一座は、数日で町を出ます」
「今回お願いするのは、この町での一公演です」
「舞台へ立たせるつもりですか」
「絵札を作っていただくつもりでした。ただ、どう見せるかはトワさんの希望を聞きます」
「耳の聞こえない少女が、声の使えない町を救った。そんな売り文句にするつもりでは?」
「しません」
リヴィアは即答した。
「私たちが必要としているのは、トワさんの絵と、声を使わず物語を伝える技術です。聞こえないことを見世物にはしません」
サナは娘を守ろうとしている。
旅一座を疑うのは、当然だった。
「以前、町へ来た見世物商が、トワを『風の声を目で聞く少女』として舞台へ出そうとしました。絵を描かせるという約束だったのに」
トワが母の腕へ軽く触れ、手話で何かを伝える。
「分かっている。今度は違うと、あなたは言いたいのね」
サナは小さく息を吐いた。
「条件があります。本人が嫌がることはさせない。稽古は私か工房の者が見られる時間にする。町の外へは連れ出さない。そして、途中で断っても責めない」
「すべて守ります」
「契約書にも」
「書きます」
ノアがすぐに台本の間から紙を取り出した。
サナは少し意外そうに彼を見た。
「ずいぶん素直な座長ですね」
「前の町で、先に悪い話をしないと役者に辞められる契約を結びました」
「役者を見る限り、正しい契約ですね」
トワが二人の顔を見比べ、肩を揺らした。
声は聞こえなくても、笑われたことは分かるらしい。
契約の話がまとまると、トワは工房の奥へ二人を招いた。
窓のない小部屋に、白い布が張られている。布の後ろには小さな灯りと、黒い紙を切り抜いた人形が並んでいた。
トワが灯りをつけ、二人へ白い布の前へ座るよう示す。
部屋が暗くなる。
布の上へ、椅子の影が現れた。
次に、髪を結んだ女の影。
女は椅子の脚を調べ、小さな道具を当てる。短かった脚が元へ戻り、椅子がまっすぐ立った。
白い仮面をつけた旅人が現れ、遠くへ歩いていく。
女は椅子の隣で季節を待つ。
花の影が咲き、散り、雪を表す白い紙片が落ちる。
台詞はない。
それでも、何が起きているのか迷わなかった。
「これは、影絵ですね」
リヴィアが小声で言う。
トワには届かないが、布の向こうで人形を動かす手は止まらない。
旅人は最後まで帰ってこなかった。
女は椅子を家の中へ入れず、雨に濡れないよう小さな屋根だけを作る。
そして自分は別の椅子へ座り、新しい誰かへ水を差し出した。
影絵が終わり、灯りが消える。
トワが布の横から顔を出した。
「最後が、私たちの台本と違います」
リヴィアは帳面へ書いた。
トワから返ってきた答えは短い。
――帰らなくても、待った人の時間は続くから。
エッダの話を聞く前に描いたのだろうか。
帰る者だけを結末にしない物語を、トワはすでに知っていた。
――影絵は、いつから作っているのですか。
リヴィアが尋ねると、トワは工房の隅に積まれた古い看板を指した。
幼いころ、母が切り落とした板や紙を拾い、灯りの前へ置いたのが始まりだという。最初の観客は近所の子どもたち。声で物語を説明できなくても、影を動かせば笑う場面も怖がる場面も分かった。
――大人は、遊びだと言います。
最後にそう書き、トワは口を尖らせた。
――これは芝居です。
リヴィアが返す。
――絵が背景になるだけではありません。影をどの順番で、どの速さで動かすかを決める人も、舞台を作る一人です。
トワは自分を指し、次に「絵」と書いた。少し考えてから、その文字を消す。
代わりに書いたのは、影絵師。
リヴィアが大きな丸をつけると、トワは満足そうに白墨を置いた。
「大きな絵札ではなく、影絵を舞台で使えますか」
帳面を見せると、トワはすぐに白い布の寸法を測り始めた。
舞台馬車の幅を指で尋ね、リヴィアが数字を書く。必要な灯りの高さ、客席との距離、風で布が揺れない留め方。
ノアは新しい台本案を広げた。
「影絵で場所と時間を見せ、リヴィアさんが身体で人物を演じる。台詞は重要なところだけ、絵札にするのはどうでしょう」
彼は紙へ六行ほどの説明を書いた。
トワはそれを読み、ほとんどを線で消した。
残したのは、たった一言。
――待っている。
その横に、空の椅子を描く。
「私の六行が、椅子一脚に負けました」
「分かりやすさでは完敗です」
トワが両手を叩くような動きをした。
音は立てず、手のひらも触れ合わせない。
サナが教えてくれる。
「『よかった』という手話です」
リヴィアも同じように手を動かした。
指の向きが違ったらしく、トワが首を横に振る。正しい位置へ直すため、自分の手を示し、ゆっくり繰り返した。
今度は通じた。
トワが笑う。
ノアが契約書の最後へ、担当名を書き加えた。
絵・影絵――トワ。
紙を見たトワは、自分の名の下へ署名した。
その横に、小さな青い鳥を一羽描く。
「明日から、稽古を始めましょう」
リヴィアが帳面へ書く。
トワはうなずき、次に両手の人差し指で輪を描いた。
「何という意味ですか」
サナが答える。
「『もう一度』」
トワはリヴィアのぎこちない手話を指し、同じ印を繰り返した。
どうやら稽古は、最初からやり直しらしかった。




