第13話 音のない稽古
翌朝、トワは九枚の札を持って稽古場へ来た。
始める。止める。もう一度。
明るく。暗く。速い。遅い。
危険。休憩。
どれも舞台で必要になる合図だった。文字の下には手話の形が描かれている。
リヴィアは昨夜、サナに借りた手話帳を遅くまで読んだ。九つくらいなら覚えられると思っていた。
胸の前で手を動かし、覚えたばかりの「始める」を示す。
トワは首を傾げた。
もう一度、ゆっくり示す。
今度はトワが腹を押さえ、心配そうな顔をした。
「何と伝わっていますか」
そばで見ていたサナが、笑いをこらえながら答えた。
「『お腹が痛いので帰ります』に近いわね」
「始めるつもりでした」
指の向きが逆で、手を置く場所も低すぎたらしい。
トワはリヴィアの正面に立つと、同じ合図を三度繰り返した。速く見せたあと、指の動きを一つずつ分けて見せる。
リヴィアがまねる。
違う。
もう一度。
まだ違う。
王立劇場では、一度見れば大抵の動きを写せた。剣の構えも、扇の扱いも、主演が癖で入れた小さな身振りまで覚えられた。
けれど手話は、見栄えのよい形だけをなぞっても意味にならない。位置と向き、動かす順番、表情までが言葉だった。
五度目で、ようやくトワが丸を作る。
最初の合図を覚えるだけで、四半刻かかった。
隣では、ノアが「止める」を練習していた。
彼が自信ありげに手を動かすと、トワは薪を割る絵を描いた。
「私は今、稽古ではなく薪を割ろうとしましたか」
トワがうなずく。
「冬には役立ちそうです」
「公演は冬まで待ってくれません」
二人が九つ覚えたつもりになったところで、トワは札を不規則に掲げた。声を使わず、対応する手話だけを返す試験らしい。
正しく答えられたのは、リヴィアが五つ。ノアが四つ。
二人とも「休憩」だけは一度で覚えた。
「私は器用なほうだと思っていたのですが」
帳面へ書くと、トワはすぐに返した。
――最初から上手な人はいません。
その下へ一行加える。
――上手なふりをする人は、たくさんいます。
リヴィアはその言葉を二度読み、うなずいた。
今日の先生は、十四歳の影絵師だった。
稽古場には、舞台馬車の古い内幕を張った。
長年使われた白布には染みがあったが、影を映す部分はどうにか取れる。左右を看板用の支柱へ結び、下端には風で揺れないよう細い板を通した。
布の後ろには、ガラスで覆った角灯を置く。
火と布の間は三歩。横には砂袋と水桶。角灯が倒れても炎が直接こぼれないよう、ノアが鉄板で囲いを作った。
トワは紐で距離を測り、床へ白墨の印をつけていく。
鳥は灯りの近く。
家は布の近く。
人物が進む道筋には、青い線。
リヴィアが立つ場所には、赤い線。
「幕裏にも舞台があるのですね」
彼女が言うと、トワは大きくうなずいた。
影絵は、布の後ろで勝手に生まれるものではない。
トワが小さな切り絵を灯りへ近づければ、鳥の影は空を覆うほど大きくなる。布へ寄せれば、小さく輪郭の鋭い鳥になる。ほんの指一本の距離で、朝の鳥にも、嵐を呼ぶ怪鳥にも変わった。
ノアは舞台の左端へ立ち、進行役を務める。
リヴィアとトワの両方から見える位置で、青札なら開始、赤札なら停止、白札なら場面転換。
三人で位置を確かめ、最初の通し稽古が始まった。
ただし「危険」の合図だけは、先に何度も練習した。
ノアが赤札を頭上で大きく振る。トワは角灯の覆いを閉じ、リヴィアは水桶と砂袋の前へ立つ。誰かが合図を見落とせば、残る一人が視界へ入って知らせる。
音がなくても、安全まで伝わらなくてよい理由にはならない。
ノアがいつもの小さな鐘を鳴らす。
リヴィアは椅子を運び入れた。
しかし、布の後ろにいるトワは動かない。
鐘をもう一度。
トワは灯りを調整したままだ。
「トワ、始まっています」
リヴィアが声をかけてから、自分の間違いに気づいた。
トワには鐘も声も届かない。
ノアは無言で鐘を置き、青札を持ち上げた。
それを見たトワが、帳面へ太い字を書く。
――見えない合図は、合図ではありません。
「申し訳ありません」
ノアも紙へ書いて返した。
――長年の習慣が、開始一秒で負けました。
鐘の代わりに、青札が上がる。
二度目。
トワが朝日を映し、リヴィアは椅子を道端へ置いた。旅人を見送る女として、遠ざかる背中へ両手を振る。
旅人の影が布を横切る予定だった。
だが、リヴィアが赤い線を越え、角灯の前へ入ってしまう。
白い幕一面を、彼女の頭の影が覆った。
朝日も道も旅人も消えた。
赤札が上がる。
トワが幕から顔を出し、床の線を指した。
「少しくらいなら平気かと」
首が横へ振られる。
――主役だからといって、全部を隠してはいけません。
帳面の文を見て、ノアが口元を押さえた。
「笑いましたね」
「主役になった途端、舞台を占領した人へ心当たりがありまして」
「今の私です」
「ご自分で気づけたなら、まだ安全です」
三度目は、線から出なかった。
今度こそ筋を伝えようと、リヴィアは動きを大きくした。
旅人を見送る。
日を数える。
雨を気にする。
空の椅子の埃を払い、また道を見る。
一つひとつをはっきり演じたつもりだった。
ところがトワは途中で赤札を求めた。
――何をしている人ですか。
そう尋ねられ、リヴィアは目を瞬いた。
「帰りを待っている人です」
トワは首を振る。
――手が多すぎます。目が追いつきません。
さらに、素早く動くリヴィアの絵を描き、その周りへ箒、雨、鳥、時計、虫を並べる。
何でもしているので、何をしているか分からない。
前日の無言劇と同じ失敗だった。
「台詞がないぶん、身体で埋めなければと思いました」
サナへ向き直って言うと、彼女は娘を指した。
「私ではなく、先生に聞いて」
リヴィアはトワの正面へ戻り、覚えたばかりの手話を使った。
――どうすれば、いいですか。
二つは間違えたらしく、トワに直された。それでも意味は届いた。
トワは舞台中央の椅子へ座った。
何もしない。
ただ道の先を見る。
布の上で太陽が沈み、月へ変わる。
トワはまだ動かない。
月が沈み、また朝が来る。
そこで初めて、空の椅子へ目を落とす。
手を伸ばしかけ、触れずに膝へ戻す。
それだけだった。
誰かを待っていると、分かった。
リヴィアは息を止めて見入った。
役者は、動くことで見せるものだと思っていた。
舞台上の空白は、忘れた台詞や遅れた転換と同じで、すぐに埋めるべきものだと。
だがトワは、動かない時間を使っていた。
空白を、客に考えてもらう場所に変えている。
「もう一度、お願いします」
今度は手話でも示した。
トワが先生の顔で、青札を上げるようノアへ合図する。
四度目。
リヴィアは椅子へ座り、道を見た。
太陽が沈む。
動かない。
月が昇る。
動かない。
静けさに耐えられず、指先が椅子の縁を掴みそうになる。それも止める。
灯りが朝の色へ変わったところで、空の椅子を見る。
触れかけた手を戻した。
幕の端に、小さな鳥の影が現れた。
風に押し戻され、飛べずに地面へ落ちる。
リヴィアは椅子を道へ向けたまま、その脇へ水の皿を置いた。
鳥は少しずつ近づき、水を飲む。
待っていた人は帰らない。
それでも、待った時間は誰かを迎える場所になる。
白札が上がり、灯りが消えた。
見ていたサナと工房の職人二人が、両手を高く掲げて揺らした。音のない拍手だった。
トワも幕の後ろから出てきて、同じように手を上げる。
成功、と胸を張ったリヴィアへ、すぐに「もう一度」の合図が続いた。
「やはり、もう一度ですか」
トワは当然だという顔でうなずく。
そのとき、広場の入口で赤い外套が翻った。
興行担当のミナと、見覚えのない制服の男が立っている。
男の胸には、王立役紋局の銀章があった。
彼は白い幕、影絵の鳥、床に置かれた台本を順に見る。それから、トワの名が書かれた配役表を取り上げた。
「この娘の役紋は」
ミナが静かな声で答える。
「ありません。影絵師として届け出ています」
「役紋を持たない者が、役を演じているではないか」
男は一枚の紙を配役表の上へ置いた。
赤い文字で、上演停止と記されていた。
「これは芝居ではない。少なくとも、許可を受けた芝居ではない」




