第46話 祭りの前夜、天幕が裂けた
契約期限の夜、リヴィアは白い紙へ返事を書いた。
王立劇場が示した条件は、十二年前から望んでいたものだった。
名前。
主演。
見えない仕事への役職と報酬。
それを認めたうえで、今は契約しない。
百幕祭で、〈青い天幕〉の一員として『まだ鍵を持たない門番』を上演する。
その舞台を終えたあと、改めて自分の行き先を答える。
待てないなら、今回の契約は辞退する。
誰かのせいにはしなかった。
一座が困るからとも、若い代役を守るためとも書かなかった。
――今、私がこの舞台を選びたいからです。
最後に、リヴィア・フェンと署名した。
返書を受け取ったベルモンドからは、その夜のうちに短い回答が届いた。
――百幕祭の終演まで待つ。
契約書は、まだどちらの署名もないまま残った。
それから九日間、〈青い天幕〉は百幕祭の第三十七舞台で稽古を続けた。
客席は三百。
〈木の実劇場〉のほぼ二倍である。
最後列へ台詞を届けるには、声を大きくするだけでは足りない。リヴィアは門番の身体を斜めに開き、横顔と手の動きが左右の席からも見える立ち位置へ変えた。
ファナの歌は、一人で押し切らない。
短い旋律を客席へ渡し、三つの区画が順番に繰り返す。
トワの影幕は、これまでの二倍の幅になった。
中央の一枚へすべてを映すのではなく、左右の小さな幕へ同じ動作を遅らせて映す。
ダガンは、閉じた城門を一人で動かさない仕組みにした。
五本の綱を舞台の別々の位置へ伸ばし、役者、歌い手、影絵、裏方、最後には客席から選ばれた一人が引く。
誰か一人でも手を離せば、門は途中で止まる。
全員が自分の仕事を果たして、初めて開く門だった。
ノアは三百席の中央、後方、左右の端へ交代で座り、聞こえなかった言葉と見えなかった動きを記録した。
直すたび、完成稿の余白が狭くなる。
祭り前日の夕方。
最後の通し稽古が、終幕まで止まらずに進んだ。
「明日は、これで行きます」
ノアが言う。
ファナは舞台へ座り込み、トワは両腕を上げ、ダガンは最後の止め金へ印を付けた。
リヴィアは客席を見た。
明日、この三百席が埋まれば、七つ目の印を得られる。
本番まで、残り一日。
そう思ったとき、天幕の外で、最初の雷が鳴った。
入口の布が大きく膨らむ。
「稽古を止める!」
ダガンの声が飛んだ。
誰も、あと一場だからとは言わなかった。
ファナは床の小道具を箱へ入れる。
トワには雷も風音も聞こえない。
リヴィアが決めていた停止の手信号を送り、トワは影灯の火を消した。
ノアは台本と公演許可証を防水袋へ入れる。
ダガンが、天幕を支える張り綱の荷重を確かめた。
「南側から抜ける。走るな。舞台装置は置いていけ」
五人が避難した直後、突風が第三十七舞台を横から打った。
太い布が鳴る。
中央の縫い目が、天井から舞台奥へ向かって裂けた。
雨が一気に中へ落ちる。
影幕は濡れ、客席の椅子が何脚も倒れた。
曲がった支柱が舞台床へ突き刺さる。
祭りの消防団と舞台職人が駆けつけたが、誰も天幕の中へは入れなかった。
嵐は一時間ほどで東へ抜けた。
雨が弱まり、安全係の許可が出てから、ダガンは舞台を調べた。
屋根布の裂け目は十二歩。
主柱一本が曲がり、床板は三分の一が水を吸っている。
照明台も一基、固定金具が外れていた。
「明日は使えない」
ダガンが結論を出す。
祭りの舞台管理官も、同じ判断だった。
第三十七舞台、使用禁止。
修理には最低十二日。
舞台検査と再配置を含めると、振替公演は早くても十四日後。
「巡業札の期限は?」
管理官が尋ねた。
「十三日後です」
ノアが答える。
一日、間に合わない。
「ほかの舞台へ移れませんか」
リヴィアが聞く。
「屋根のある三百席舞台は、すべて埋まっています。空きが出ても、百二十席以下の小舞台です」
百二十席では、百幕祭の満員印の規定に届かない。
管理官は公演中止証明を出すと言った。
切符代は返金される。
カーデルの推薦資格も、翌年まで保持できる。
誰も責められない中止だった。
けれど、巡業札の期限だけは延びない。
「明日の天候は?」
ダガンが尋ねる。
「夜明けには晴れる予報です。風も落ちる。ただし、地面はぬかるむでしょう」
リヴィアは祭り会場の地図を広げた。
百の天幕の中央に、普段は行列や大道芸に使われる円形広場がある。
屋根はない。
固定された舞台も、客席もない。
今夜の嵐で、明日の行列は中止が決まっていた。
「この広場は、空いていますか」
「空いてはいます」
管理官が答える。
「ですが、公演会場ではありません」
「会場として検査を受けるには、何が必要ですか」
リヴィアは、できるかではなく、条件を尋ねた。
管理官とダガンが、地図の上へ必要なものを書いていく。
三百席を数えられる客席。
四本以上の避難通路。
ぬかるみから上げた舞台床。
風に倒れない照明。
観客と舞台を分ける境界。
入口と出口。
切符を確認する場所。
安全係が見渡せる監視台。
「これがそろい、夜明けの風速と地面が基準内なら、臨時検査は申請できます」
「そろわなければ?」
「許可は出しません」
ダガンもリヴィアを見る。
「晴れても、安全でなければ中止だ」
「分かっています」
必要な物を数える。
椅子、三百脚。
舞台床に使える板。
支柱。
縄。
灯り。
乾いた布。
運ぶ人手。
〈青い天幕〉にあるのは、舞台馬車と小さな天幕、予備の綱、数十枚の板だけだった。
五人で夜を明かしても、半分にも届かない。
「無理です」
ファナが、濡れた第三十七舞台を見て言った。
弱音ではなく、数を見た結論だった。
「今のままでは」
リヴィアも認めた。
だから、今のままではない方法を探す。
「屋外で上演します」
ノアが顔を上げる。
「三百席を、明日の開場までに作るということですか」
「はい」
「五人では作れません」
「はい」
「それでも?」
リヴィアは、祭り会場の中央へ指を置いた。
これまでの町では、客席と舞台を一座だけで用意しようとして失敗した。
〈創演〉も、一人では何も生まない。
「足りないものを、足りないと伝えます」
祭りの掲示板へ、臨時公演の計画と必要な物を書き出す。
物を借りる場合は、持ち主、数量、返却時刻を記録する。
作業には安全責任者を置く。
無償の善意を前提にせず、払える報酬と共同席を示す。
ミレナで作った料金規定が、ここでも使える。
「集まらなければ、中止します」
それは決意を弱める言葉ではない。
命を賭けないための条件だった。
リヴィアは濡れていない紙へ、最初の一行を書いた。
――〈青い天幕〉は、明日、円形広場で屋外公演を行います。
その下へ、必要な物と数を記す。
椅子、三百。
舞台板、百二十枚。
支柱、八。
灯り、二十。
作業者、四十人。
開場まで、あと十四時間。




