第43話 名無しの後輩たち
「お久しぶりです、フェン先輩」
最初に頭を下げたのは、エナだった。
二十一歳。〈姫君〉の役紋を持ちながら、声が低いという理由で正式配役をもらえず、六年間、仮面を着ける代役だけを務めてきた。
その隣にいるのは、剣劇の代役だったカイ。
小道具と台詞合図を兼任していたヨシュ。
衣装係として雇われながら、群衆役の欠員を埋めていたミレイ。
四人とも王立劇場を辞めたと、ベルモンドの手紙に書かれていた。
「私が辞めたせいですか」
リヴィアは、最初に確かめた。
エナたちは顔を見合わせる。
「先輩のせいではありません」
ヨシュが答えた。
「先輩がいなくなって、誰が何をしていたのか分かったんです」
稽古順を決める者。
欠員を確認する者。
衣装替えの時間を測る者。
舞台袖の通路を空ける者。
折れた小道具を本番前に見つける者。
すべてが、リヴィアの仕事だった。
けれど、どの担当表にも名前はなかった。
残された者たちは、仕事があることさえ知らないまま、それぞれが誰かがやると思っていた。
「二回目の公演で、舞台用の剣が本物と入れ替わりかけました」
カイが言う。
「見つけたのは?」
「ミレイです。でも、支配人には衣装係が余計な場所へ触るなと言われました」
「私、怒ってしまって」
ミレイは肩をすくめた。
「人が刺されるより、担当を越えるほうが問題なんですかって」
「正しい怒り方です」
「それで四人まとめて辞めました」
「少し正しすぎましたね」
洗濯屋の裏庭には、濡れた衣装と敷布が何列も干されている。
四人がこの場所を選んだのは、隠れて話すためではなかった。
夜になれば、干し場の白い壁と広い床を借りられるからだった。
「私たち、百幕祭の小舞台へ応募したいんです」
エナが一枚の紙を差し出した。
上演時間、十五分。
題名は『四通の間違い手紙』。
同じ名前の四人へ、別々の手紙が届き、正しい相手を探して町を走り回る喜劇だという。
出演者欄には、こう書かれていた。
主演、一名。
補助、三名。
代役、必要に応じて。
個人名は、一つもない。
「これでは、王立劇場にいたころと同じです」
リヴィアが言うと、四人は気まずそうに目を伏せた。
「でも、誰か一人を主演にしないと、申請書が通らないと思って」
「小舞台の規則には、主演が必要だと?」
「書いてありません」
「では、四人全員の名前を書きましょう」
洗濯屋から借りた板を、即席の机にする。
リヴィアは出演者欄を四つに分けた。
エナ――一通目の受取人、衣装替え進行。
カイ――二通目の受取人、舞台安全確認。
ヨシュ――三通目の受取人、台詞合図と小道具。
ミレイ――四通目の受取人、衣装と入退場管理。
「一人が二つの仕事をする場合は、両方書きます。報酬も、出演分と裏方分を分けて計算してください」
「そんなに細かく書くのですか」
「誰かが休んだとき、何が足りなくなるか分かります」
代役欄にも、名無しとは書かない。
代わる者を事前に決め、出演者が変わったら、開演前に客席へ名前を伝える。
安全上の問題があれば、カイが稽古も本番も止められる。
判断が割れた場合は、四人で記録する。
「まるで、小さな劇団ですね」
エナが新しい担当表を見つめる。
「四人で芝居を作るなら、もう小さな劇団です」
言われた四人は、少し照れたように笑った。
「一度、見ていただけますか」
白い干し布を背景に、稽古が始まった。
最初の場面。
エナが一通目の手紙を開き、書かれている求婚の言葉に固まる。
自分宛てではない。
慌てて隣家へ届けると、そこではカイが決闘状を読んで震えている。
声の低い〈姫君〉と、身体の大きな剣士が、届いた手紙の内容と正反対の反応をする。
おかしさは、すぐに伝わった。
だが、三場面目でヨシュが台詞を忘れた。
全員の視線が、リヴィアへ集まる。
王立劇場なら、彼女が袖から次の一言を渡していた。
リヴィアは口を開かなかった。
担当表を指す。
台詞合図は、ヨシュ自身の仕事だ。
「自分で自分へ合図は出せません」
ヨシュが困った顔をする。
「なら、その仕事を分ける必要があります」
四人は稽古を止め、担当表を囲んだ。
ミレイは四場面目まで舞台へ出ない。
台本を持ち、三場面目までの合図を担当できる。
四場面目以降は、舞台を降りたエナが引き継ぐ。
名前のない仕事を見つけ、名前のある誰かへ渡す。
二度目の通しでは、最後まで続いた。
四通の手紙は何度も間違った相手へ渡り、最後には、どれも宛名ではなく内容を必要とする者の手に収まった。
リヴィアとノアは、干し布の向こうで拍手した。
「面白かったです」
ノアが言う。
人前では声が詰まる彼も、四人だけの客席なら、短い感想を自分で伝えられた。
「直すところは?」
「あります」
「やっぱり」
「面白いことと、直すところがあることは両立します」
四人が台本を持って、ノアの周りへ集まる。
リヴィアは、名前を入れ直した申請書を見た。
四人の名が、同じ大きさで並んでいる。
「王立劇場は、本当に変わろうとしているのですか」
尋ねると、エナは笑顔を消した。
「担当表は作られました。安全係も一人増えたそうです」
「出演札は?」
「代役の名前を内部記録へ残すようになりました。でも、客へ出す紙には、まだ主演しか載りません」
「給金は?」
「見直す予定だと聞きました」
改革は、嘘ではない。
けれど、完成してもいない。
「ベルモンド支配人は、先輩が戻れば進められると言っていました」
ミレイが続ける。
「だから、私たちのために戻ろうとしないでください」
リヴィアは顔を上げた。
「ですが、私に権限があれば――」
「変えられるかもしれません。でも、先輩がまた全部を背負うことにもなります」
カイが、新しい担当表を机へ置く。
「今日、先輩がしたのは、私たちの代わりに仕事をすることではありませんでした」
「名前を書いて、仕事を返しただけです」
ヨシュが言う。
「俺たちは、それでやれました」
守ることと、代わりに背負うことは違う。
かつてのリヴィアは、その二つを分けられなかった。
「先輩が戻りたいなら、戻ってください」
エナが言う。
「でも、私たちを理由にしないでください。戻らないなら、私たちを置いていくと思わないでください」
誰も、リヴィアへ残ってほしいとも、戻ってほしいとも言わない。
自分の舞台を、自分で選ぶよう求めている。
「分かりました」
今度の答えは、昨日より少し早く出た。
「皆さんの名前を隠さないでください」
エナたちは、申請書へ一人ずつ署名した。
洗濯屋を出るころには、日が落ちていた。
ノアの手には、百幕祭へ提出する新作の完成稿がある。
『まだ鍵を持たない門番』。
カーデルへ着く前から二人で考え、六つの町で出会った名もない働き手たちを、一つの城門へ集めた物語。
〈創演〉を用いる、〈青い天幕〉初の長編新作だった。
「提出しますか」
ノアが尋ねる。
リヴィアは王立劇場の屋根ではなく、五人の名が並ぶ表紙を見た。
「はい」
二人は百幕祭の王都受付所へ向かった。
新作登録の窓口で、台本、配役表、安全計画を一冊ずつ確認される。
受付印が押されようとしたとき、後ろから声がした。
「その題名を、どこで知った」
王立劇場の事務服を着た男が、ノアの台本を見つめていた。
「『まだ鍵を持たない門番』は、王立劇場が保有する未上演脚本です」
受付係の手が止まる。
完成稿へ、受理印は押されなかった。




