第42話 引き留めない座長
カーデルを発って二日、誰も王立劇場の契約書について話さなかった。
忘れたわけではない。
舞台馬車の机、その一番上の引き出しに入っている。
車輪が石を踏むたび、紙の端が木へ触れる音まで聞こえる気がした。
「今夜は、ここで止まります」
ノアが道沿いの宿駅を指した。
雨雲が低く、王都へ続く街道は早くも暗くなっている。
宿駅の納屋を借りると、ダガンは馬車の車輪を確認し、トワは白い壁へ影幕を張った。
休むためだと思っていたリヴィアの前へ、ノアが新しい台本を置く。
題名は、『風が拾った三枚の札』。
「百幕祭へ出す予備演目です」
出演者の欄に、リヴィアの名前はなかった。
歌唱、ファナ。
影絵、トワ。
舞台機構、ダガン。
脚本と進行、ノア。
「もう書いたのですか」
「短いものです」
「いつ?」
「昨夜と、その前の夜」
王立劇場の契約書が届いてから、ノアは二晩ともほとんど眠っていない。
「稽古します」
彼は、それ以上説明しなかった。
演目は、風に飛ばされた三枚の札が、違う持ち主を探して町を巡る影絵劇だった。
ファナが歌で物語を進め、トワの影が、剣の札を拾うパン屋、杖の札を玩具にする子ども、鈴の札で眠る猫を映す。
役者の正式な台詞はない。
〈歌い手〉のファナと、役紋を必要としない影絵だけで上演できる。
最初の通し稽古は、七分で止まった。
ファナが二番の歌へ移ったのに、トワの影は一番の町角に残っている。
トワには歌が聞こえない。
これまでは舞台上のリヴィアが、身体の向きや足の位置で転換を伝えていた。
「最初からやり直しましょう」
リヴィアは立ち上がりかけた。
だが、客席代わりの木箱から動かなかった。
これは、自分がいない場合の稽古だ。
リヴィアが合図を出して成功させても、予備にはならない。
ファナとトワが顔を見合わせる。
ファナは歌詞を紙へ書き、トワは各場面の絵を隣へ並べた。
何小節目で影を替えるかではなく、ファナが片手を胸へ、もう一方を舞台奥へ伸ばしたときに転換する。
音ではなく、動作を合図にする。
ダガンは影幕の横へ小さな板を付け、場面が替わるたび、ノアが番号をめくれるようにした。
二度目は、十二分まで続いた。
三度目は、最後まで止まらなかった。
札を探していた三人が、最後には持ち主ではなく、今必要としている人へ渡す。
白い壁に朝日が昇り、ファナの歌が終わる。
客席には、リヴィア一人しかいない。
それでも拍手をした。
「よい芝居です」
ファナは喜びかけ、すぐに複雑な顔になった。
「これが成功すると、リヴィアさんがいなくてもよいみたいで嫌ですね」
「成功しなくても困ります」
リヴィアが答える。
「私は、どちらを望めばよいのでしょう」
トワが手帳へ書く。
――成功して、一緒にやる。
「それが一番ですね」
まだ十二分。
三百席の百幕祭で上演するには短く、正式な主演役者もいない。
それでも、リヴィアがいなければ何もできない一座ではなくなり始めている。
安心した。
そして、同じくらい寂しかった。
夜、ほかの三人が休んだあとも、リヴィアは眠れなかった。
舞台馬車へ戻ると、ノアが机へ二冊の進行表を広げている。
一冊は青い表紙。
百幕祭推薦公演、『みんなで開ける扉』。
出演者は五人。
もう一冊は灰色。
一般参加枠、『風が拾った三枚の札』。
出演者は四人。主演役者の欄だけが空いていた。
「もう、応募書類まで作っているのですね」
「期限がありますから」
「私が残る可能性は、考えていないのですか」
「青いほうが、その予定です」
ノアは二冊を同じ位置へ並べた。
片方を下へ置きはしない。
「どちらになっても、一座が動けるようにしています」
「なぜ、残ってほしいと言わないのですか」
聞くつもりはなかった。
けれど、言葉はもう机の上に落ちていた。
ノアの指が、灰色の表紙から離れる。
「言えば、残りますか」
「分かりません」
「だから言いません」
「答えになっていません」
「では、正確に答えます」
ノアは少し間を置いた。
「残ってほしいからです」
リヴィアは息を止めた。
「あなたは必要だと言われれば、自分の希望が分からなくても、その場所へ残ろうとする。王立劇場で十二年間、そうしてきた」
「〈青い天幕〉でも同じだと?」
「同じにしたくありません」
ノアは、リヴィアをまっすぐ見た。
「私が困る。一座が困る。最後の印が取れなくなる。そう並べれば、あなたを引き留められるかもしれない」
「なら――」
「それをしたら、ベルモンド支配人と何が違うのですか」
声は静かだった。
けれど、その一言には、ノアが二晩眠らずに灰色の台本を書いた理由がすべて入っていた。
リヴィアを必要としない証明ではない。
必要であっても、必要という言葉を鎖にしないための準備だった。
「座長として、引き留める権利がないと思っているのですか」
「一座が受ける損失を伝える権利はあります。あなたの行き先を決める権利はありません」
「では、座長としてではなく?」
ノアが答えるまで、いつもより長い時間がかかった。
「それなら、なおさら慎重になります」
答えを避けたようで、避けきれていない。
胸の奥が熱くなる。
役紋は光っていなかった。
「私が王立劇場へ戻ったら、あなたはどう思いますか」
「寂しいと思います」
「それだけ?」
「仕事も非常に困ります」
いつもの乾いた言い方が、ようやく少し戻った。
「ですが、よい条件を得たことは喜びます。あなたが自分で選んだのなら」
自分で選ぶ。
そのためには、契約書の文字だけでは足りない。
ベルモンドは、劇場が変わったと書いた。
見えない仕事へ、名前と報酬を与えるようになったと。
それが本当なら、戻る意味はあるかもしれない。
給金で迷っているのか。
十二年前から欲しかった評価を受け取りたいのか。
若い代役を守りたいのか。
それとも、いま自分が立ちたい舞台は別にあるのか。
確かめなければ、自分の答えにならない。
「王立劇場へ行きます」
ノアの表情は変わらなかった。
「契約を受けるためですか」
「まだ決めません」
リヴィアは白い契約書を取り出した。
「改革が本当に行われているのか、自分の目で見ます。辞めた若い代役たちにも会いたい」
「ベルモンド支配人へ、劇場を見せるよう求めますか」
「いいえ。用意された場所だけを見ても分かりません」
まず、劇場の外にいる者から話を聞く。
王立劇場へ戻るためではなく、自分の答えを選ぶために。
「分かりました」
ノアは灰色の進行表を閉じた。
「一緒に来ますか」
「必要なら」
リヴィアは少し考えた。
「来てください。決めてほしいからではありません」
「では、何のために?」
「私が見落としたものを、あなたが見つけるかもしれないからです」
今度は、必要という言葉を、自分の希望として使えた。
ノアがうなずく。
「喜んで」
六日目の夕刻、舞台馬車は王都の外壁へ着いた。
尖塔と、金色の王立劇場の屋根が夕日に浮かんでいる。
リヴィアは職員用の通用門へ向かわなかった。
待ち合わせ場所に選んだのは、劇場裏の洗濯屋だった。
軒下には、四人の若者が立っている。
かつて王立劇場で、出演札に名前を載せてもらえなかった代役たちだった。




