第39話 空白に刻まれたもの
「まだ、客席を出ないでください」
拍手が収まるより先に、主任監督官が舞台へ上がった。
不安そうな声が客席に広がる。
「処罰のためではありません。喝采魔法の安全確認です」
安全係が二人、通路と舞台を調べ始めた。
倒れた椅子はない。
火傷をした者も、光で目を痛めた者もいない。
四つ目の扉が生んだ光は、舞台の端から一歩も外へ出ていなかった。
ダガンも回転軸、二つの止め金、床板を確認する。
「装置に損傷なし。扉へ触れた二人にも怪我はない」
ユリクが、怪我などしていないと示すように両手を高く上げた。
母親は安心するより先に、深く頭を下げる。
「息子が公演を止めてしまい、申し訳ありません」
「公演は止まっていません」
リヴィアが言うと、主任監督官が検査票から顔を上げた。
「許可した結末からは外れました」
「はい」
「予定外の台詞も加わった」
「はい」
「認めるのが早すぎませんか」
「起きたことですから」
主任監督官は否定できず、銀鏡をリヴィアの胸元へ向けた。
〈空白〉の中央には、開きかけた扉に似た形が残っている。
五本の線は、その扉へ向かう道のようにつながっていた。
「もう一度、出せますか」
リヴィアは舞台中央へ立った。
何も描かれていない扉を見つめ、同じ位置へ手を伸ばす。
「分からないから、みんなで開けるんだ」
ユリクの最後の台詞を繰り返した。
役紋は光らない。
扉の向こうにも、足跡の道は現れなかった。
「台詞が違いましたか」
記録係が尋ねる。
「同じです」
「立ち位置は?」
「同じです」
もう一度試しても、結果は変わらない。
主任監督官の表情が険しくなる。
「本人が制御できない力は、安全とは認められません」
「私一人の力ではないのだと思います」
リヴィアは仲間を見た。
ファナが舞台へ戻り、先ほどの旋律を歌う。
トワが透明板へ四つ目の扉を描く。
ダガンが塗装していない木肌を客席へ向け、止め金を掛ける。
ノアは台本を閉じたまま、袖の定位置へ立った。
五本の線が、わずかに温まる。
けれど、まだ扉の形は光らない。
トワが客席を指した。
百五十二人は、今も選ばなかった札を持っている。
主任監督官は迷った末、記録係へ合図した。
「先ほどと同じように、札を掲げてください。ただし席を立たず、異常を感じたらすぐに下ろしてください」
ユリクが三枚を上げる。
その後ろで、二枚ずつの札が次々と上がった。
ファナの旋律へ、客席の手拍子が重なる。
トワの影が、色のない扉を作る。
ダガンが安全線の外から扉を支える。
ノアは何も言わず、リヴィアへ続きを任せた。
すべてがそろったとき、役紋の中央に再び光が宿った。
今度は先ほどより小さい。
開きかけた扉の形が銀鏡へ映り、その向こうへ数歩分だけ、足跡が続いた。
「札を下ろしてください」
監督官の指示で客席の手が下がる。
光の道は、ゆっくり消えた。
「歌を止めて」
ファナが声を止めると、扉の輪郭が薄くなる。
トワが透明板を外す。
残った光も消えた。
役紋に刻まれた形だけは、そのままだった。
「リヴィアさんの意思だけでは発動しない」
記録係が結果を読み上げる。
「一座の演技と舞台装置、観客の参加がそろった場合に限り、小規模な幻影を形成。参加終了と同時に消失。熱、衝撃、舞台外への流出なし」
「昨日まで、こんな力はありませんでした」
リヴィアが言う。
「いいえ」
ノアが、五本の線を見ながら答えた。
「形になっていなかっただけです」
フィオラの無言劇で、最初の線が残った。
グレンツでは、英雄ではない帰還者の役を一座と町で作った。
レナートでは、役紋の違う人々が一つの舟を運ぶ物語を演じ、線が五本へ増えた。
ミレナでは、百二十人が自分の椅子を舞台へ生んだ。
誰か一人の型を借りた夜ではなく、まだ型のない役を皆で信じた夜にだけ、線は増えている。
「では、これは何の役紋なのですか」
ファナが尋ねた。
主任監督官は答えなかった。
銀鏡に写した形を薄紙へ転写し、何度も角度を変えて確かめている。
「現行の役紋台帳にはありません」
「ないものは、役ではないのですよね」
ファナの言葉に、監督官は苦い顔をした。
「昨日までなら、そう答えました」
観客から小さな笑いが起きた。
安全確認が終わり、百五十二人は名前と座席番号を記録して劇場を出た。
ユリクは最後まで残った。
「僕も、勝手に役をしたことになるの?」
「客席から自分の考えを言っただけなら、無許可の役者にはなりません」
主任監督官が答える。
「報酬を受けず、出演契約もない観客が一時的に芝居へ参加することは、王国の規則で認められています」
「じゃあ、また言ってもいい?」
「次は、役者が困らない時にしてください」
「困りましたか?」
ユリクがリヴィアへ尋ねる。
「とても」
正直に答える。
「でも、必要な困り方でした」
ユリクは満足し、母親と劇場を出ていった。
主任監督官は、転写した役紋を持って支所へ戻った。
結論が出るまで、公演結果も満員印も保留。
〈青い天幕〉の五人は、劇場の楽屋で待つことになった。
夜半を過ぎても、誰も眠れない。
「最後の台詞を、私が書きませんでした」
ノアが閉じた台本を見て言った。
「後悔していますか」
「少しだけ。脚本家なので」
「私も、あなたが合図をくださると思っていました」
「出すべきでしたか」
リヴィアは考え、首を横へ振る。
「いいえ。あのときは、書かないことが合図だったのだと思います」
ノアは台本の最後へ、ユリクの言葉を書き加えた。
その下へ、作者名を書こうとして手を止める。
「誰の名前を書けばよいでしょう」
リヴィア。
ユリク。
ファナ。
トワ。
ダガン。
ノア。
札を掲げた百五十二人。
一人の名前だけでは足りない。
ノアは作者欄を空け、その代わりに書いた。
――〈青い天幕〉と、今夜の客席。
夜明け前、劇場の扉が開いた。
主任監督官が、革表紙の古い本を抱えて戻ってくる。
埃をかぶった表紙には、『始原役紋記』と記されていた。
「カーデルの古典台帳が作られるより前、最初の劇場で記録された役紋です」
開かれた頁には、細い円と、中央へ集まる複数の線。
今のリヴィアと同じ、開きかけた形が描かれていた。
その下にある名を、主任監督官が指でなぞる。
「〈創演〉」
新しい演目を作る者、という意味ではない。
演者、支える者、見る者が、それまで存在しなかった役をともに信じたとき、その役を舞台へ定着させる役紋。
単独では力を持たない。
命じて観客の心を変えることもできない。
仲間の仕事と、客席の自発的な参加と、本人がその役を選ぶ意思。そのすべてがそろって初めて、喝采を受け止める。
「なぜ、今の台帳に載っていないのですか」
リヴィアが尋ねる。
「新しい役が古典として定着するたび、必要とされなくなったのでしょう。最後の記録は二百四十一年前です。その後、〈空白〉は代役の補助紋としてだけ扱われた」
主任監督官は、昨日自分が出した検査票を見た。
出演資格、不認定。
その文字へ、一本の線を引く。
「私は、空白は役ではないと言いました」
「はい」
「半分は正しかった。〈空白〉は、完成した一つの役ではありません」
新しい検査票へ、名前が書き込まれる。
リヴィア・フェン。
役紋、〈創演〉――暫定。
「まだ名前のない役が生まれるための、空いた舞台です」
リヴィアは、自分の胸元に刻まれた形を見下ろした。
何もないと思っていた場所。
誰かの代わりを入れるためだけに使われた場所。
そこには今、仲間と客席が作った扉が残っている。
「ただし」
主任監督官が、満員印の欄を閉じた。
「〈創演〉を役として認めるか。許可条件を外れた昨夜の公演を、正式な判定公演とするか。私一人では決められません」
正午、市の劇場評議会を開く。
三十六演目しか認めてこなかった町が、二百四十一年ぶりの役を台帳へ加えるかどうか。
その採決に、〈青い天幕〉の六つ目の印も懸かっていた。




