第36話 空白は役ではありません
「〈歌い手〉。登録番号、声域、喝采の受け入れ先、すべて一致」
主任監督官が検査票へ印を押した。
翌朝。
王立役紋局の検査室で、最初に調べられたのはファナだった。
部屋の半分は小さな舞台になっている。正面には役紋の光を映す銀鏡。床には立ち位置を示す赤い線。監督官のほかに、記録係と安全係が二人ずつ立ち会っていた。
ファナは緊張で肩を上げながらも、指定された音階を歌い切った。
喉元にある三本の波形が青く光る。
銀鏡の中で光が細い音符となり、天井へ昇って消えた。
「正式な台詞を伴わない歌唱役、群衆役、語りの補助を認めます」
「あの、喜劇役は?」
「〈道化〉ではありませんので認められません」
「人を笑わせても?」
「結果ではなく、役紋の型で判断します」
ファナが、納得できない顔で舞台を降りた。
次はリヴィアだった。
上着を脱ぎ、左胸の役紋が見える検査衣へ着替える。
細い円。
その中に、小さな曲線と五本の青銀の線が残っている。
王立劇場を辞めたときには、何もなかったはずの〈空白〉。
主任監督官は拡大鏡を当て、線の一本ずつを記録紙へ写した。
「いつから、この状態ですか」
「最初の線は、フィオラで無言劇を上演したあとです。五本に増えたのはレナートでの公演後です」
「変化は届け出ましたか」
「はい。各地の役紋局で確認を受けています」
ノアが鞄から控えを出す。
フィオラ支所の観察記録。
グレンツの安全確認書。
レナートの公演報告。
どれにも、終演後も消えない線があることと、暴走や設備被害がなかったことが記されていた。
主任監督官は三枚を記録係へ渡した。
「未報告の変異ではない。それは確認しました」
少なくとも、隠していたわけではない。
リヴィアは舞台中央の赤い線へ立った。
「これから三つの役を試します。最初は〈英雄〉」
木剣が渡される。
台詞は『七剣王』第一幕。城門を破られた若き王が、初めて剣を抜く場面だった。
十二年間、何度も代役稽古をした。
リヴィアは左足を半歩引き、剣の柄へ手を置く。
「この門より先へ、恐れだけは通さない」
剣を抜く。
〈空白〉の円に、剣と星の形が淡く重なった。
銀鏡へ金色の光が走る。
けれど、一瞬だけだった。
主任監督官が終了の鐘を鳴らすと、借りた剣と星は消え、五本の線だけが残った。
「次は〈賢者〉」
杖を持ち、『冬塔の賢者』の別れを演じる。
円の中へ、古い杖の形が浮かぶ。
それも台詞が終われば消えた。
「最後は〈道化〉」
ファナが客席から、小さく拳を握ってみせる。
リヴィアは『鈴と金貨』の定められた位置で転び、王の靴から隠していた金貨を取り出した。
鈴の形が浮かぶ。
だが、やはり残らない。
三つの役を正確に演じても、五本の青銀の線はどの型にも変わらなかった。
「検査を終了します」
主任監督官が言う。
「リヴィア・フェン。あなたを、カーデルの認可演目に出演できる役者とは認められません」
ファナが椅子を鳴らして立ち上がった。
「どうしてですか。今、全部演じたでしょう」
「〈空白〉は、登録役者の欠員を埋めるために一時的な型を受け入れる補助紋です。独立した役ではありません」
「私は十二年間、王立劇場で役者として雇われていました」
リヴィアは声を乱さずに尋ねた。
「代役としてです」
監督官は検査票を裏返した。
「既存の役を借りる技術は認めます。しかし、あなた自身の型は、どの古典台帳にもない。〈英雄〉役として申請すれば、終演まで〈英雄〉である保証がない。〈賢者〉でも〈道化〉でも同じです」
「役を途中で変えたことはありません」
「過去にないことは、今後も起こらない証明になりません」
正しい役に、正しい喝采を。
この町では、演技の正確さより、喝采が流れ込む器の形が先に求められる。
「なら、ファナを主演にして、私は代役として登録します」
リヴィアが言う。
「〈歌い手〉を主役にできる認可演目はありません。また、代役登録には、同じ役を担う正規役者が必要です」
正規役者を雇う金はない。
雇えたとしても、百五十二席の切符代では報酬を払えない。
主任監督官は、巡業札を机の中央へ置いた。
「もう一つ、問題があります。この札には、あなたが〈空白〉のまま主演した公演が五つ記録されている」
「すべて現地の許可を受けています」
「カーデルの基準では、正式な役を持たない者を主演とする一座は、劇団の登録要件を満たしません」
記録係が、赤い縁の保管封筒を運んできた。
巡業札を一時没収するときに使うものだった。
「中央局へ照会します。回答まで、通常は三十日から六十日。その間、この札は当支所で保管します」
残り三十九日。
三十日で返ってきても、最後の二つの町を満員にする時間はほとんど残らない。
主任監督官の手が巡業札へ伸びる。
「待ってください」
ノアが言った。
検査室には、監督官、記録係、安全係、次の検査を待つ役者たちがいる。
いくつもの視線が集まり、ノアの喉が詰まった。
息だけが出る。
リヴィアが代わりに話そうとしたとき、ノアは片手を上げた。
急がせないでほしいという合図だった。
彼は一度、空の客席を見る。
それから、もう一度口を開いた。
「五つの町が、彼女を役者だと記録しています」
短い一言だった。
けれど、最後まで彼自身の声で届いた。
「あなた方の基準が違うからといって、その五つを、なかったことにはできません」
主任監督官の手が止まる。
リヴィアは、机に並んだ記録の一枚を指した。
「フィオラでは、王立役紋局の監督官が終演に立ち会っています。私の役紋に既存型ではない線が残ったことも、巡業札へ添付されています」
トワが素早く手帳へ書き、紙を差し出した。
――不正な札なら、なぜ五つの支所が印を押せたのですか。
ダガンも事故記録の控えを開く。
「五つの公演で、役紋による怪我人はゼロ。舞台事故もゼロだ。危険だというなら、起きていない事故ではなく、どの検査値が危険なのか示してもらいたい」
ファナは、自分の検査票をリヴィアの隣へ置いた。
「私は資格があっても、古典の台詞を言えません。リヴィアさんは資格がないと言われても、全部言えました。それで私だけが役者なのですか」
主任監督官は、すぐには答えなかった。
五枚の満員印と、三か所の観察記録を順に確認する。
やがて保管封筒を記録係へ返した。
「不正取得の証拠はありません。現時点での没収は撤回します」
リヴィアは、止めていた息を静かに吐いた。
「ただし、カーデルでの上演許可は出せません」
巡業札は返された。
けれど六つ目の円は、空いたままだ。
「方法は、本当にないのですか」
リヴィアが聞く。
「既存の型に分類できない役紋には、公開判定を申請できます」
主任監督官は一枚の用紙を出した。
観客の前で演じなければ、役紋は本来の力を示さない。そのため、監督官と安全係の立ち会いのもと、判定公演を行う制度があるという。
「ただし、使えるのは古典台帳の演目のみ。判定を求める型と結末を事前に一つ申請すること。申請期限は三日後です」
「私たちの新作は?」
「認めません」
「型を一つ選べなければ?」
「判定できません」
出口を示されたようで、実際には細い袋小路だった。
役紋の型を知るための公演なのに、先に型を選ばなければならない。
五人は巡業札と書類を持ち、検査室を出た。
廊下の長椅子へ座ると、トワが昨日の手帳を開いた。
古典台帳から写しかけた題名。
『三つの扉』。
〈英雄〉〈賢者〉〈道化〉、三通りの結末。
どれか一つを申請時に選ぶこと。
トワは最後の一文へ線を引き、その横に大きく書いた。
――選ぶのは、誰?
リヴィアは、その言葉を見つめた。
「私たちが一つを選べないのなら」
閉じられた三つの扉が、頭の中で並ぶ。
「客席に、選んでもらいましょう」




