第32話 満員なのに大赤字
公演当日、ミレナの集会場には百二十脚の椅子が並んだ。
すべて同じ椅子ではない。
背もたれのある長椅子。
酒場から借りた丸椅子。
脚を継ぎ直した古い椅子。
座面の代わりに、麻袋を張った椅子。
水に浸かった床板は、古い船着き場から運んだ材木へ替えられていた。継ぎ目も釘の頭も、ダガンが一つずつ確かめている。
「西側、荷重確認」
彼が札を掲げる。
リヴィア、ノア、ファナ、町の役人が、指定された四つの席へ同時に座った。
床は沈まない。
軋みも、決めた範囲に収まっている。
「避難路」
トワが、左右の通路へ青い灯りを走らせる。
客席から二つの出口まで、荷物は置かれていない。
ダガンは最後に舞台の固定具を引き、緑の安全札を結んだ。
「使える」
それは、この四日間で最も待っていた開演許可だった。
日暮れ前から、観客が集まり始めた。
入口で出す物は、人によって違う。
銅貨を払う者。
すでに終えた床の修理記録を見せる者。
燕麦や照明油と交換した者。
署名した後払い票を出す者。
レオは、青いボタン一個と書かれた切符を両手で持ってきた。
「本当に七列目だ」
「切符に書きました」
「前は、よく見えない?」
「見えます。今夜は、後ろの席ほど先に見つかる物があります」
答えると、レオは疑いながら七列目へ向かった。
その途中、ファナが着る青い上着に気づく。
襟元には、波模様のボタンが縫いつけられていた。
レオは何も言わず、自分の上着のように胸を張った。
百二十人が着席する。
空席はない。
今夜の演目は、『逃げた百二十脚の椅子』。
水害をそのまま悲しい物語へするつもりはなかった。
町の人々は、壊れた家も流された家具も、毎日見ている。
見たいと言ったのは、自分たちが椅子一脚を探して町中を走り回った失敗を、思い切り笑える芝居だった。
集会場の管理人を、リヴィア。
王都から来た椅子監督官を、ファナ。
逃げた椅子の影を、トワ。
椅子を歩かせる仕掛けを、ダガン。
ノアは舞台袖から、台本と場面札を渡す。
角灯が消えた。
トワの白い光が、客席の一番後ろを照らす。
壁に、一脚の大きな椅子の影が現れた。
レオが声を上げる。
「いた!」
前列の観客が一斉に振り返る。
影の椅子は、見つかったと気づいたように壁を走り、舞台の裏へ逃げた。
リヴィアが管理人として飛び出す。
「待ちなさい! 明日の式典には、百二十脚必要なのです!」
舞台の反対側から、ファナが胸を反らして現れた。
青い上着に、紙で作った大きな勲章をいくつもつけている。
「王都椅子管理局より参りました、特別一等椅子監督官の――」
決められた名乗りで、声が止まった。
客席が待つ。
以前なら、失敗したと思っただろう。
ファナは襟の青いボタンへ触れた。
「……名前は長すぎて、川へ流れました!」
笑いが起きる。
「では、何とお呼びすれば?」
リヴィアが尋ねる。
「監督官様です!」
「役職だけ残ったのですね」
「大切なところだけ守りました!」
監督官は、式典に椅子が一脚足りなければ、町の格式が三段下がると言い張る。
管理人は、家の屋根や橋の修理を止めてまで椅子を探せないと断る。
すると逃げた椅子が、さまざまな姿に化けて現れた。
トワの影では、椅子の脚が煙突になる。
ダガンの仕掛けでは、背もたれが橋の欄干へ変わる。
座面はパン屋の作業台となり、丸椅子は水桶を載せた荷車になる。
客席から声が飛ぶ。
「あれは椅子じゃない、うちの屋根だ!」
「その脚は酒場のだぞ!」
「勝手に持っていくな!」
ファナは一人ずつへ言い返す。
「王都の規則では、四本脚なら椅子です!」
「牛も椅子か?」
「座る勇気があれば!」
笑いが、修理した床を揺らした。
ダガンは舞台袖で床の印を見ている。
危険な揺れではない。
トワが緑の札を確認し、次の影を壁へ送った。
物語の最後、管理人と監督官は百二十脚目を見つける。
その椅子は舞台にない。
リヴィアが客席を数え、七列目で止まった。
「そこの椅子です」
レオが自分の座る椅子を見下ろす。
「これ?」
「町中を逃げ回った最後の一脚です」
「ぼく、座ってるよ」
「では、捕まえておいてください」
レオが両手で背もたれをつかむ。
トワの光が椅子の脚へ当たり、壁に映る影だけが逃げようともがいた。
レオは必死に押さえ、客席が笑いながら応援する。
ファナが舞台から命じた。
「式典のため、ただちにその椅子を提出しなさい!」
「いやだ!」
「なぜです!」
「ぼくが、お芝居を見てるから!」
台本にはない答えだった。
ファナがリヴィアを見る。
リヴィアは管理人として、監督官の前へ立った。
「椅子は、数えるためにあるのではありません」
「では、何のために?」
「誰かが座るためです」
リヴィアが客席へ手を向ける。
「百二十脚そろったのではありません。百二十人が、ここへ座ったのです」
トワの灯りが、一脚ずつ客席を照らした。
形の違う椅子。
直した跡の残る椅子。
そのすべてに、違う人が座っている。
拍手が起きた。
リヴィアの役紋が淡く光る。
今夜の喝采魔法は、城も舟も作らなかった。
客席の下から、百二十個の小さな光が浮かぶ。
光は椅子の輪郭となり、一度だけ宙へ持ち上がった。
空の椅子ではない。
背もたれには、そこへ座る人の影が重なっている。
光の椅子は集会場を一周し、修理された床へ静かに戻った。
誰かの席がある。
それだけの、小さな魔法だった。
終演後、役所の職員が入場者と半券を確認した。
有料入場者、百二十名。
途中で帰った者はいない。
「満員条件は達成しています」
職員は言った。
「ただし、後払い票が三十一枚あります。署名と支払い内容を明朝、役所の台帳と照合します。印章はそれからです」
まだ五つ目の印ではない。
それでも百二十人は笑い、拍手し、最後まで座っていた。
公演は成功だった。
問題は、観客が帰ったあとに始まった。
ノアが集会場の机へ、四つの帳簿を並べる。
現金で受け取ったのは、銅貨二十三枚。
燕麦、固いパン、照明油、補修布。
今すぐ使える品物を合わせても、次の町まで五人と一頭を運ぶには足りない。
床や椅子を直した作業には、確かな価値がある。
だが、直った床板を集会場から剥がして売ることはできない。
後払い三十一件は、まだ帳簿の文字でしかなかった。
一方で、公演まで四日滞在した食費。
衣装と小道具。
残り少ない照明油。
五人分の契約報酬。
帳簿上の価値ではなく、今ここで動かせる金と品だけを数えると、大きく足りなかった。
「不足、銅貨百六枚」
ノアが計算結果を読み上げた。
ファナが何度か数え直す。
「百二十席、全部埋まったのに?」
「全部埋まったから、使った物も百二十人分です」
ダガンが答えた。
満員なのに、大赤字。
レナートとは違う。
今回は、黒字が少ないのではない。
次の町へ出発できないほど足りなかった。
「私が、無料公演を提案したからです」
リヴィアは言った。
「無料にはしませんでした」
ノアが帳簿から顔を上げる。
「この方法を選ぶと言ったのは、五人です」
「最初に押したのは私です」
「なら、私が撤退を主張したことも事実です。どちらか一人だけの判断にすれば、次も同じところで争います」
責任を曖昧にしているのではない。
誰か一人を悪者にして、計算を終わらせないための言葉だった。
トワが紙へ、壊れた財布と、満席の椅子を描く。
どちらにも丸をつけ、その間へ疑問符を置いた。
「芝居が成功したことと、運営に失敗したことは、同時に成り立つ」
リヴィアが読み取る。
トワはうなずいた。
青いボタンは、ファナの襟で役に立った。
床を直した仕事も、百二十人を安全に支えた。
誰の支払いも、偽物ではない。
それでも、一座を動かす対価としては足りなかった。
「明朝、後払いの帳簿を照合します」
ノアが紙をまとめる。
「支払期限は、最長で三十日です。ここで待ち続けることはできません」
「馬の燕麦は?」
「二日分」
「私たちの食事は?」
「明日の朝まで」
ファナが腹を押さえた。
「満員祝いは?」
「今回は、今日のパンが祝いでした」
「先に言わないでください」
「言わなくても増えません」
誰も笑わなかった。
角灯を消し、五人は集会場の隅で眠った。
まだ空が暗いころ、扉を叩く音がした。
リヴィアが開けると、昨日客席にいたパン屋の女が立っていた。
腕には、焼きたてのパンが入った籠を抱えている。
「切符代の残りを、持ってきたよ」
その後ろには、品物や道具を手にした町の人々が、朝靄の中へ列を作っていた。




