第30話 切符の代わりの青いボタン
「これじゃ、だめですか」
少年の掌に、青い木のボタンが載っている。
泥で汚れてはいるが、欠けてはいない。表面には小さな波模様が彫られ、裏には糸を通す穴が二つ開いていた。
リヴィアは、すぐに受け取らなかった。
「これは、あなたの物ですか」
「うん」
「家の人から、持ってきてよいと言われましたか」
少年の目が泳ぐ。
「……言ってない」
「では、今は受け取れません」
手を閉じさせる。
少年の肩が落ちた。
「銅貨じゃないから?」
「あなたの物だと、私たちには確かめられないからです。それに、受け取った物は一座で使います。あとから惜しくなっても、必ず返せるとは約束できません」
「捨てない?」
「捨てるつもりはありません。ですが、何に使うかは私たちが決めます」
大切そうだから無料で見せる、と言うのは簡単だった。
けれど、それでは少年が支払おうとしたものを、価値のない物として扱うことにもなる。
反対に、事情も聞かず受け取れば、家族の服から勝手に外した物かもしれない。
「家の人と一緒に、もう一度来てください」
「来たら、これで見られる?」
「そのときに決めます」
「今、決めてくれないの?」
「決められないことを、決めたふりはできません」
少年は不満そうに唇を尖らせた。
トワが紙へ、少年と青いボタンを描く。
その隣に切符を一枚置き、二つの間へ大きな疑問符を加えた。
少年は絵を見て、少しだけ機嫌を直す。
「ぼく、レオ」
自分を指さした。
トワも自分の名を紙へ書き、胸を指す。
「明日また来る」
レオはボタンを握り直し、泥の残る通りを走っていった。
ミレナの集会場は、町の東側にあった。
屋根と壁は残っている。
だが、扉を開けると、湿った木と泥の匂いがした。
床の半分には、救援用の小麦袋、毛布、飲み水の樽が積まれている。奥の壁には水が入った高さを示す茶色い線が残り、長椅子の脚は何本も膨らんでいた。
町の役人が説明する。
「物資は三日後までに各家へ配り終える予定です。それからなら、舞台に使っていただけます」
「床を調べる」
ダガンが四つん這いになり、一枚ずつ板を叩いた。
乾いた音。
鈍い音。
一部は泥水を吸い、釘の周りから柔らかくなっている。
「西側の床は使うな。客席を載せれば抜ける」
「修理できますか」
「板と釘があればな」
役人が困った顔をする。
「乾いた板は、壊れた家の屋根へ回しています」
「そちらが先です」
リヴィアは答えた。
芝居のために、家の屋根から板を奪うわけにはいかない。
無事な東半分だけでは、百二十脚の椅子を安全に置けなかった。
「立ち見なら入りませんか」
ファナが尋ねる。
「床にかかる重さは減らない」
ダガンが即座に却下した。
「それに、避難路を塞ぐ」
申請時に決められた満員条件は、有料入場者百二十名。
会場を変えるには、役所の再確認が必要になる。
外の広場はまだ泥が深く、舞台馬車も入れない。
たとえ会場を直せても、切符を買える者がいない。
問題が一つずつではなく、同時に並んでいた。
「公演を取りやめても、違約金はありません」
役人が言った。
「災害後ですから、巡業管理局にも事情を報告できます」
「満員印は得られませんね」
「残念ですが」
期限まで、残り四十八日。
必要な印は、あと三つ。
一つの町で何日使えるかを考えれば、余裕があるとは言えない。
「無料で上演することは?」
リヴィアが尋ねた。
「町としては、ありがたいです。子どもたちはずっと片づけを見て過ごしていますから」
「その場合も、印はありませんか」
「有料公演ではありませんので」
無料なら客は集まる。
だが、一座には銅貨四枚しか残っていない。
馬の飼料も、明日までの分しかなかった。
公演をすれば、照明油も道具も減る。
善意だけでは、次の町へ進めない。
「現金以外を切符代にできますか」
ノアが規則書を開いた。
役人はしばらく頁を確かめてから答える。
「品物による支払いは認められています。互いに価値へ合意し、受け取った品と切符番号を帳簿へ記録すれば、有料入場者に数えられます」
「木のボタンでも?」
「一座が値段を決め、実際に受け取るなら。ただし、満員印のためだけに同じ石を渡して返すような形は認められません」
見せかけの支払いでは駄目だ。
受け取った物が一座のものとなり、何らかの価値を持つ必要がある。
「労働は?」
ダガンが聞いた。
「役務による支払いも契約はできます。ただ、仕事が終わる前に有料入場として数えてよいかは、私では判断できません」
「後払いは認められないのですか」
「禁止する条文はありません。ですが、払われなければ無料と同じです。印を押したあとでは確認できない」
規則の隙間を使えば、印だけ得る方法はあるかもしれない。
だが、今必要なのは印だけではなかった。
食料。
飼料。
次の町までの橋代。
一座が実際に使える対価が必要だった。
集会場を出ると、レオが母親らしい女性を連れて待っていた。
女性は腰へ裁縫籠を下げ、泥で色の変わった布を何枚も抱えている。
「息子が勝手なことを言ったそうで、申し訳ありません」
「まだ何も受け取っていません」
リヴィアが答える。
「そのボタンは、レオ君の物ですか」
「はい。去年、自分で模様を彫った物です。古い上着を雑巾へ直すとき、好きなボタンを一つ取っておいてよいと言いました」
レオが右手を開く。
洗ってきたらしく、青い波模様が先ほどよりよく見えた。
「売れば、いくらになりますか」
女性は驚いた顔をしたあと、ボタンを確かめた。
「この大きさの木のボタンなら、銅貨一枚です。模様は少し不揃いですが、硬い木ですし、留め具としては使えます」
「ぼくのだから、ぼくが値段を決める」
「売る側だけでは決められません」
リヴィアが言うと、レオは眉を寄せた。
「では、子どもの切符を銅貨一枚にして、このボタンを同じ価値で受け取ることに、二人が合意できますか」
「お芝居のあと、返してとは言えない?」
「言えません。一座の衣装か看板に使います」
レオはボタンを何度か握った。
手放したくないなら、それでもよい。
見せるために急かすつもりはなかった。
やがてレオは、ファナの衣装箱からのぞいていた青い上着を指さす。
「あれにつけて」
上着の襟元には、ボタンが一つ足りなかった。
ファナが取り出して重ねてみると、大きさはちょうど合う。
「私の衣装でよいのですか」
「お芝居で着る?」
「役に合えば」
「じゃあ、使って」
レオが差し出した。
リヴィアは母親にも確認する。
女性は息子の顔を見てから、うなずいた。
「本人が決めた物です」
「確かに受け取ります」
青いボタンを切符箱へ入れる。
代わりに、子ども一名分の切符へ町名と席番号を書き、日付欄だけを空けた。
支払い欄には、銅貨一枚ではなく、青い木のボタン一個。
「公演日は、まだ決まっていません」
リヴィアはレオへ伝えた。
「中止になった場合は、ボタンを返します。上演する場合は、この切符で必ず一席を用意します」
レオは両手で切符を持った。
「一番前?」
「席は七列目の端です」
「どうして?」
「今、安全に置ける場所がそこしかないからです」
レオは少し残念そうだったが、切符を胸へ押し当てた。
それを見ていた母親が、裁縫籠を持ち上げる。
「私も見たいのですが、銅貨は出せません。破れた衣装を直す仕事では駄目ですか」
近くで話を聞いていた男も口を挟む。
「馬の飼料なら、濡れなかった燕麦が少しある」
「椅子の脚を作れるぞ」
「公演後なら、パン代を払えるかもしれない」
一人が申し出ると、周囲の住民から次々に声が上がった。
どれも、今の一座に必要なものだった。
同時に、今の町の人々にとっても必要なものだった。
受け取ってよい量。
仕事を切符何枚分と数えるか。
後払いを、どこまで信じるか。
人によって違う対価を受け取れば、不公平だと思う者も出る。
「何でも持ってきてください、と呼び歩きますか?」
ファナが尋ねる。
「まだ駄目です」
ノアが止めた。
「条件を決めずに集めれば、断るべき物まで受け取ることになります」
リヴィアは、青いボタンが入った切符箱を見た。
一枚目の切符は売れた。
だが、残る百十九席の値段は、まだ決まっていなかった。




