第28話 四つ目の印と正体
「あの夜、『月冠の姫』を代演したのは――あなたではありませんか」
記者の問いが、拍手の余韻を切った。
客席にざわめきが広がる。
王立劇場創立百周年の記念公演。
看板女優セリア・ローネが倒れた夜、銀の仮面をつけた代役が舞台を救ったという話は、レナートまで届いていた。
新聞はセリアの復活と公演の成功を大きく報じた。
代役の名前だけは、どこにも載らなかった。
トワが、周囲の変化を見てリヴィアを振り返る。
リヴィアは手振りで伝えた。
――昔の舞台に立ったのが、私かと聞かれています。
トワは新聞の銀の仮面を見てから、うなずいた。
代わりに答える必要はない。
隠す必要もない。
そう言うように、一歩下がった。
「はい」
リヴィアは記者を見て答えた。
「あの夜、舞台に立ったのは私です」
ざわめきが大きくなる。
「では、セリア・ローネは出演していなかった?」
「開演前に倒れ、医師の診察を受けていました。公演を中止しないため、私が代演しました」
「王立劇場は、その事実を公表しなかった」
「出演記録へ私の名前を残さないと決めたのは、劇場です」
「あなたは、それに抗議して辞めたのですか」
記者のペンが紙の上で待っている。
怒りを語ることもできた。
十二年間、何度名前を消されたか。
誰の衣装を着て、誰の台詞をつなぎ、誰の拍手として受け取られたか。
だが、今夜の舞台を、王立劇場への告発だけに変えたくはなかった。
「名前を残してほしいと求め、必要ないと言われました。それで、辞めると決めました」
事実だけを答えた。
「喝采魔法が、あなたこそ本当の代役だったと示したのでしょうか」
「いいえ。喝采魔法は、過去の真実を暴く力ではありません」
リヴィアは左手首を隠さなかった。
青銀の光は消えている。
細い円の内側には、以前からあった小さな曲線と、今夜加わった短い線が残っていた。
「あれは、ここにいた皆さんが今夜の物語を信じたことで生まれた演出です。王都の公演記録とは別のものです」
「ならば、代演した証拠は?」
「劇場に出演記録の空欄があります。当時の役者と舞台係も知っています。必要なら、そちらへ確認してください」
自分の経験を、自分の魔法で証明しなければならないとは思わない。
記者は一度ペンを止め、質問を変えた。
「なぜ、その経歴を宣伝に使わなかったのですか。『王立劇場を救った幻の姫』と出せば、残り二十三席も早く売れたはずです」
「今夜上演したのは、『月冠の姫』ではありません」
「しかし、話題にはなる」
「切符を買った方へ、別の芝居の評判を売ることになります」
王立劇場の名を出せば、客は集まったかもしれない。
けれど、それでは今夜もまた、リヴィアは誰かの看板の下へ立つ。
「私は、王立劇場で代役をしていました。それは隠しません」
リヴィアは、舞台に残る白い帆へ手を置いた。
「ですが今夜の私は、〈青い天幕〉の役者として、渡し守を演じました」
客席のどこかから、声が上がった。
「そうだよ」
最前列の魚売りだった。
「王立劇場の姫だと知って切符を買ったんじゃない。そこの新人が、俺の魚を売れと言うから来たんだ」
「まだ売っていなかったんですか?」
ファナが思わず聞き返す。
「今日の分は売った!」
「では、明日の魚も売ってください!」
「明日の話を今するな!」
張りつめていた空気が、笑いでほどけた。
白い包みの中に名前が入っていると言った少女も、手を上げる。
「最初に名前を言ってたよ」
「え?」
「お芝居が始まるとき。リヴィア・フェンですって」
少女には、王立劇場の事情など関係ない。
銀の仮面の姫君でも、名もなき代役でもない。
今夜、自分の前で名乗った人が、リヴィア・フェンだった。
渡し場の老人が、記者へ言う。
「昔どこで何を運んでいたかは、書けばいい。だが、今夜の舟まで王立劇場の荷物にするなよ」
記者は苦笑し、紙へその言葉を書き留めた。
「記事にするなら、どう名乗りますか」
リヴィアは一人で答えなかった。
トワへ視線を送る。
トワが、今夜の宣伝板を舞台中央へ運んだ。
リヴィア・フェン。
ファナ・ベル。
トワ。
ダガン。
ノア・ヴァイス。
五人の名前が、同じ大きさで並んでいる。
「旅一座〈青い天幕〉です」
リヴィアが言った。
「今夜の舞台を作った者として、この五人の名前を載せてください」
「ファナさんは、客演とありますが」
「そこは、まだ契約中です」
「今、私が答えるところですか?」
突然話を向けられたファナが慌てる。
「決められた台詞ではありません」
ノアが言うと、客席から期待するような笑いが起きた。
ファナは五人分の名前を見た。
「でしたら、記事が出るころまでには決めます」
「新聞は朝に出ますよ」
「そんなに早いんですか?」
「新聞ですから」
再び笑いが起きる。
記者は、今度は五人全員の名前を確かめてから手帳を閉じた。
そこへ、催事役所の職員が入場記録を持ってきた。
「確認を始めてもよろしいですか」
笑っていた一座の顔が、一斉に引き締まる。
開演時点では、百五十一人。
あと九人、足りなかった。
「途中入場者がいます」
職員は、九枚の半券を机へ並べた。
予定より早く運搬船が通ったとき、対岸で橋が下りるのを待っていた仕事帰りの荷役人たちだった。
九人全員が入口で二銅貨を払い、三つ目の荷物から最後まで観劇している。
客席の最後列を見る。
空いていた九脚には、汗の染みた仕事着の男女が座っていた。
「始まる前に来たかったんだ」
一人が申し訳なさそうに言った。
「西倉庫の積み下ろしが長引いた。橋まで上がるし」
「舞台に入ってきた六本目の運河ですね」
ファナが言う。
「あの船に通行料を請求しておいてくれ」
有料入場者、百六十名。
用意した客席も、百六十席。
途中で帰った者は、一人もいない。
規定数へ、ぴたりと届いていた。
催事役所の職員が上演確認書へ署名する。
「東第三荷揚げ広場、『五つの運河と荷札のない舟』。満員を確認しました」
ノアが巡業札を開く。
一つ目は、交差するつるはし。
二つ目は、風の中に開いた手。
三つ目は、開いた砦門と車輪。
四つ目の円へ、レナートの印章が押された。
五本の波と、その上を渡る一艘の舟。
四つ目の満員印だった。
トワが印章を覗き込み、今夜の光の舟と同じだと伝えるように、リヴィアの手首を指した。
役紋に残った新しい線が何を意味するのかは、まだ分からない。
ただ、借りた花冠は一晩で消えた。
この線は、消えずに残っている。
期限まで、残り五十日。
必要な印は、あと三つ。
客席が帰り始めると、対岸の水鏡大劇場からも観客が出てきた。
その中に、王立劇場の使者がいた。
彼はリヴィアへ小さな伝言紙を渡す。
――こちらも無事に幕が下りました。
――代演者の名前が、最後まで呼ばれました。
――あなたの舞台は、どうでしたか。
セリアの筆跡だった。
リヴィアは巡業札の四つ目の印を見せるように、返事の紙を重ねた。
――満員でした。
少し考え、もう一行を加える。
――リヴィア・フェンとして、幕を下ろしました。
翌朝、ファナは舞台馬車を訪れた。
手には、刷り上がったばかりのレナート通信を持っている。
一面の見出しには、王立劇場の名前も、名もなき代役という言葉もなかった。
――五本の運河を渡った、新しい舟。
その下に、五人の名前が載っている。
「朝までに決めると言いましたので」
ファナが記事を畳んだ。
「〈青い天幕〉に入れてください」
「旅に出ることになります」
「分かっています」
「給金は王立劇場よりかなり低いです」
「それも、昨日聞きました」
「決められた台詞がある芝居も上演します」
ファナの顔が曇る。
「ない芝居もありますか?」
「ノアさん次第です」
全員がノアを見る。
「脚本家としては、一行くらい読んでいただきたい」
「一行から練習します」
ファナは答えた。
「でも、言えなかったときに、終わりだと決めないでください」
「終わりにしないための戻り道も、台本に書きます」
ノアが新しい契約書を差し出す。
役職は、役者・呼び子。
氏名は、ファナ・ベル。
彼女は一度深く息を吸い、自分の名前を署名した。
〈青い天幕〉の五人目の団員が決まった。
四つの満員印と、五人の名前。
今度は、どこにも空白がなかった。




