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王立劇場で十二年間、名無しの代役でしたが、外れ役紋【空白】で旅一座を始めます~訳あり役者の舞台は今日も満員です~  作者: やまご


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第27話 私の名前で幕が上がる

 開演一時間前、空席は九つあった。


 前売りで百三十七席。


 当日券が十四席。


 東第三荷揚げ広場には百五十一人の観客が集まり、残る椅子だけが、やけに広く見えた。


「あと九人くらい、どこかにいませんか」


 ファナが運河の両側を見回す。


「倉庫の中を探すなよ」


 客席の綱を確かめながら、ダガンが言った。


「まだ探していません」


「顔が探していた」


「顔で判断しないでください」


 トワが二人を見て、倉庫へ忍び込もうとするファナの絵を掲げた。


「トワまで!」


 観客の何人かが、開演前から笑っていた。


 だが、九席は空いたままだ。


 満員印に必要なのは、有料入場者百六十名。


 ここまで来て一人でも足りなければ、四つ目の印は得られない。


「開演を遅らせますか」


 ノアが尋ねた。


 催事役所から許されているのは、第七鐘から第九鐘までだった。遅らせれば、終演後の片づけが荷揚げ再開の時刻へ重なる。


 リヴィアは首を横へ振った。


「時間どおり始めます。来ている百五十一人を、待たせる理由にはなりません」


 ダガンがうなずき、舞台の留め具へ最後の安全札を結んだ。


 対岸の水鏡大劇場に、灯りが入る。


 金糸の旗の下には、細長い白紙が新しく貼られていた。


 本日の姫君役。


 そこにはセリアではなく、代演する若い女優の名前が記されている。


 セリアは約束どおり、自分の名で代役を隠さなかった。


 第七鐘が鳴った。


 水鏡大劇場から、『月冠の姫』の序曲が流れてくる。


 低い弦の音が三つ。


 続いて笛が入り、四拍後に姫が最初の一歩を踏み出す。


 リヴィアの右足が、わずかに前へ出た。


 十二年間染み込んだ合図だった。


 だが、今夜の開幕は、その音ではない。


 舞台袖を見る。


 トワがリヴィアと視線を合わせ、青い角灯の覆いを外した。


 光が一度、明滅する。


 〈青い天幕〉の合図だった。


 リヴィアは右足を戻し、自分たちの一歩目を踏み出した。


 仮面はない。


 姫君のドレスもない。


 着ているのは、擦れた革の上着と、水仕事用の短い長靴。腰には太い綱を巻いている。


 舞台の中央で、百五十一人の顔を見た。


「今夜、渡し守を演じます」


 息を吸う。


「リヴィア・フェンです」


 自分の名を言っても、役が壊れることはなかった。


 トワが描いた五本の青い線が、倉庫の白壁へ広がる。


 影の町に大粒の雨が降り、五つの運河が荒れた。


 ダガンが滑車を引く。


 舞台の端から、平底船がゆっくりと滑り出した。


 乗っているのは、五つの荷物。


 そして、ずぶ濡れになった新人荷役人だった。


「わ、私は本日より、この由緒正しき渡し場に配属されました、新人の――」


 ファナの声が、予定どおり止まった。


 客席が静かになる。


 稽古では、ここから三つの戻り方を用意していた。


 リヴィアが鐘を鳴らす。


 トワが名前を書き忘れた荷札の絵を出す。


 ファナ自身が台詞を捨てて、客へ助けを求める。


 ファナは、そのどれも選ばなかった。


「……舟が先に名乗るべきではありませんか?」


 平底船を指さす。


「私より大きな顔をして入ってきました!」


 笑いが起きた。


「舟に顔はありません」


 リヴィアが渡し守として返す。


「では、あの魚のような物は?」


「船首です」


「魚の頭では?」


「船首です」


「お客さんは、どちらだと思いますか?」


 ファナが最前列の男へ聞いた。


 昨日の魚売りだった。


「売れ残った魚だ!」


「あなたは早く魚から離れてください!」


 広場に大きな笑いが弾けた。


 最初の荷物は、匂いだけで持ち主が分かった酢漬け魚の樽。


 二つ目は、左右で大きさの違う長靴。


 三つ目は、橋番が紛失した巨大な鍵。


 トワが荷物の影を壁へ映すたび、客席から答えが飛んでくる。


 ファナは正解を聞いても、すぐには認めない。


「長靴にしては、酒が入りそうです」


「飲むな!」


「空ですよ?」


「なおさら飲むな!」


 客の言葉を拾い、話を思いがけない方向へ運ぶ。


 行き過ぎれば、リヴィアが渡し守の鐘を鳴らした。


「新人。第五鐘までに荷を返せなければ、今日の運賃は出ない」


「先に言ってください!」


「最初の挨拶を最後まで聞けば、伝える予定でした」


「あの挨拶には、そんな大事なことが入っていたのですか?」


 また笑いが起きる。


 笑いの中でも、物語の舟は止まらない。


 リヴィアはファナの次の言葉を待ち、トワが光を変える時間を作り、船が定位置へ着くまで客の視線を引き受けた。


 誰かを自分の形へ合わせるのではない。


 違う動きをする者たちの間へ道を通す。


 渡し守という役を、リヴィアはまだ知らない。


 だから、今ここで見つけていく。


 三つ目の荷を返したところで、予定より早く本物の運搬船が運河へ入ってきた。


 橋番の鐘が、激しく四度鳴る。


 船頭の掛け声と水音が、ファナの声を消した。


 運搬船の波が石岸へ当たり、舞台の平底船まで小さく揺れる。


 ダガンが即座に固定綱を締めた。


 赤い安全札は出ない。


 続行できる。


 リヴィアは、騒音に負けて台詞を張り上げなかった。


 舞台の鐘を手に取り、橋番と同じ四度を打つ。


 トワが数を見て、壁の影へ巨大な船を加えた。


 ファナが運河を通る本物の船へ手を振る。


「六本目の運河が、勝手に舞台へ入りました! 通行料を取ってください!」


 客席が一斉に本物の船を見る。


 船頭は事情も分からないまま帽子を振った。


 船が通り過ぎ、上がっていた橋が下りる。


 対岸で足止めされていた仕事着の一団が、切符売り場へ走ってきた。


 係員が何人を通したのか、舞台上のリヴィアからは数えられない。


 舞台と町の境が、一瞬だけ消えた。


 四つ目の荷を返し、物語は最後の舟着き場へ着く。


 残ったのは、何の印もない白い包みだった。


 台本では、ファナが客席へ中身を尋ねる。


 答えが何であっても包みを開き、中から白い帆を出す手順だ。


「これは、何だと思いますか?」


 ファナが、一番端に座る少女へ尋ねた。


 少女はしばらく考えた。


「名前」


 予想していなかった答えだった。


「名前が、包んであるの?」


「ううん。その人の名前。荷札が取れたから、持ち主が中に入れたの」


 ファナが黙った。


 笑いへ変える言葉が、出てこない。


 客席も、次の台詞を待っていた。


 リヴィアの腰には、物語を戻すための鐘がある。


 鳴らせば、台本どおり包みを開けられる。


 だが、それでは今の答えを、なかったことにしてしまう。


 リヴィアは白い包みを持ち上げた。


「荷札がなくても、荷物の中身まで消えるわけではありません」


 書かれていない台詞だった。


「けれど、名前は中へしまっておくものでもない」


 少女の前まで歩く。


「渡し終えるまで、あなたが預かってくれますか」


 白い包みを渡す。


 少女が抱えると、ファナがそっと尋ねた。


「この荷物の持ち主は、どんな人でしょう」


「舟を動かす人」


「船長ですか?」


「綱を引く人も。橋を上げる人も。荷物を数える人も」


 周りの観客から、さらに声が上がる。


「船底の穴を塞ぐ人!」


「夜中に灯りをつける人!」


「運賃を払う人も入れろ!」


 最後の声は渡し場の老人だった。


 笑いが戻る。


 少女が包みを開いた。


 中から現れた白い帆を、客席から舞台へ渡していく。


 いくつもの手が布を送り、リヴィアが受け取り、ファナと二人で平底船へ張った。


 トワの光が帆を照らす。


 そこへ、綱を引く者、橋を上げる者、荷を数える者の影が次々と映った。


 ノアが書いた最後の台詞を、リヴィアは自分の声で言った。


「ひとりでは渡れないから、舟には名前が必要なのです」


 ファナが帆の綱を引く。


 ダガンが舞台の固定を外す。


 五本の運河を描いた光の上を、平底船がゆっくり進んだ。


 拍手が起きた。


 最初は、白い帆を渡した客席から。


 次に魚売りが立ち上がり、渡し場の老人が手を叩く。


 百を超える音が、倉庫の壁と水面に反響した。


 リヴィアの左手首が熱くなる。


 〈姫君〉の花冠ではない。


 〈英雄〉の剣でも、〈道化〉の鈴でもない。


 小さな曲線を抱いていた〈空白〉から、細い青銀の線が五本伸びた。


 喝采魔法の光が、倉庫の壁を越える。


 五本の運河が夜空へ浮かび、その上を一艘の光の舟が進んだ。


 舟の中に、英雄はいない。


 王も、姫もいない。


 綱を引く手。


 荷を支える背中。


 対岸から合図を送る腕。


 名も役紋も異なる人々の影が、一つの舟を運んでいた。


 既存のどの役にもない光景だった。


 そしてリヴィアの〈空白〉は、誰の紋も借りていなかった。


 光の舟が対岸へ着く。


 リヴィアは仮面のない顔で、客席へ頭を下げた。


「リヴィア!」


 名前が呼ばれる。


「ファナ!」


「トワ!」


「怖い安全係!」


「それは役名ではない!」


 ダガンの声に、笑いと拍手が重なった。


 幕のない舞台で、五人は何度も礼をした。


 そのとき、客席の後ろから一人の男が進み出た。


 手には、王都の創立記念公演を報じた古い新聞がある。


 胸元には、レナート通信の記者章をつけていた。


 そこに印刷されているのは、銀の仮面をつけた姫君だった。


「私は、あの夜も客席にいました。この声と、予定外の出来事を舞台へ変える間を覚えています」


 男は銀の仮面が載った紙面から、リヴィアへ視線を移した。


「あの夜、『月冠の姫』を代演したのは――あなたではありませんか」

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