第26話 借り物ではない脚本
「一度、試してみましょう」
リヴィアは『月冠の姫』の台本を開いた。
借り物だから駄目だと、最初から決めつけるつもりはない。
古典を演じること自体は悪くなかった。何十年も残った物語には、残るだけの理由がある。
四日で新作を仕上げなければならない今、全員が知っている題名を使える利点も大きい。
「人数を減らすなら、姫と老王と侍女の三役です」
リヴィアが配役表を書く。
「私は姫。ファナさんに侍女をお願いします。老王は――」
ノアとダガンを見る。
「私に王の役紋はない」
「俺は大道具だ」
二人がほぼ同時に断った。
トワが自分を指し、長い髭を撫でる仕草をする。
「トワが老王ですか」
大きくうなずいた。
「無言でも、影絵と絵札で台詞を表せますね」
トワは満足そうに、紙で作った王冠を頭へ載せた。
ダガンが舞台馬車の床へ簡単な城門を立てる。
月の張り物は間に合わないため、トワが丸く切った白布を倉庫の壁へ映すことにした。
ノアは三人用に台詞を削った。
二時間後、最終幕だけの試演が始まった。
リヴィアは銀の仮面を持っていない。
それでも一歩目を踏み出せば、身体は光の位置を探した。
「月よ。どうか今宵だけは、帰らぬ人を照らさないで」
声の高さ。
指先の角度。
振り返るまでの呼吸。
十二年間で身につけた姫君が、何の迷いもなく戻ってくる。
左手首の、小さな曲線を抱いた〈空白〉に、一夜限りの花冠が浮かびかけた。
台本を持ったノアが、老王の台詞を読み上げる。
その横でトワが杖を掲げ、影の城門を開いた。
次は、侍女の一言だった。
「姫様、民は……」
ファナの声が止まる。
「民は、城門の……ええと」
稽古で見ているのは、四人だけだ。
市場より人は少ない。
それでも、決められた一行を正しく言おうとした途端、呼吸が浅くなっていた。
「台本を見ても構いません」
リヴィアが姫の姿勢を保ったまま伝える。
ファナは紙を見た。
「民は、城門の……外と中、どちらでしたか」
「内側です」
「門を開けたら、危なくないですか」
「今は役の疑問ではなく、台詞を」
「ですが、敵が外にいるのに開けますよね?」
ファナが真顔で尋ねた。
トワが杖を下ろす。
ダガンも、作りかけの城門を見た。
「確かに危ないな」
「三十年、その場面で誰も言わなかったことを言わないでください」
ノアが額を押さえる。
ファナは慌てて口を閉じた。
稽古を再開すると、彼女はまた同じ一行で止まった。
三度目も。
四度目には言えたが、今度は声が役所の裏庭で聞いたものより小さかった。
最後まで通したあと、誰も成功とは言わなかった。
リヴィアの姫は完成していた。
だからこそ、この芝居では他の全員が、その周囲へ合わせるだけになっていた。
トワの影絵は、王立劇場にある月の代用品。
ダガンの城門は、本物を小さくした物。
ファナは、言えない台詞を言えるまで直される侍女。
ノアの仕事は、三十年前の脚本を三人用に削ること。
「できます」
リヴィアは台本を閉じた。
「四日あれば、公演の形にはできます」
「では、これで?」
ノアが尋ねる。
「いいえ」
答えは、口にしてから分かった。
「王立劇場より小さい『月冠の姫』を作っても、観客には向こうを思い出させるだけです。それに、この台本には、今の私たちが立つ場所がありません」
有名な物語の役へ全員を押し込めれば、早い。
だが、それはファナが台詞を言えない理由を、彼女の不足として片づけることになる。
トワの影も、ダガンの仕掛けも、足りない物を埋めるためだけに使われる。
何よりリヴィア自身が、また知っている誰かの歩幅で舞台を歩く。
「なら、何を演じたいですか」
ノアが白紙を一枚、机へ置いた。
何ができますか、ではない。
何を求められていますか、でもない。
リヴィアが最も答えにくい問いだった。
広場の外では、荷揚げの鐘が鳴っている。
船頭の掛け声。
濡れた綱を引く音。
橋を上げる者と、荷を数える者と、対岸で待つ者。
「この町で、毎日ここに立っている人を演じたいです」
リヴィアは言った。
「姫でも英雄でもない。誰かと荷物を、向こう岸へ渡す人を」
ノアは白紙へ、最初の一行を書いた。
――渡し守が、荷札の剥がれた舟を見つける。
「題材にするなら、本人たちへ聞きましょう」
ファナが首を傾げた。
「渡し守にですか?」
「荷役人にも。勝手に想像して間違えるより早い」
その日の午後、五人は東第三荷揚げ広場で働く人々を訪ねた。
ファナの半日契約は、もう終わっている。
それでも彼女は帰らなかった。
「公演の話を聞いたら、結末が気になります」
「出演を頼む場合は、別に報酬を払います」
リヴィアが伝える。
「まだ、頼まれていません」
「これから頼みます」
「なら、先に聞かなかったことにします」
ファナはそう言って、渡し場の老人へ声をかけた。
「舟で一番困るのは、嵐ですか?」
「荷主だ」
老人は即答した。
「自分の荷は先に運べ、だが運賃は後で払うと言う」
隣で綱を巻いていた女が笑う。
「荷札が濡れたときも困るよ。去年、五つの船着き場で樽を押しつけ合った」
「中身は何だったんですか」
「酢漬けの魚」
「匂いで分かりませんか?」
「分かったから、誰も引き取りたがらなかったんだ」
ファナが腹を抱えて笑った。
ノアのペンが動く。
荷を積む順番。
水位によって通れなくなる橋。
五つの運河で異なる鐘の合図。
立派な船長が出てくる芝居は多いのに、荷を降ろす者はいつも背景にしかいないこと。
話を使ってよいか一人ずつ確かめ、名前を出されたくない者の記録には印をつけた。謝礼として、公演の切符を渡した。
聞き取りが終わるころ、白紙には町の言葉が詰まっていた。
ただし、そのまま並べても芝居にはならない。
ノアが選び、リヴィアが動きに変え、トワが絵を足す。
ダガンは古い荷車の車輪と渡し板を使い、舞台を横切る小さな平底船を作った。
物語は、五本の運河を巡る喜劇になった。
嵐の翌朝、荷札をすべて失った舟が流れ着く。
渡し守は、五つの荷を日暮れまでに正しい持ち主へ返さなければならない。
手伝うのは、仕事初日の荷役人。
彼女は決められた挨拶をするたび失敗するが、荷主と口喧嘩を始めると、なぜか手がかりを見つけていく。
渡し守を、リヴィア。
新人荷役人を、ファナ。
五つの運河と荷物の姿を、トワ。
舟と橋を、ダガン。
脚本を、ノア。
全員に、その人でなければならない場所があった。
「私の台詞が、空白です」
ノアから渡された台本を見て、ファナが言った。
彼女の台詞欄には、文章ではなく指示だけがある。
――客席の一人へ、最初の荷が何に見えるか尋ねる。
――答えを否定せず、渡し守を困らせる方向へ話を進める。
――第五鐘までに、必ず舟へ戻る。
「何を言ってもよいわけではありません」
リヴィアは説明した。
「物語の行き先と、越えてはいけない線は決めます。客を傷つける言葉は禁止。困ったときの戻り方も三つ稽古します」
「台詞を覚えるより、多くありませんか」
「多いですね」
「騙されました」
「まだ出演契約へ署名していません」
ファナは台本と契約書を見比べ、先に契約書へ署名した。
「これで騙されたことにできます」
稽古では、同じ場面を何度も違う答えで試した。
トワが魚、長靴、王冠、空の箱を順番に掲げ、客の代わりをする。
ファナが話を横道へ運びすぎれば、リヴィアが渡し守として鐘を鳴らす。
言葉が止まれば、トワの絵を見て再開する。
危険な位置へ出れば、ダガンが稽古を止める。
失敗をなくすのではなく、失敗しても物語へ戻れる道を作った。
三日目の夜、最後の一行が書き上がった。
題名は、『五つの運河と荷札のない舟』。
新しい宣伝紙には、月も、姫も、王立劇場の名前も使わなかった。
トワが描いたのは、五本の水路を進む一艘の舟。
その下に、五人の名前が並んでいる。
主演、リヴィア・フェン。
客演、ファナ・ベル。
舞台美術、トワ。
舞台機構、ダガン。
脚本・演出、ノア・ヴァイス。
公演まで、あと一日。
予約は百三十七席。
残る二十三席と、誰も見たことのない結末を載せて、借り物ではない幕が上がろうとしていた。




