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王立劇場で十二年間、名無しの代役でしたが、外れ役紋【空白】で旅一座を始めます~訳あり役者の舞台は今日も満員です~  作者: やまご


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第25話 あなたの名前を看板にする

 白い封筒の中には、短い手紙と入館証が入っていた。


 ――明朝、第五鐘に水鏡大劇場へ来てほしい。


 ――あなたへの正式な出演依頼があります。


 ――セリア・ローネ。


 リヴィアは手紙を三人へ見せた。


 トワが、すぐに紙へ書く。


 ――王立劇場へ戻りますか。


「話を聞くことと、戻ることは別です」


 そう答えながらも、リヴィアは封筒を持つ指へ力を入れていた。


 王立劇場で十二年働き、正式な出演依頼を受けたことは一度もない。


 代役の命令は、いつも口頭だった。


 誰かが倒れたあとで呼ばれ、名前のない出演札を渡される。それを依頼だと思ったことはなかった。


「行ったほうがいい」


 ダガンが言う。


「条件を聞き、契約書を持ち帰れ。その場では署名するな」


「私も行きます」


 ノアが続けた。


「手紙には、リヴィアさんへの依頼とあります」


「今の私は〈青い天幕〉の団員です。公演日が重なっている以上、一座と無関係な契約ではありません」


「劇場が座長の同席を認めなければ?」


「帰ります」


 それを聞いたトワが、もう一枚書いた。


 ――では、戻らないと思います。


「まだ何も決めていません」


 リヴィアが手振りと一緒に返すと、トワは分かっていますという顔でうなずいた。


 翌朝、水鏡大劇場の正面には、開場前から切符を求める列ができていた。


 六百席の大劇場。


 東第三荷揚げ広場の三倍以上の客席。


 〈青い天幕〉が昨日一日で売った切符は、合計六十四枚だった。


 残り九十六席。


 比べるつもりがなくても、数字は勝手に並ぶ。


 リヴィアとノアは、手紙に記された関係者用の入口へ回った。


 扉を守る係員へ入館証を渡す。


「お名前を」


「リヴィア・フェンです。こちらは〈青い天幕〉座長のノア・ヴァイス」


 係員は名簿を確かめた。


「リヴィア・フェン様。お待ちしておりました」


 ただそれだけのことだった。


 自分の名を言い、名簿に同じ名があり、扉が開く。


 王立劇場では、一度もなかった手順だった。


 廊下の先では、月の張り物を吊る作業が進んでいた。大道具係が綱を引き、舞台監督が合図を出している。


 張り物が途中で傾いた。


「右の綱を止めてください」


 リヴィアは反射的に声を上げた。


 大道具係が手を止める。


 左側の滑車へ、ほつれた綱が噛み込んでいた。このまま引けば、月は枠へぶつかっていただろう。


「助かりました」


 若い舞台監督が青ざめて礼をする。


 リヴィアは、月の下へ走りそうになった自分の足を止めた。


「綱を交換して、もう一度荷重を確かめてください。私はこの劇場の担当者ではありません」


 事故を見過ごさないことと、黙って仕事を引き受けることは違う。


 第一楽屋では、セリアが待っていた。


 銀の冠も舞台化粧もなく、濃紺の稽古着を着ている。顔色は悪くない。


 ただ、挨拶の声が以前より低かった。


「来てくれて、ありがとう」


「出演依頼とありましたので」


 リヴィアはノアを紹介した。


「彼は座長です。同席を認めていただけないなら、依頼は受けられません」


「もちろんよ。二人分の椅子を用意して」


 セリアの向かいには、王立劇場の巡業監督が座っていた。


 彼はノアを一度見ただけで、革張りの契約書を机へ置いた。


「ベルモンド支配人から、全権を預かっています」


 契約期間は十八日。


 演目は『月冠の姫』。


 リヴィア・フェンを、セリアと並ぶ交代主演として登録する。


 次の追加広告から、二人の名前を同じ大きさで掲載する。


 出演料は銀貨十八枚。


 〈青い天幕〉の負債を大きく減らせる額だった。


「交代主演とは、どの公演へ出演するのでしょうか」


 リヴィアが尋ねる。


 巡業監督は、契約書の予定欄を指した。


「セリアの体調に応じて決めます。まずはレナート公演で待機していただき、その後の三都市にも同行を」


「セリア様が出演できる場合は?」


「あなたには舞台進行と稽古補佐をお願いします。万一の際には、すぐ主役へ入っていただく」


 名前は交代主演。


 仕事は、代役と舞台監督補佐。


 書かれる文字だけが大きくなり、求められている役目は以前と同じだった。


「どうして、今になって私を?」


 セリアが答える前に、巡業監督が口を開いた。


「創立記念公演の代演者があなただったと、セリアから報告を受けました。王都で話題になった最後の演出も、あなたの判断だったそうですね」


「事実です」


「ならば宣伝にもなる。名もなき代役の正体が、今度は正式な主演として現れる。新聞が好む筋書きです」


「私には名前があります」


「ですから、今度はあなたの名前を看板にする、と申し上げています」


 巡業監督は善条件を示したつもりなのだろう。


 実際、以前よりはるかによい。


 名が載る。


 高い報酬が出る。


 主演として契約へ記録される。


 十二年間欲しかったものが、机の上へ並んでいる。


「〈青い天幕〉は、同じ日に公演があります」


「承知しています。荷揚げ広場の取り消し費用はこちらで負担しましょう。売れた切符の払い戻し分も支払います」


「満員印は?」


「旅一座の印より、王立劇場の主演歴のほうが価値は高い」


 誰にとって、とは言わなかった。


「ノアさん」


 リヴィアは隣を見た。


 ノアは契約書を最初から最後まで読み終えていた。


「条件だけを見れば、受けたほうが得です」


 彼は静かに言った。


「一座の負債は減り、今後の公演も組みやすくなる。ですが、これはあなたへの依頼です。私が決めることではありません」


「引き留めないのですか」


「引き留めれば、残りますか」


 すぐには答えられなかった。


 以前のリヴィアなら、必要だと言われた場所へ残っただろう。


 誰かが困る。


 自分なら穴を埋められる。


 その二つだけで、十二年を渡してきた。


「セリア様は、私に受けてほしいのですか」


 セリアは膝の上で両手を組んだ。


「医師から、一公演休むように言われたわ。声帯が腫れ始めているそうよ」


「なら、休んでください」


「巡業契約では、私の都合で中止すれば大きな違約金が出る。今いる代役は、まだ一幕を通して演じられない」


「それは、あなたが舞台へ立つ理由にはなりません」


「ええ。前なら、なったわ」


 セリアは少し笑った。


「役者としては、私が最後まで姫を演じたい。身体は休みたい。あなたに助けてほしいとも思っている。でも、また名前を奪って助けろとは言えない」


 机の上の契約書へ目を落とす。


「だから、今度は先に名前を載せるよう求めた。断る権利も含めて、あなたへ選んでほしかった」


 それは、ベルモンドの言葉ではない。


 セリア自身の言葉だった。


 リヴィアは、契約書の最後にある署名欄を見た。


 空白の欄。


 ここへ自分の名を書けば、四日後には六百人の劇場へ立てる。


 拍手は、今度こそリヴィア・フェンの名を呼ぶだろう。


 けれど、東第三荷揚げ広場には、すでに六十四人分の切符がある。


 ファナの失敗に笑った魚売り。


 雨が降るのか尋ねた女。


 まだ題名すらない芝居を、自分で選んだ人たちだ。


「セリア様。私の名前を伝えてくださったことには、感謝します」


 リヴィアは契約書を閉じた。


「ですが、この依頼はお断りします」


 巡業監督の眉が上がる。


「六百席より、百六十席を選ぶと?」


「席の数で、立つ舞台を決めたことはありません」


「銀貨十八枚でも?」


「必要な金額です。だからこそ、受ければ何を渡すことになるのか考えました」


「あなたは名前を望んでいたのでしょう」


「はい」


 リヴィアは答えた。


「けれど、どの看板に載せるかまで、他人に決めてほしいとは言っていません」


 巡業監督は言葉を失った。


 セリアだけが、ゆっくりとうなずいた。


「そう言うと思っていた」


「それでも呼んだのですか」


「選ばせずに諦めるのは、前と同じだから」


 セリアは契約書を引き取った。


「レナート公演は休演して、代役に任せるわ。私の名前ではなく、彼女の名前を出すよう交渉する」


 巡業監督が何か言いかけたが、セリアは先に続けた。


「違約金が必要なら、私の出演料から引いて」


 それが最善かどうか、リヴィアには分からない。


 ただ、セリアも自分で選ぼうとしていた。


 楽屋を出る前、セリアが尋ねた。


「あなたたちは、何を上演するの?」


 リヴィアとノアは顔を見合わせた。


「新作喜劇です」


「題名は?」


「これから決めます」


「公演まで四日でしょう?」


「はい」


 セリアは本気で心配そうな顔をした。


「『月冠の姫』を使えばいいのに。古典だから、どの一座が上演しても構わない。あなたなら台詞も段取りも全部知っているでしょう」


 確かに、四日で仕上げられる。


 衣装と大道具を簡素にし、人数を減らす方法も分かる。


 何より、町中の人が題名を知っている。


 王立劇場とは違う結末にすれば、宣伝にもなるかもしれない。


 荷揚げ広場へ戻ると、ノアは馬車の机へ三冊の古典台本を置いた。


 一番上にあるのは、『月冠の姫』。


 その全ページを、リヴィアは今も暗唱できた。


「借りるなら、これが最も確実です」


 ノアが言った。


 公演まで、あと四日。


 百六十席のうち、残り九十六席。


 そして〈青い天幕〉の新しい台本は、まだ一行も書かれていなかった。

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