第24話 盗まれたポスター
「風ではない」
ダガンは掲示板に残った糊を指でなぞった。
「風なら、紙の端か破片が残る。これは下から剥がしている」
青い留め札には、催事役所の印がある。
貼る場所も、期限も正しい。
それなのに、〈青い天幕〉の宣伝紙だけが消えていた。
トワが掲示板の下へしゃがみ込み、小さな紙片を拾う。
青い絵の具がついた角だった。
紙片の先をたどるように辺りを見回すと、運河へ向かう石畳にも、同じ青が落ちていた。
「犯人を追いますか」
ノアが聞いた。
「まだ近くにいるかもしれません」
「私の脚でか」
ダガンが義足を叩く。
「追うなら、先に逃走経路を狭くしてください」
「やめましょう」
朝から一座の安全責任者を走らせるわけにはいかない。
四人は落ちている紙片を拾いながら、運河沿いを進んだ。
第二橋を渡ったところで、犯人はあっさり見つかった。
灰色の作業着を着た男が、広告を満載した手押し車を押している。その一番上から、青い天幕の絵がのぞいていた。
「その紙は、私たちのものです」
リヴィアが声をかけると、男は足を止めた。
「掲示期限は切れていません」
「王立劇場の広告を貼る場所だ」
男は当然のように答えた。
「金の留め札が見えませんでしたか」
「金札なら、あの区画を全部使える」
「私たちの場所には青札があります」
「王立劇場だぞ」
それが規則より強い説明になると思っているらしい。
手押し車には、剥がされた菓子屋や靴職人の広告も載っていた。〈青い天幕〉だけが狙われたわけではない。
王立劇場の宣伝を請け負った商会が、最も目立つ掲示板を空けるため、先に貼られた紙をまとめて剥がしたのだ。
セリアが命じたわけではない。
おそらく、王立劇場の誰も知らない。
大きな名前の前では、小さな名前など退けて当然だと、誰かが勝手に判断しただけだった。
リヴィアには、その仕組みがよく分かった。
「催事役所へ行きましょう」
作業員は面倒そうに眉を寄せた。
「俺は指示どおりに――」
「なら、指示を出した方にも来ていただきます」
リヴィアは手押し車から、自分たちの宣伝紙を取り戻した。
中央で大きく裂け、ノアの名前の上に金色の糊がついていた。
催事役所は、すぐに商会の違反を認めた。
青札の区画は公共掲示用であり、金を払って買い占めることはできない。商会には剥がした広告を刷り直し、元の場所へ戻すよう命令が出た。
「刷り直しは、いつになりますか」
リヴィアが尋ねる。
窓口の職員は、商会の責任者と顔を見合わせた。
「印刷所が王立劇場の追加分を刷っていますので……三日後かと」
「公演の三日前ですね」
「規則どおりには戻せます」
間違いではない。
だが、規則どおりに戻るころには、王立劇場の広告は町中へ行き渡っている。
公演まで、あと五日。
百六十席のうち、予約はまだ一席もなかった。
「掲示板以外の宣伝はできますか」
ノアが聞いた。
「呼び歩きなら許可できます。今回はこちらの監督不足でもありますので、呼び子を一人、半日分つけましょう」
そうして役所の奥から連れてこられたのが、ファナ・ベルだった。
二十歳ほどの娘で、赤茶色の髪を高い位置で結んでいる。青い呼び子のたすきを掛け、手には小さな鐘を持っていた。
「ファナは以前、水鏡大劇場の合唱団にいました。声はよく通ります」
職員が紹介すると、ファナは背筋を伸ばした。
「お、お任せください。必ずや、皆様の格調高き舞台の魅力を、レナート市民の心へ余すところなく――」
途中で息が切れた。
「普段どおりで構いません」
リヴィアが言う。
「これが普段です」
「では、もう少し息をしてください」
役所を出ると、ノアは呼び歩き用の台詞を作った。
短く、必要な情報だけを入れる。
――三都市で満員を記録した旅一座〈青い天幕〉、東第三荷揚げ広場にて新作喜劇を上演。
――公演は五日後、第七鐘。切符は二銅貨。
ファナは紙を一度読むと、完璧に覚えた。
役所の裏庭では、澄んだ声が壁を越えた。
「三都市で満員を記録した旅一座〈青い天幕〉! 東第三荷揚げ広場にて、新作喜劇を上演いたします!」
発音も息継ぎも申し分ない。
これなら、運河の騒音にも負けない。
だが、魚市場の入口へ立ち、買い物客がファナを見た瞬間だった。
「み、三都市で……」
声が細くなる。
「み、満員を……き、記録した……」
先ほどまで流れるように出ていた言葉が、一つずつ石へ引っかかった。
通行人は足を止めない。
ファナの顔が赤くなり、覚えた台詞を取り戻そうとするほど、次の言葉が遠ざかっていく。
「東、第三……ひ、ひが……」
「魚なら西第三市場だぞ!」
魚籠を担いだ男が笑った。
周りからも小さな笑いが起きる。
ファナは台本を握りしめた。
リヴィアが代わろうと一歩出る。
その前に、ファナが男をにらんだ。
「魚を売るなら西です! 芝居を見るなら東です! あなたはまず、その魚を今日中に売ってください!」
市場の女たちが吹き出した。
男の籠から、売れ残った魚の尾が何本も飛び出している。
「余計なお世話だ! 王立劇場なら月を降らせるそうだぞ。あんたらは何を降らせる?」
「切符の値段です!」
今度は、さらに大きな笑いが起きた。
「屋根のない荷揚げ広場で二銅貨! 雨が降ったら?」
別の女が聞く。
「それは聞いていません!」
「聞いておけよ!」
「ただいま座長へ確認します!」
ファナがノアへ振り向く。
突然、十人以上の視線を向けられたノアの喉が詰まった。
代わりにダガンが答える。
「雨天用の天幕はある。風が強ければ中止だ」
「この怖い人が、危険なら芝居を止めます!」
「怖いは余計だ」
「止めるのか?」
「止める。客を運河へ落としてまで稼ぐ気はない」
「じゃあ、座長より偉いのか?」
「安全についてはな」
また笑いが起きた。
リヴィアは客とのやり取りを、短い手振りでトワへ伝えた。
トワは素早く絵札を描き、頭から運河へ落ちるノアと、それを襟首でつかむダガンを掲げた。
「落ちるのは座長だけだそうです!」
ファナが絵を見て叫ぶ。
ノアが紙へ書く。
――私も落ちません。
トワは、その言葉の上へ大きな疑問符を足した。
魚市場の入口に、人垣ができていた。
覚えた宣伝文句は、一行も言えていない。
それでも皆、五日後の場所と時刻と値段を知った。
その場で切符を買った者は、二十三人。
売れ残った魚の男も一枚買った。
「雨が降らないか見張りに行くだけだ」
「魚は売れたのですか」
ファナが尋ねる。
「お前のせいで忘れてた!」
最後の笑いとともに、人垣がほどけていった。
人がいなくなると、ファナの肩が急に落ちた。
「申し訳ありません。覚えた台詞を、また言えませんでした」
「また?」
ノアが紙に書いて尋ねる。
「合唱団にいたころ、貴族令嬢の一言役をもらったんです。歌は歌えたのに、台詞になったら何度やっても止まってしまって。それで舞台を辞めました」
「先ほどは、かなり話していました」
リヴィアが言う。
「あれは台詞ではありません。魚の人が腹立たしかったので」
「お客さんは笑っていました」
「怒られたのだと思います」
「切符を二十三枚買うほど、ですか」
ファナが瞬きをする。
リヴィアにも、まだ分からない。
ファナが決められた台詞を言えない理由も。
先ほどのやり取りを、もう一度舞台で再現できるかも。
ただ、失敗した瞬間にだけ現れたものを、なかったことにはしたくなかった。
「もう一度、宣伝してみませんか」
「また台詞を忘れたら?」
「今度は、最初から台詞を渡しません」
「何を言えばいいんですか」
「立ち止まった人の話を聞いて、その人に答えてください。私たちも答えます」
ファナは不安そうに三人を見た。
それから、トワが描いた疑問符つきの座長を見て、少しだけ笑った。
「それなら、できるかもしれません」
午後の呼び歩きでは、四十一枚の切符が売れた。
盗まれた宣伝紙は、結局使わなかった。
代わりにトワが、その裏へ新しい看板を描いた。
――紙は盗まれましたが、声までは盗まれていません。
夕刻、一座が荷揚げ広場へ戻ると、舞台馬車の扉に白い封筒が挟まっていた。
封蝋には、王立劇場の紋章。
宛名は、今度こそ空白ではなかった。
――リヴィア・フェン様。
差出人の欄には、セリア・ローネの名が記されていた。




