第23話 運河都市には舞台が二つ
修理を終えた舞台馬車は、見違えるほど静かになった。
以前は石を一つ踏むたび、右の車輪が抗議し、荷台の板が同意し、最後に角灯が余計な一言を鳴らしていた。
今は、車輪の音しかしない。
「何か物足りませんね」
御者台のノアが言った。
「壊れる音が恋しいなら、座長の椅子だけ緩めてやる」
後ろからダガンが答える。
「結構です」
トワが二人のやり取りを見て、膝の上の紙へ、馬車から振り落とされる座長を描いた。
四人になった〈青い天幕〉は、グレンツを発って四日目の昼、レナートへ着いた。
期限まで、残り五十六日。
町へ入るより先に、水の匂いがした。
城壁の外から引き込まれた五本の運河が、開いた手の指のように市街を分けている。石造りの倉庫の間を、平底船が絶えず行き交っていた。
麻袋を積んだ船。
果物籠を積んだ船。
樽だけを山のように載せた船。
橋の上では荷車が列を作り、岸では滑車が軋み、積み下ろしの合図を告げる鐘があちこちで鳴る。
グレンツの鐘が人を一つの広場へ集める音だったなら、レナートの鐘は、町中を別々の仕事へ走らせる音だった。
入市門で公演許可証を見せると、門番は紙より先に舞台馬車の下を見た。
「車幅は?」
ダガンが即答する。
「荷台込みで八尺四寸。西運河の古橋は通らん。東回りの道を寄越せ」
「よく知っているな」
「門の横に制限板がある」
門番が振り返る。
制限板は、積み荷の陰に半分隠れていた。
「……今朝までは見えていた」
「なら、今朝から橋が狭くなったんだろう」
ダガンは町の地図を受け取り、迷わず東の道へ印をつけた。
一座に安全責任者がいるというのは、馬車が壊れにくくなるだけではないらしい。
催事役所は、町の中央を流れる第一運河沿いにあった。
その向かいに、水鏡大劇場が建っている。
三階まで連なる白い列柱。水面を模した青い硝子窓。正面階段には赤い絨毯が敷かれ、金糸の旗が欄干を埋めていた。
旗の中央にあるのは、王立劇場の紋章だった。
そして柱と柱の間には、同じ顔が何枚も並んでいる。
銀の冠を戴き、城門へ片手を伸ばす姫君。
セリア・ローネ。
ポスターの姿勢は、『月冠の姫』第三幕の終わりだった。右肩を少し後ろへ引き、観客から冠が最もよく見える角度を作っている。
あの冠は左側が重い。
留め金を二本にすると早変わりで髪が崩れ、一本にすると回転した拍子に落ちる。だからリヴィアは、衣装係に細い鎖を足してもらい、耳の後ろへ留める手順を作った。
ポスターに、その鎖は写らない。
けれど、セリアがまっすぐ立っていられる理由の一部には、今もリヴィアが残っていた。
「大丈夫ですか」
ノアが隣で尋ねた。
「はい」
答えたあと、リヴィアは言い直す。
「懐かしくはあります。大丈夫かどうかとは、別に」
「では、立ち止まっていても構いません」
「催事役所が閉まるほうが困ります」
「それも別の話ですね」
四人は劇場の前を通り過ぎた。
正面扉が開き、大道具を積んだ荷車が中へ入っていく。月の張り物、城壁、銀色に塗られた門。どれも王都で見慣れた物より新しい。
ただし、月を吊る綱の結び方だけは同じだった。
十二年間、何度も確かめた結び方だ。
扉が閉じる直前、劇場の奥から女の声が聞こえた。
「月よ。どうか今宵だけは、帰らぬ人を照らさないで」
セリアの声だった。
リヴィアの足裏が、次の立ち位置を覚えている。
三歩進む。
左を向く。
老王の返事を待って、半歩だけ光へ入る。
身体が動くより先に、リヴィアは両足へ力を入れた。
あれは、向こうの舞台だ。
今の自分が立つ場所ではない。
催事役所の窓口では、丸眼鏡の職員が〈青い天幕〉の申請書を二度見した。
「ああ、同日なのは承知で申し込まれたのかと思っていました」
「広告が届いたのは、出発前です」
ノアが答える。
「申請時には王立劇場の予定はありませんでした」
「水鏡大劇場と荷揚げ広場は、別の会場ですからね。同じ日に二つの公演があっても、規則上の重複にはなりません」
職員は悪びれず、二枚の会場図を机へ並べた。
一枚は、水鏡大劇場。
六百席。屋根、楽屋、固定照明、楽団席つき。
もう一枚は、〈青い天幕〉が申請した東第三荷揚げ広場。
百六十席。屋根なし。楽屋なし。照明、客席、舞台は持ち込み。
公演日は六日後。
開演時刻まで同じ、第七鐘だった。
「変更できる日を教えてください」
リヴィアが尋ねる。
職員は荷揚げ予定表を指でたどった。
「次に広場を空けられるのは、十三日後です。それ以外は夕刻まで荷が入ります」
公演を七日延ばせば、宿代と馬の飼料が増える。
期限も七日減る。
別の町へ移れば、道中の日数をさらに失う。
「王立劇場のほうは、日を変えられませんか」
ダガンが聞いた。
「劇場一つを貸し切る契約です。王都から来る一座と、こちらでは動く金額が違います」
「正直な答えだ」
「隠しても、向かいに見えますから」
職員は窓の外の金旗を見た。
「荷揚げ広場の満員認定は、申請どおり有料百六十名です。王立劇場が来ると知って取り下げても、違約金はありませんよ」
親切で言っているのだろう。
これまでの三つの町で満員にしたことも、王都の一座と客を取り合えば何の保証にもならない。
「取り下げません」
リヴィアは言った。
ノアが隣でうなずく。
「同じ町に舞台を一つしか作ってはいけない決まりも、ないのでしょう」
「ありませんが」
「なら、二つあるだけです」
職員はしばらく四人を見比べ、それから東第三荷揚げ広場の鍵札を差し出した。
広場は、第二運河と第五運河が合流する場所にあった。
石畳の三方を倉庫に囲まれ、一方だけが水へ開いている。昼の荷揚げを終えたばかりで、濡れた綱と木屑の匂いが残っていた。
赤い絨毯はない。
青い硝子窓もない。
あるのは、石段と、係留杭と、空になった木箱だけだった。
そして対岸から、水鏡大劇場の屋根が見えた。
トワが広場の中央へ立ち、両腕で舞台の幅を測る。次に水面へ目を向け、紙へ素早く線を走らせた。
倉庫の壁。
運河を渡る橋。
その間を動く、荷役人の黒い影。
「影絵を映せそうですか」
リヴィアが手振りを添えて尋ねる。
トワは、倉庫の壁を指して丸を作ったあと、水面を指して首を傾げた。
光が揺れる。試さなければ分からない、という意味だった。
ダガンは舞台を置く予定の場所を義足で踏み、石の傾きを確かめる。
「水際から六尺は空ける。客席の端には綱を張る。雨が降れば板が滑るから、脚を一本増やす」
「使えませんか」
ノアが尋ねる。
「誰がそんなことを言った。使うために調べている」
その直後、荷を積んだ船が広場の前を通った。
船頭の掛け声。
橋を上げる鐘。
水が石壁を打つ音。
ノアが何か言ったが、リヴィアには半分しか聞こえなかった。
「台詞が消されます」
「それも調べています」
ノアは水面を見ながら、もう一度言った。
「静かな芝居で競う場所ではなさそうですね」
王立劇場と同じ豪華さを作ることはできない。
六百人を一つの物語へ沈黙させる、磨かれた箱もない。
だが、この広場には、この広場にしか聞こえない音があった。
リヴィアは水際から六尺下がった場所へ立つ。
正面には百六十人分の空席。
その向こうに運河。
さらに向こうに、セリアの立つ劇場。
舞台が二つあるなら、同じものを演じる必要はない。
「ここで満員にします」
自分へ言い聞かせるためではなく、三人へ伝えるために言った。
トワがうなずき、空の広場へ百六十個の小さな丸を描き始めた。
その日の夕方、一座は最初の宣伝紙を貼った。
青い天幕の絵。
公演日と場所。
三つの町で満員になったこと。
出演者と裏方を分けず、四人の名前も同じ大きさで載せた。
催事役所から指定された掲示板の中央へ、リヴィアが糊を塗る。トワが紙の傾きを直し、ダガンが剥がれやすい角を押さえた。
金縁の王立劇場の広告に比べれば、小さな一枚だった。
それでも、そこには確かに彼女たちの名前があった。
翌朝。
宣伝へ出た四人は、同じ掲示板の前で足を止めた。
青い留め札は残っている。
糊の跡もある。
けれど、〈青い天幕〉の宣伝紙だけが、きれいになくなっていた。




