第21話 戦争を笑ってよい夜
公演当日の朝、ダガンは舞台からリヴィアを三度追い出した。
一度目は、荷車の留め紐が指一本分長かったから。
二度目は、借りた剣の鞘が青い動線へはみ出していたから。
三度目は、リヴィアが甲冑を着たまま可動床へ乗ろうとしたからだった。
「砂袋より重い。鎧込みでもう一度試す」
「昨日、五回確認しました」
「昨日より重い役者が乗るなら、昨日の確認は使えん」
砂袋へ甲冑と同じ重さの鉄片を足す。
外輪を落とし、荷台を傾け、丸太で持ち上げる。
七度の試験を終えて、ようやく青い札が上がった。
「今度こそ、舞台へ乗っても?」
「稽古ならな。本番は客が入ってから床をもう一度測る」
安全責任者に、終わりという言葉はないらしい。
トワは舞台裏の白幕を張り、影の位置を調整していた。
赤と白の祭り旗。
雨に煙る灰の丘。
泥へ半分沈んだ車輪。
登場人物の影は使わない。人間はすべて、リヴィアが道具と身体で演じ分ける。
ノアは舞台袖で、一枚の紙を握っていた。
開演前の挨拶が書かれている。
最初は十行あった。
ダガンに見せると、三行へ削られた。
それでもノアが読めず、最後には二行になった。
前日の確認では、退役兵会の意見も割れた。
「敵将を討った場面のあとに、靴下の臭いで笑わせるのか」
「祭りを台無しにする」
反対する者もいた。
一方で、聞き取りに応じたパン屋の女は台本を机へ叩いた。
「私たちは、雨の中で一度も笑わなかったとでも思っているのかい」
元炊事係も、豆が三粒しかない鍋を残すよう求めた。
話し合いの末、勝利そのものを嘘にしないこと、戻らなかった者の場面では笑いを入れないことを条件に、上演が認められた。
全員が喜ぶ台本ではない。
それでも、反対の声までなかったことにはしなかった。
「言えなければ、トワの絵札で伝えます」
リヴィアが言う。
「逃げ道を用意してくれるのですか」
「舞台に逃げ道がないほうが危険です」
言えないことを責めるつもりはない。
だが言うと決めたなら、リヴィアは勝手に代わらない。
祭りの鐘が、正午から町じゅうで鳴り続けた。
砦前広場には、磨かれた鎧を着た帰還兵と、その家族が集まる。
英雄の木剣を持った子どもたち。
赤と白の旗を振る商人。
前列には退役兵会。
百二十の指定席に、空きは見えなかった。
ただし満員印の人数は、終演後に半券と退場者を数えるまで確定しない。
ローデンが開演の合図を求める。
ノアは紙を持って、舞台中央へ出た。
客席の視線が、一斉に集まる。
息を吸う。
喉が閉じる。
九年前と同じ砦。
同じ祭り旗。
北門で勝利の続きを待っていた人々の顔が、目の前の客席へ重なる。
ノアの口は動かなかった。
誰かが咳をする。
子どもの木剣が、石の床へ当たる。
リヴィアは舞台袖から出なかった。
トワも、用意した絵札を掲げない。
まだノア自身が、助けを求める合図を出していないからだ。
ダガンが赤い札を持ったまま、低く言った。
「長く話すな。一つずつだ」
客席には届かない声だった。
ノアが、もう一度息を吸う。
「九年前――」
最初の二文字で声が掠れた。
それでも止めない。
「私は、この町で勝利だけを読みました」
広場が静かになる。
ノアは紙から目を上げなかった。
「今夜は、その続きを上演します」
二行を言い終える。
題名までは読めなかった。
トワが大きな絵札を掲げる。
『灰の丘の英雄と、帰れない荷車』。
ノアは舞台袖へ戻った。
手が震え、すぐには進行札を持てない。
治ったわけではない。
次の言葉が出る保証もない。
それでも九年前とは違い、自分で選んだ二行を最後まで客席へ渡した。
トワが雨の影を映す。
リヴィアは英雄の赤い外套をまとい、舞台へ出た。
胸元の〈空白〉は、英雄の紋へ変えない。
剣の構え、足運び、遠くを見る目。
十二年間に覚えた技術だけで、灰の丘を駆ける英雄になる。
敵将の剣を払い、包囲された道を開く。
「道は開いた! 我らの勝利だ!」
剣を高く掲げる。
客席から、大きな歓声が上がった。
旗が振られ、子どもたちが英雄の名を呼ぶ。
町が待っていた英雄劇だった。
勇ましい音楽が最高潮へ達する。
そのとき、舞台袖から壊れた荷車が転がり出た。
外輪が外れ、受け箱へ落ちる。
大きな音はしたが、客席側へは動かない。
英雄は剣を下ろした。
「……道は、まだ開いていないようだ」
最初の笑いが起きる。
リヴィアは剣を車軸へ差し込み、力いっぱい持ち上げた。
柔らかい金属で作った剣が、見事に曲がる。
前列の子どもが口を開け、帰還兵たちが先に笑った。
英雄は曲がった剣を見つめる。
「敵将には勝てたのだが」
赤い外套を外し、鍋を持つ。
腰を落とし、炊事係になる。
「腹が減っているから持ち上がらん。まず食え」
鍋の蓋を開ける。
中にあるのは、豆が三粒だけ。
「一人一粒だ」
「四人いるぞ」
英雄へ戻ったリヴィアが言う。
「英雄は香りを食え」
食堂で話を聞かせてくれた元炊事係が、膝を叩いて笑った。
白い布を肩へかければ、次は治療係。
負傷者を背負おうとして、英雄より小さな身体が後ろへ倒れる。
それでも縄で身体を結び、立ち上がる。
「軽いとは言わん。置いていかないだけだ」
笑っていた客席が、一瞬だけ静かになった。
リヴィアは間を埋めない。
負傷者の重さを背中へ残したまま、一歩進む。
次に縄を持ち、工兵へ変わる。
剣でも鍋でも動かなかった荷車へ、丸太を差し込む。
「力を貸せ。英雄も、炊事係も、動ける者は全員だ」
舞台にはリヴィア一人しかいない。
それでもトワの影が、雨の中に何本もの縄を映す。
客席の帰還兵たちは、九年前に自分が引いた縄を見ていた。
リヴィアが丸太を押す。
ダガンは舞台袖で、荷台の傾きと留め紐を見ている。
青い札。
続行してよい。
荷車が持ち上がった。
客席から拍手が起きる。
英雄は泥へ踏み込み、最初に足を滑らせた。
笑い声が広場を満たした。
ダガンだけは笑わない。
しかし視線は、荷車ではなく客席へ向いていた。
誰も、彼の失った脚を笑ってはいない。
失敗して泥だらけになり、それでも全員で持ち上げた夜を笑っている。
最後の場面。
英雄が町の門へ着く。
リヴィアは外套を裏返し、門番になる。
「帰還人数は?」
「勝ってきた英雄に、最初に聞くことがそれか」
「勝利は人数に入りません。人間を数えます」
剣を置く。
鍋を置く。
白い布を置く。
縄を置く。
一つずつ、帰ってきた者の場所を作る。
トワの白幕へ、二十三個の小さな枠が映る。
名前も道具も入っていない、空の場所だった。
笑いは消えた。
ノアは舞台袖で、その空白を見つめる。
今度は、誰の名も「間もなく帰る」という言葉で埋めなかった。
数え終えた英雄が、勝利を告げようと胸を張る。
その前に、全員が濡れた靴を脱いだ。
トワの白幕へ、大きな靴下の影が何十足も並ぶ。
門番は鼻を押さえ、町の門を勢いよく閉めた。
沈黙のあと、広場が揺れるほどの笑いが起きた。
パン屋の女は胸当てを外し、それを膝へ置いて笑っている。
初日に門で会った男も、痛む肩から鎧を下ろした。
笑いながら涙を拭う者。
隣の空席へ手を置く者。
英雄の名を呼ぶ子どもへ、鍋や縄を指して何かを教える者。
誰も、戦争を楽しかったとは言っていない。
ただ、戦争の中で生きるために笑った人々を、もう隠さなかった。
リヴィアは外套も剣も持たず、舞台中央へ立つ。
深く頭を下げる。
拍手が降った。
胸元の〈空白〉にある細い線が、穏やかに温まる。
舞台袖では、ダガンが最後まで荷車の紐を確かめていた。
安全を確認し終えると、ようやく客席を見る。
そして誰にも見えないほど小さく、口元を緩めた。
その夜、人々が笑ったのは戦争ではない。
戦場から帰るため、泥の中で荷車を押し、豆を分け、仲間を背負った自分たちの姿だった。




