第19話 英雄譚の舞台裏
帰還兵への聞き取りは、英雄の話ばかり集まった。
「灰の丘では、英雄殿が敵陣へ斬り込んだ」
「我々は、あの方のおかげで勝てた」
「芝居なら、最後に剣を高く掲げるといい」
祭典役所が用意した食堂で、五人続けて同じ答えが返ってきた。
誰も嘘をついているようには見えない。
ただ、話し慣れた言葉を選んでいる。
祭りのたびに尋ねられ、九年間繰り返してきた、正しい勝利の話だった。
リヴィアは英雄について尋ねるのをやめた。
「戦場で、一番役に立った物は何でしたか」
トワが作った絵札を机へ並べる。
剣。
盾。
鍋。
縄。
靴。
包帯。
最初に靴を指したのは、門の近くでパンを売っていた女だった。
「正確には、乾いた靴下だね」
「剣ではなく?」
「剣を振る前に、足の皮が剥けたら歩けないよ」
灰の丘では三日間、雨が降った。
泥水が靴へ入り、替えの靴下まで濡れた。火へ近づけすぎれば焦げ、遠ければ朝まで乾かない。
兵士たちは眠る前、靴下を乾かす場所を巡って争ったという。
「敵より味方の足の臭いがひどかった」
女が真顔で言うと、隣の元兵士が吹き出した。
「お前の隊だろう。一晩、治療所が使えなくなった」
「あれは薬草を煮た臭いだ」
「薬草が逃げ出す臭いだったぞ」
五人の言葉が、初めてばらばらになった。
トワは剣の絵を裏返し、大きな靴下を描く。
次に鍋を指した男は、当時の炊事係だった。
「食料は、足りたのですか」
「帳簿の上ではな」
豆が十二袋。
干し肉が八箱。
固焼きパンが六百枚。
だが豆の一袋は雨水を吸い、干し肉の一箱は荷車ごと谷へ落ちた。固焼きパンは固すぎて、煮なければ歯が欠けた。
「最後の日は、何を食べましたか」
「豆が三つ入った湯だ」
「料理名は?」
「上官には豆の煮込みと報告した」
ノアのペンが止まる。
「その報告を受け取った覚えがあります」
「では、あんたが帳簿上の豆を食べたことにしてくれ」
食堂に笑いが起きた。
ノアも、紙へ豆を三つ描いた。
その後は、決められた英雄譚ではない話が次々に出てきた。
ぬかるみにはまった荷車を、敵の罠だと思って半刻も警戒したこと。
負傷した大男を、彼より頭二つ分も小さな治療係が背負ったこと。
勝利を知った瞬間、歓声より先に全員が座り込んだこと。
帰還の隊列が止まった理由は敵襲ではなく、車軸が折れたからだったこと。
「町へ戻って、最初にしたことは?」
トワが次の絵札を掲げる。
「寝た」
「鎧を脱いだ」
「鍋と匙の数を確かめた」
三人が同時に答えた。
パン屋の女は、鎧を脱ぐのに半刻かかったという。雨と泥で留め具が固まり、仲間二人が引いても外れなかった。
「最後は工兵が金切り鋏で切った。あのときは、敵の刃よりありがたかったよ」
「その工兵は?」
「ダガンだ。荷車も橋も鎧も、動かなくなったものは何でも直した」
彼女は少し考え、言い直した。
「直せないものは、危なくないよう壊した」
「英雄殿も、荷車を押したのですか」
「押したさ。剣を差したまま泥へ入って、真っ先に転んだ」
英雄は笑われていた。
侮られているのではない。
泥の中で同じ荷車を押した一人として、親しみを込めて笑われていた。
「この話を、芝居に使ってもよいですか」
リヴィアが尋ねる。
五人は互いの顔を見た。
パン屋の女が言う。
「敵を倒したところを、嘘にしないなら」
「しません」
「戻らなかった者を、笑いものにしないなら」
「その場面には使いません」
「なら、臭い靴下は好きにしな」
全員が、聞き取り記録へ署名した。
ただし、治療係だった男は、負傷者を背負った者の名前を出さないでほしいと言った。
本人が英雄扱いを嫌っているからだ。
ノアはその場で固有名を消し、役名を〈小さな治療係〉へ変えた。面白い話だからと、約束より優先はしなかった。
午後には、英雄劇の形が変わり始めた。
題は、『灰の丘の英雄と、帰れない荷車』。
最初の場面で、英雄は敵将を倒す。
剣を掲げ、勝利を宣言する。
勇ましい音楽が鳴り、軍旗が広がる。
そこで舞台袖から、壊れた荷車が転がり出てくる。
帰ろうにも、車軸が折れて動かない。
英雄が剣を差し込んで持ち上げようとすれば、剣が曲がる。
炊事係が鍋を差し込み、さらに曲がる。
最後は工兵が丸太と縄を使い、全員で持ち上げる。
「英雄が間抜けに見えませんか」
リヴィアが尋ねると、ノアは首を横へ振った。
「間違えたあと、他人のやり方を認められる人にします」
英雄は剣を捨てない。
けれど、剣では荷車を直せないと認める。
炊事係の鍋では豆を煮る。
治療係の包帯では傷を巻く。
工兵の縄と丸太で道を作る。
それぞれの道具を、必要な場所で使う。
最後の場面では、英雄が一人で町へ入ろうとする。
しかし門番に止められる。
「帰還人数は?」
「勝ってきた英雄に、最初に聞くことがそれか」
「勝利は人数に入りません。帰った人間を数えます」
英雄は仕方なく門の外へ戻り、炊事係、治療係、工兵、負傷者を一人ずつ確かめる。
戻らなかった者の名も、いなかったことにはしない。
確認を終えてから、全員で靴を脱ぐ。
英雄が勝利を語ろうと口を開くと、臭いに耐えかねた門番が扉を閉める。それが幕切れだった。
「最後の台詞はありません」
ノアが言う。
「書けないからですか」
「今度は、必要ないからです。帰った者の数と、空いた場所を見せれば伝わります」
勝利を飾る一行を探していたときとは違い、ノアのペンは止まらなかった。
リヴィアは一人で四人を演じることになった。
役紋を何度も切り替えるのではない。
胸元の〈空白〉は、そのままにする。
英雄は剣。
炊事係は鍋。
治療係は白い布。
工兵は縄。
道具と立ち方だけで人物を分け、英雄の型へ身体を縛らない。
トワは白幕へ雨と丘、沈んでいく荷車の車輪を映す。
人間や動物の影は動かさない。
フィオラで決められた規則を、この町でも守った。
最初の稽古を見た帰還兵たちは、英雄が泥へ尻をつく場面で笑った。
豆が三つだけ入った鍋では、炊事係だった男が膝を叩く。
その笑いは、戦争が楽しかったという意味ではない。
苦しかった日々の中にも、笑わなければ歩けなかった時間があったという笑いだった。
祭典係のローデンは、台本を読んで難しい顔をした。
「町が求めたのは、勇ましい英雄劇です」
「英雄は、最初に勝利します」
ノアが答える。
「そのあと、三日かけて全員を町へ連れ帰る。勝つだけで終わるより、英雄の仕事は増えています」
「剣が曲がりますが」
「町の記録に残る事実です」
聞き取りへ参加した元兵士たちが、台本の確認欄へ名を書いている。
ローデンは何度も一頁目と署名欄を見比べた。
「英雄本人への敬意は、失わないでください」
「約束します」
「ならば、退役兵会の確認を条件に認めます」
公演まで、あと四日。
脚本は動き始めた。
次に必要なのは、舞台上で安全に壊れる荷車だった。
本物を壊せば、次の町へ行けなくなる。
重く見えて、軽い。
車輪が外れても、役者の足へ落ちない。
丸太を差し込めば持ち上がり、最後には再び動き出す。
トワが構造図を描き、リヴィアが舞台上の動線を加えた。
だが二人とも、荷重の計算はできない。
聞き取りに来ていた元兵士へ相談すると、返ってくる名は同じだった。
「ダガンに見せろ」
「砦の舞台を直せるのは、あいつだけだ」
「本人は、祭りに近づきたがらないがな」
ダガン。
前日に、腐った城壁を見抜いた義足の男だった。
三人は町外れの作業小屋を訪ねた。
戸は開いている。
中ではダガンが、橋に使う太い梁を削っていた。
リヴィアが正面へ回り、荷車の構造図を差し出す。
「舞台道具として、安全か確認していただけませんか」
ダガンは紙を受け取った。
車輪の取りつけ。
支点となる丸太。
役者が立つ位置。
一つずつ目で追い、最後に演目の題を見る。
『灰の丘の英雄と、帰れない荷車』。
男の顔から、わずかに残っていた温度が消えた。
「このとおり作れば、二幕目で車輪が跳ねる」
太い指が、リヴィアの立ち位置を叩く。
「お前の膝を砕き、客席へ飛ぶ。安全かと聞くなら、答えは駄目だ」
「直す方法を教えてください」
「断る」
ダガンは構造図を机へ戻した。
「戦を見世物にする連中のために、俺がもう一度、あの荷車を作ると思うな」




