第18話 ノアが書けない台詞
翌朝になっても、ノアの原稿は二行しか増えていなかった。
どちらも黒い線で消されている。
机の脇には、冷めた茶と折れたペン先が三本。
一晩眠らなかったらしい。
「今日は稽古を始める予定でした」
リヴィアが言うと、ノアは赤くなった目を伏せた。
「分かっています」
「分かっているかを尋ねたのではありません。書けない理由を聞いています」
責めるためではない。
六日後には、百二十人を入れる英雄劇を上演する。
脚本家が一行も進められないなら、待つのか、演目を変えるのか、依頼を断るのかを決めなければならない。
ノアの過去を知りたいのではなく、座長として何ができて、何ができないのかを知る必要があった。
「すべて話したくなければ、話さなくて構いません」
リヴィアは続けた。
「ですが、公演へ影響する部分まで隠すのは、前に決めた約束と違います」
グラーデンで、二人は重要な情報を隠さないと決めた。
ノアは唇を結んだ。
それから、トワを見る。
二人の会話を読むため、彼女は机を挟んだ正面に座っていた。聞こえないことを理由に、この話から外すつもりはない。
ノアは新しい紙を取り、最初の一文を書いた。
――私は、灰の丘にいました。
トワが顔を上げる。
「兵士として?」
リヴィアの問いに、ノアは首を横へ振った。
「従軍記録官です。剣より、帳簿を持っている時間のほうが長かった」
ノアは話す内容を、短い文でも紙へ残しながら続けた。
九年前、ノアは二十四歳だった。
王国軍第七補給隊へ、記録官として配属された。
運び込まれた食料。
壊れた荷車。
治療所へ送られた兵士。
戻らなかった者。
それらを数え、部隊名と日付をつけて記録するのが仕事だった。
「『灰の丘の英雄』に出てくる会戦も?」
「私がまとめた報告書が、元になっています」
ノアは表紙へ触れた。
「英雄が包囲を破ったことは事実です。敵将を討ったのも、作り話ではない。あの人がいなければ、もっと多く死んでいたでしょう」
英雄そのものが偽物だったわけではない。
ただ、一人で戦場を勝たせたわけでもなかった。
灰の丘では、三日間雨が降った。
荷車は泥にはまり、矢より先に食料が尽きかけた。
工兵が夜通し石を敷き、荷車の道を作った。
炊事係が濡れた薪を割り、火を絶やさなかった。
治療係は包帯を洗って繰り返し使った。
歩ける兵士は負傷者を背負い、歩けない者は残った食料を数えた。
「報告書には、すべて書きました」
「では、なぜ台本には英雄しか残っていないのですか」
「王都へ送られるたび、短くなったからです」
最初の報告書は百二十枚。
軍本部で二十枚にまとめられ、王宮へ届くころには五枚になった。
新聞には、英雄が剣を掲げた一段落だけが載った。
芝居になったとき、泥も、濡れた薪も、包帯も消えていた。
残ったのは、迷わず進み、敵を倒し、笑って帰る男だった。
グラーデンで上演された『金槌の英雄』と同じだ。
記録を短くするたび、人の名前と仕事がこぼれ落ちる。
ノアは、それを一度経験したあとも、新聞だけを信じて石切り町の物語を作る手伝いをした。
「学ばなかったのですね、私は」
自嘲ではなく、事実を認める声だった。
軍を辞めたあと、ノアが〈青い天幕〉へ入ったのは、舞台なら報告書から落ちた人々を残せると思ったからだという。
だが当時の彼は、脚本家ではなく記録係だった。
前の座長が新聞を元に『金槌の英雄』を作ったとき、町へ確かめに行こうとは言わなかった。自分の報告書が五枚に削られた痛みを知りながら、また誰かの人生を一人の英雄へ縮めた。
石を投げられて初めて、同じことをしたと気づいたのだ。
トワが紙へ尋ねる。
――書けないのは、報告書を思い出すからですか。
ノアは少し迷い、別の紙を出した。
声では言えないらしい。
――戦勝の知らせを、私がこの町で読みました。
会戦が終わった二日後、軍はグレンツへ速報を送った。
町には、前線へ家族を出した者が集まっていた。
しかし部隊ごとの報告は、まだ揃っていなかった。
死者も行方不明者も、正確には分からない。
ノアは、全員の確認が終わるまで発表を待つよう求めた。
上官は認めなかった。
勝利を早く知らせなければ、町が混乱する。
不確かな損害を先に伝えれば、敵へ弱みを見せる。
人々が必要としているのは、安心できる言葉だと言われた。
「それで、私が書きました」
ノアは、昨夜消した一行を指した。
――我らは勝った。もう恐れるものはない。
「北門の壇上で、私が読み上げた」
広場に集まった人々は歓声を上げた。
鐘が鳴り、知らない者同士が抱き合った。
勝った。
戦は終わった。
家族が帰ってくる。
ノアの言葉を、誰もがそう受け取った。
「一人の女の子が、壇の下まで来ました」
父親の部隊がいつ戻るのかと尋ねられた。
ノアの手元に、その部隊の報告はなかった。
分からない、と答えるべきだった。
けれど数百人が、勝利の続きを待っていた。
たった今、自分が安心させた顔を曇らせることが怖かった。
「私は、『間もなく帰る』と言いました」
翌朝、最後の報告が届いた。
少女の父親を含む二十三名が、灰の丘から戻らないと記されていた。
ノアはその名簿も読んだ。
前日と同じ北門の壇上で。
一人目は読めた。
二人目も。
七人目で、声が出なくなった。
代わりの記録官が、残りの名前を読み上げた。
「それからです。大勢が私の言葉を待っていると、喉が閉じるようになったのは」
誰もいない場所なら話せる。
一人か二人を相手にするなら、声も出る。
だが客席や広場で人々の視線が集まると、北門で待っていた顔が重なる。
正しい言葉を選ばなければならない。
間違えれば、また誰かへ嘘を渡す。
そう考えた瞬間、息が止まる。
「この町の依頼を受ける前に、話すべきでした」
リヴィアが言う。
「はい」
「徹夜してペンを三本折る前にも」
「二本です。一本は、普通に寿命でした」
「訂正する場所はそこですか」
乾いた冗談が返るだけ、呼吸は戻っている。
けれど、話さなかった責任まで軽くなったわけではない。
リヴィアは、すぐに慰めなかった。
命令だった。
若かった。
正確な情報がなかった。
どれも事実だろう。
それでも、少女へ「帰る」と告げたのはノアだった。
「あなたは、嘘を書いたのですね」
「はい」
「読んだのも、あなたです」
「はい」
ノアは言い訳をしなかった。
「なら、その責任をなくすことはできません」
「分かっています」
「ですが、同じ嘘をもう一度書かないことはできます」
ノアが顔を上げた。
リヴィアは消された原稿を裏返す。
「私は、笑って帰る英雄を演じられます。型どおりなら、失敗もしないでしょう」
三つ目の印も取れるかもしれない。
「でも、この町でその芝居をするなら、今度は何を消したのか知ったうえで演じたい」
トワも紙へ書いた。
――ノアの罪を見せる芝居にはしません。
次の行。
――帰ってきた人の話を聞きます。
ノアはその文章を長く見つめた。
「聞いても、話したくない人はいるでしょう」
「その人には聞きません」
「英雄劇を望む人もいる」
「その希望も、最初から間違いとは決めません」
戦勝祭を喜ぶ者が、すべて戦争を知らないわけではない。
失った者を英雄として覚えたい家族もいる。
勝利という形がなければ、九年間を支えられなかった人もいるだろう。
だから、町に答えを押しつけるのではなく、話を集める。
グラーデンのときと同じように、使ってよい話だけを聞く。
名前を出すかは、本人に決めてもらう。
書いた場面は上演前に確認し、やめてほしいと言われた内容は外す。
トワは聞き取り用の絵札を作り始めた。
戦場で一番役に立ったもの。
帰って最初にしたこと。
もう着たくないもの。
言葉で答えにくければ、指差すだけでもよい質問だった。
ノアは新しい紙を前へ置いた。
ペンを持つ。
勝利の言葉は、まだ書けない。
代わりに、灰の丘から戻った兵士が最初に何をしたかを思い出す。
しばらくして、一行だけ記した。
――兵士たちは、濡れた靴を脱いだ。
今度は、線で消さなかった。
英雄の勝利を飾る台詞ではない。
それでも九年ぶりに、ノアがこの町で嘘をつかずに書けた、最初の一行だった。




