第17話 鎧を脱げない町
フィオラを出て四日目、リヴィアの〈空白〉に刻まれた線は消えていなかった。
朝に確かめても、夜に確かめても、髪の毛ほど細い曲線が同じ場所に残っている。
ノアは毎日の舞台記録へ変化なしと書いた。
トワは一日に一度、線の形を写し取った。
借りた役なら、もう消えている。
けれど正体を調べるには、王立役紋局の大きな支所へ行かなければならない。七つの印を集めている途中で、街道を外れる余裕はなかった。
「痛みはありません。今は、記録だけ続けましょう」
リヴィアが決めると、二人もうなずいた。
目の前の問題は、三つ目の町だった。
駐屯町グレンツ。
北境戦争のとき、王国軍の補給と治療を担った古い砦町である。
戦争が終わって九年。
町では毎年、勝利した日を記念する戦勝祭が開かれていた。
門へ着く前から、街道には赤と白の旗が並んでいる。
旗に描かれているのは、剣を高く掲げた英雄だった。
同じ顔。
同じ剣。
同じ、迷いのない笑み。
トワは舞台馬車の窓から旗を見上げ、帳面へ英雄の顔を写した。
十本目を過ぎたところで、すべて同じ顔だと気づいたらしい。最後の一人だけ眉を下げ、疲れた表情に描き直す。
「祭りの旗としては、最初の顔が正解でしょうね」
ノアが言った。
グレンツへ近づくほど、彼の言葉は少なくなっていた。
普段なら道の穴や車輪へ向けて一言は文句をつける。今朝からは、御者台で祭りの募集札を何度も読み返しているだけだった。
門には、磨かれた鎧を着た兵士が二人立っていた。
現役兵だけではない。
荷車を引く男も、パンを売る女も、古い胸当てや肩当てを身につけている。
鎧の下は仕事着だった。
祭りの一週間前から、従軍経験者はかつての装備を身につけ、町を訪れる人々を迎えるのが習わしだという。
「重くありませんか」
入町札を確かめていた初老の男へ、リヴィアが尋ねた。
「九年前は、これで走れた」
男は笑った。
だが札へ印を押すために腕を上げると、肩当ての下で顔をしかめた。
門を抜ける。
通りには、英雄の名をつけた菓子、勝利の旗を刺した煮込み料理、木剣を腰へ差した子どもたち。
宿の窓にも、商店の看板にも、剣を掲げる男の姿がある。
一人の少年が、胸当てをつけたパン屋の女へ木剣を見せた。
「戦場でも、こうやって敵を倒したの?」
女はすぐに笑顔を作った。
「祭りの日に、英雄様の芝居を見な」
答えたのはそれだけだった。
少年が去ると、女は胸当ての留め紐を緩めた。深く息を吸い、巡回の兵士が通りへ現れる前に、また締め直す。
トワはその手の動きを、黙って帳面へ描いた。
町全体が一つの英雄劇を演じているようだった。
祭典役所では、係官が〈青い天幕〉の巡業札を見て立ち上がった。
「二つの町で満員印を? ちょうどよかった」
係官はローデンと名乗り、机の上へ祭りの予定表を広げた。
戦勝祭まで、あと六日。
祭りの最終夜には、砦前広場で英雄劇を上演する。
指定席は百二十。
町が兵士と家族へ切符の半分を買い上げるため、六十枚は最初から売れたものとして扱われる。
さらに広場の使用料は免除。
鎧、武器、旗、大道具も町から借りられる。
「条件がよすぎます」
リヴィアは予定表から顔を上げた。
「それだけ、この祭りを大切にしているということです」
期限は残り六十八日。
百二十人のうち、半分の切符がすでに埋まっている。
資金の乏しい〈青い天幕〉にとって、断る理由のない話だった。
「演目に指定はありますか」
ノアが尋ねる。
ローデンは一冊の台本を差し出した。
表紙には、『灰の丘の英雄』とある。
その題名を見た瞬間、ノアの親指が止まった。
台本の角が、指の下で小さく折れる。
北境戦争最後の会戦で、王国軍の英雄が敵将を討ち、包囲された部隊を救った物語。
王都で何度も上演され、役紋局の推奨を受けた定番の英雄劇だった。
「この筋を守っていただきたい。台詞や登場人物を増やすのは構いません」
「一人芝居に再構成しても?」
「英雄が会戦を振り返る形なら構いません。影絵は煙、丘、軍旗などの背景に限ると聞いています」
フィオラから送られた公演記録は、すでに確認しているらしい。
英雄一人なら、リヴィアが舞台に立てる。トワは戦場の時間と場所を作り、ノアは台本と進行を担う。
「主演は」
「〈空白〉のリヴィア殿なら、〈英雄〉にも合わせられるのでしょう?」
「一夜なら可能です」
「ならば問題ない。町の者が見たいのは、勇ましく勝ち、笑って帰る英雄です」
役を借りること自体は難しくない。
一人五役ほどの切り替えもない。
声を張れば風が起きることもない。
用意された舞台で、覚え慣れた英雄の型を演じる。
これまでで、最も簡単に取れる満員印かもしれなかった。
それなのに、ノアは台本を開こうとしない。
「ヴァイス殿?」
「確認します」
返事は短かった。
ローデンは気づかず、二人を砦前広場へ案内した。
石造りの砦を背にした、大きな舞台だった。
客席は階段状で、声がよく響く。
舞台袖には貸し出し用の甲冑が十組。剣の束。折れた城壁を模した重い大道具。
トワは舞台へ上がり、客席からの見え方を確かめる。
次に、大道具の脚を覗き込んだ。
片側だけ、床板との間に隙間がある。
トワが「危険」の合図を送ると、リヴィアはすぐに近づいた。
「この城壁は、いつからここに?」
「九年前の最初の祭りからです。毎年使っています」
ローデンは誇らしげに答えた。
リヴィアが手で押すと、城壁はわずかに揺れた。
甲冑を着た役者がぶつかれば、客席側へ倒れるかもしれない。
「補強が必要です」
「毎年、問題なく使っています」
「今年も問題がないとは限りません」
舞台下から、低い声がした。
「右の支柱が腐っている。補強では足りん。載せるなら、脚から作り直せ」
振り返る。
灰色の作業着を着た大柄な男が、舞台脇に立っていた。
年は五十に近い。
左脚は膝から下がなく、木製の義足をつけている。片手には杖ではなく、長い測量棒を持っていた。
「またお前か」
ローデンが眉をひそめる。
「祭りの前になると、縁起でもないことばかり言う」
「城壁は縁起で立たん」
男は舞台へ上がると、測量棒の先で支柱を軽く叩いた。
乾いた木屑が落ちる。
「二人乗れば沈む。鎧を着た役者なら、一人でも危ない」
リヴィアは男と同じ場所を確かめた。
木材の表面は塗り直されているが、中は柔らかくなっている。
「使用できません」
彼女は即座に決めた。
「町の指定演目ですよ」
「指定されたのは物語です。怪我ではありません」
ローデンは渋い顔をしたものの、城壁を撤去することには同意した。
義足の男は礼も求めず、測量棒を肩へ担ぐ。
去り際、並んだ甲冑を見て鼻を鳴らした。
「英雄役をやるなら、鎧の留め具だけは自分で確かめろ。この町じゃ、壊れていても誰も脱ごうとしない」
男は名乗らず、広場を出ていった。
夕方、三人は舞台馬車へ戻った。
トワは今日見た人々を、一枚の紙へ描いていた。
表側には、剣を掲げて笑う英雄。
裏側には、肩を押さえる門番、鎧の紐を緩めるパン屋、使われない城壁を見上げる義足の男。
どちらも同じ町だった。
「祭りに英雄劇が必要な理由を、もう少し調べたいです」
リヴィアが言うと、ノアは『灰の丘の英雄』を机へ置いた。
「筋は変えられません」
「変えるとは言っていません。演じる町を知りたいだけです」
ノアは答えず、台本を開いた。
最終場面だけ、祭り用に新しい台詞を書くよう求められている。
戦場から戻った英雄が、家族と町の人々へ勝利を告げる場面。
ノアは紙へ一行書いた。
――我らは勝った。もう恐れるものはない。
すぐに線を引いて消す。
次の一行。
――戦は終わった。今日から、以前の暮らしへ戻ろう。
それも消した。
三つ目は、最後まで書けなかった。
ペンを握る指が、白くなる。
人前で声が出なくなるときとは違う。
ここには、リヴィアとトワしかいない。
それでもノアは、息の仕方を忘れたように胸を押さえていた。
外の通りから、祭りの行進練習が聞こえる。
剣を掲げる合図。
揃った足音。
古い鎧が、何度もぶつかる音。
勝ってから九年が過ぎても、この町の誰も、まだ鎧を脱げずにいた。




